「alto drammatico…」
「…何?」
突然の、しかも呟くようなその言葉を訊き返しはしたものの、深海リエは一拍遅れてその意味に思い当たった。
彼が少し気怠そうに寝返りを打つと、誰かとよく似た色の淡い髪がさらりと流れる。その下から現れた黒褐色の双眸は暫くぼんやりと宙を見つめていたが、ふと焦点を結び…既に半身を起こして身繕いを始めていたリエの髪に、身を横たえたまま手を伸ばす。
梳いてみたり、指に絡めてみたり…漫然と髪を弄る一見繊細な指先が、交響曲を通しで弾いても1 十分に余裕を残す強靱さを備えていることをリエは知っている。
その指先を眺めながら、リエは言った。
「聞いたことないけど、アルト・ドラマティコって。普通、ドラマティコってソプラノとかテノールじゃないの?」
「そうだな。でも、それはアルトだ」
それが自分の声のことを言われているのだと気づいて、ため息を吐く。
drammatico…声楽領域で、力強く劇的な性格表現をもつ声を意味し、オペラで言えばマクベス夫人あたりがソプラノ・ドラマティコにあてられる。あえてそれをアルトというからには、低音というところを強調したいのか。
しかし自分の声がさして声楽向きだと思ったことはないし、そもそも仕事上の基礎知識はあっても声楽なぞ足を突っ込んだことさえない。
リエはもう一度、ふっと吐息した。
「こんな時まで…音楽が頭から離れてないのね、サキ。…で?それって褒めてんの、貶してんの?」
Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「Sweet Eden Ⅴ」
Jealous guy
夜来の雨は上がったらしい――――。
寝室、夜明け前の薄闇。ベッドの中で女の髪に手を触れながら口にするような台詞では…断じて、ない。しかし、些か眠たげなマサキの所作を見ていると…頭から離れていないのは音楽のことというより、実は妹のことなのではないかと思う。
マサキが低い笑声を立てる。
「褒めてるつもりだぞ、勿論。聴き取りやすいし、落ち着いてる。安心感があるっていうのかな。それでいて、はっきりと訴えかけてくる。お前ホントに、真面目に声楽やってみないか? お前が独唱やるなら喜んで伴奏してくれそうなピアニストに心当たりがあるんだが」
「女の声を褒めるのに使う形容としては、気が利いてるとは言えないわね」
「そうか?大事なことだぞ」
「あら、その大事なピアニストをほっぽらかして、別の女のフラットにしけ込んでるのは誰? 携帯の電源切ったままで姿くらますなんて、あんたんとこの番頭に叱られても知らないから」
「…そうか、叱られるかな…」
リエが故意に論点をずらしたことを指摘するでなく、マサキはひどくのんびりと…だが少し寂しげな微笑を零してそう言い、指に絡めた髪をさも惜しげに放しながら身を起こす。
全く、些細な動作が一々罪作りなことだ。もし此処に居るのが自分でなくて、誤解してうっかり本気になるような女だったら…一体どうするつもりなのだろう。
判ってやっているなら度し難いし、無意識なら一度ひっぱたいておくべきではなかろうか。そんなことを考えながらその背中を見遣ると、傷痕が目にとまる。ヴァイオリン奏者としての上肢可動域に制限が残らなかったのは僥倖以外の何物でもないであろう、酷い火傷。
「…残ってるのね、まだ…」
それに対するマサキの答えは、あっさりしたものだった。
「まー多分、一生残るだろ。構わんさ、他人様に見られるような場所じゃないしな」
そう言って、シャツを引っかけて立ち上がる。
なるほど、やはり私は他人様にカウントされないらしい。
それをどう取るべきなのか…。傷に伸べかけた手を引っ込めて、そんなことを考えてしまった自分に、リエは内心で毒づいた。
――――どうでもいい、そんなこと。
――◇*◇*◇――
近所という訳ではなかったが、親同士が友人で、物心ついてより家族ぐるみの交流があった。ハドソンバレーの屋敷も、リエが間取りを憶える程度には出入りした。
家族ぐるみ、とはいってもリエは父親を知らない。リエの母はいわゆるシングルマザーだった。
母が父親の話をするときには、話の度にどうやら別人の話のようであったし、ひょっとすると母自身も憶えていないのかもしれない。しかし、それに頓着するような感情は…リエの中には育たなかった。
幼い頃にはベビーシッターやハウスキーパーが通ってきていたらしいが、気がついたら仕事で留守がちな母の代わりに家事をこなすようになっていた。わりあい頻々とあった長期出張の際には高階の屋敷に預けられることもあり、高階兄妹とはその頃からの縁である。
リエと同い年のミサヲが音大に進んだ頃のことだ。高階の両親が相次いで急逝して程なく、音楽事務所のことやら財産のことやらで…一時かなりごたごたした。
母は一貫して高階兄妹の味方であり、それはリエとて同様であった。しかし、そのことは兄妹と対立する立場にある親族の警戒感を刺激したらしく…ミサヲを標的とした誘拐事件に、リエはまともに巻き込まれた。
最終的にはそれが決定打となって、親族間の「ごたごた」は終熄したのだが…その際にマサキは背中に傷を負った。マサキは法科学生の身でありながら、大人しく事態を司法の手に委ねるということはしなかったのである。マサキは自身を囮にし、大学の友人だという男に協力を仰いで力ずくで二人を取り戻したのだ。
リエにしてみれば自分が果たすべき役割をその男に攫われたようで、決して面白くはなかった。なまじ腕に覚えがあっただけに…屈辱でさえあった。古武術は、多忙な母がリエに教えてくれた数少ないもののひとつだったからだ。
だが、一緒になって囚われていた身では文句も言えない。助けて貰った恩は恩として、出会った時の印象の悪さを引き摺るのも大人気ないと判ってはいるのだが…。
長身痩躯。精悍でありながら、女が10人通りかかったら、8人は足を止めて振り返るであろう美貌。いつも濡れて光っているような艶を放つ髪と、色の判然としない怜悧な眼をしていた。
鯨吉イサナ、といった――――。
***
その後から、リエはハドソンバレーの屋敷でイサナの姿を頻々と見かけるようになった。
高階マサキが妹につく『悪い虫』を片っ端から牽制しているというのは、誇張はあっても根も葉もない噂というわけではなかったから…リエにしてみればイサナの存在は不可解以外の何物でもなかった。
その日、ユキノのワイナリーであった野外コンサート終演後のささやかな打ち上げパーティでのことである。コンサートの規模としては然程大きくないから、報道関係はほぼいない。参加者は殆ど身内ばかりだった。
立食形式の会場に、特に理由がなくても鼻っ柱をへし折ってやりたくなる傲岸不遜な美貌を見つけ…リエはとうとうマサキを掴まえて訊いた。
「ねえ、何考えてんの」
「何の話だ」
「あの男よ。イサナっていったっけ? 何で此処に居るの」
「何でって…そりゃ俺が呼んだから」
一体何を訊かれたのだろう、という表情に、リエは思わず毒気を抜かれて数瞬黙る。だが、やにわにマサキの襟元を掴んだ。宴は始まったばかりとはいえ、マサキはボタンダウンの襟元を緩めていたから遠慮無く鷲掴みだ。
「…今回のコンサートに何か関わってた…訳じゃないわよね」
傍から見れば紛うことなき詰問口調、ないしは喧嘩腰なのだが、マサキは頓着しない。至極平静に…あるいは面白がるようなまなざしでリエを見る。
「今回はな。次からそろそろ関わってもらうつもりだが」
「…ふうん」
はかりかねて、リエはついに口を閉ざした。次があるわけだ。嘆息して掴んだ襟を放す。マサキは少し大仰に喉元を撫でたあと、悪戯っぽい笑みをして言った。
「…結構面白い奴だろう?」
「知らないわよ。あんまり話してないもの」
「そうなのか?」
「意外そうに言わないでよ。私が野郎嫌いって知ってるでしょうが」
「そりゃ初耳。お前、俺とは普通に話してるじゃないか」
「あんたなんか男としてカウントしてないわよ」
「なんだか酷いことを言われたような気がするんだが気の所為か?」
「気の所為よ。…それより、今まで徹底的にミサヲの周囲から男っ気を排除してたくせに、どういう風の吹き回しなのかって訊いてるの」
「別に、そういう意図はなかったがな…。あんな物騒なじゃじゃ馬、めったな奴じゃ手に負えないから…相応の配慮をしてるだけだが」
穏やかな…あるいは、優等生の皮を被った悪童の笑みを浮かべるマサキが、時々怖ろしくなることがある。
「よく言うわ…」
マサキとは付き合いこそ長いが、幼時から何を考えているのか底が知れないところがあった。人当たりが良く、万事そつがない。だからこの年齢で音楽事務所を統轄し、高階の家を守っていくこともできるのだろう。その一方で演奏者としても確実に地歩を固めており、指揮者としてはキール・ローレンツの後継と嘱目されている。それなりに表情もあり、決して年齢不相応に落ち着いているという印象は持たせないが…いつもどこか一歩退いていた。
――――そのくせ、ミサヲの奪還に関してはおそろしく強硬だった。世界を敵に回しても構わないというような…強い決意。あの熾天使が後方支援に回ってコトを一気に解決してくれる算段があったとはいえ、あの時は一歩間違えば自分の演奏者としての生命も失いかねない博奕だった。
「あの一件で腕っぷしのほうは証明済だが、まあそれはつけたりでな。俺も一応法科なんぞに通っちゃみたが、やっぱり机仕事が向かないみたいだから…そっちを任せられそうな奴を探してたんだ。
あいつは俺みたいにべらべら喋らんから一寸わかりにくいが、信用はおけるぞ」
マサキがワインクーラー2 のグラスを持ったまま壁際の椅子にするりと移動し、座を占めてしまう。その隣にも椅子はあったが、リエは座る気になれなかった。立ったまま壁に背を預け、イエローパロット3 を傾ける。
「事務所を任せるの?」
「さてね、とりあえず俺よりも几帳面なのは確かだからな。後はミサヲ次第か…。お前が引き受けてくれてもよかったんだが?」
「私は手伝うけど背負わないって返答した」
「…だったよな。だから、仕方ないだろ? 何、気が変わったか?お前ら二人のうちどちらか、ってんなら…俺はどっちでも構わないんだが」
「競わせたいわけ?」
「そんな剣呑な。引き受けてくれる、っていうほうへ任すだけさ。お前ならミサヲにも信用されてるし、申し分なかったんだが」
そう言って、笑う。この男が人を煙に巻く時に特有の、一見お軽そうでいて、底の見えない笑み。油断がならないコトにかけてこれ以上のものを、リエは知らない。
「…〝ミサヲ次第〟って、どういうこと?」
注意深く、リエは訊いた。椅子にかけているマサキの目許は、立っているリエからは色の淡い髪が被っていて見えない。
それが、ふっと顔を上げてリエを見た。
「そりゃお前…ミサヲがあいつを信用できないってんなら、ご破算だよな?」
探るような、というよりは挑むような…それでいて曖昧を装う黒褐色に覗き込まれ、不覚にもリエは眼を逸らした。
「例の事件の影響もあるのかも知れないが、距離を詰められるのはまだ少し苦手らしいからな。さしあたってはミサヲに警戒されるような奴じゃ、どうにもならんって話さ」
「…あんたの思惑を、ミサヲと、あの男は知ってるの?」
「さぁ?」
「〝さぁ?〟ってあんた…」
「言ったような言わないような…」
「…殴っていい?」
「勘弁してくれ」
くっくっと低い笑声を漏らす。そうしてパーティのひときわ華やいだ環に視線を投げた。その視線の先に気づいて、リエもまたそこに目を遣る。
その中心に、ミサヲがいた。
確かに、顔立ちだけでいうなら特に人目を惹くような美人というわけではないだろう。今はここ?
?いない不世出のヴァイオリニスト・セラフィン=ローレンツの燦然たる輝きを目にしたことがある人間なら、特にそう思うに違いない。
だが、此処に居る殆どの人間はセラフィンを識っているのだ。それでもなおかつ、彼女はその中心にいる。輝いた視線、しなやかな指先。いっそ近づき難いほどの気品を纏っているのに、会話する口許が湛える笑みは…男女を問わず、ひとを惹きつけてやまない。
「見ろよ、あの猫かぶりっぷり。騙されてるなぁ、皆…」
愉しげに笑うマサキを見ながら、リエはまた小さく吐息する。
この兄妹がお互いに対して言いたい放題なのは今に始まった話ではないし、皆それを知っている。
しかし、リエはその一方で…このふたりの間の何人たりとも割り込むことのできない絆を感じていた。それを家族の絆という言葉で包み込めるのか、そういうものに縁の薄かったリエには判らない。だが、幼時からずっとミサヲの傍に居たリエが抱いていたのは、「このふたりの間に割り込もうとする奴は大変だろうな」という、至ってドライな感想だった。
――――鯨吉イサナという男が現れるまでは。
パーティの華やかな環の外縁に、いまもその男はいた。
此処で傍観しているからこそわかるようなものだ。手を伸ばせばミサヲの腕がとれる距離に立ちながら、特殊な技能でもって気配を消しているのではないかと疑ってしまうほど…その存在はパーティの中に溶け込んでしまっている。あれだけ目立つ容姿であるにもかかわらずだ。あるいはリエとて、近づいてしまうとわからなくなってしまうのではないか。
特に理由がなくても鼻っ柱をへし折ってやりたくなる理由を、リエはいまだに見つけられずにいる。正体が掴めないから苛立つのか。それとも他に何かあるのか。
ただ、ミサヲの傍に立つあの男を見ていると、苛立ちに似た何かに炙られている自分に気づいて…不快になる。
これじゃ、妬いてるみたいじゃないの。
――――しかし多分…何かに炙られる感触を味わっているのは自分だけではない。そこは確信があった。
さて…誰が、誰に妬いているものやら。
リエは視線を落とした。そうして座ったままグラスを揺らしている男の、色の淡い髪が隠す黒褐色に宿るものを盗み見ようとして…やめた。
――◇*◇*◇――
あのパーティの夜、グラスを揺らしながらふたりを見つめていたマサキの口許は、確かに笑っていた。…ただその笑みが、リエには微妙にゆがんで見えたのだ。
そのつもりで、近づけたのだろう。自分の眼鏡に適った男を、ミサヲもまた認めたというなら…何も云うことはないだろう。
それなのに、こんな冷たい雨の降る夜中に…いつもは鬱屈と無縁な造作を濃い憂色に翳らせて、女ひとりのフラットにふらりとやって来て。
――――普通なら、誤解する。
雨宿りするところに不自由などしていない筈だ。それを、どうしてよりにもよって此処に来る?
こんなマサキは、久しぶりに見た。セラの事故以来だろう。
セラフィン=ローレンツは紛うことなき太陽だった。だがある日突然、彼女は飛行機事故でその夫君とともにこの世界から翔け去ってしまったのだ。
太陽を喪った世界で、同じ事故で身体よりも心に深い傷を負いながらも生還したセラの弟や、一瞬にして両親をなくしたセラの子供達を手段を尽くして支えようとする高階兄妹の姿は、周囲からすればひどく頼もしく映ったであろう。しかしリエとしては、その姿にいっそ痛々しささえ覚えていた。
マサキは、ハドソンバレーに残ってセラの弟の面倒をみていた。闊達だった緑瞳を暗色に濁らせ、蹲ってひたすらに虚空を眺めるセラの弟の姿も確かに不憫ではあったが、届かない言葉の代わりにマサキが弾き続けたヴァイオリンの音色もまた、相当に痛々しかった。
だから、数ヶ月を要した末にセラの弟が回復して日本に帰り、程なくセラの子供達の面倒を見るために日本に渡っていたミサヲが帰国して日常が戻ってきたことに、リエは自分でも驚くほどに安堵を感じたのだった。
ただ、その頃から…ミサヲとイサナの距離感が微妙ではあるが確実に変わってきたと思う。
同じ頃、マサキがイサナを積極的に事務方として関わらせるようになっていたから…一緒にいる時間が増えたことは不自然ではない。しかし、物理的というより心情的な距離が近づいた気がする。
言葉にして問えば、「彼が傍に居たらうるさいのが寄ってこないから、居てもらってるだけ」「入り浸ってるのは兄さんの処よ」とにべもないが、額面通りの虫除けと受け取れるほど、ミサヲとの付き合いも浅くない。
そしてまた、マサキのほうはどう思っているのだろう。
――――ハドソンバレーまで帰り損ねただけなら、市内には定宿にしているフラットがある。
他ではないが、あの男のところだ。打ち合わせに使うこともあるからリエも行ったことがあるが、相応の広さと部屋数がある。マサキに至っては頻々と泊まり込むから幾許かの着替えさえ置いているらしい。
「…何、喧嘩でもしたの」
「別に、そういうわけじゃないが…」
お定まりの韜晦でなく、ただ歯切れが悪い。それだけでも十分に奇妙ではあった。…だから、というわけでもなかったが…結局、この雨の中に追い出す程の理由もなくて、扉を開けてしまった。
だが、その途端に後悔する。
「ちょっと、びしょ濡れじゃないの!」
雨の中をどれだけ歩いたものか知らないが、そのまま家の中へ上げるのが憚られる程に濡れていたから…水が滴る程に濡れた頭にタオルを放り投げ、バスルームへ追い立てる。
濡れて寒かったのか、簡単に謝辞を述べて素直にバスルームに直行する後ろ姿を見送ったあと、追い立てたはいいが着替えがないことに憮然とする。
仕方なく、自分のチェストを探った。幸か不幸か、リエの部屋着はユニセックス系の緩いものが多い。これで我慢して貰うしかないだろう。
脱衣場を兼ねた洗面所に入り、水音のするバスルームへ向かって声を高くする。
「着替え置くけど…文句言わないでよ?」
着替えとタオルをラックに置き、濡れた衣類を洗濯機に放り込んでさっさとスタートさせる。なにやら返事はしたらしいが、水音に紛れてよく聞こえない。まあ、それも敢えて訊き返す程の事でもあるまいと思ってそのまま踵を返しかけた。
その時初めて、衣類の中から滑り落ちたと思しき携帯電話に気づいた。それを拾い上げ…壊れなかったかと軽くタップしてみて思わず硬直する。
携帯電話は、電源が切られていた。低電力やスリープモードなどではない。きっちりと本体電源が切られている。これでは、持っていないのと同じだ。緊急連絡も受けられまい。
暗い画面を見つめたまま、リエはその場に立ち尽くした。
――――――自分のヴァイオリニスト生命よりも大事な妹と、自ら認めてその大事な妹の傍に居ることを許した男から、一時でも離れていたいと思う理由は何だ?
携帯電話を握ったまま、スモークガラスの向こうを眺め遣る。
――――水音が聞こえるばかり。
リエは頭を振って携帯電話をラックに置き、キッチンへ戻った。
キッチンカウンターで呑みながら資料に眼を通していた最中のことであった。とりあえず資料を片付けて飲みかけのグラスに口をつける。
あの明朗快活が素地か仮面か。正直なところリエにもまだ正解が見えない。
飄々としてつかみどころがなく、軽佻浮薄を装ってその実は深沈大度。そうでなければこの若年で今の地位を築くことはできなかっただろう。
見えない。読めない。それはリエにとって苛立ちであり、尽きせぬ興味の源泉ではあった。物心ついたころからの付き合いだ。だが、その評価は変わらない。
だが、一貫していたのは…この男の傍に居られるのは唯一人。あの月女神だけ。その逆もまた。
絶対の一対。誰に笑われようと、リエの中にはこの認識を揺るがす何者も存在しない。自然すぎて、何も疑問を差し挟めなかった。その必要を感じなかった。
あの男が現れるまでは。
――――だから今、この状況に戸惑わずにいられない。
キャビネットの上に置いていた自分の電話を取り、指を滑らせる。ミサヲの番号を画面上へ呼び出し…しばらく見つめていたが、そのまま画面を閉じてしまった。
場合によってはミサヲが心配するだろう。しかし、所在を知らせたものかどうか、リエは迷う。第一、何と言って説明すればいい?
暫くグラス片手、もう片手には自分の携帯を転がしながら、考え込んでしまう。しかし、いつの間にかバスルームの水音が途切れてしまったことに気づいてパタリと携帯を伏せた。
「…やめた、子供じゃあるまいし」
グラ
スを置くと、立ち上がって携帯をキャビネット上の充電台へ戻す。あの頃とは違う。もう皆、いい大人なのだ。
「何をやめたって?」
扉の音に続いた声に顔を上げたリエは、途端に顔を顰めた。
ストライプのコットンシャツと、幅のゆったりしたストレートのパンツ。着慣れた自分の服をこの男がそう違和感もなく着こなしている状況に、微妙な心地悪さを感じたのだ。
「…そんなに変か? 何もそこまで露骨に眉を顰めんでも」
「何一丁前に傷ついたようなこと言ってるの。どうして肩幅がぴったりな訳?何か腹立つわ」
「いや…これ、仕様だろう。これ着て鏡見たことあるのか? 今着てるそれだって随分肩が落ちてるように見えるんだが」
「…そうだったかな」
言われて思わず袖を引っ張った。成程、上膊半ばまで袖付け位置がおりている。単に窮屈なのが嫌いだから部屋着はワンサイズツーサイズ大きめのものばかりであったことを今更認識した。
低い笑声にすこしむっとして視線を上げると、先程のひどい顔色は何処へやら…いつもの、人を揶揄って遊ぶ表情。
「俺の方こそ、なんでリエのところにある程度使い込んだ男物の服があるのかと思って吃驚したぞ。お前さんの部屋着姿なんぞ見るのは十年ぶりぐらいだからな。すっかり忘れてた。趣味変わってないな、全く」
言われて初めて…リエは自分が外と違う姿でいることに気づいて居心地悪さに再び顔を顰めた。母の出張に伴いハドソンバレーへ預けられていた頃は、全く気にしたことはなかったが…。
あの頃とは違う。
もう皆、いい大人なんだから。
――――自分がつい先程呟いた言葉が、強く跳ね返って自分の中に引っかかる。それを振り払うように、リエは額にかかる髪を少し乱暴にかき遣った。
「…悪かったわね、色気なくて。何か呑む?」
「呑ませて貰えるなら何でも」
「…そういう奴だったわね」
図々しくカウンターに座を占めてしまったマサキを一瞥して、自分が呑んでいたのと同じ酒を作る。もう寝むつもりでいたから、ナイトキャップのB&B4 。ベネディクティン5 の芳香とほのかな甘みが好きでよく作る。呆れる程に酒の種類に頓着しない男だから、文句は言わないだろう。
しかし、グラスを置く音がやや鋭角的になってしまったことが…リエとしては内心面白くなかった。何か妙に意識してしまったように思われるのが不愉快だったのだ。しかし、マサキがそれを気にかけたふうはなかった。
「有り難く頂くよ」
少し大仰に押し戴いてから、嬉しそうに口を付ける。不意に…昔飼っていた猫が小さい頃、ミルクで養っていたときの感じを思い出し…リエは先程の不快感を忘れてくすりと笑った。
リエもグラスに残った酒をあけ、立ち上がる。軽く洗ってシンクに置いた。
「私はもう寝むわ。明日の朝には乾燥まで上がってると思うから、それ呑んだらそこの長椅子で寝てなさい。あんたんとこの番頭ん家と違って、ウチにはエキストラベッドなんて無いからね」
何があったか知らないが、B&Bは呑みやすくても相応に度数があるから…寝付くのに苦労はしないだろう。
そうして、マサキの傍をすり抜けた時。
「――――っ…」
何か云おうとして、言葉にならなかった。そんな声にならない声が、リエを引き留める。
「――――何?」
振り返るべきじゃない。そんな気がしていたのに、リエは振り返った。そうして、来たときと同じ…あのひどい顔色のマサキとまともに目が合ってしまう。
…捉まる。
でも、今更目を逸らすのは負けを認めるようで嫌だ。さらに、リエが振り返ったことに安堵したような眸が業腹。
「…雨宿りしたかったんじゃないの?ただ独り寝がイヤだったってんなら、来るところが違うわよ。わかってるでしょ」
だから…昂然とそう言い放ち、どこか茫洋とした黒褐色の双眸を見据える。
この男に複数の通い処があることくらい知っている。良くも悪くも皆知り合いなのだが、打ち揃ってドライというのか…揉め事の噂はとんと聞いたことがない。それでも、リエとしては関わり合いにならなくて済むならそうしたい。
「…そうか?叩くドアを間違えたとは…俺は思ってないんだがな」
ひどい顔色のままで、それでも口許には微かな笑みを浮かべて悪びれもせず。…リエは、衝動的にマサキの緩い襟元を掴んだ。
「――――喧嘩売ってる?」
「滅相もない。…ただ、まぁ…今、どうしようもなくぐちゃぐちゃしてるんで、誰かに今夜一晩首根っこ押さえといて貰いたいとは思ってるな。俺がおかしくなって暴れ出さないように」
思わず、呼吸を吞む。
「…なによ、それ」
「そのまんまだ。俺にもよくわからん」
多分に自嘲を含んではいても、至って静かな微笑。正気を失いかねないほどの狂乱、ないしは激情を内包しているようには…とても見えない。ただ、マサキ自身がそう思っていることだけは確かだった。
「…で? 私だったらあんたがおかしくなって暴れ出しても抑え付けとけるって?」
「まあ最終的にはそうなんだが、どっちかっていうと…お前さんと話してる分には、おかしくならずに済むような気がするんでな」
「どういう理屈…?」
結局、またも毒気を抜かれて襟元を掴んだ手を緩めてしまう。黙って聞いていればどうにも鎮静剤6 代わりに傍に居ろと言われているようにしか聞こえない。
信用されているというのか、便利に使われているというべきなのか。リエはまたひとつ、吐息する。
「…わかったわよ、ここにいればいいんでしょ。あんたが暴れ出したら遠慮無く殴り倒してやるから安心なさい。
ただ、私も眠いしイラつくと加減でき
ないから、もしもの時は肋の2、3本は覚悟しといて」
少しふてくされたように、リビングテーブルを挟んで長椅子と反対側の椅子に座を占めたリエの返事に、マサキが微笑う。
「ありがとう。肋くらい構いやしないが、指とか腕は勘弁してくれよ?弾けなくなる」
***
どのくらい、付き合っていたものだろう。
他愛のない話ばかり。すぐに眠たくなってしまった処までは憶えている。
ソファに凭れて、話を聞き、曖昧な相槌を打っていた。しかし、元々眠るつもりで吞んだB&Bは至極真っ当にリエを眠りに誘ったらしい。気がつくと、自分のベッドにいた。自分で歩いたのかどうかも憶えていない。
薄闇の中で、リエは身体を起こした。クイーンサイズの筈のベッドが妙に狭い。理由はすぐに判った。
傍らに、マサキがいた。
先程の話は全くの嘘喝ではなかったかと思うくらい、穏やかな寝顔。
――――ハドソンバレーに預けられていた頃のことだ。あてがわれる客間にはどっちが縦だか横だか子供には俄に判断がつきかねるほど大きなベッドが据えてあった。夜中こっそりと、ベッドサイドランプの灯火で三人がカードゲームに興じたものだが、大概マサキが真っ先に落ちた。
勝ち逃げは許さないとばかりに二人がかりで揺すってみるのだが、これが起きない。それをミサヲと一緒になって笑い、結局ミサヲとのおしゃべりに夜が更けた――――。
――――学齢前の話だ。…あの頃とは違う。もう皆、いい大人。マサキの穏やかな横顔は何も変わってはいないように見えても、すぐ傍で起伏する肩は確実にリエよりもしっかりとした厚みと幅を持っている。貸したシャツも眠るには少々窮屈だったらしく、結局ベッド脇のストールの上に置いていた。多少雑ではあったが一応形をなして畳まれているあたりがこの男らしいといえばらしいのか。
マサキの鬱屈の正体を、リエは朧気ながら捉え始めていた。どうなるものでもない。どうすることもできない。だから苦しい。
――――ただ独り寝がイヤだというなら、来るところが違う。
そうじゃないから、此処へ来た。…曰く、「叩くドアを間違えたとは思わない」
台詞の意味が、繋がるような、繋がらないような。やはり不可解。謎。掴めない。読めない。しかし、此処に来ることでこの男が正気を保てるというなら、リエはそれを拒まない。
この男のためではない。この男にとって、自分がなんなのか…そんなものどうだっていい。本当に守りたいものは別にあって、そのために自分ができることは何だってする。
…ただ、それだけだ。
マサキの色の淡い髪に…リエはそっと指先を潜らせた。労るように、軽く撫でる。
「莫迦ね。…そんなに、愛してるの?」
それほどはっきりした声にしたつもりはなかった。だが、黒褐色の眸が少し物憂げに瞼の下から現れ、またすぐ閉じられる。
聞かれたかも知れない。だがそれでもいい。自分で判っているなら今更だし、気づいていないなら知るべきだ。その上で向かい合わねば、何も変えられないだろう。
俯せ、目を閉じたままのマサキの唇が僅かに動く。
「alto drammatico…」
――――――――Fin――――――――
Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「Sweet Eden Ⅴ」
「Jealous guy」についてのApology…
あれ?こんな予定じゃなかったんだけど
そんでもって、ラストシーンが冒頭のシーンへ続くと。
以前「Femme Fetal」で書きかけた、サキが携帯の電源切って一晩行方不明になってた話、その真相。あれ、けっきょくまたNCR18になり損ねた気が。
サキ、あんたって人は。
女の処へ転がり込んで同衾したくせに何もナシとか。普通ありえんだろ…と自分でツッコミいれてる万夏です。当初はこういう予定ではなかった筈なのです。ええ、きっぱりと。冒頭のシーン書いた段階ではがっつりR18にするつもりでしたよ?
なのに呻吟した挙げ句書き上げてみるとこんなお話になってしまいました。リエさんが憶えてないだけで、実は…というオチを期待する人は…いませんね?
リエさん再び。この人にとって大切なのはミサヲちゃんだけで、本来サキがどーなろうと全く頓着しないのですが、そうするとミサヲちゃんが悲しんだり苦しんだりする。それについては全力で回避するというのが基本スタンスです。
ただ、ミサヲちゃんの傍に居るのがサキならまーしゃーないや、とか思っているのだけれど、イサナというのがまだリエさんとしてはちょっと納得いかない。イサナの顔を見ると思わず鼻っ柱へし折ってやりたくなるのというのはその所為です。ミサヲちゃんが心からイサナを必要としてるんなら仕方ないけど、まだそこまでいってないらしいので一歩退いて静観してるといったところ。
尤も、リエさんとしても実はイサナはイサナでこの兄妹に振り回されっぱなしなことはある程度承知しているので、一寸気の毒かなーとか思わなくもない…という拗れっぷりです。しかもこの後に「Femme Fetal」のお話が入って「墓まで持っていくべき」秘密をリエさんも負ってしまうのですね。一体どう付けるんだこの始末。(書いてて怖くなってきた…)
「Jealous guy」はやっぱり池田さんの曲から。このシリーズは池田さんの曲からタイトルを頂こう、と密かに心に決めてます。最後を「Sweet Eden」で締めくくるというのが密かな野望。パーティのシーンは「Jealous guy」の歌詞からかなりイタダいております。それにしたってこのタイトル、日本語にするとあんまり耳当たりがよろしくないのですが…結構そのまんまなお話になってしまいました。珍しく。
guyという言葉には男の人、という意味以外にも男女問わず『人達』ないし『連中』とかいう意味もあるそうな。うーんまさにドはまり。何処が?と思われた方…済みません流してください。憚りながら万夏、相変わらず妄想だけで書き物が出来る人間ですので。
しかし…これだけ頑張ってみてもやっぱりNCでのR18ってかけませんね。万夏はやを専じゃないやい!と啖呵切ったのが遠い昔のようです…
(まあ、昔っちゃ昔なんですが。あの頃は怖いもの知らずだった…)
それでは皆様、次回まで万夏が正気でいたら・・・・・いや、何も申しますまい・・・・・・(^^;
2019/10/7
暁乃家万夏 拝
- 交響曲…作曲家、演奏家によって長短いろいろらしいですが、平均すると40分前後だそうな。
- ワインクーラー…ワインとオレンジジュースをクラッシュアイスを詰めたグラスに注いで作るカクテル。この場合、ワインは赤・白・ロゼどれでもいいらしい。
- イエローパロット…アプリコットブランデーとアブサン(ニガヨモギのリキュール)とイエローシャルトリューズ(ブランデーベースの薬草リキュール)のカクテル。材料をざらっと並べただけで怖くなるようなこのカクテルには、「騙されないわ」という意味があるとか。
- B&B…ブランデーとベネディクティンのカクテル。
- ベネディクティン…ベネディクティンDOM、薬草系リキュール。DOMは「至善至高の神に捧ぐ」という意のラテン語「Deo Optimo Maximo」の頭文字だそうな。その昔ベネディクト派の修道院で作られていたもので、製法は秘密ですと。
- 鎮静剤…正確にはsedative drugというべきなんでしょう。トランキライザーというと、精神安定剤とか抗不安薬という意味合い。鎮静(セデーション)とは侵襲的な医療行為で無用な緊張・苦痛を回避するために少し覚醒を下げる(平たく言えばぼーっとさせる)ために行う投薬、その結果としての意識レベル低下状態を言うらしい。