暗闇の中に、蛍火のようなランプが灯る。
その灯火の中に、浅黒い背と、それにかかる手入れの悪い長髪が浮かび上がった。
こんな時でさえ、無造作に束ねられている。
傍らには、暗闇でも淡く光を放つかのような白いはだがあった。
汗ばみ、追いつめられた呼吸に肩がいくぶん早く上下している。
男が煙草に火をつけたとき、銀色の髪が僅かに動いた。物憂げに寝返りをうち、紅い瞳を男に向ける。
そして、冷たく言い放つのだ・・・・・・。

「・・・煙草、消して貰えませんか」


Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS
「NO APOLOGY」

NO APOLOGY
~なにも云わないで~


 加持リョウジ。フリーのジャーナリスト。その活躍の程は知る人ぞ知ると言ったところか。
これでもある大手の新聞社を飛び出すまでは相応に名が売れていた。それからぷっつりと名前が出なくなったのは、彼の追いかけるヤマが大衆にウケないか、そうでなければ大きすぎて記事にできないか、どちらかであることが圧倒的に多いからに他ならない。
数が力となる御時世、読まれない記事に金銭を払ってくれる出版社はない。しかし彼の<技術>自体は高く評価されており、彼はもっぱら副業で糊口をしのいでいた。
本業よりもかなり実入りがいいことは確かだったが、それは時として人間としてつらいものを見ることになる。
しかし、世論に迎合するだけの記事を書き続けるよりはマシだ。
・・・・そう、思っていたのだ・・・・。

***

 最初は、本業だった。「人工進化研究所」という怪しげな研究所に流れ込む天文学的な資金の流れを追うことだったのだ。
調査の途中からとんでもない名前がぞろぞろと出てきた。どうやらこれも記事にはさせてもらえないな・・・・と感じ始めた頃のことだ。
研究グループの中核人物でもあった「人工進化研究所」所長・碇ゲンドウの夫人が子供を二人つれて行方をくらました、という情報を手に入れた時、彼はベンツと黒服の手荒な<お迎え>を受けるはめになった。
連れていかれた先で与えられたのは、情報と仕事だった。今度は、副業の方である。自分も有名になったなぁ、と変な感心をしたものだったが、与えられた情報のほうに愕然とした。
そして依頼。それは碇夫人と、<子供二人>の行方を捜すことだった。しかも、研究所よりも早く。
・・・・選択権などなかった。彼は諾というよりなかったのだ。
しかし、加持が傍目には親子としか見えない三人を見つけるまで、さほどの時間を要した訳ではなかった。
碇夫人の実家は資産家で、隠遁生活に経済的な支障はなかった筈だ。しかし、研究所の追跡を躱しながらの生活は彼女の精神を圧迫したに違いない。加持が見つけたとき、彼女は白い病室の中にいた。
そして、その傍らに立つ二人の<子供>。加持を愕然とさせたものが、目の前に存在していた。
加持を追手と直感したのか、少女を自分の陰に庇う少年が、加持に向けた眼差しは厳しいものだった。
―――――他人の考えていることがわかる、というのもある意味で酷いことだ。
惹かれたのは加持の方だった。だがそれを取引に使ったのは、彼の方だった。
眠りについていた碇夫人を、彼に良く似た青銀の髪と紅瞳の少女に頼み、彼は加持を病室から連れ出した。

 ここで話はしたくないから、と。

 心配そうに彼を見送る少女に向けた、勇気づけるような微笑。それは「身勝手なおとな」の代表としてここへ寄越された加持に、鋭い痛みを与えた・・・・・
だが、その痛みすらも自分の傲慢だと気づくのに、そう長い時間は要しなかった。
『僕が怖いですか?』
グラス片手にスプリングの悪いベッドに腰かけ、殆ど昂然として言う。彼は、加持が彼の資料を読んでいることなど、先刻見通していた。
加持が捜査のための拠点にしていたビジネスホテルの一室。狭い上に、内装もお粗末。カーペットには、煙草の焼け焦げが至る所についている。彼にはあまりにもそぐわない背景だった。
街を歩けば男女とも7割・・・否、8割方は振り向かせるであろう、中性的な容姿。
薄暗い部屋の中で、彼のいるところだけ淡く光がさしているかのように見えるのも、あながちその膚の色ばかりの所為ではないのではないか。そんな錯覚すら起こさせるほど、憂世離れした美貌だった。
見続けることに畏怖すら感じて、思わず目を伏せる。
君はまだ子供だ、という加持の言葉に、彼は笑った。先刻少女に向けた笑みとは、まったく異なる笑みであった。
『そう思われるなら、それでも構いませんが』
彼はスツールに掛けている加持に歩み寄ると、加持の肩越しにグラスをライティングデスクの上に置いた。
そしてそのまま、加持の首に腕を回す。
唇が、重なる。湿った音。
“家族”を守るために、我と我が身を差し出す子供。そんな認識が加持の思考の中で焼き切れるまで、数秒とかからなかった。
知らず、片腕で抱き寄せ、片手で白い顎を捉えていた――――――。

***

「悪かった。・・・・癖でね」
加持は火をつけたばかりの煙草を揉消し、白い腕を引き寄せた。
彼はされるがままだった。ただ、こころもち顔を背ける。空いたうなじに口づけられ、細い呻きがもれた。
あの時のように、顎を捉えて自分の方を向かせる。紅い瞳は加持を見ることはなかったが、構わず口づけた。
舌先で歯列を割り、絡める。・・・・逃げはしない。
加持の片手が胸をなぞり、下肢へと滑る。先刻の熱がさめていない部分を擦られ、肩を震わせる。
唇を離し、先刻軽くなぞった紅点を啄む。服の上から見えないあたりなら、と言うから、そのすぐ脇に痕をつける。
「・・・・んっ・・・・」
一瞬呼吸を詰めた後、白い腕がおさまりのわるい長髪を抱えた。
「・・・・は・・・・っ・・・ぁ・・・」
軽く、躰を反らせる。そり返った喉を伝う汗の雫を、加持は舌先で受けた。同時に熱を持った部分に添わせた指を動かす。
「・・・ァ・・・あぁ・・・・っ・・・・・」
彼の背が小さく痙攣し、両腕が滑り落ちた。
加持は身体を起こした。
全身を桜色に染め、かすかに眉を顰めて呼吸の鎮まるのを待っている姿は、おそろしく扇情的だ。衝動を抑え、汗ばんだ額に張りつく銀色の髪をかきやる。
その動作に、紅い瞳がうっすらと開く。だがそれ以上の反応はない。
――――――本当に狂わされたと感じたのは、最初だけだった。
あとは、抱く度にやり切れない何かで胸が苦しくなるのを覚え、二度と抱くまいと思う。しかしいざその時になると、そのまま帰すことができないのだ。
行為そのもののもたらす快楽が抗い難いものだからか、あるいは別に理由があるのかは、加持にも判らなかった。
その感覚は、麻薬に似ていた。

***

 呼吸は、おさまりかけていた。
うっすらと開かれた紅い瞳は、遠くを見ていた。
そして、同じように紅い唇が、僅かに動く。・・・・動いたように、見えた。
紡がれた言葉を、聞いたように思った。
次の瞬間、加持の自制心が焼き切れていた。
両下肢を担ぎ上げ、浮き上がった腰の下に膝を捩込む。先刻の残滓がのこるその部分に、加持は殆ど何の前触れもなく侵入した。
艶に満ちた呻きが、そり返った喉奥からもれる。

 ――――――これは陵辱だ。

 眩暈に似た感覚に振り回されながら、何かが冷えていた。

 ――――――暴力を以て辱める行為だ。

 何を今更。それ以外の何かだと、思ってでもいたのか?
必要とされたのは加持ではなく、折衝のための代理人に過ぎないことなど、最初から判っていたことではないか。
何を今更――――!?
脱力して、倒れ込む。
かすむ目で、仰向いたままの彼を見る。
上気した頬。軽く息を弾ませ、うっすらと潤んだ目をあけていた。
その視界に、加持はいない・・・・・・・。

***

 ”家族”を守るために、我と我が身を差し出した少年。
知っていながら、罠の匂いの濃い果実に手を出したのは加持。
挙句、絶大な権力をもつ老人たち相手に綱渡りをする羽目になったが、老人たちは加持の得た結果に満足した。彼を無用に刺激することよりも、コントロールの効く範囲で利用した方が得策、と考えたのだろう。
しかしそれでも、加持が首に縄をつけられ、刃の上で踊らされている状況に大した変化はなかった。
滑稽だ。
加持自身、そう思う。
彼が、その必要がなくなってからも加持に躰を与えるのは・・・・あるいは。
そう思うと、滑稽というより、もはや無様と言う他ない。
―――――安全の問題から30cm程しか開かない窓。その重いレバーを引き、加持はゆっくりと窓を押し開けた。林立するビルに遮蔽されない早朝の風がさっと流れ込み、新しくつけた煙草の先端からほんのわずかに灰を散らす。
先刻から、バスルームの中で水音がしていた。
この間に一本ぐらいは構うまい。
重厚な造りの椅子を引き寄せ、窓の側に座る。
この建物が群を抜いた高層とはいえ、ここより高いビルはいくらでもある。そのビル群の彼方の空は、夜の領域から朝へ移り変わる瞬間の、物憂い紫色をしていた。
――――――あの紅い瞳に、それまでと異なる何かを初めて見つけたのは、そう以前のことではない。
それまで彼は、計算ずくの媚態すら見せたことはなかった。必要ないのだから。しかし最近、時に聞くものの躰の芯を締め上げるような嬌声を零す。
そんな時に限って、紅瞳は加持を映してはいない・・・・。
『誰なんだい?』
喉まで出かかっている問い。
彼の心の中に誰かが住んでいるのなら、終わりにした方がいい。
契約が既に別のところで成り立っている以上、加持には彼を束縛する権利などないのだから。
彼が一言、拒絶してくれればいい。
他は何もいらない。ただ一言だけでいい・・・・・。
水音が止んだのに気がつき、加持は煙草を揉消して立ち上がった。
まだかすかに湿気の残る髪からタオルを落とした彼は、既に制服だった。
同じ貌、しかし別の貌。
「今日はこのまま行きます。例のファイル、多分くだんのダミープログラムに喰いつかれてると思いますから、展開には注意してください」
淡々とした言葉。ハッキングの技術そのものは加持の仕込みだが、既に腕前は師匠を凌駕してしまっている。
サイドテーブルに置かれた一枚のディスクを一瞥して、加持は言った。
「・・・・わかったよ。ありがとう。毎度済まないね」
「いいえ」
短くそう応え、髪を拭ったタオルをたたんでテーブルに置く。湿気を含んだ髪を、風が揺らした。
突然その手を捉える加持。
「・・・・加・・・・!」
膂力では、加持に敵うわけもない。難なく壁に押しつけられる。しかし、彼がさしたる抵抗をしなかったのも確かだった。
この部屋にいる間は。そう決めているふうでもあった。

 ――――――誰かなどと、知らなくていい。

 ――――――何も云わなくていい。ただひとことの他は。

 一瞬の間は、それを待ったのかもしれない。

 しかし紅い唇は何も紡がず、紅瞳が軽く伏せられただけだった。
だからその唇を塞ぐ。
そして自問する。自分はその言葉を望んでいるのか、それともおそれているのか・・・・。
わからない。
だが今はなにも聞きたくない。

 今は何も云わないで欲しい―――――――――。

―――了―――

ページ: 1 2