振り払う腕が、不意にしがみついた時。捕まったと感じた。


Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS
「Desperate」
廃園にて <前編>

 古書の文字を追う目が、文面を滑ってしまうことに、カヲルは思わず吐息して目を擦った。
 悪い夢を見る。どんな夢かを覚えていないのだが、目覚めたときには体中がこわばって動悸が早くなっている。
 この書庫に籠りだしてからは少しずつひどくなるような気がするのは、考え過ぎだろうか。
「・・・ま、たまには休憩入れちゃどうだい?熱心なのはいいが、あまり根をつめると身体によくないぞ」
 いつの間に入ってきたものか、この古い祭殿の裏にある廃園に実る果実を置いて、加持が言った。この古祭殿の守だが司祭ではない。
「・・・・あ、ありがとうございます」
 軽く頭を振って、カヲルが答えた。
「しかし、司祭の勉強ってのも大変だねぇ。こんな薄ら寒い書庫で本ばっかり呼んでると、病気になっちまうぞ」
「・・・そうですね、すこし休憩します」
 本を閉じて、カヲルは立ち上がった。いずれこのまま読んでいても頭に入りそうにない。
 カヲルは、加持について外へ出た。
 ここもかつては主祭殿として使用されていたが老朽化、新祭殿建立と共に書庫を残して全てが移動されて、ここは廃墟同然となっている。しかしいかに祭神を移したといっても書庫が残されている以上そのまま放置するわけにも行かず、常に一人の守人が置かれている。それが加持、というわけだった。
「ま、ていのいい厄介払いという話もあるかな」
 大変ですねというカヲルに、加持は笑ってそう言った。
 それは自分も同じだ、とカヲルは思う。司祭長の血縁と言うだけで、祭殿では腫れ物に触るような扱いを受ける。カヲルはそれが嫌で、今度正式に本殿へ移されるここの書庫のリスト作りの作業を買って出たのだった。
 かつては丁寧に刈り込まれていたであろう庭園も、今は草木が延び放題。廃園と呼びならわされるに相応しい様相を呈している。それでもここ数年妙に果樹や花が増えたのは、この風変わりな守人が手を入れているからだ、というのは来る前に聞かされた話だった。

***

「大変ですね。これだけの広さを、お一人で?」
 大人びたもの言いが、背伸びする風にも見えないのは不思議だった。
 本殿きっての秀才で、司祭長の血縁というが、偉ぶったところは少しもない。司祭を務められるだけの課程は修了しているらしいが、まだ経験が足りないからと辞退しているというのも違和感のない話だった。
 ―――――だから、昨夜見たものが何だったのか、加持には判断がつかない。
「はは、さすがに全てに手は入れられないからね。ぼちぼちとやってるよ」
 カヲルが階を降り、まだ耕した跡の新しい畝に顔をのぞかせている芽を見つけて微笑む。宗教画の天使が抜け出たような容姿と、それに見合った資質。あと2、3年もしたら、いい司祭が誕生するに違いない。
 加持はふと、視線を廃園の一隅、まだ草と蔓に覆われた、枯れた水盤に転じた。
 そうだ、あそこにいたのだ・・・・・・・・・。
 なぜあの夜半に、あんな所に行ったのかがまず判らない。
 ―――――昨夜のことだ。気がつくと加持は、廃園の中にいた。
 折しも満月。水底を思わせる静謐の中にいつもと違うものを認めたことで、加持の意識ははっきりした。
 腰の高さほどの水盤は、直径が加持の身長の2倍はある、大きなものだった。往時はその中央に立った像が捧げ持つ豊穣の角から、大量の水が溢れ出して水盤を覆っていた事だろう。
 しかし今、豊穣の角も枯れ、水盤は大きな亀裂を生じていた。
 ――――――・・・・カヲル君?
 加持は思わずそう声をかけた。このあたりにはほかに人間はいないし、なによりもそれがカヲル以外の誰かだと思えるような要素が、その時には見受けられなかったのだ。
『・・・来たか』
 それは本当に、声であったのか。
 水盤に腰かけていた者が、顔を上げた。
 加持ほどの者が、足を竦ませた。銀というより白い髪。その貌の中にあるのは、血のような紅瞳。それは、人を慄然とさせるような冷たさを湛えていた。
 それが浮かべる笑みも、また――――――。
「・・・・どうされました?」
 不意に、近くなった声に我に帰る。優しい緑瞳が、すこし気づかわしげに彼を覗き込んでいた。
「いや、なんでも・・・・」
 首を傾げる仕種は、まだ少年といわれる年代に似つかわしく、どこかほっとさせる。
 ・・・・夢だ。そうでなければ、森の魔物の悪戯だ。
 加持はそうして疑問をしまいこんだ。

***

 自分を年齢相応に扱ってくれる者の存在が、カヲルにはとても暖かいものと感じられた。
 いつも、一目置かれていた。有り体に言えば、距離をおかれていた。同年代の子供達はもとより、大人達にも。
 だから、いつも一人だった。
 しかし加持は違った。司祭となる資格を持つ者として尊重はしてくれるが、ごく普通の少年として扱ってくれる。書庫に籠りがちなカヲルを何かにつけて陽の下に引っ張り出し、夜遅くまで起きていれば刻を教えて休むよう諭す。一歩間違えばただのお節介だが、カヲルにはそれが不快ではなかった。
 カヲルは、本殿にいた時より口数が増えたことを自覚していた。

***

 月は、欠け始めている。
「・・・・・・君は、誰だ?」
 どうしてまたここに出てきてしまったのか。そんな疑問ももはや浮かばぬ。
枯れた水盤に腰掛けて、白い下肢をぶらつかせている。血の紅瞳、そして口許にあるのは全てを嘲笑するような・・・・・・。
『・・・では、おのれは何者だ』
 笑みを含んだ、見透かすような問いに、思わずびくりとする。
『・・・まあよい、いずれ関わりなきこと。・・・・来るがいい』
 人形のように立ち尽くした加持へ、それは昂然と手を伸べた。
 加持の足は自身の意志に反した。
 問いを発した後は、舌さえも上顎に張りついたまま、声も出せぬ。
 ただ、その手に引き寄せられる。見えざる力が働いてでもいるかのように。
 頭が、熱い――――――――。
 歩み寄り、その白い首筋に顔を埋める。耳元で上げられるのが嬌声ではなく哄笑であることなど、既に意識の外。
 目の眩むような感覚に、加持は酔った。

***

 夢。悪い夢。
 翼が舞い降りて、自身を喰い荒らす。
 それは絶対的な恐怖。自分が自分でなくなる感覚。
「僕を殺さないで」
 だが、ゆっくりと身を起こして彼を見下ろしたその顔・・・血の色をつけたその顔は、紛れもなく彼自身。

***

 揺すぶられ、カヲルが緑瞳をうっすらと開く。その緑は、僅かに潤んでいた。
「・・・・ぁ・・・・・・・加・・・・・・さ・・・・・・・」
 まともに声が出せないようだった。上気した頬と潤んだ双眸に、身の裡を衝動が駆け上がるのを感じ、加持は慌てた。いつも毅然として、悪く言えば本当の感情を覗かせることのない貌に、いまははっきりと怯えが見てとれたのだ。
「大丈夫か・・・!? 一体、どうしたんだい」
 それを打ち消すように、思わず加持の声が大きくなる。その瞬間、いつものどこか距離をおいた表情に戻った。
「・・・・・・すみません。大きな声、だしてしまったんですね」
「いや、それはいいんだが・・・大丈夫か、ひどい汗じゃないか」
「・・・そうですね。身体、拭いてきます」
 そう言って、身を起こす。既に声をかけようにも取りつくしまの無い雰囲気が、そこにあった。
「カヲル君・・・」
「ご迷惑をかけてすみませんでした。どうぞ休んでください。・・・・・・僕は、大丈夫ですから」

***

 ――――――東の空が、うっすらと白い。
 怖い。一体なにが起きているのか判らない。
 誰にも言えない、誰も本気にしてくれそうにない。
 何よりも聞いてくれる人なんかいない。
 誰も自分をひとりの人間として見てはくれなかったから・・・・。
 蔦が絡んだ井戸から水を汲み、冷たく澄んだその水を頭から被る。・・・・身の裡の熱をさますように。
 汲んだばかりの井戸水は心臓を鷲掴みにするような冷たさであった。だが、カヲルは何度でも淡々と冷水の滝を自身に浴びせ続けた。
 しかしついに手の感覚が無くなり、盥を取り落とす。盥が派手な音を立てて敷石にぶつかり、数瞬の空白。
 井戸に縋るようにしてずるずると座り込む。ややあって、細い嗚咽が漏れた。
自身の震える肩を押さえつける。
 今日ほど鮮明な夢は初めてだった。だが、だからこそ知ってしまった。
――――――――あれは、何!?
 それは得体のしれないものに対する恐怖ではなかった。むしろ、あの者が何であるかを知っているような気がする・・・・そのことに対する恐怖だった。
――――――――僕は、何!?
 今までの自分が全て否定されるような不安。莫迦げたことだと否定することは容易いが、それを自分に納得させることが、カヲルは未だできずにいる。
 人の気配に、カヲルはびくりとした。
 加持が、すこし距離をおいて立っていたのだ。

***

「・・・来ないでください・・・僕を、見ないで・・・!」
 目を逸らし、絞り出すような声。しかし、放っておけるわけもなかった。
「何を莫迦なことを・・・とりあえず、その格好を何とかした方がいい。いくら何でも風邪をひくよ。さ・・・」
 加持が肩にかけた手から、カヲルは逃げた。
「・・・来ないで・・・触らないでって言ってるでしょう!!」
 荒げた声は裏返った。振り払い、立ち上がろうとして頽れる。咄嗟に支えたが、ひどく軽かった。・・・・痛みを感じる程に。
「・・・・どうして、そんなに全部ひとりでかかえこもうとするんだい?」
 問わずには、いられなかった。
 何かに苦しんでいるのは判っている。それなのに何も話してはくれないことが、所詮は他人と言外に宣告されているようで、ある意味で寂しくはあった。
 踏み込んではいけない領域なら、敢て冒しはしない。だが、苦しむ姿をただ見続けるのは、元来他人には不干渉なたちの加持でさえ、つらかった。
 カヲルが、肩を震わせる。
 被った水に紛れた涙が頬を伝い落ち、加持は先刻と同種の衝動を覚えて呼吸を詰めた。
 ―――――月下の魔物の陥穽わなでないと、誰が言えるだろう?
 それでも、濡れた服越しに冷えた肩に触れたとき、踏み込めば突き放せないと判っていてその手に力をこめた。
 噂が何程のものであろう。いま目の前で、彼が苦しんでいるのは確かなのだ。

「・・・・・・・・・・・・・・・・助けて・・・・・・・・」

 ――――――振り払う腕が、不意にしがみついた時。捕まったと感じた。

TO BE CONTINUED