風が止んでも
耳が痛いほどの沈黙。
今にしてみれば、爆風で一時的に聴覚障害を起こしていたと考えるのが妥当だろう。焼け爛れた街…あちこちで煙や炎が上がっていたから、何らかの音はしていた筈なのだ。
つないでいた義母の手は、爆風で引きちぎられていた。それでもしばらくはその手を握り締め引き摺りながら歩いていた気がするから、端から見る者があれば恐怖でおかしくなったに違いないと思っただろう。
しかし、本当の恐怖は防護服を着込んだ大人達に取り囲まれた時に味わった。
泣くこともできない恐怖、というのはあれだろう。
救護所から病院に連れて行かれ、ベッドに寝かされて何日経ったのか憶えていない。大きな身体的外傷はなかったらしいが、ベッドに横たわったまま眼を開けて宙を見ていたらしい。病院の中にいても、回りの大人は常に防護服を着ていて顔はよく見えなかった。人間という気がしなかったのは記憶にある。
「…名前。言えるか?」
その時、生きた温かみを持った手が額に当てられていることを認識した。手の先に、病衣に覆われた肩がある。大人のひとじゃないな、ということに、安心感さえ憶えた。多分、中学生くらい? 髪の色が自分のとは少し違う感じに、少し淡い。
ふっと霧が晴れたような…そんな感覚。
当てられた手に、自分の手を重ねてみる。ちゃんと、温かい。
随分長いこと喋っていない。声が出るかどうか不安ではあったが、少し息を吸い込んでから、口を開く。
「…タカミ」
Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS
「breezeⅢ」
風が止んでも
その少女の青みがかって見えるほどの見事な銀髪は、熱のために少し紅味の増した頬にかかっている。ガーゼケットから出した手はまだしっかりと携帯電話を握り締めていたが、震えは治まっており、穏やかな寝息を立てていた。
榊タカミは額で測るタイプの簡易体温計の表示に目を遣った。37.5℃。2時間前まで38℃を越えていたらしいから、少し落ち着き加減ではある。
綾波レイ。Angel-02、ロストナンバーの少女。
爆発事故の被災者。彼女だけは隔離施設ではなく、父親である碇ゲンドウ・元ゼーレ日本支部CEOの手許にとどめ置かれていたが、実際には長らく認知さえ宙に浮いていた。最終的に昨秋から赤木リツコに親権を移され、現在はリツコの元で生活している。
身体と心が不安定で頻々と発熱を繰り返していたが、カヲルとの出会いから急速に安定して就学もできた。時々まだこうやって発熱はするが、混乱して投薬を受けるようなことはなくなった。
―――カヲルとこの子の出会いが、結果的にAngelの刻印を持つ者たちにすべてを明らかにしてくれた。
爆発が隕石落下に伴うものではなく、国際的な複合企業体・ゼーレの傘下にあった研究所が起こした事故であったこと。そこで研究中だったウィルスが飛散した可能性…さらには、生存者たるCODE:Angelがその感染を疑われて隔離されていたこと。
そして、感染疑いは解除されたわけではないが、仮にウィルスを保有していたとしても通常の接触で感染が広がることはないという結論から、監視はされていても隔離は緩められた経緯。
それらは他ならぬカヲルの曾祖父に当たる故・キール=ローレンツ―――ゼーレの総本社CEO―――が、責任感と情の狭間で苦しみながら行った決断であった。
キール=ローレンツの逝去によってその決断が翻されないために…カヲルはドイツへ渡る決心をした。後継者候補としての指名を受け、それに相応しい教育を受けるために。
それは少女との一時的な別れを意味する。逡巡はしたが、一旦決めてしまうとカヲルは揺らがなかった。
年齢を考えれば賞賛されるべきだとタカミは思う。…だから、支えることにした。カヲルの後顧の憂いがないように。
隔離施設でカヲルを産んですぐに没したAngel-01…ナギサと呼ばれた女性。顔に酷い傷を負い、熱風で声も嗄らしていたが、片腕を無くしていたこと、年頃や妊娠週数からタカミは事故で失った義母ではないかと思っていた。しかし真実はタカミが物心つく前に家を出奔していた実姉・セラフィンだったのだ。
弟かも知れないと思っていたカヲルが、実は甥だったというのはこの際些末であったが、血縁には違いなく、キール=ローレンツの遺言執行人たる弁護士・真希波マリの求めに応じてタカミは日本におけるカヲルの後見として財産管理をする立場を引き受けたのだった。
それと、人の温かみから隔絶されて育ったこの少女を、カヲルが戻ってくるまで大切に見守る。自分にできるのはそのくらい。
銀色の髪をそっと梳きながら、吐息する。
些細なことが前触れなく大きな恐怖となって心身を蝕む。それをコントロールするには大きなエネルギーが必要で、それが度重なると身体的な不調として出てくる。…多分この子は、一時期の自分と同じなのだ。
――◇*◇*◇――
そう、年齢から言っても丁度このくらい。
被災直後のショック状態を除けば、元来タカミはそれほど他者とのコミュニケーションに支障があったわけではない。きっかけは、コンピュータとネットワークについて興味を持ち始めた頃だったと思う。
できるからやってみた。やってみたら面白かった。…至って子供の理屈ではあった。
隔離されていることのストレスでもあったのか、居ながらにして外を自由に動き回れるような錯覚に陥った。地球上すべて、行けないところはなかったから。それが徐々に不法な領域…所謂ハッキングと言われる行為にまで踏み込んでいることに、気付いていないわけではなかったのだ。それでもやめられなかった。
中毒に近い様相を呈していることに気付けるくらいなら、途中で踏みとどまれたのかも知れない。だが、その時のタカミはマサキにさえ逆らってネットの海へ潜り続けた。
通称、『死海文書』。件の爆発事故の調査ファイルを見つけたからだ。
知らなければ良かったのか。自分たちが知らされている事実と、ゼーレが隠している事実が異なるということに触れてから、世界が変わってしまった。
怪我をして、行くところもなくて。だから保護されているのだと単純に信じていた。しかし文書に垣間見える「CODE:Angel」という文字に、被験者ないし標本に似た意味合いがあることを嗅ぎ取ってしまってから、すべての大人が信じられなくなった。
大人が信じられない。…その時思い当たったのが、高階マサキの態度だった。彼は最初から、大人達に不信感を持っていたようだった。ハッキングに関しても、年長者の義務としての叱責というにはやや強硬とも思えた。
―――知っていた?
ネット上に存在する『死海文書』のことごとくを破壊するウィルスを播いたあと、タカミは自分のパソコンをメモリの一枚に至るまで破壊した。殆ど素手だったので自分の手にも相応の傷が残ったが、全く頓着できなかった。
何をどうして良いか判らなくなって…気がついたらマサキのところにいた。何を何処まで喋ったのか、実のところあまりよく憶えていない。それでも吐き出せるすべてを吐き出してしまったとき、静かに聴いていたマサキの面は、傷ましさだけを湛えていた。
『…お前が悪い』
それを、言葉面とは裏腹に…全く責めていないように感じたのは、身勝手というものだろう。世界のすべてが崩れて自分の上に落ちかかってくるようなどす黒い不安から逃れるために、ただひたすら…差し出された腕に縋った。
ひどい悪戯をしておきながら、それで怪我をすると泣いて帰ってしがみつく幼児となんら変わるところはない。見放されても仕方ないのに、マサキはそうしなかった。行為の意味が理解っていなかった訳ではないが、与えられる感覚は確かに得体の知れない不安を押し流したから…誰にも言うなというマサキの言葉をただ肯った。
『全部忘れろ。あとは俺が調べる。連中の思惑なぞ知ったことじゃないが、あの日俺達に何が起きたのか…何年かかっても、それだけは必ず突き止めるから』
マサキはそう言ってくれたが、その時は本当に…それ以上知ることが怖ろしかったのだ。マサキが真実を探り出すために危険な目に遭うのなら、もうこれ以上何も知らなくていいとさえ思った。
言われたとおり、忘れようと努めた。それでも時に強烈な不安で身動きが取れなくなる。自分ではよくわからないが、傍目にもいくぶん挙動がおかしくなるのかもしれない。
そんなときに限って、見透かしたようにマサキが部屋を訪う。そうして何も言わず、何も訊かずに夜を過ごして行くのだ。
肌を寄せていると、あの強烈な不安から逃れられた。決して自分から求めることなどできなかったが、彼にしてみれば強請られているのと同じだったのかも知れない。放っておけば不安に押し潰され、誰彼構わず死海文書のことを喋ってしまいかねないと。
マサキは常に皆のことを考えている。小さな子供たちにまで不安と不信を撒き散らしかねない不確かな情報など、知られるわけには行かないのだ。
秘密を盾にマサキを縛り付けているようなものだ。だから、唇と指先で丁寧に追い上げられる感覚に酔いながら…その言葉が口をついて出てしまう。
『ごめん、サキ…』
寝付けない子供があやしてもらいたがるのと、何が違うというのだろう。
マサキが家を出た後も、負担になりたくないと思いながら不安に襲われると足を向けてしまう。そして、優しい腕に縋って不安を打ち消そうとする。マサキの辛そうな表情を見ないふりをして。
…何て、狡い。
***
ある日、マサキの部屋の一隅に置かれた見慣れない荷物を目にしてタカミが問うと、返ってきたのは『あぁ、イサナのだ』という至って明快な答だった。
『海洋調査で月に何日もいないのに、寮を維持するのも何だから住所を貸してくれと言われた。ま、部屋は余ってるしな。帰ってきたら報せてやるから、お前も話しに来い』
鯨吉イサナ。あの事故の時、おそらく一番重篤な状態だったことに加えて先天的な心疾患も持っていたというが、数度の手術に黙して耐え、そして自身の望む途へ進んでいった。
その身体に刻まれた…事故と、その凄まじい手術痕を見たことがある。
傷がもとで感染を繰り返し、高熱に苦しめられる事もしばしばであった。随分と酷い目に遭ったというのに泣きごとひとつ言わず、他の誰でもなく自身の力で未来を勝ち取った、勁いひとだ。そして存外周囲に目配りもしていて、年少の子供たちの面倒もよくみている。多分、マサキがミサヲと同じくらい信頼しているのは彼だろう。
寡黙だが、海に関わることだけは微かに笑みすら浮かべて話してくれる。
引き比べると、身が縮む思いがする。…マサキにとっては荷物でしかないであろう自分が情けなくて、悲しくて。
――――自分も斯く在れたら。
イサナが大学に入って寮暮らしになってから、殆ど会えなかった。だから、イサナが帰ってきたと聞くと喜んで足を運んだ。
イサナがいるときなら、マサキに辛い顔をさせずに済むからでもあった。
重荷を背負わせてしまう前の…快活なマサキを見ることができる。それも嬉しかった。
…そうできるのが自分ではないのが、少しだけ哀しかったが。
***
しかし、彼女…赤木リツコに出会ってから、話をするようになってから…不安発作そのものがかなり稀になってきていた。たまにそれに近いものを感じても、自分が何処を歩いているかさえ判らなくなるような重篤な状態に陥ることはなくなった。ある程度の時間経過もあったことだし、徐々に回復傾向にあるものと…自分では思っていたのだ。
その頃にはマサキやイサナのように家を出て生活する者もいるくらいで、Angel-**の刻印を受ける者達の監視もかなり緩やかになっていたし、検診の間隔も長くなっていた。
災厄の日のことも、死海文書のことも、少しずつ遠くなっていく。それは悪いことではないのだと、タカミは自分で言い聞かせていた。
あの夏の日までは。
少し前から、誰かが周辺を嗅ぎ回っている気配にすこし気が昂ぶってもいた。しかし、暫くマサキに頼らなくても大丈夫な時期があった所為か…すこし意固地にもなっていたように思う。
コテージに集まる日の前夜、記憶にある限りでは初めて…マサキを拒んだ。
いつまでもマサキに頼っている訳にはいかない。いつまでも、一人で眠れない子供でいたくない。しかし、それがとんだ思い上がりであったことを…すぐに思い知らされることになる。
彼女とは…会って話をして、時々一緒に食事をしていた。お互い時間繰りに苦労する身の上であったから、何処かへ遊びに行くということは無いに等しかった。友人というにも中途半端な距離は、遠ざかることもなければ近づくことも無くて…それでも楽しくて。一緒にいる時間だけではなく、離れていてもその存在が嬉しかった。
…でも、知ってしまった。
海辺でカヲルが出会ったという、少女。銀髪紅瞳という特徴と、前後の状況からその少女こそロストナンバー・Angel-02ではないかと疑ったタカミは、その周辺を調べるうちにリツコが事件の事後処理に当たった赤木ナオコ博士の娘であるという事実に行き当たったのである。
事件当時は彼女だって子供だ。関与できるわけは無い。しかし母親が亡くなる少し前から母親の仕事に関わっていたようだし、なによりロストナンバーの少女の養育に関わっている時点で確実に関係者だ。
彼女が自分に逢ってくれるのは、「榊タカミ」がAngel-11だから?
そんなことを考えてしまう自分に嫌気がさす。でも、それを確かめることが怖くて…メールを返すにも手が止まってしまった。
こうなると、数年前への逆戻りだ。知りたいという思いと、知ることへの恐怖の狭間で押し潰されそうになった時…結局頼るのはただひとりしかいなかった。
その夜、他の誰かに聞かれることを憚って件の海岸へ出た。
カヲルがその少女に出会ったという、朽ちかけた廃船が座す浜辺は…やはり静かだった。
いつものように、マサキは真摯に話を聞いてくれた。そして、カヲルの話と、自分が調べた結果から少女をロストナンバーと疑うに至った経緯を話す間…冷静さを保つことができないタカミを、少し強引に…しかし丁寧に宥めた。
つい前日、手酷く拒んだというのに。
その優しさが苦しい。そして、縋ってしまう自分が嫌になる。
***
突然転がり込んで、確実に潰れる酒量と判っていて呑むのは、抱いてくれと強請っているのと同じだろう。
それでもマサキは怒らない。
「…こんなになるまで呑んで…それでもまだ言えないってか。…大概にしろ」
言葉ではそう言っても、その手が優しく頬を撫でる。その感覚は痺れる程に甘美で、思わず吐息を零してしまう。
酒の余勢を駆っているのは判っている。それでも。
「サキ…ごめん…」
マサキの袖を掴んで、かろうじて声に出す。
掠れた声が届いたのかどうか。指先がさらりと唇を撫でてそれ以上の言葉を遮る。…優しい唇が降ってきて、上げかけた声を吸い上げた。
得体の知れない不安からただ楽になりたい。そんな甘えが許されていることが、決していい訳はない。
それはわかっているのに――――――。
最後まで意識を保っていられた例はほぼ、ない。縋ってしまいたくて、でも罪悪感がそれを躊躇わせる。その狭間で揺れているうちに、いつも意識は途切れてしまう。
やはり、ぐずって困らせるばかりの幼児に斉しいではないか。
タカミが目覚めたとき、マサキは大抵もう傍にいないか、いてもすこし辛そうな表情で髪を撫でてくれている。その表情を見るのが辛いから、また目を閉じてしまう。
…結局のところ、自分ひとりが一時の安寧を得ているだけで、マサキにとっては辛いだけの関係なのだと思うと、まだ少しマサキの温かみが残っている褥にいても、身の置き処のないような息苦しさを感じて泣きたくなる。
その朝も、目覚めるとマサキはいなかった。ベッドの中には自分以外の体温はなく、言いようのない寂しさに心臓を握りつぶされそうになりながら身を起こす。
隣室…といっても衝立と観葉植物の鉢で区切られただけだから音は殆ど筒抜けなのだが、そちらで低く抑えたマサキの声がしていた。…電話のようだ。
あたりは明け方の蒼い薄闇。こんな時間に誰と?
「…まあ待て、いきなり事を荒立てるな。俺だって…を収めたいのはやまやまだが…のは考えにくいだろ? ああ、結果が出たらメールよろしく」
途切れ途切れに聞こえる会話のテンポがおそろしく速い。だがそれで大体、相手の見当がついた。
「何処の誰だか知らんが、あんたの御陰で俺はスタンガンまで押し付けられる羽目になったんだ。…相応の返礼は受けてもらうよ」
今度は純然たる独白のようだったが…バスローブを羽織りかけていたタカミの手が思わず停まる。一瞬だけ、呼吸も。だが、タカミは立ち上がって衝立を回り込むと、努めて冷静…というか、敢えて少し揶揄うような調子で言った。
「…まだ根に持ってたんですか、サキ」
マサキがタブレットをクレイドルに戻す。振り返った…その口許には苦笑。
「どこから聞いてた?」
「『いきなり事を荒立てるな』あたりからですかね。…心配しなくたって、そんなに簡単にキレたりしませんよ、僕は」
「前科者が偉そうに言うな」
まごうことなき虚勢を、マサキはいとも無造作に一蹴した。
「…実直に、つけ回されてるのがお前だけとは限らんだろうが。お前が考えてる通りの相手なら、Angelの刻印を受けた者皆が標的になってて然るべきなんだ。忘れてるかも知れんが、大体、ここは俺のアパートだぞ」
もう一度、呼吸を停める。自分の短慮が、マサキにまで危険を及ぼしたのだろうか…?
「…まあ、今朝についてはお前がつけられたってのが一番妥当だがな。手がかりは一つ手に入ったんだ。何、リエなら今日中には何か持ってくるさ」
軽い調子で、マサキは言った。しかし、真綿で首を絞められるような息苦しさは消えない。
硬直したタカミを見て、マサキはかすかに眉を曇らせ…タカミの肩を軽く押して壁を背に縋らせると、顎を捉えて口づける。
全くの不意討ちに、あえかな声が漏れた。舌先に促されて唇を開くと、バスローブの合わせ目から滑り込んだ手の動きと相俟って思わず吐息を零す。
「そうだ、ちゃんと呼吸してろ…。お前、思い詰めるとすぐ呼吸数に出るから分かり易いんだ。頭の中が酸欠になっちまうぞ。そうなると碌なこと考えないからな…」
揶揄うような声が耳朶を擽って、滑り込んだ指先の動きにいとも簡単に追い上げられる。ローブの下の身体はまだ昨夜の熱を残していて、それが揺り起こされるのにいくらもかからなかった。
壁に縋って立っていることすら難しくなって、マサキの背に腕を回す。
吹き倒されそうな風の中を、この背に縋って何とか歩いてきた。荷物になりたくない、負担になりたくないと思いながら、縋らずにいられない自分が歯痒い。
そしてそれは、もしこのひとを喪ったらという底知れない恐怖感と表裏を為していた。
だが、吐息が喘ぎに傾斜しかけた瞬間に唇は離され…掠れた声を上げてしまう。
「とりあえずお前、送ってやるから仕事へ行け。…俺だって今日は普通に勤務なんだ」
突如、放り出されたような浮遊感に思わずその場にずるすると座りこみそうになる。いつにない唐突さに軽い眩暈すら感じて、ふらつきながら傍らのソファにたどり着いた。
ソファに滑り込んでローブの合わせ目を握り締めると、ようやくのことで応えた。
「はい…」
事件は、その日の昼過ぎのことだった。
***
「住居不法侵入、器物損壊、ストーカー規制法違反、それと殺人未遂?」
リエのドスの効きすぎる声が冷徹に…ゆっくりと数え上げる。
「ちょっと待て、後ろ二つは何だ!?」
加持が腰を浮かしかける。リエが少し目を細めて立ち上がった。
「…あぁ、ストーカーはこの際違うか。失礼?…でも、殺人未遂についてはまだ容疑が晴れたわけじゃなくってよ。タカミを尾行してあんたがサキのアパートに張り付いてたのは証拠写真があるし、その日の昼じゃあ…疑われても仕方ないんじゃない?」
「だから、何のことだ!」
リエの両眼が俄に凄味を帯びる。それは、殺気と言ってもよかった。
「この期に及んでバックレるか、加持!? …サキを殺しかけた件を言ってんのよ!」
リエはシースナイフを抜いていない。だが、その白刃が眉間に刺さりでもしたように、加持がその場で仰け反る。だが、タカミはそんなことなど気にかけてはいられなかった。頭を殴られたような衝撃に、頭の中が真っ白になってしまったからだ。
「…ちょっと待って。それって…!」
ようやく声を絞り出したとき、カツミが飛んできた。
「リエ姉ってば…よりによって今ここでそれ言う? …あーあ、タカミってば廉いコピー用紙みたいな顔色になっちゃって…タカミ、大丈夫だから! サキもカヲルも、もう大丈夫って! 黙ってて悪かったよっ!病院行けば判るから!」
硬直してしまったタカミを揺すぶって、必死に説明するカツミの声が耳鳴りでよく聞こえない。
自分の所為だ。自分が余計なことに首を突っ込んでしまったばかりに…!
***
「…何て顔色してやがる」
重苦しい沈黙の後に、マサキがそう言った。自分の車の助手席というのがいまひとつ座りが悪いのか、殊更に横を見ず、前を真っ直ぐ向いている。
「この通り、無事なんだ。いい加減、一寸落ち着けよ。…てか、俺が運転したって問題はないぞ。もう薬の影響は抜けてるし」
「それは皆から止められたでしょう。…慣れない車の運転席が居心地悪いだけですよ。気にしないでください。すぐに慣れますから」
タカミはそう言って車を発進させる。
昨日のことだ。マサキの車が何者かに細工され、危うく事故になるところだった。仕掛けられた麻酔剤で軽い中毒を起こしたマサキは一晩ほど入院になり、たまたま便乗していたカヲルも念のため様子観察。昼間に起こったその事件を、タカミが知らされたのは日付が変わってからのことだった。
退院の許可が出て、家に帰る途上のことである。迎えの面々はそれぞれの車に分乗したが、マサキが自分の車に乗って帰ると言いだしたのでタカミが代わりに運転することになったのだった。
「…悪かったな、黙ってて」
ぼそりと、マサキが言った。
「それはもういいです。どうせ、僕が狼狽えてると罠が罠として機能しなくなるからとかそういうことでしょ。言い出したのはリエさんだろうし、それについてはもう何も言いません。御蔭でつけ回されてた件については犯人がはっきりしたんだし」
「…そうじゃなくて」
ひどく言い難そうに、口籠もる。
「室長…赤木女史のことだよ。意図があって黙ってたわけじゃない。本当に言い損ねてたんだ。」
それはこの春から、彼女がマサキの上司であったという事実についてに違いなかった。咄嗟に言葉が出て来ない。聞けば、マサキの処置に当たってくれたのも彼女だったという。
「…リツコさんも、そうだったんでしょうか」
「そうだろうな」
答は存外に明瞭だった。
「お前が何処まで喋ってたかわからん以上、俺はプライベートに関しては基本的に口を噤んでたんだ。別に、仕事するのに支障はないからな。彼女も基本的に仕事中に無駄話はしないクチのようで助かってたんだがな。それが今日…」
数瞬の、空隙。…ややあってそれまで少し憂鬱そうだった表情がふっと軽くなり、かすかに口許を綻ばせすらして、マサキが言葉を継いだ。
「…勁い女だな。お嬢ちゃんのことも含めていろいろ背負い込んで、しかも本当に孤立無援で戦ってきたんだ。…支えてやれよ?」
「…サキ…」
「守るものがあれば人は強くなれる。彼女然り、お前もな。
色々はっきりしたからもう皆にきちんと説明できる。まあ、何も終わったわけじゃないんだが、これ以上隠し事せずに済むってのは気が楽でいいな。お前ももう、俺なんかに寄りかからなくたって大丈夫だろ」
その言葉はとても自然に…全く気負いなく発せられた。
つい昨日の朝のことだ。あのときの…突然放り出されたような、浮遊感に似たものに襲われて、不意に眩暈を感じる。
思わず、ブレーキを踏んでいた。
「…おい!」
全く予期しない制動でシートベルトに胸を締められたマサキが声を上げる。
「…ってますか…?」
ようやくのことで車を路肩に寄せる。ハンドルを握り締めた手が震えているのは自分でも判っていた。でも止められない。自分でも危険を感じたから、ギアをPにいれてサイドブレーキを引いた。
「…どうしてそう…自分のことなんかどうでもいいみたいな…自分なんてもういなくていいみたいなこと言うんです…!あなたが殺されかけたって聞いて、僕がどんな気持ちになったかわかってますか…!?」
左手を伸ばしてマサキの袖を掴む。関節が白くなるほど握り締めて、ようやくそれだけの言葉を絞り出した。しかし、まともにマサキの顔を見ることができなくて、掴んだ袖に額を寄せる。
「タカミ、お前な…」
マサキが深く嘆息する。タカミの髪を軽く撫でた後で、袖を握り締める手をそっと解いた。
「お前、やっぱり運転代われ。そんなんじゃ、まともに前が見えんだろ。折角命が助かったのに、翌日あっさり何の脈絡もなく交通事故死、とか嫌だぞ。俺は」
そう言われて初めて、タカミは自分が泣いていることに気づいた。
「…俺はそう簡単に死ぬつもりはないし、当面何処にも行きやしない。…だから泣くな」
やっぱり自分は…マサキを困らせてばかりだ。今度は情けなくて涙が出そうだったが、目許を拭ってハンドルに手を戻した。
「…すみません、大丈夫です。車、出します」
そうだ。…そうしなければならないと思いながら、心の底では怖れていた。
いつかこのひとが、自分から離れていく。そんな日が訪れると。
いつか吹きつける風が止んで、崩れ落ち押し潰そうとする世界の残骸から自由になることができたなら、この人はそっとこの手を解いていくのだ。
***
タカミが客人達―リツコとレイ―を見送って食堂兼居間に戻ってみると、子供たちはリエに勉強部屋へ追い立てられた後で、先程までの賑やかさが嘘のようであった。
一緒にレイを送りに出たカヲルは、貰った花束を大事そうに抱えてこれも部屋に戻っていった。その様子に、思わず口許が綻ぶ。
キッチンではリエであろう、夕食の支度をしている音がしていた。
夕闇が迫るという時刻でもないが、陽が傾いてやや暑熱の和らいだ風がカーテンを揺らしながら吹き抜けていく。
マサキはソファのひとつに身を横たえて転寝していた。
顔色は悪くなかったが、やはり疲れているのであろう。全く、この一昼夜ほどで色々あり過ぎた。マサキは勿論、自分自身も。
『…いいんですか?僕だってまだ感染疑いなのでしょ?』
ずっと触れたかった。でも怖かった。…自身に捺されたAngel-11の烙印が、それを躊躇わせていた。
『今更ね』
彼女はかすかに頬を染めてはいたけれど、深い色の双眸は胸が痛くなるほどまっすぐに自分を見ていたし、その声は1ミリの揺らぎもなかった。
『…私は構わないわ。付き合うから』
脳裏に浮かぶ彼女の微笑に、先刻のマサキの言葉が重なる。
『…勁い女だな。いろいろ背負い込んで、しかも本当に孤立無援で戦ってきたんだ。支えてやれよ?』
色々背負い込んで戦ってきたのは、あなたも同じでしょう。そう心の中で呟いて、ふとまた涙ぐみそうになって一瞬呼吸を停める。
「…僕では、あなたを支えることはできなかったんですね…」
正直、自分に彼女を支えることができるのかどうかもよくわからない。だが、支えてあげたいし、彼女もそう望んでくれた。だから、自分にできることをするだけだ。
でも、自分にはマサキを支えることはできなかった。困らせるだけ。重荷になるだけ。それが少しだけ哀しい。
不自然な姿勢であるにもかかわらず、余程深く寝入ってしまったのか…ソファの端から片手が滑り落ちてしまっても、微動だにしない。一瞬、呼吸をしているのか不安になって、タカミはその傍らに膝をついた。確かな呼吸を聴き取って、思わず吐息する。
何莫迦なことやってんだ、と言われそうな気がしたが、滑り落ちたその手を取ってソファに戻しても、マサキが目覚める様子はなかった。
こんなに深く寝入っていることは珍しい。
いつかと同じ、温かい手。あの日からずっと、この手がいつも自分を守ってくれていた。
何処にも行かないと言ってくれた。でも、もうこの手に縋るわけにはいかない。
掌を重ねたまま、呟く。
「ありがとう…それから、長い間…ごめん…」
――◇*◇*◇――
慎重に配慮されたノックにタカミが低声で応えると、扉がそっと開けられ、リツコが静かに滑り込んだ。
「おかえりなさい、リツコさん」
「ただいま。ごめんなさいね、で、大丈夫?」
学校から連絡を受けたとき、リツコは俄に仕事を抜けることができずに困っていたのだが、同じ学校にいて状況を察したミスズが機転をきかせてタカミのほうへも電話したのである。
「うん、熱は少しずつ下がってきてる。それに、特効薬の霊験灼かでね。安心して眠っちゃった」
タカミは笑って少女の手から携帯電話をするりと抜き取ると、最新の通話履歴を出してみせる。リツコが破顔した。
「確かに、誰も勝てないわね」
通話履歴には、欧州にいるカヲルの番号が上がっていた。
この子にとってはカヲルがそうであるように、カヲルにとってこの子が唯一の行動原理。微笑ましく…羨ましいほどの純粋さだ。だからこそ、守りたい。自分の力の能う限り。
「あなたの御蔭で助かったわ」
「お礼はミスズちゃんに。仮に僕が動けなくてもあともう3手ぐらいは考えてたらしいからね。大丈夫、みんながついてるから。…あなたひとりが頑張らなくていいんだよ」
タカミの言わんとするところを正確に理解したらしく、リツコは小さく笑って冷却剤の貼られた白い額に手を触れた。
「肝に銘じるわ。さてと。レイちゃん、何か食べられたのかしら?」
「固形物は駄目みたいだね。水分はリツコさんに言われた量だけ飲んでくれたよ。氷枕は却って頭が痛くなるみたいだから額の冷却剤だけにして、首周りと腋窩だけ冷やさせて貰ってる」
「完璧ね、ありがと」
向けられる微笑が、胸奥に確かな温かさを与えてくれるのを感じる。しかしこの温かさに報いる方法が、実のところまだ、タカミにはよく判らない。
だから今、できることをしよう。そう思った。
――――――――Fin――――――――
Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「breeze Ⅲ」
「風が止んでも」についてのApology…
涼しくなったってのにまだ茹だってんのかこいつ
まったく夏中かけてなに非道い話ばっかり書いてるんでしょうね。「夏服 最後の日」裏話の第3話、タカミくんサイドでございました。どんな話だっけ、という向きは一応「夏服-」をざっと読み返してから読んで頂くことをお勧めします。(あっ偉そう)気合いと根性いれてタカミくん×リツコさん書こうとした…なんてのは大嘘で、結局やってることはサキ×タカミ。しかも本編より描写キツくなってないかコラ。
3本書いてみて…「色恋沙汰の話なんて、誤解が挟まらないと成立しないよね」という感想を持つに至った万夏でございます。いや、何すれ違ってんのこいつら。
結局タカミくんは「自分はサキのお荷物だから、早く自立しなきゃ」とか思いながらサキに寄っかかり。リツコさんが好きだけどどーしていいかわかんない。しかしサキとリツコさんはきっちり別物らしくてありがちな二律背反には陥ってない。なんだか吹っ切れたようなことを言いながら、サキからメールの返信がないと「具合わるいのかなぁ」なんてことをさらっとよりによってリツコさんに漏らしちゃうくらい無頓着。でもってカヲルくんとレイちゃんを猫可愛がりなのは基本。
サキはといえば、寄っかかってくるタカミが大切なんだけど罪の意識が抜けきらない。こいつをこんなややこしい性格にしちゃったのは実は自分じゃないかとか何とかぐだぐだ。真っ当に好きな女ができたんならそれでいーじゃないか、しかもめっちゃ佳い女なんだから倖せになってくれとか思いながら、実は結構後ろ髪引かれてたり。しかもその隙を突かれて自分がイサナに喰われたもんだから、ちょっと動転。「夏服~」本編冒頭あたりで結構強引なのは、実はそのリバウンドだったりして。タイミング悪くてこっぴどく撃退されるサキ哀れ。
そんでもってイサナはサキの心がタカミのモノなら仕方ないけど、隙があるなら喰っちまうぞと。「好きな相手を抱きたいと思うことは罪じゃない。…てか、べつに罪でも構わない」というのが立ち位置の御仁で…実際喰っちまってます。一歩間違うと犯罪だけど。しかしあんまり外側には出ないタイプなので、タカミあたりは実のところ全く気付いてません。
リツコさんはと言えば、「夏服~」にあるように、サキとタカミの関係には気付いてます。タカミくんが喋ったわけでは決してありませんが(さすがにそれはありえんだろ)、なんとなく。それでもって、ド天然なタカミくんを可愛く思いながら、サキを部下として信頼しつつチクチクいたぶってます。多分、ただ単に面白いんでしょう…つくづく不幸だな、サキ。
粗方吐き出したとは思うのですが、また何か思いついたら書くかも知れません。(<もぉええって)
タイトル「風が止んでも」はやっぱり杉山さんです。アルバム「HARVEST STORY」から。しっとりしたいい曲なんですよ、本来は。別れた(離れていった)彼女から謝罪の手紙が来たけど、別に責める気はないよ、あなたが大切なひとには違いないんだから…的な。「風が止んでも…You are the one.」 というフレーズがしみじみと素敵。(結局入れ損ねたケド)この場合のthe oneは大切な人、運命の人、自分にとってなくてはならない人、といった意味合いですね。
それでは皆様、次回まで万夏が正気でいたら・・・・・いや、何も申しますまい・・・・・・(^^;
2018.9.15