木下闇

 苛烈な残暑もそこだけは避けているかのようだった。
 桂垣に囲まれた庭の、木下闇このしたやみ
 池のへりに寄せられた庭石に掛けて、白い浴衣の裾から覗く足先を浸している。
 水の冷たさが快いのか、秀麗な口許には微かな笑み。
 仄暗さの中で、水面の照り返しを受けた銀の髪だけが、いっそ眩いほどだった。
 加持は暫く、呼吸いきをするのも忘れていた。


Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS 
「Absolute Faith」

木下闇このしたやみ


 どのくらい、その光景に釘付けになっていただろうか。
「・・・・誰」
 口許の笑みがついと消え、訝しげな紅瞳がひたと加持を見据える。ぐるりと巡らせた垣につけられた扉。まるで覗くかのように細く開いた隙間から中を見ていたことに一抹の居心地悪さを感じて、加持の返答はいまひとつ締まりがなかった。
「・・・あぁ、すまない、倉はどっちかな」
 加持の反応はさぞ可笑しかったに違いない。彼はくすりと笑い、水面から上げた足に下駄をひっかけてこちらへ来る。
「・・・リツコさんのお客さんだね」
 扉を押し開け、門の外へ一歩を踏み出す。
「・・・・倉なら、そこの飛び石沿いにもう少し奥・・・・灯籠のところを右に折れて」
 そう言いながら行く手を示す指と腕が白い。殆ど陽にあたったことがないかのようだった。
「・・・わかる?」
 問い返され、慌ててその指と腕が指す方向を見た。
「あ、ありがとう」
「そう、じゃ、気をつけて」
 実に素っ気なく、彼は扉のうちへ入った。それ以上何を問うのも躊躇われて、加持はそのまま歩き始めた。
 少し歩いて、立ち止まる。扉は閉められていた。

***

「ごめんなさい、言わなかったわね・・・あの子のこと。一寸ね、訳があって預かってるのよ。・・・そう、あなたは大丈夫みたいね」
「どういうことだい」
「彼も第3新東京にいたんだけど、事件に巻き込まれてね。・・・なかなか人と話せなくなったのよ。・・・・彼があなたに心を開くようなら、時々話し相手になって貰えると助かるわ。カヲル君、ていうの。渚カヲル君」
 ―――――――加持が旧友の実家を訪ねたのは、その古い倉で埃を被っているという文献をあさるためだった。二日目、鍵を借りに行ったついでに昨日の出来事を話したところ、彼女はすこし複雑な面持ちでそんな話をした。
「・・・事件?」
「ええ。・・・怪我もしたんだけど、もっと深刻なことがあって。まあ無理もないけど・・・」
 そこまで言いかけて、彼女は言葉を切った。

***

 寝たり起きたりの生活が続いているのだと言う。白い浴衣がすがしさよりも病み疲れた印象を与えるのは、その所為か。
 もの憂げなまなざしと、いつも何処か醒めたような口調。
 作業を少し早めに切り上げ、夕刻までの僅かな時間を離れを訪れることに費やすようになった加持を、カヲルは忌む様子も、歓迎する様子もなく扉のうちへ入れた。
 積極的に話すことはないが、相槌以上の言葉が帰ってこない訳でもない。話すときも加持を見ようとはしないくせに、ふと気がつくと加持がどきりとするようなまなざしでこちらを見ていることがある。
 リツコの口ぶりといい、興味を引くには十分だった。

***

 ある日、離れを覗いたとき、彼は一人ではなかった。
 青銀の髪と、良く似た紅瞳。繊細な顔立ちで、背はカヲルより僅かに低いくらいか。
 濡れ縁に掛けた彼の側に膝をつき、柔らかな銀色の髪をくしけずる。されるまま頭を預けるカヲルのまなざしは、どこか陶然としていた。
 櫛を置いた手を顎に滑らせ、僅かに仰向かせる。
 ごく自然に、カヲルの唇が僅かに開く。
 端正な唇が重ね合わされ、紅瞳がその感覚を愉しむように細められる。その光景を息を飲むように凝視している自身に気付いた加持は、慎重にその場を離れた。
 ―――――――――レイという、その少女の名前を聞いたのは、翌日、カヲルの口からだった。
 前日見た光景のことを、加持は言わなかった。

***

 ある日加持がそこを訪れたとき、縁側にカヲルの姿はなかった。庭にも。どこにも。声をかけてもいらえはない。
 そんなことは初めてだったから、不審に思って足を踏み入れた。
 周囲を埋め尽くす蝉の声に紛れてか、物音一つしない。そんな中で不意にぱしゃりという音がして、加持は振り向いた。
 浅い池の中で、緋鯉が口を開けてこちらを向いていた。そして訴えるように水面を叩くのだ。
 餌をねだっているのかと思い、餌箱でもないかと周囲を見回したが、それらしいものは見あたらない。縁側へ行って左右を見たが、同じく。
 だがその時、開け放たれた障子の向こうで誰かがゆっくりと身を起こす気配に顔を上げた。
 カヲルが、奥にのべられた床から身を起こしたところだった。
「餌なら、そこの抽斗・・・下から3番目ですよ」
 寝起きだからか、常よりももの憂げに前髪をかきやりながら言う。カヲルの指し示す先には、アンティークのような茶箪笥があった。
「開けていいのかい?」
「どうぞ・・・今朝僕がやらなかったから、お腹をすかせてるんだ・・」
 言われた通りの抽斗から餌を見つけて、加持が幾粒かを水面へ投げた。
「具合が悪いのかい?」
「・・・ん・・・・もうそれほどでも」
 すこしふらつきながら表へ出てくると、池の端へ降りる。いつかのように庭石にかけて、水面を見下ろした。
「やっただけ食べるだろう?食いしん坊だよ、この子は・・・」
 そう言って笑い、片足だけ下駄をぬいで足先を冷たい水に浸した。
 熱がありそうな顔をしているのに、と加持が慌てたが、本人はそれに一切頓着していないようだった。
 緋鯉が浸されたカヲルの足先をつつきに来る。
「・・・・ふ・・・・」
 くすぐったさに耐えかね、笑声をもらす。乱れた襟元から覗く汗ばんだ皮膚が、加持の思考をひどく鈍いものにしていた。
 ひどく無防備な姿態。乱れる裾を気に止めない所作は、いっそ誘われているのかと思う程。無邪気とも見える遊びに興じる彼に、先日垣間見た、何の躊躇もなく身を預けてゆく清艶な横顔が重なる。
「それぐらいにしておいたらどうだい。涼しいかも知れないが、そんな熱っぽい顔でする遊びじゃないぞ」
 不粋な事を言う、とでも言いたげに一瞥する彼を、加持は軽く抱き上げた。
「・・・・・・・!」
 突然のことに、バランスを崩されてカヲルが加持にしがみつく。そのとき、微かな声が上がったかもしれない。
「・・・・頓狂なことをする・・・」
 縁側に降ろされたとき、そう呟いたカヲルの顔は笑っていなかった。
 一旦は身を離した加持の顔もまた。
 だが、カヲルは加持を見ていなかった。あらぬ方を眺めやってどこか悲しげですらあった。
 そうして、あくまでも静かだった。加持が唇を重ねてきても、舌先をやや強引にさし入れてきても。
 濡れ縁に横たえられ、加持の腕の中で、彼は微かに身を捩ったかもしれない。しかしそれを感じ取る程の冷静さは、今の加持になかった。

***

『・・・・君を誰にも渡したくないんだ。それだけなんだ』
 心の均衡バランスを欠いた双眼を穏やかに見つめ返しながら、彼は自分の喉にかかっている手・・・・親友と信じた者の手・・・にそっと手を重ねた。
 ――――――僕がこのまま死んだら、僕は君のものになるの? それで君は満足なの?

***

 濡れ縁から垂らされた下肢が、ビクリと跳ねる。
「・・・・・・はっ・・・・・・あァ・・・・あぅ」
 足先にかろうじてひっかかっていた下駄が、その動きで落ちた。
 沓脱石にあたって乾いた音をたててはね、池のすぐ側まで転がって止まる。
「・・・あァ・・・ァ・・・ぅぅんっ」
 下肢をひきつらせ、背を弓なりに反らせて、苦悶する姿がおそろしく扇情的だ。あまりにも苦しげな声に、加持がふと身を起こす。
 襟元も裾も割られ、解けきっていない帯が辛うじて白い浴衣を腰回りに絡みつかせている。刺激が途絶えたことに気付いてか、潤んだ紅瞳が見上げた。
 蝉の声が煩いほどにあたりを囲み、ほかには何も聞こえない。
 廂が影を投げかけているとはいえ、一歩外は苛烈な昼下がりの陽。白砂の照り返しが濡れ縁に身を横たえている彼の表情に微妙な陰影をつける。
 殆どあらわになった肩が、呼吸の度に激しく上下する。
 見上げる紅瞳の、どこか冷えた光に気を取られなかった訳ではない。しかし加持は、委細構わず着ていると言うよりまとわりつかせている浴衣ごと、白い身体を抱き上げた。

***

 あるいは笑ったときの優しい眼が似ている、と思った所為かも知れない。
 仲の良いクラスメイト。そう思っていたし、そう思っていてくれると信じていた。・・・・それが思い込みに過ぎないと思い知らされるまでは。
 勝手な思い込みを裏切られたからといって怒るのは、愚かなことだろうか?

***

「・・・・・・・・」
 激しく揺すぶられながら、掠れた声が一つの名前を紡ぐ。
 だがそれは加持の耳に届こう筈もない。
 律動が途絶え、脈絡もなく陥った空隙に、カヲルは静かに吐息した。
 俯せていた身体を返され、下肢を捉えられても、その表情は動かない。
 せわしない息遣いは、彼の耳には入らぬ。それが途切れたときの湿った音さえも。
 ただ、与えられる感覚を静かに受けとめていた。
 ――――――――見せかけの希望。
 ――――――――自分勝手な思い込み。
 ――――――――あるいは祈り。
 いつか破られるモノ。気付かなかったわけはない・・・・。
『・・・莫迦だ、僕は』
 何度繰り返せば気が済むのだろう・・・・・。
 熱に揺られ、後悔に身を食ませながら、カヲルは微かに背を撓らせた。
 夕刻の微風がカヲルの汗ばんだ額を撫でる。その感覚に僅かに瞼を上げた。
 暗がりゆく中で、それだけに救いを求めるように。

***

「・・・・もう、来ないで」
 ふらりと起き上がり、褥となった浴衣を引き寄せながらの言葉は坦々として、僅かな感情も含んではいなかった。悲しみも、怒りも。
 加持が言葉を呑むのが分かる。だが、カヲルは敢て先の科白に説明をつけようとはしなかった。・・・・自分でも残酷だとは思いながら。
 畳の痕の残る上膊を袖に通しながら、カヲルは言った。その紅瞳は、加持を見ていない。
「――――――――さよなら」

***

 湯をつかい、汚れた浴衣を替えてカヲルが戻ってきたとき、夕闇に沈む濡れ縁にはレイが腰かけていた。
 カヲルの気配に、振り向いて微笑む。
「何、泣いてるの」
 悪戯っぽい、微笑。
「もう、泣いてないよ・・・」
 そう言いながら、隣に腰かける。転がっていった下駄と、その対はちゃんと沓脱石の上に揃えられていた。
「これ、おみやげ」
 レイがちょこんと正座して、かたわらの菓子箱を開ける。淡い光がその中から飛び立った。
「河原でとってきたの。今年はもう終わりだね。だいぶ少なくなってた」
「・・・・・綺麗だね・・・」
 カヲルの顔に、ようやく笑みが浮かぶ。
「・・・・そう。笑って、カヲル」
 まだ少し湿っているカヲルの髪を、白い手が梳いた。
「もう・・・やめた方がいいよ・・・あの時こと考えるの・・・」
「・・・ありがと、レイ」
「カヲルが悪いんじゃない。・・・・事故みたいなものなんだから」
「でも、シンジ君は退学になったよ。僕は彼を傷つけたよ・・・・」
「・・・・莫迦・・・・!」
 俯いたままの言葉を遮るような、レイの声が揺れる。言葉に窮し、そっと包み込むとただ頬を寄せた。
「・・・・似てたんだ」
 レイの華奢な肩を抱きかえして、カヲルが呟くように言った。
「優しい眼が同じだったんだ。・・・・・あんな事になるなんて夢にも思わなかった頃の彼に・・・でも違ったんだ。必要とされたのは僕じゃない・・・・・この僕じゃない・・・・」
 不意にカヲルの腕に力がこもる。
「僕を見ていないんだ。・・・誰も・・・誰も!」
 初めて、カヲルが声を荒げた。
 蛍は飛び去り、残るのは星明かり。影を重ねたまま、暫く動かなかった。
[su_spacer size=”80″]
 ややあって、低い嗚咽が虫の音に紛れて低く流れた。
「・・・・なんて、いわないでよ・・・・」
 カヲルの頬に、レイの紅瞳から零れ落ちた雫が触れる。
「・・・・誰もカヲルを見てないなんて・・・そんな悲しいこと、いわないでよ・・・・・」
 か細い声に、カヲルが一瞬だけ呼吸を停めた。

「・・・・ごめん、レイ・・・」

――――――――Fin――――――――


Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS 
「Absolute Faith」

木下闇このしたやみ」に関するAPOLOGY…

がんばれレイちゃん!カヲル君を救えるのは君だけだ!

 ・・・・とか何とか言いながら、書いてるものはかねてよりの宿題「畳でカジカヲ」SSでございます・・・って、わーっ石投げないで(泣)
 「キサマ本当に加持に恨みはないのか!?」と詰問されそうなお話になってしまいました。今回は男のワガママ暴発させてしまった格好ですが、彼に関してはきっちり拒まないカヲル君の方にも責があるでしょう。スイッチ入ったらもうとまんない(爆)某S君と違って、彼は分別ある大人ですからね。
 ・・・とりあえず、気の毒な加持さんに、合掌。
 おまけに加持さん、途中でぶっつり話から放逐されてます。実は加持さんがあの後カヲル君が巻き込まれた「事件」についてリツコさんから聞くシーンもあったはずなのですが、書いたって悲惨なだけだという事実(<誰が、とはこの際言いますまい)に気がついて割愛しました。・・・・しかし、おかげでリツコさんの出番もなくなってしまったなぁ・・・
 シンジ君が辿った運命については、この際言及いたしません。名前だけの上にろくな役振ってませんね。相変わらず気の毒な御仁です。(<誰の所為だ誰の)
 今回は珍しいことに、カヲル君にしてはあんまりお高くないですね。自分の姿かたちではなく、自分自身を認めてくれる存在に巡り会えない嘆きのようなものを感じて頂ければと思います。
 サブタイトル「Absolute Faith」・・・まんま訳していただいて語弊はないかと。・・・はい、おわかりですね。所詮万夏はRKSな奴です(爆)加持さん、すまん・・・
 それでは皆様、次回まで万夏が正気でいたら・・・・・いや、何も申しますまい・・・・・・(^^;
1998,9,8

暁乃家万夏 拝