シェノレス神官府天文寮は、いくつかの天文観測所を有する。
 そのうちでも最大のものが、今…ユリス=オリヴィエが立っているエルセーニュ、神官府天文寮にある星辰台であった。
 大神殿に次ぐ高さを有する石造りの塔の内部には、東西南北を正確に指した狭間を持つ部屋があり、そこから得られる陽の影は、季節の移ろいと暦を正確に紐付けるための貴重な手がかりだ。神官府天文寮の存在意義は、そうやって日月星辰の動きを正確に記録し、より正確な暦をつくり続けることと言っていい。

 払暁――――

 ユリスが立つ観測所…塔の頂上、周囲に巡らされた漆喰の壁には、日月星辰の上がる位置と日付がびっしりと書き込まれている。より正確を期するために此処での観測結果は塔の内部での観測と照らし合わされる。ユリスは今朝、屋上観測所の担当であった。日の出の位置と時間が予測の範囲であることを確認し、記録する。

 日月星辰は今日も狂いなく巡る。しかし常に予測できない現象は起こる。それを見つけ、報告し、検証するのもまた、天文寮の職務であった。

 瞬間、陽が翳った気がして空を見上げた。思いも寄らぬほど低空を、一羽の猛禽が過ったのだ。
 低空とはいうが、それは相対的なものだ。高い丘にある神官府の、更に塔の上であるここは海抜で言えばそれなりの高さだった。海風を受けて飛翔する彼らにしてみれば、星辰台など路傍の石塊に等しいだろう。

 清爽な朝日を跳ね返す、大地と同じ色彩の美しい翼を、ユリスは見上げた。

 ――――――鳶だ。

火輪かりん

※火輪…太陽の異称

「――ミラン? 名前は?」
「だからミラン。名前って…他にないよ」
 本殿書司トリスタンの下で机を並べていたその少年は、一体何を訊くんだ、というような…露骨に胡乱な目でユリスを見た。
 陽焼けした顔のなかにある鳶色の双眸、肥沃な大地と同じ色のブルネット。神官とその子弟ばかりの神官府においては少々異質な感じはした。陽と土と潮の匂い…野性味とでもいうのだろうか。その名の通り海辺の岩場で狙い澄まして獲物を襲撃する鋭さと、高空を悠暢のんびりと旋回するおおらかさが同居する、奇妙な奴というのが初対面の印象だった。
 ミランという少年は正確には神官見習などではなく、統領ゼフィールの近侍、伝令として仕えるために必要な知識を身につける目的で本殿に遣わされたといっていた。当時のユリスよりやや小柄ではあったが、他にも武器の扱いや体術の修練を課せられているとも。

 細作組織としての性格上、ネレイアに身を置く者が名を変えることはよくある。俗世で死を装い新たに名をつけたり、本殿書司ふみのつかさ・トリスタンのようにネレイアの職務に従事するときだけ別の名を名乗る場合。…無論、死を装いながら全く頓着せずに元の名を使っている場合もあった。
 シエル、というご大層な名前は、決してユリスが望んでつけたわけではない。
 本殿書司のところへ遣わされる直前、何も判らないままに「あそこではシエルと名乗れ」といわれてそのようにしているだけだ。ユリス=オリヴィエのネレイアとしての名、それが〝シエル〟であった。天文寮にあって、ネレイアからの要請で観測を行い、結果を解析し、ネレイアに提供する役割を担う者が継承する名前だと理解したのはその名を得てから暫く経ってからのことだった。
 斯くも、ネレイアに属する事情はいろいろだ。だが、俗世での名を持たない、というのは初めて聞いた。

 昔、書司ふみのつかさトリスタンに拾われたという。だが今も一緒に暮らしているというわけでもなく、いつもはエルセーニュ南方のオートヴィル島にいるらしい。人が住めたのか、というような何もない島だが、ネレイアの拠点のひとつがあると最近知った。だが、読み書きは達者だったし神官見習いにひけを取らない知識を有していた。あんな辺鄙なところで誰に習ったんだ、と訊いたら、「必要だから憶えた」という鰾膠にべもない返答が返ってきた。
 退屈な授業も厳しい修練も、常に恬淡としてこなす。神官見習としての勉強と職務―有り体に言えば雑用―だけで手一杯だったユリスにしてみれば、年齢不相応な超然っぷりが羨ましくさえあリ…その余裕が何処からくるのか興味も持った。
 しかし先方は、ユリスに対しても恬淡としていた。何か訊けば答えるが、そうでなければ会話そのものがあまりない。嫌われている訳ではなさそうだが、かといって好かれてもいない。注意を払う対象として認められていないというのが一番妥当な気がした。

 ――――だから、いつまでも謎のままであった。

***

 そんなある朝、ミランが寮の宿房に忽然と現れて言った。
「シュエットの指示だ。リジューに行くからついてこい」
 リジューというのはネレイアの拠点がある島のひとつだ。唐突なことで驚きはしたが、シュエット…トリスタンの指示といわれれば否やはない。ユリスは言われるままに舟に乗った。
 自分より小柄なくせに、操船は達者だった。それほど大きいというわけではないが、帆柱と船外浮材アウトリガーのついた外洋航行にも耐える舟だ。3人も乗れば満杯というところだろうが、沿岸を移動する艀船はしけぶねとは訳が違う。見れば、毛布などの生活用具を収納しているらしいはこも造り付けられていた。
「慣れてるな」
 まるで、呼吸いきをするように…帆を、櫓を操る。素直に称賛をしたつもりだったが、やっぱり先方はあっさりしていた。
「家みたいなもんだからな。まあ、あたりまえだ」
 ふうん、そうなのか。そう言いかけて、とんでもないことを聞いたのに気づいて思わず訊き返した。
「…は?家?」
「移動中ならここで寝起きするし。そういうの普通、家っていうだろ」
「お前の舟なのか、これ」
「俺がつくったんでも買ったわけでもないけど、好きに使えといわれているから、まあそんなもんだ。真面目な話、舟は仕事で要る」
 二の句が継げなくて、ユリスは数度、意味もなく口を開閉してしまった。自分の生きてきた世界とはあまりにもかけ離れていて、何と言っていいかわからなくなってしまったのだ。
 だが、本当の衝撃はリジューに着いてから襲ってきた。
 リジューは将来的に大きな拠点となることは決まっていても、その時点では茅屋がひとつあるきりだったのだが…そこにいたのは、統領ゼフィールジュストと次代であった。今回は、ユリスを正式に〝シエル〟としてネレイアへ迎え入れ、その実務に携わらせるに当たっての引見だったのである。

 次代…緋の風神アレンの後身、神童と謳われた大神官リュドヴィックの次男アンリー。先年大神官自らの手で〝奉献〟されたと聞いていた。俗な言い方をすれば海神の生贄となった筈だが、実はこの離島に隠れ住み、ネレイアの次代統領として育てられていたのだ。当時この拠点リジューは、言わば彼を匿う為だけに存在していた。
 奉献される前のアンリーを、ユリスは識っている。親しく話をする訳ではなかったが、燃えるような緋の髪と対照的に、年齢不相応なほど物静かな少年だった。
 あれから数年…時間は、万人に平等ではなかった。背丈と手足が伸びたというだけで、相も変わらず言われるままに天文寮で課題と雑用をこなす日々だったユリスは、目前に突如顕現した緋の風神に頭を殴られたような衝撃を受けたのだ。
 緋の髪に縁取られた秀麗な貌、紅榴石ガーネットの双眸。身長も伸び、やや痩身とはいえ修練によって鍛え上げられた体躯は精悍そのもの。いずれ統領としてネレイアを束ね、シェノレスをツァーリの軛から解き放つ指導者…理屈でなくそれを納得させる何かがそこにあった。

 ――――火輪だ。

「お前、あの方にお仕えするのか」
 興奮も醒めやらぬまま、帰りの舟の中でそう訊ねても、ミランはやはり恬淡としていた。
「…今はまだジュストが統領だから…直の上司っていうとジュストか。でもまあ、ゆくゆくは、と聞いてる。お前もネレイアになるならそうだろう」
 まるで明日も陽は東から上がる、とでも言いたげな…ごく当たり前というふうだ。
 そうか。ユリスは思った。あの火輪を常に目の当たりにしていれば、自分ユリスなど路傍の石にしか見えまい。
 ミランの、いつもの超然とした態度がすべて腑に落ちた。同時に、言い知れない何かが胃の腑で…いや、もっと深いところでたぎるのを感じた。
「そういう意味じゃない…!」
 だが、どう説明していいのかがわからない。言葉を探す間にもミランが向けてくる、当惑の眼差しが痛かった。
 ミランが嘆息する。
「…あのな。あんまり楽な仕事じゃないぞ。今のところ、ここいらの島で使い走りしてるだけだから、そうそう荒事なんかないさ。けど…実戦じゃなく体術修練でさえ、刃を潰してあるとはいっても本物のはがねで打たれればこうなるんだ」
 そう言って無造作に上衣を脱いだ。赤銅色の引き締まった身体が薄暮の海風に晒される。その脇腹には内出血を伴う打痕、その中央は擦れて表皮が剥がれたのか、紅くなっていた。
 そういえば引見が終わった後、統領が久し振りに稽古をつけてやる、とミランを連れ出していた。
「…痛まないのか」
 恐るおそる手を伸べる。僅かにミランが退いたのは判っていたのだが、構わずに触れた。…触れたかった。
「たいしたことはないけど…押さえたら痛い」
 その言葉に含まれる、牽制するような響きを黙殺して…指先でそっと傷を撫でた。
 こんな傷を受けても、あの火輪の傍に居たいのか――?
 衝動に揺さぶられて、声が掠れそうだったが…なおも問うた。
「よくあるのか、こんなこと」
「このくらいは珍しくないな。まあ俺が避け損ねるのが間抜けなんだし。統領のところによく効く薬もあるから、殆ど残らない…」
 ユリスの鼓動は胸を突き破らんばかりだというのに、ミランはやはり平然として…いや些か困惑気味か。ユリスの指先から遁れるように僅かに腰を浮かせるから、思わず腕を掴んで引き寄せた。
 これはミランにとっては全く想定外だったらしい。驚くほど簡単に均衡バランスを崩して倒れる。その時に何処か打ったのか…小さく呻いたあと、動かなくなった。

 一瞬、心臓が凍り付いた。

 だが、息と鼓動があるのを確かめてほっと胸を撫で下ろす。暫くそのまま倒れたミランの傍に蹲っていた。しかし身勝手なもので、無事だと判ると凍り付いたと思った心臓はいやが上にも激しく動悸し、奔騰する血流でこめかみが破れそうだった。
 衝動に引き摺られるようにしてミランに覆い被さり、その傷にそっと舌を這わせる。
 青痣を押さえてしまわないように細心の注意を払いながら、何度も何度も丁寧になぞる。修練の後で手当てもするのだろう、傷薬の清涼感のある芳香がふわりと鼻腔を擽る。舌先が伝える血とも汗とも潮ともつかない味に昂ぶり、少しずつ傷以外の場所にも指先と舌を進めた。胸の紅点を舐め、吸い立て、下衣を解いてその中へ手を差し入れる。中心を掌で包み込んで煽り…ゆっくりとそこがきざしてくるのを感じて、ユリスは狂喜した。下衣を取り去り、兆したものを深く口に含む。
 ミランが幽かに身を捩って呻く。少しずつだが息もあがっていた。赤銅色の膚は色味でその熱をうかがうことは出来ないが、確かに汗ばんでいた。
 何でもいい、自分がしたことに対して素直な反応を返してくれたのが、ユリスには嬉しかった。

 ユリスは気づいた。自分は、こいつを振り向かせたかったのだ。

 平生のミランは神官に対する最低限の礼儀を守っているにすぎない。ネレイアとして仕事上必要だからそうしているのであって、ユリスを見ている訳ではない。自分より小さくて、神官でも、神官見習いでさえないくせに。何だか軽んじられているようで、それが口惜しかった。だが、今日次代統領にひきあわされて…絶望とともに納得してしまったのだ。

 あの火輪の前では、ユリスの存在など取るに足らないものだったのだと。

 それでも今、ミランは確かにユリスの行為に反応している。
 仄暗い喜悦に衝き動かされ、ユリスは身を起こすと自身の昂ぶりを掴み出して煽り立てた。それでも達しきれずにミランの脚の間に己のものを差し入れて、意味を成さない咆哮をあげながら狂ったように腰を動かす。苦しさ、切なさと背中合わせの凄まじい快楽に身を浸しながら、ユリスは自分がいつしか啜り泣いているのに気が付いた。
 それが…やはりいつの間にか宥めるように頭と背中を撫でてくれていた手の感触の所為だと気づいた時、背筋を奔った電流とともにユリスの視界は漂白され、それでなくても朦朧としていた意識は…遂に吹き飛んだ。

***

 波の音がする。波が、静かに舟をゆする音。
 陽は落ちていた。清かな月光が舟を照らす。頭をもたげると、舟の上にはユリスの他…だれも居なかった。簡素な麻の服は無造作に脱ぎ捨てられたままだ。
 跳ね起きて、改めて周囲を見回す。月はまだ中天にある。それほど長い時間が経ったわけではない筈だ。
「…ミラン…!」
 あり得ないとは思いながら、取り残されたような不安感に思わず声が上擦る。だが、不意に、舟が揺れて舷側に赤銅色の腕が覗いた。
「ああ、起きたのか。大丈夫、一応湾内だからな。殆ど流されてなかった。今、投錨もしたから、もう一眠りできる」
 ミランは両腕を舷側にかけて大きく深い息をした後、軽い動作で船縁によじ登った。そうして降り立つと、何事もなかったように上衣を羽織る。

「…ミラン。…その…すまない」
 衝動のままにとんでもないことを仕出かしたのは憶えている。鉛を鋳込んだような腰の重さが…あれを夢で終わらせられないことも告げていた。
 だから、とても顔が上げられないままではあったが、素直に謝った。
「…ああ、痛かったぞ」
 一瞬の空隙の後、ミランがやや不機嫌に言い捨てるのを聞いて…ユリスは心臓が冷汗をかくような感覚を味わう。だが、ユリスがようやく顔を上げた時、ともに腰掛けたミランは…後頭部を撫でながら遠く水平線を眺めてこうぼやいたのだ。
「瘤になってた。非道いな、いきなり引っ張るなんて。もう湾内にはいってたからよかったようなもんだが、外洋だったら何処に流されてたか判らないぞ。おまけに俺が起きないからって、さっさと諦めて自分も寝ちまうとか…あり得んだろ。
 遭難したいのか、お前?」
 思わずもう一度俯き、ユリスは呼吸を呑んだ。
 なかったことにするつもりなのだ。ユリスが引っ張ったことで倒れて頭を打った。ただそれだけ。気を失っていたのは短い間だったから、舟が流されることもなかった…と。
 ユリスは自分の吐く息が震えているのを感じた。

 ――いっそ、罵倒されていたほうがましだったかもしれない。

***

 それから数年…開戦の少し前、ユリスは正式に天文寮神官として任官し、〝シエル〟としても統領の求めに応じた観測結果を届けるための情報収集を行えるようになっていた。
 そして今や、かの緋の風神がネレイアの統領である。
 ユリスはその日天文寮に出す報告をまとめて提出してしまうと、自分の宿房に戻った。
 ――――天翔る猛禽にとって…燦然たる火輪たいようの前では、自分ユリスなど路傍の石にすぎないのだ。それがただ、哀しい。
 それでもミランは、ユリスを訪れる。何事もなかったように。それが統領の命令だからだ。既に本殿書司トリスタンの下での課程は修了していた。だから、そうでもなければ、ミランに逢う機会すらなかった。
 ミランは夜陰に紛れて神官府に出入りする。神官としての籍がないのだから当然と言えば当然だが…ユリスに対してはあれからも本当に何事もなかったかのように振る舞った。だから、伝令としての命を果たした後、平然と仮眠の場所としてユリスの房を借りに来さえしたのだった。
 果たしてその夜も…造り付けの牀に、その姿はあった。
 ユリスは定時観測の当番に当たっていれば夜の間も房を空けることがある。その間、牀を貸すぐらいのことは何でもないし、伝令に便宜をはかるのも〝シエル〟の役目だから否やはない。
「…済まん、借りてるぞ。窓に月がかかったら起こしてくれ」
 帰ってきたユリスを片目だけ開けて物憂げに眺め、そう言って緩々と再び目を閉じる。月がこの窓にかかるまでというと、もう1時辰1 ほどもあろう。
「ああ、判った」
 戦場がイェルタ湾周辺に移ってから、伝令も移動距離が長いから大変だとぼやく一方で…カザルでの話をするときのミランは活き活きとしていた。
 伝令としての役責を果たすためには、文字通り戦場の只中を突破しなければならないこともある。あの頃とは違って本当に命懸けだ。実際、手傷を負って転がり込んでくることもある。それでも海神の御子レオンの傍らで、神官府の意向と戦場の現状を折り合わせる重責を担う審神官としての緋の風神アンリーの様子を、嬉々として語るのだ。
 無論、最初に命令の伝達がある。だが、必要事項を伝えてしまうと、日常の些細な出来事についても話が及ぶことがあった。カザル砦の奪取に成功してからは、軍はそこを橋頭堡として固めるほうに重点を置いている。小競り合いはあっても大きな戦闘になる事は少ない時期でもあったから、防塁を築いての開墾が行われたりもしていた。
 海育ちのミランにはそういったものが新鮮なのだろう。命令を伝えるなり倒れるように眠ってしまうこともあったが、そうでないときにカザルでの日々を楽しげに語る様子は、苛烈な妬心の炎となってユリスの胸腔を灼いた。
 そんな時…ユリスは予告なくミランのおとがいに手を伸ばして捉え、口づける。…深く。
 ミランは最初のうちこそ驚いたふうはあったが、面倒事にしない為に敢えて総てを受け容れているという風情であった。好きにすればいい。そんないらえが容易に想像出来た。
 牀に引き摺り込み、衣をほどいてその陽焼けした膚を舌先で賞玩する。解いたころもの隙間に手を差し入れ…深い部分に指を這わせても、伝わってくるのは冷えた諦めだけだ。
 だが、その耳許に唇を寄せ、統領ゼフィールの様子を訊ねるとき…灼けた肌は僅かに熱を増し、息づかいは面憎い程の冷静さを失って乱れる。ユリスはそれを聴き取ることで余計に昂ったが…同時に理不尽な苛立ちもまた覚えるのだ。
 ――――ミランは、ユリスが何を仕掛けようと抗いはしない。
 ミランの神官府内における立場…その衣服の示すところはいわゆる雑色ぞうしきだ。その職務は基本的に神官府の雑役であり、地位としては確かに神官、巫女よりも下であった。だが、ミランは自身の立場を誤解しているのではないかと思うことがある。奴婢とは違うのだ。雑色といえど嫌ならこんな横逆を黙って許さねばならぬ謂れはない。
 それなのに、なぜ拒まない?
 況して、ミランは雑色ではない。動き易い着衣であり、神官府内にいても目立ちにくいという利便性から、雑色の風体をしているだけだ。統領の伝令ということは機密に関わる立場であり、だからこそ神官見習であったユリスと机を並べて教育も受けている。シュエットが最初から次代統領ゼフィールの側近とするために、敢えて俗世の身分に縛ることなく手許に置いて育てていた、というのが最も妥当であった。
 そう思い始めてから、何かが腑に落ちた。
 なにものにもとらわれることのない、火輪のためだけの翼。それがミランなのではないか。
 おそらく、あの火輪以外はミランにとってすべて無意味なのだ。一緒にリジューへ赴いたあの頃から、修練で身体に傷を受けることも厭わなかったミランだ。統領の為に必要な手駒を飼い馴らすためなら、身体を与えることくらい何程でもないと――――

 振り向かせたかった。自分のものにしたかった。しかしそれを自覚した途端に、一番残酷な方法で拒まれたと知ってからは…もう何も望まないと決めた。

 ただ、此処に居る間は俺のものだ。

 ユリスは牀の端に腰掛けると、ミランの陽に灼けた黒髪ブルネットをかき遣って頤に指を滑らせ、深く口づけた。ミランが小さく呻いたのは判っていたが、構わず服をほどきにかかる。首筋から胸、更に下へ、指先と唇を滑らせて思うさま賞玩する。
「…寝かせろよ…」
「寝てていいぞ」
「…無茶言いやがる。…勝手にしろ…っ…」
 その声が幽かに上擦るのを心地好く聴きながら、ユリスは赤銅色の膚を淡い月光に晒していく。あの火輪がいつくししんだ痕がありはしないか。そんな妄想に身体の芯を灼かれながら検分するのは、ユリスにたとえようもない愉悦をもたらした。
 一度、ミランも虫の居所が悪かったものか…強く拒まれた。
 逆上して抑え付け、『見せられない痕でもついているのか』と口走って凶行に及んでしまったが、この時ばかりは本気で横っ面を張られた。
『この莫迦、痕ならお前がつけたのがまだ消えてないに決まってるだろう』
 叩かれた痛みよりも、初めて確実にミランが自分ユリスを見た…そのことが嬉しかった。だから思わず泣きながら縋りついて、ひたすらに謝った。
 結局そのあと、ミランはいつものように鷹揚に赦してくれたが…明け方になってぽつりと言った。

『…莫迦か、お前。統領ゼフィールが、俺なんかに手も触れる訳ないだろう…?』

 その時のミランの表情を、ユリスは見ることが出来なかった。見透かされたことに思わず身体が震え、初めてミランが自分を見てくれたという幸福感も消え失せた。
 ミランの言葉が、偽か、真か。そんなことはどうでもよかった。
 火輪のためだけの鳶。そのことを、どうしようもなくはっきりと刻みつけられた瞬間だった。

 しかし。
 淡い月光に晒された膚に口づけながら、ユリスは目を閉じる。

 ――――鳶が火輪しか見ていないとしても、此処に居る間は俺のものだ。

――――――――Fin――――――――

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