沈む、沈んでしまう…!
 それは恐怖。伸べた手でつかまるモノを探す。
 グラン・ブルー。それは憧憬と畏怖の対象。美しくて、怖ろしくて。
 生きていればこそ、その美しさも、命の輝きも享受できよう…だが命を失えば、ただ沈むだけ。あの光に溢れた景色の中へは二度と戻れない。深い闇の中へ引き込まれる。
 そしてただ、命の苗床に還るだけ。
 熱に浮かされながら、ただ闇雲に手を伸ばした。
「おまえイサナだろ。大丈夫、沈みやしない」
 伸べた手を掴んだ、自分といくらも変わらない大きさの手。だが、命ある世界への細い道標。
「だから泳げ。泳ぎ続けろ。泳いでる間は、沈まないもんだ」


Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS 
「breezeⅡ」

永遠のもう少し


 夜明けの薄闇。それは、有光層ぎりぎりの深度にある海底の景色にも似る。
 鯨吉ときよしイサナは緩慢に身を起こすと、乱れた敷布シーツの海で半ば溺れかかっている少し色の淡い髪に手を触れた。
 呼吸は落ち着いていた。敷布シーツを退けると、未だに軽く汗ばんだままの上半身が露わになる。そこに散らされた小さな傷に、改めて胸を抉られた。
 まだ意識が戻らないのか、マサキは微動だにしない。
 自身で噛みしめて作ったと思しい唇の傷から、かすかな緋色が零れていた。軋轢の痕を指先でなぞりながら、悔恨に胸を食まれる。
 こんなつもりじゃなかった。
 傷を償うように唇でなぞると、マサキが微かに身体を震わせる。起こしてしまうことと…また衝動に流されるのが怖くて、イサナは身体を離した。
 あそこまで烈しく抵抗されるとは思っていなかった。
 駄目な訳じゃないだろう。そんな甘えがあった。先程までここにあった香りに揺り起こされたのは、妬心だけではなかった。
 隙を見せたのはあんただろう。静かに毒づいてから、ふと自分の腕についた傷を見る。爪が当たったのか、存外鋭利な掻傷がついていた。
 海だな。
 温かく、冷たく、広くて、捉えどころがない。退けばただそこに在るだけで、近づけば穏やかに迎え入れる。怖れれば親しみを見せ、侮れば手痛い報復がある。何処までも透明に見えて、深い闇を抱えている。…識りたいと渇望し、イサナがずっと追い続ける海そのもの。
 初めて「欲しい」のだと認識したのと、既に他者のものであることに気付いたのが殆ど同時だったのが自分でも可笑しい。
 仕方ないと思いながら、思い切れずにただ時を過ごした。住所を移したのも、現実的な理由の他に…マサキの反応リアクションを見たという側面があった。
 いつも何かと戦っているような緊張感を持っているくせに、その時もひどく鷹揚だった。二つ返事、という言葉の用例のような気安さで諾したマサキに、一瞬こちらが反応に困ったほどだ。
 少なくとも、想いに気付かれてさえいないということが判っただけだった。
 マサキが抱えている深い闇。マサキの、いつも何かと戦っているような緊張感はそこから来るのだということはわかる。
 おそらく一人で抱えるには大きすぎる闇。ささえる存在があるから保っている。しかし、支えているのは自分ではない。…それでもいいと思っていた。
 思っていた、筈だった。
 次回調査フィールドワークの打ち合わせから帰った時。おそらくは先刻帰ったばかりの客の存在に気付いた。キッチンに置かれた、未開封の酒。その銘柄を見れば、家主マサキが買ってきたものではないことがすぐにわかる。家主は酒の種類に関して、エチルアルコールだったら何でもいいとでも言いかねない程に無頓着だ。賭けてもいいが、アプルトン エステートの12年物なぞ絶対に手に取らない。
 ドアが半開きの寝室は暗かった。少し開けるとリビングの灯りがベッドまで届き、起き上がろうとして力尽きたていのマサキが身動みじろぎしたのが判った。
「あぁ、イサナ…お前、夕食は?」
「済ませた。この時間だからな。…客は、タカミか?」
「…よくわかったな」
「そこのボトル。あんな気の利いたもの、持ってくるのはタカミくらいだ。サキはまず買わんだろうし、他にそんな気が回りそうな奴はいない」
 長いこと会っていないが、人好きのする微笑が印象に強い。彼自身は下戸だから実直に値段で判断しているに違いないが、いつも相手に気を遣わせ過ぎない程度の品物をきちんと選んでくる。
「…微妙に腹が立つ推論だが、当たりだ。会えなくて残念だが、また来るとさ。今度から一報入れてから来いと言っておいた」
 些か眠そうに上半身を起こす。アプルトンには手をつけなかったらしいが、一杯呑んだ後のようだった。
 やや喉を涸らしているのに気付いて、キッチンへとって返す。デカンタに入ったミネラルウォーターが冷えていたから、グラスと一緒にベッドサイドテープルに置いた。
「…あぁ、すまない」
 水をグラスに半分ほど飲んでから、マサキは再びベッドに身を沈めた。おそらく自分でも少し量を過ごしたのが判っているのだろう。ひどく素直で、無警戒。信用されているといえば聞こえはいいが、要はそういう対象として見られていないのだ。
 少し色の淡い髪がまだわずかに湿気を帯びている。マサキ自身はシャワーを使った後のようだが、褥に残った微かな香りが先程までここに居た者の存在を教える。…他人よりも多少鋭敏な自身の嗅覚が、こんな時はいっそ呪わしい。
 箍が外れてしまった理由を、その残り香ラスト・ノートに押しつけるのは傲慢というものだろう。欲しくても、手に入らないものがある。それは仕方ないのだと、イサナは長い間自身に言い聞かせて来た…つもりだったのだから。
 それでも。
 問い詰めても、水面の月を掴むように捉えきれない。むしろ、乱れた水面が月の光を散乱させるように…余計に捉えられなくなる。
 淡々と語られた昔話が、決してマサキが抱えている闇のすべてだと思ったわけではない。ただマサキが、タカミとの関係に死を口にするほどの罪の意識を持っていたことに…愕然とした。
 ―――それほどに罪深いことか。死を乞わなければならない程?
 ―――好きな相手を抱きたいと思うことは、そんなに悪いことなのか!?
 そんなに辛いのに、何故。
 後は、イサナも憶えていない。ただ…抵抗がんだのが、マサキが気を失った所為だと気付いてようやく、自分が何をしたのかを自覚した――――――。
 夜明けの薄蒼さの中に沈む、まだ少し汗ばんだ身体を上掛けで覆って、イサナは吐息する。
 これは、追い出されるな。そう思った。…そうされても仕方ないだけのことをした。
 翌日、マサキが勤務ではなかったことが、良かったような悪かったような。家に居ても、マサキはただひたすらにイサナを沈黙で拒絶し続けた。視線すらあわせず、無論出て行けとも居ていいとも言わない。
 そしてその翌日から何事もなかったように出勤したが、イサナに対する態度は沈黙を徹底していた。
 …いつもならあっという間に感じるオフの残り数日を、イサナはひどく長く感じた。

***

 イサナの父親は海洋調査船のクルーで、探査中の事故で亡くなったと聞かされている。
 仕事が仕事だからあまり家にいたためしがなく、その印象は薄い。だが、父親の書斎に山と積まれた書籍には小さい頃から興味を惹かれていた。
 あまり身体が丈夫とは言い難かったが、海で遊ぶのは好きだった。おそらく母親のほうも海を愛していたのだろう。わりあい頻々と、静かな海岸で遊ばせて貰った記憶がある。
 水泳は医者から止められおり、小学校の体育は見学ばかりしていた。先天性の心疾患だったようだ。それほど珍しい訳でも、重篤なものでもなく、ある程度身体が大きくなれば手術も可能と聞かされていた。
 …だが、その前にあの事故に遭った。
 胸腹部…内臓の損傷を含む外傷。身体の中に残った金属片を取り除くために数度の手術を受け、傷もさることながらその後の感染症に苦しめられた。
 イサナが受けた最後の手術は、心臓の先天的障害に対するものだった。
 被害者救済という側面があることを承知してはいたが、奇異に思ったのは確かだった。しかし、これからはいくらでも走ったり泳いだりできると言われて、状況を享受する気になった。
 傷の痛みと熱に浮かされながら…半ば諦めかけてもいたのだ。水辺で遊んでいても、いつももっと先へ行きたかった、あの世界グラン・ブルーへ。
 そのためにはまず、人並みの体力をつけることから始めなければならなかったが。
 集められた子供のうち、イサナより年長なのは高階マサキとミサヲの兄妹だけだった。
 ふたりとも他人の世話を焼くことを苦にしないらしく、大人達の言ってしまえば注意深く遠巻きなケアを鄭重に締め出し、小さな子供たちを自分たちで世話をしていた。だから子供たちは彼等によく懐き、隔離された病棟というより一つの家族のような様相を呈していったのである。
 ミサヲのほうは生来の世話好きからそうしているようだったが、兄のほう…高階マサキは大人達に対する警戒感…もっと言えば不信感から、大人達の介入を極力排除しようとしているように見えた。
 そうさせるものが何なのか、当時のイサナに判るはずもなかった。温かく、冷たく、広くて、捉えどころがない。何処までも透明に見えて、深い闇を抱えている。イサナにしてみれば、ひどくわかりにくい相手であった。
 子供たちは役割を貰うことを喜び、年長の子供たちは互いや年少の子供たちが体調を崩したときにはせっせと世話を焼いていた。イサナとしても手伝いたいのは山々だったが、最初のころは世話をするよりされる立場であることのほうが多かった。
 固定の役割があったわけではないが、寝込むことの多かったイサナのもとにはタカミが顔を出すことが多かった。そうでなければマサキか、ミサヲ。容態が不安定なため、元気の良すぎる面々を何気なく遠ざけていた節がある。今にして思えば、それもミサヲ辺りの差配であったに違いない。
 榊タカミ。イサナよりも2歳か3歳ほど下だった筈だ。ハーフないしクゥオーターなのか明るい栗色の髪と、光線の加減で翠に見える色の淡い双眸をしていた。生来なのか習慣なのか、他者と接するときにはいつも人好きのする微笑を湛えていた。それが微妙な翳を持ち始めたのは、コンピュータやネットワークに関して破格の才能を示し始めた頃だっただろう。その頃にはイサナも寝つくことが稀になり、体力もついて積極的に外へ出て行けるようになっていたから、当時は実のところそれほど気にかけていた訳ではなかった。
 きっかけは『侵入事件』と呼ばれる、ある複合企業に対するサイバーテロ事件。それまで従順だったタカミがマサキに逆らい、中毒の様相すら呈してハッキングを続けていたのはイサナも知っていた。一時大きく取り沙汰された事件ではあったが、タイミングからしてそれとタカミを結びつけない訳にはいかなかった。
 何かがあった。
 しかし事件を境にタカミはぱったりとハッキングから足を洗い、相変わらず不登校ではあったが進学に向かって積極的に準備を始めたから、それ以上詮索する理由は失われた。そのうちにイサナも大学の寮へ入ってしまい、その機会もなくなっていったのだ。
 ただ…人好きのする微笑の奥に、高階マサキと同質の闇が見え隠れするようになったのは、事件以降であったのは間違いない。
 そのことに気付きはじめたのは、イサナが寮に入って暫くした頃…帰省した時にタカミが伏せっているとミサヲに聞いて部屋を見舞った時のことだった。
 いつかと逆ですね、と笑って言うタカミは少し憔悴してはいたが、枕も上がらぬ重態というわけではなさそうだった。もともと細い割にあまり病気はしないほうだったが、ここ数日少し根を詰めすぎたのだと思う、という言葉にそれほど違和感はなかった。高校過程を飛ばして大学へ進むことになるという話は聞いていたし、そのための準備をしていることも知っていたからだ。
 まあ程々にしろ、と言い置いて立ち上がろうとした。ついでにベッドの下へ落としてしまった参考書をとってやろうとして屈んだ一瞬、ふと動きを停めてしまう。
 自分が他人よりも少し嗅覚が鋭敏であることに気付いたのは、大学の寮に入ってからのことだ。時々、そこに居た誰かを匂いで気付くことがある。大学の仲間からは鮫のようだと揶揄からかわれるが、現実にそんな人間離れした感度があるわけではない。そもそも嗅覚は順応しやすい感覚だし、体調によってわかるときもわからないときもある。
 だからその時、枕元で感じた残り香をそれほど気にかける理由はなかった筈だった。タカミにどうかしましたか、と問われて動きを停めてしまったことに気づき、きちんと治してからこういうものは読め、と言い置いて出た。
 ――――それほど不自然か。サキが居たとして?
 しかしその時は、自分が何に引っかかっているのか判らなかった。

***

 大学へ進んだ後、どうやら望む途海洋調査で生活を成り立たせることができそうな目処がついたことを…当時家を出て一人暮らしを始めたばかりのマサキのところへ報告に行ったときのことだった。
「…お前、海とか水とか、そういうものが駄目なんだと思ってたよ」
 マサキに言われて、イサナは逆に軽い驚きさえ感じた。確かに自分がそれほど饒舌な質とは思っていなかったし、言われてみればそれまで進路についてきちんと話をした記憶もなかったのだ。
 確かに他に手のかかる者が大勢いたし、年長の自分がさして気にかけられていなかったとしても、それは奇とするにあたらない。それでも、存外ほったらかされていたんだと思うと少し意地の悪い質問をしてみる気になった。
「どうして。俺は海際の生まれだし、歩くより先に泳ぎを覚えたクチだが」
 後半は修辞レトリックというものだが、一応聞いてみたかったのだ。
「どうしてってお前…」
 マサキが暫く言い淀んだ。
「昔の話で悪いが、お前、熱出したときに決まって何だか溺れそうなこと言ってたじゃないか。溺れる者は何とかで、綱か何かと勘違いして点滴ボトルからルート引き抜きそうになるもんだから、俺とミサヲで一生懸命制止してたんだぞ。…憶えてないか?
 だから、昔余程怖い目にあったんだろうって、ミサヲとも話してあんまりそのことは言わないようにしてたんだが…そうか、違うのか」
 何か感心したように言われて、イサナは失笑を禁じ損ねた。
 まだあんなことを憶えていたとは。
 怖かったのは溺れることではない。命を失ってしまうこと。二度とあの光の中にもどれなくなること。水底の静謐はイサナにとって好ましいものであったが、それは光ある世界へ戻れることが前提だ。
 ――――おまえイサナだろ。大丈夫、沈みやしない。
 ――――だから泳げ。泳ぎ続けろ。泳いでる間は、沈まないもんだ。
 理屈が通っているような、いないような。しかし必死に命を繋ぎ止めようとしてくれているのだけは理解った。あの病棟で、医療技術は惜しみなく投入されただろう。だが、間違いなく…あの手が、あの言葉が最終的に自分を繋ぎ止めた。
 それを本人マサキが気付いているかどうか。まあこの分では、おそらくそんなことは関心の埒外だろう。正直説明するのも面倒な事だし、その必要もない。ただ、今まで世話ばかりかけてきたから、これからは自分が何らかの形で支えて行ければいいと思った。
「…まあ、何にせよいいことさ。望む途で生活していけるってのはな。頑張れよ」
 そう言ったマサキの穏やかな微笑に、かすかな翳りがあった。あるいは、咄嗟に隠し損ねた彼の闇。
 そういえば昔は、マサキは医者になりたいと言っていた筈だ。学費は支給されるし学力も問題ない筈。何故諦めてしまったのか、今の今まで訊き損ねていた。訊いていいものかどうかもわからなかったから。
 その時、ドアベルが鳴った。
 瞬間、苦悩と言っても差し支えない程の翳りがマサキの顔を過ぎった。思わず、玄関の方を見る。
「…あぁ、タカミだろう」
「よく来るのか?」
 タカミの人好きのする微笑と、先程の苦悩と言っても差し支えない程の翳りが繋がらず、余り意味のない問いを返してしまう。マサキはそれへはすぐに応えずに玄関へ足を向けた。
「よく…って程でもないが、まあ、あいつが転がり込んでくるときは大概行き詰まってる時だからなぁ」
 そう言ったときには、先程の翳りはきれいに隠されていた。
 マサキの言ったとおり、ドアの向こうにはタカミがいた。少し見ないうちに背も伸びたが、細い印象は変わらない。
「イサナ? 随分久しぶりですよね」
 イサナの姿を認めたとたんに、ぱっといつもの微笑に戻ったのが判った。酷い顔色は俄に変えられるものではないが、この微笑は少々のことは覆い隠す。
「もう帰っちゃうんですか?」
「一寸した報告に来ただけだ。寮の時間もあるし、提出課題もあるから俺はこれで帰る。また話そう」
 それは嘘ではなかったが、タカミが『行き詰まって』来たのなら話し易い環境は作ってやるべきだろう。そう思って言った。しかし、マサキが引き留めるかのような表情でこちらを見ていたのに気付いて、一瞬呼吸を停める。
「…サキ?」
「…ああ、次に来るときには飯の時間くらい見込んで来い。忙しいコトこの上ない」
 また、あの闇。すぐに晦ましてしまったが。
 この二人が、同質の闇を抱えていることをイサナがはっきりと意識したのはこの時だった。
 言えないのか。自分には。
 心臓の手術が完了するまで、日常的に行動を束縛し続けた胸の痛み。暫く感じていなかった息苦しささえ感じて、イサナはそのまま辞去した。
 …そうしてしまったことを、寮に帰ってから後悔した。
 一旦気付いてしまうと、それまでに感じていた些細な違和感…引っかかったものが繋がりはじめる。
 何を見たわけでも、何を聞いたわけでもないのに、二人が一緒に居るところが脳裏にちらつく。
 どうかしてる。
 胸の痛みと、息苦しさと…そして熱。事故の傷痕や、生来の病気の影響を疑うことができたなら、却って楽だったのかも知れない。しかし、それが有り得ないと判りすぎるほど判っていたことが、イサナの逃げ道を塞いでいた。
 与えられる熱に呻吟した末、イサナは距離をとることで平衡バランスを保とうとした。海洋調査は概ね月の単位だ。数ヶ月近く帰れないのも珍しいことではない。…それは、却って有難かった。
 まだ独自の研究をさせて貰える立場ではなかったから、様々な研究セクションからフィールドワークに駆り出される。むしろ、人手が足りないと言われれば喜んで参加した。海の上で、船に揺られている間は何も問題ないからだ。
 調査の合間で休暇オフがあると、様子がおかしくなる。
 暑熱に灼かれたコンクリートの上へ投げ出された魚のように、息苦しさと共に身体が渇いてゆく。検診結果に問題はなかったから、原因がどの辺りにあるのか…推測するのにそれほど材料は要らなかった。
 何度目かの休暇の時、殆ど無意識にマサキのところへ足を向けていた。
 自身を蝕む熱のことなど口には出さない。ただ、殆ど居ない寮を維持しても仕方ないから部屋を貸してくれと頼んだら…まさに二つ返事だった。
 翌日には寮を引き払い、マサキのところで数日を過ごした。部屋の整理と請け負った家事の他は、何をするでもなくただ本を読むか眠っているかだったと思う。…ただそれ だけで、息苦しさや渇きから解放された。
 ――――海にいるときと同じ安息。
 マサキの心の在処に気付いてはいたが、この安息以上のものを望むつもりはなかった。海は、独占できるものではないだろう…。
 ひとつには、『侵入事件』後は妙な均衡を保っているタカミの危うさを承知していたからでもある。相変わらず人好きのする微笑で蔽い隠されてはいるが、事件前の…狂気の一歩手前までタカミを追い込んだ何か・・は決して根本的な解決をみていない。
 年齢の割に危なっかしいこの同胞を、イサナは決して嫌ってはいない。むしろ、かつて頻々と面倒をかけた経緯もあるからそれなりに心配もしていた。そしてそれはおそらく、マサキが抱え込んでいる闇と無関係ではない――――。
 自分はまだ大丈夫なのだと、タカミほどに追い詰められてなどいないと…どうして信じていられたのか。

 こんなに簡単に、平衡を崩してしまうのに。

***

 その夏にあまり日程が取れなかったのは、イサナにとって却って有難かった。
 コテージに一泊しただけで、また戻らなければならなかったから…マサキのところには荷物を整えに行っただけだ。
 タカミは何も知らないふうであったし、マサキは何もなかったように振舞う。きちんと話をしなければならないとは思っていたが、結局タイミングを逸した。
 次に帰省の日程が取れたのは、秋も深くなってからだった。その時、イサナは半ば覚悟を決めていた。
 もう、今まで通りではいられないのは理解っている。寮に戻るか、新しく部屋を探すしかないだろう。
 日程を告げるために電話した時、マサキから話しておかなければならないことがあると言われ、肺腑に霜が降りるような感覚に襲われた。
 でも、それも仕方ない――――――――。
 だから食事の後、夏の顛末を聞かされ、マサキが抱え続けたものを知った時…おそらく暫く呆然としていたと思う。自分でも莫迦ではないかと思うほど単純な反応しかできなかった。
「…それは、大変だったな」
 誤解で殺されかかった話を笑いながら披露に及んだマサキの貌には、もはや闇が翳を落とすことはなかった。
 ゼーレのこと、カヲルのこと、ロストナンバーの少女のこと。
 …そして、タカミのこと。
 何も終わっていない、とマサキは言った。すべてはスタートラインだと。すべてが判っても、Angelのナンバーを持つ者を守るのは自身の役目と任じていた。
「俺一人でできることじゃない。皆の協力が必要だ。何せ相手は街一つ吹っ飛ばしておいてもそれを隠蔽しきる大企業だからな。油断できんよ。今回のことでいくらか味方・・も増えたが、何せ曲者くせもの揃いだからな」
 そう言って、笑う。それはおそらく、「無駄に鋭い」上司赤木リツコや、故キール・ローレンツの遺言執行人たる弁護士真希波マリのことなのだろう。
「お前は海外に知り合いも多いし、何かあったときには頼む。
 …今まで何も話せなくて、悪かった」
 翳のない穏やかな微笑。イサナがまともな返事をしなかったのは、しなかったのではなくできなかったのだ。
 何も終わっていない、とマサキは言う。だが確実に、一つ終わったことがある。…正確には、マサキが終わらせようとしていることが。
 心を残してはいるのだろう。だが、相手の幸福を祈ればこそ、突き放す。それが正しいと信じて。正しいことを願って。
 タカミの人好きのする微笑が、困惑に塗り潰されるのが目に見えるようだった。
 だから・・・か。しかし・・・、か。心を残したまま振り切ろうとする横顔を見ないふりでいることができなかった。
「…なあ、イサナ」
 呼び止められたのは僥倖。そうでなければ、無理にでも振り向かせていたかも知れない。髪を拭くタオルを肩に落とし、何事かを言いかけたマサキに何も言わせないまま…距離を詰めて言った。
「…まだ、駄目か」
 まだ、死を乞うほどの罪悪感を引き摺っているのか。なら、マサキにとってはイサナもひとしく罪人か。
「悪かったよ。俺も頭に血が昇ってたが、あれほど嫌がられるとは…思わなかった」
 マサキ自身をも傷つける程の抵抗を受けたことが、ひどく堪えた。
 自分が引っ掻かれたことは何程にも感じていなかった。ただ、マサキが自身の唇を噛み切り、掌が出血するほどに握り締めていたことが、イサナを泥沼の罪悪感に引き込んでいた。これ以上触れることが、マサキを何らかの形で自傷に傾斜させるのではないかと怖れたのだ。
 しかしマサキはゆっくりと壁に身体を預けて、少し眼を伏せ、小さく吐息した。
「拒もうとしたのは、お前じゃないんだ…イサナ」
 おそらくマサキ自身も説明するための言葉に苦慮している。自分が拒まれたわけではないと言われても、額面通りに取るにはあの夜が残した傷は深すぎる。
 だから、更に距離を詰めた。壁際に追い詰めた形になったことに、イサナのほうがわずかに狼狽していたが、もう退けない。マサキも、逃げにかかることはしなかった。
 ただ、静かな諦めにも似た何かでイサナを見て、言葉を探していた。だが、イサナはそれをたない。壁についた手に、関節が微かな音を立てる程に力が入っているのを自覚していた。
「…もう一度、訊いていいか。
 好きな相手を抱きたいと思うことは、そんなに悪いことなのか?」
 あともう少しの距離が、こんなに遠い。まるで永遠のように。
 ただ「好き」じゃ仕方ない。マサキの心が何処にあるか判っていたのだから、好きでもしょうがないと知っていたのに。あの時は欲しいという気持ちに抗えなかった。
 ――――――――罪でもいいから。
 やや焦点フォーカスが甘いようにも見えたマサキの眼が、不意に焦点を結ぶ。
「…俺のことか。ひょっとして」
「…他の誰の話をしてると思ったんだ」
 言葉は同じだったかも知れないが、あの時点で言ったことと意味は違う。そのことをようやく汲んで貰えたことを知って、思わず力が抜けかかる。
「訊いてその場、返答も貰わないうちにあんなことになってしまったのは、悪かったと思っている。だから距離も時間も置いた。でも、そろそろ答えを返して貰っていいだろう」
 自分の狡さを承知した上で、イサナは言った。…答えを待ってなどいなかったくせに。殆ど諦めていた。それでも微かな望みがあると知ってしまったから。
「…好きなら何をしてもいいって事にはならんだろ」
 マサキが少し眼を伏せた。この翳りは、多分まだ引き摺っている。
「だからこうして訊いている。…『まだ、駄目か』と」
 畳み掛けると、幾分困惑気味に問い返してきた。
「…どうして俺なんだ」
 全く額面通りなのだろう。拒絶するでも、難詰するでもなく。ただ理解できないから。身を灼くような熱を、吐息を飲み込んで、イサナは言った。
「そんなもの、理路整然と説明されて…納得できるのか、あんたは?」
 『理路整然と』説明する自信があるわけでは決してなかったが、言葉を探すことで…考えることで自身を統制コントロールできるなら、この熱を言葉に換えるのもやぶさかでない。しかし、これ以上焦らされるとこの前と同じ轍を踏みそうな気がして怖かった。
 それに気付いてのことか、どうか。マサキはゆっくりと顔を上げて言った。
「…いつも、お前の望みに応えてやれるとは限らないぞ」
 その瞬間に、イサナは言葉を探すこ? ?を放棄した。「諾」と聞くには含みのありすぎる返事ではあったが、そのまま唇を重ねる。そうでもしないと、堰が切れてしまいそうで。
 軽く…ごく軽く、触れた。熱を逃がすように。それを静かに受け止められたことに安堵して、少し身体を離す。
「…で、その妙な留保は何だ?」
 イサナの問いに、困惑を隠しもせずに口を開く。
「正直、まだよく解らない。拒む程の理由がないだけだからな。…運が悪くても妊む訳じゃないし、お前が望むなら付き合わんことはない」
 一瞬、返す言葉がなかった。なんと言って良いか見当もつかなかった。
「…医療系技術者は言うことが露骨だ」
 ようやく返した言葉は、いとも簡単に…しかも至って真面目に切り返された。
「生物学者ほどじゃないさ」
 そこまで言うか。
「…もう一つ言えば、俺は怪我したくない」
「それについては謝っただろうに」
「キレたお前があれほど凶暴とは思わなかった。正直言って命の危険を感じた。お前、鯨かと思ってたがオルカだったんだな。あんなことはもう御免だ」
 Orcinus orcaオルキヌス・オルカ。シャチの学名。意味するところは「冥界からの魔物」。…知っていて言っていると思うのは、穿ち過ぎか。
 何処までが本気なのか掴めないのはいつもと同じ。温かく、冷たく、広くて、捉えどころがない。退けばただそこに在るだけで、近づけば穏やかに迎え入れる。怖れれば親しみを見せ、侮れば手痛い報復がある。死の領域の魔物オルキヌス・オルカさえも平然とその裡に遊弋クルージングさせる、グラン・ブルーそのもの。
「…そういう理由で応じられてもな…まぁ、よく理解った」
 捉えきれないもどかしさも、傍にいられるなら、今はそれでいい。だからもう一度、前よりもゆっくりと…深く口づけた。
 そして、耳朶を咬むようにして囁く。
「嫌なら、やめる。あんたが嫌だと言ったらそれ以上は絶対に何もしない。それでいいか」
 その言葉の、何が引っかかったのかは判らない。だが確かに、触れている肩が僅かに震えた。マサキはまだ、何かを抱えたままなのだ。そして…今のところそれをイサナに告げてくれるつもりはないらしい。
 詰めた息をゆっくりと吐いて逃がしながら、マサキが目を閉じる。
「…わかった。好きにしろ」
 だが、いますぐすべてをくれてやるつもりはない。そう言われているような気がした。
 ―――それでも、構わない。
 壁に預けたマサキの身体が、わずかに崩れかかる。腕の中に納めることで支えたが、拒まれることはなかった。

――◇*◇*◇――

 慌ただしい中でもきちんとした朝食の匂い。
 イサナは身を起こして、枕元の時計を見た。出勤には十分間に合うが、やや忙しい、というところか。自分のことではないから、イサナは慌てない。だが、台所の片付けを頼まれた事を思い出して、ベッドから滑り出る。
 寝室のドアを開けたとき、マサキの鋭い舌打ちが聞こえた。出勤前に鏡の前に立った頃合いだ。
 …今気付いたか。
 身支度を調え、あとは靴を履くだけという格好のマサキが、起き出してきたイサナを軽く睨んだ。この春から職場の制服ユニフォームが変更になった。襟がすこし広くなったから、絶対襟元に痕を付けるなと念を押したのにイサナが忘れたふりをしたからに違いない。だが、それ以上は何も言わずに身を翻す。朝から喧嘩する時間はないということか。
「じゃ、後を頼む」
 些かぶっきらぼうではあったが、マサキがそう言い置いて靴を履いた。
「あぁ、気をつけて」
 イサナはホールの壁に身を凭せてそれを見送り、いつもより少しだけ音高く玄関扉が閉まるのを聞いた。
 すべてを与えてくれたわけではない。
 まだ捉えきれない。
 ―――それでも、この距離が心地好い。
 イサナは壁から身を離し、頼まれた片付けをするためにキッチンへ足を向けた。

――――――――Fin――――――――


Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「breeze Ⅱ」



「永遠のもう少し」に関するAPOLOGY…..

しつこくてごめんなさい

 梅雨が明けてから脳味噌茹だりっぱなしだろう、というご指摘は甘んじて受けます。「水の中の風」と同一エピソード、イサナversionです。結局、まだ恋愛関係というにはちと微妙な感じではありますが、サキ×タカミより余程前向きイサナ×サキ

 ここは「No Apology」とは別話なのでイサナはサキonlyという話はしましたが、だからってタカミくんがどーでもいいかというとそうでもない。むしろ危なっかしいので気にかけているからこそ、言っちゃえば一歩退いていたのですね。でも、サキがタカミを思い切ろうとしているなら、遠慮はしないと。自分でも狡いと思ってはいるようですが、だからってもう退かない。…うーむウチにはいなかったタイプのキャラになってしまいました。
 ラストで「かすかに笑って」て、しかもイサナ自身は気付いてない(だからこっちの話で記述がない)のも、イサナは最終的に結構状況を愉しんじゃってるというオチだったりします。
(あぁ大家の罵声が聞こえる…)

 タイトルはやっぱり杉山さんです。「OCEAN SIDE COMPANY」の7曲目。実は「水の中の風」ピアノバージョンが入っていた「Hula moon sessions in Tokyo Night」に収録されていた方を先に聞いていたのですが、どちらも素敵です。…っていいながら、こんな非道い話に仕立てるか、と言われそうですが。煩悩がどーしてもこっちへ傾いてしまう辺りが終わってますね。はっはっは。(笑うしかない…)

 それでは皆様、次回まで万夏が正気でいたら・・・・・いや、何も申しますまい・・・・・・(^^;

2018.8.12

暁乃家万夏 拝