水の中の風
温かな水の中で揺られているような心地好さ。
薄目を開ければ、仄暗い部屋。その天井に、水面のような模様が揺れていた。雨は上がったのか。月の光が水面ではねて、天井全体に薄青く映り込んでいる…。
かすかな違和感。あり得ないだろう。湖の傍に建っている四阿ではあるまいし。大体、カーテンを閉めた窓から何が映るというのだ?
…何のことはない、夢の続きか。
そんな言葉で一応の納得をしてしまうと、高階マサキはもう一度眼を閉じた。
古い映画の1シーンだったような気がする。海に深く魅せられながら、命の危険を理由に二度と海に潜ることを禁じられた男が、ふと目覚めた夜…薄青い部屋は水底のような陰影に満たされていた。
確かあの後、憑かれたように海へ入ったその男は、出迎えるように寄ってきたイルカに手を伸べて…どうなったのだったか…。
かすかな潮の匂い。古い記憶の間を微睡みながら、二度寝の快美感に身を委ねかけて…思わず跳ね起きる。海の香りが夢の残滓でなく、現実の嗅覚がもたらすものだということに気付いたのだ。
まごうことなき天然の海の香りの正体は、図々しくもひとの枕を占領していた。
潮の香りが染みつく程に、常に洋上で苛烈な陽に晒されている筈の黒髪は些かも傷む兆候はなく、少なくとも世の女の半分から羨まれそうな艶を保っている。肩を越える長さがある割に髪質が細いのか、然程煩げにも見えない。
ベッドはセミダブルほどの広さがあるが、陽に灼けた肩には十分な厚みと幅があるものだから…上がり込まれると正直言って狭い。…そもそも、自分の部屋が別にあるのに何故上がり込む。
厚かましい侵入者の長身を眺めやって、なんと言ってやったものか…片胡座のままわずかな間、考えた。昨夜遅かったのは確かだから、疲れてはいるのだろう。だが、此処でなあなあにすると後がよくない。
マサキは呼吸を整えてから、努めて厳しい声で言った。
「帰ってくるときは一報入れろって言ったよな…? 鯨吉イサナ!」
Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS
「breeze」
水の中の風
本当に眠いのか狸寝入りか。しかし目が覚めているのは確実だ。
「…入れたぞ、一報。サキが見てないだけだ。構わんだろう?…何のための合鍵だ」
やはりというか返ってきたのは、伏せたまま…瞼も上げないままの気怠そうな科白だった。科白の後半は無視して、マサキは枕元の携帯電話を手にとった。成程、メッセージアプリに未読のメッセージが表示されていた。しかし、この時間は。
「お前、下のエントランスで打ってないか、このメッセージ」
「その通りだが何か問題があるか?」
「お前ね…」
夜中の1時にメッセージを打ったところで、普通に考えたら見るのは翌朝だ。玄関先で打ったのでは事前連絡にも何もなっていないではないか。
「約束だから一報いれたし、寝てる時間だと思ったからベルも鳴らさずに合鍵で入った。至って常識的な判断だと思うが」
「常識的…って…その後で他人のベッドに上がり込んだ上に、痕つけるような真似をしてなければそうだろうよ!」
思わず声がつり上がる。起きた瞬間にはそこまで頭が回らなかったが、緩められた寝衣の下には小さな内出血痕が散っていたのだ。
昨今過労気味で、帰宅してから酒精分が入ったが最後、眠ると正体がなくなることについては多少自覚はあったものの…ここまでされて目が覚めないというのは一寸問題がある。
「何だ、寝てたのか。そこそこ気持ち良さそうにしてたから、解ってたのかと思ったぞ。…何、最後までしたわけじゃない」
「…っ…何処を問題にしてるんだ!」
自分の顔が朱を刷くのが判った。ここで向こうのペースに載せられてしまうのは不味い。マサキは即座にベッドから滑り出ようとしたが、間髪入れずに伸べられた腕に捕捉まる。
引き戻され、抑え込まれる。薄闇の中で、炯々たる双眸が―常は深い色としか見えないのだが―やや薄青い…青紫に近い光を放ってマサキを見下ろしていた。
「…俺は今日、普通に勤務なんだが」
マサキとしては、一応の説得を試みたのだ。だが、既にして態勢が悪すぎたし、相手は諾く気がないときた。
「そうか。俺は五日ばかりオフだ。だから帰ってきた」
猫科の大型肉食獣が、獲物を爪の下に抑え込んで見せるような…凄艶な微笑。
携帯電話の画面を確認したときの時刻が、マサキの脳裏を過ぎった。
ぎりぎりだが、何とかならないこともない。何より、今ここで諍っても、ろくなコトになりそうにない。
ゆっくりと瞑目する。
「…好きにしろ」
――◇*◇*◇――
鯨吉イサナ。Angel-06の番号を振られた、件の爆発事故の被災者の一人。胸から腹部に負った外傷からの感染、それによる重篤な敗血症から、傷が治癒した後も随分長いこと床上生活を強いられていた。
年齢的にはマサキとミサヲに次ぐ年長であったが、感染を繰り返したことで消耗したためか、当初はひどく小柄に見えたものだった。もともとあまり丈夫な質でもなかったというから、病態が遷延したのもその辺りに一因があったのかも知れない。
ごく普通の風邪があっという間に肺炎にまで進行し、搬送されてしばらくはICUの隔離テントの中という状況は珍しくなく、その度にマサキやミサヲの心胆を寒からしめた。
譫妄に陥り、点滴のラインを引っ張ってボトルから抜いてしまうことが一再ならずあった。そのためミトンを着用するよう求められて「要は点滴を抜かなければいいんだろう」とマサキとミサヲが交代で夜通しその手を握っていたこともある。
『…沈む。沈んでしまう…!』
イサナの両親のいずれか、もしくは両方が海で死んだらしいという話は、随分後になって聞いた気がする。その記憶の所為なのか…恐怖に潤んだ両眼を見開き、そう呟きながら伸べられた手を握り締めて、必死に励まし続けた記憶がある。
しかし、十代も後半に入りかけた頃から少しずつ落ち着き、運動を始めることができるようになってから背も伸びた。高校課程から通常の学校に就学できたころには、身長はマサキを追い越す程になり…海洋生物学のフィールドワークに出る為に培った身体能力はなべて平均以上の数値をマークするようになる。
進路を聞かされて、マサキが少なからず驚いたのは確かだ。
『…海とか水とか、そういうものが駄目なんだと思ってたよ』
イサナが譫妄の間に示した、溺水に関する強烈な恐怖感から…そう思っていたのだ。
『どうして。俺は海際の生まれだし、歩くより先に泳ぎを覚えたクチだが』
しれっとしてそう言い放たれ、その時はうまく繋がらないままにそうなのか、と返答するしかなかった。実際、希望が叶ったのなら横合いから何も言うことはないのだし、その頃には他にもっと厄介な事態―所謂、「侵入事件」―が持ち上がっていて、詮索するような余裕はなかったのである。
そのうちに大学も卒業して、イサナは自分の望んだ途で生活の目処を立てて家を巣立っていった。何度も死にかけた経験がそうさせるのか、おそろしくシビアな現実感覚と、海に対する無邪気なほどの憧憬が奇妙な具合に融合していて…多少言動が奇矯なところはあっても、タカミのような危なっかしさがない分、マサキにしてみれば特段干渉する必要性を感じなかった。
ところが暫くしてイサナから連絡があり、大学にいるよりフィールドワークに費やす時間のほうが長く、いない間のほうが多い部屋をわざわざ借りていても仕方ないから住所を貸してくれと言われた。
物置同様の部屋をひとつ空けて、留守中の郵便物の管理をするくらい、何ということもない。実際、一年のうち数回、しかも10日居れば長いほうという生活では、家賃を払うのも莫迦莫迦しくなって当たり前だろう。マサキは二つ返事で請け負った。
「家」に住所を戻してもよかったはずだが、「真夜中に出入りすることだってある。ちび共に悪いだろう」という至極常識的な答が返ってきた。
帰ってきたときのイサナの生活は、自らが『オフ』という表現をするのに相応しく…ひたすらに緩い。住所を移した時の約束だから炊事や掃除はするものの、ほとんど出かけることもなく部屋で眠っているか本を読んでいるかだった。
それでも帰省を聞きつけた子供たちが海外の話を聞きたがれば、煩がりもせずに「家」に戻って話をしていくこともある。三十路前を捕まえて老成というのもどうかとは思うが、他に言葉が見つからない程に落ち着いていた。
最年長でありながら、自身をコントロールしきれていないことに忸怩たる思いを引き摺っていたマサキにしてみれば…いっそ羨望に値した。
***
「…帰ります」
いつもなら朝方まで漫然と時を過ごしているタカミが、すこし気怠そうにしながらも身体を起こして身繕いを始めたのは…イサナの帰宅時間を慮ってのことに違いなかった。
イサナが帰省中に外出するのは珍しいことだ。その日はたまたま次回調査の打ち合わせとかで遅くなると言い置いて出て行ったまま、まだ帰らない。
タカミとしても本当はイサナの顔を見に来るつもりで来たのだろうが、連絡なしで来たためすれ違いになった。酒にやかましいイサナに配慮した酒肴だけ受け取って、あのまま帰しておくべきだったと…思ったところで今更遅い。
いろいろな意味で、タイミングが悪かった――――――――。
身繕いを終えて立ち上がりかけたタカミを背後から抱き締めて、何を言うつもりだったのか判然としない。ただ、その瞬間タカミが明らかに呼吸を詰めたのと…唇を寄せた首筋の皮膚の下を、怯えに似たものが疾ったのが判った。だから…そのまま腕を緩める。
印を刻みたいという衝動を拗伏せるのにさえ、かなりな努力を要した。
玄関扉が閉まる音を聞いてから暫く、マサキはそのままベッドに伏せていた。だが、リビングを片付けていなかったことに思い至って無理矢理身体を引き起こす。
リビングテーブルの上に残ったグラスや小皿は、既にシンクへ片付けられていた。出がけにタカミが片付けていったのだろう。
シャワーを浴びて改めて身を横たえたときに、再び玄関扉の音がした。
ああ、今帰ったのか…そんなことを思い、起きて一声かけようとはした。
だが、醒めきらない酔いが無形の錘となって絡みつく。すこし酒が過ぎたとは思っていた。折角の休日を宿酔で潰すのもつまらない。眠る前にもう少し水分を摂っておくべきだろう…。
寝室の扉が開いて、リビングの灯が流れ込む。それでマサキは自分がまだ起き上がれていなかったことに気付いた。
「あぁ、イサナ…お前、夕食は?」
「済ませた。この時間だからな。…客は、タカミか?」
「…よくわかったな」
「そこのボトル。あんな気の利いたもの、持ってくるのはタカミくらいだ。サキはまず買わんだろうし、他にそんな気が回りそうな奴はいない」
「…微妙に腹が立つ推論だが、当たりだ。会えなくて残念だが、また来るとさ。今度から一報入れてから来いと言っておいた」
ようやく重たい瞼をこじ開けた時、目の前にあった枕元のテーブルにデカンタに入った水がグラスと一緒に置かれた。
「…あぁ、すまない」
よく冷えた水をグラスに半分ほど飲んでから、マサキは素直に礼を言ってベッドに身を沈めた。イサナは決して饒舌とは言い難いが、わりあい細かなところに気がつく…。
眠りに落ちかけて、自分の動きによらないスプリングの軋みに薄目を開く。
「…イサナ?」
軋みが、イサナの身体の重みであると認識できるまでに、少し時間がかかった。…有り体に言えば、うまく繋がらなかった。
「まだ、続いてたとはな」
常はただ深い色の双眸が、わずかに青紫色に近い色彩を持つのは、決まってこういった薄闇だ。その有り得ない近さに狼狽して、一瞬だけ…言われたことの意味を取り損なう。
そして、思わず呼吸を停めた。
薄闇の中で炯々と光る青紫がかった双眸は、どこか面白がるような色彩を湛えていた。既にして両腕の上膊部を抑え込まれているから、動くこともできない。
「…二人して、何を隠してる?…あんたらの関係のことだなんて、惚けるのは無しだぞ」
両腕を押さえ込まれたまま、マサキは深く吐息した。
「…惚けるつもりなんか無い…そうか、やっぱり感づかれてたか」
吐き出したのは、まごうかたなき自嘲。
「…で、どうする。そうさな、結局思い切れてない俺が悪いんだよ。どうにもならんさ。俺にどうしろって?」
嘘は言っていない。どうにも情けないが、実状としてはそのとおりなのだから。そしてどれだけ陳腐で下手くそな居直り芝居でも、今明かすわけには行かない事実を覆い隠すためなら、マサキは躊躇わない。
件の爆発事故が、仕組まれたものである可能性があり…その生存者たる自分たち全員が何らかの感染を疑われて隔離・監視下におかれていたなどと…真実がはっきりするまで、決して他言するわけには行かない。
「…甘く見られたものだ」
イサナの紫瞳が急激にその温度を下げたかのようだった。両腕を押さえ込む力が増して、痛みさえ感じるレベルになる。膂力で敵わないのは判りきっているから、この場をどうやって躱すべきか、冷徹な光を湛える双眸を見つめてマサキは必死に考えた。
だが…腕を押さえ込む力が、不意に緩む。
「…まったく、あんたは…!」
そう唸ってイサナが身体を離した。
「何て顔するんだ。…この態勢であんたにそんな悲壮な顔されたら、全く俺が悪者じゃないか」
常は超然としたイサナの、少なからず傷ついたような…言ってしまえば拗ねたような口ぶりに、毒気を抜かれて黙る。
「やっぱりあれか。下になるのは御免被るって?」
「あのな、イサナ…」
身も蓋もない言いように苦笑しながら、マサキは自由になった腕を撫でてから軽く眉間を揉んだ。
「…俺はな、あの事故の3ヶ月程前から…義理の父親…母親の再婚相手と関係を持っていた。望んでのことじゃない。平穏な生活を維持するには仕方ないんだと思い込もうとしてた。まあ、当の義父はあの事故で骨も残らなかったようだから…何もかも忘れてしまえればそれでいいと思ってたな。
忘れたと思っていた。…あの時までは。
壊れかけたあいつをなんとかしてやらなきゃならないと思いながら…同時に自分の中に生まれた衝動に絶望したね。…俺は結局、あの義父と同じ種類の人間だったのかと思ったら、あの事故で死ぬべきは俺だったんじゃないかと思ったくらいだ」
一気に喋ってしまってから、深く息を吐く。
「それでも、俺はまだ死ねない…っ…」
その時、離されたときと同じくらい突然に、しかも今度は下肢まで完全に抑え込まれて、思わず呼吸を詰めた。
「サキ、あんたな…」
理由はわからないが、イサナが怒っていることだけは判る。紫瞳は先程よりも烈しい光を湛えていた。
「莫迦なこと言わないでくれ。あんたとミサヲがいなかったら、俺たちのうち半分…下手すれば全員、今まで生き残れたかどうかわかるものか。それに…」
凄まじい力で抑え付けたまま、言い淀む。先刻の力が、まだしも加減されていたことが文字通り痛いほどに判る。腕は既に軽い痺れさえ生じていた。
「それほどに罪深いことか。死を乞わなければならない程?
好きな相手を抱きたいと思うことは、そんなに悪いことなのか!?」
はっと胸を衝かれて、言葉を失う。思わず視線を逸らした時、咬みつくような荒々しさで唇をふさがれて軽く恐慌を起こした。
嫌な記憶と与えられる感覚が錯綜して、マサキは力の限り抗った。 だが、痺れかかった腕ではどれほどの力もなかったであろう。
―――――――あのひとの顔も、声も、年を追うごとに曖昧になっていた。自分自身が無意識に記憶から削除しようとしていたことは間違いない。ただ、宥めるように、あやすように…しかし結局拒否を許さなかった腕。それが与えた感覚だけが冴えざえと残っているのが自分でもあさましく感じられて、嫌だった。
あの時、本当に自分は抗ったのか。
嘔気さえ催すような問いを、マサキは胸奥にしまい込んでずっと鍵をかけてきた。
今触れているこの腕は、違う。おそろしく性急で、無遠慮で、荒々しい。だが、此処で流されたら、鍵をこじ開けられてしまう気がした。
だから、与えられる感覚に死に物狂いで抵抗した―――――――。
***
マサキは結局、宿酔とは別の理由でその休日を棒に振った。
しかしその御蔭で、イサナの追及も振り切った格好だったから…少しだけ気遣わしげなイサナを沈黙で拒絶し続け、その出発までの数日を凌いだのだった。
それが、夏の事件の二ヶ月ほど前のことだ。
事件の時も、事の発端になったコテージには滞在したものの、アパートにはマサキの留守中に荷物を整えに戻っただけで、泊まることすらしなかった。お互いが、何事もなかったように振舞うことに長けていたのが、良かったような、悪かったような。
理不尽を赦した訳ではない。しかし、マサキには隠し事をしているという後ろめたさがあった。だから、事件の後…秋も深くなってから帰国したイサナにようやく事の顛末を話すことができたときには、胸のつかえがおりたようで少なからず安堵した。
夕食の席でめまぐるしかったその顛末を聞かされたイサナは…暫時の沈黙の後、短く言ったきりだった。
「…それは、大変だったな」
素っ気ないといえばそうなのだろうが、杯を傾ける手が暫く完全に停止していたから…相応に驚きはしたらしい。そんな反応を、マサキはイサナらしいと思った。
上司に「諸々片付いたと思って、焼き切れかかっている」と評されたことも、笑いながら話すことができた。
その夏、判ったこと、変わったことは多々あったが、何も片付いてなどいない。焼き切れてる場合じゃない…そんなことを、マサキは口に出すことで整理しようとしていた。それを理解っていてのことかどうか。イサナは穏やかな聞き役に徹していた。
帰省中は家事を請け負うという約束を、イサナは丁寧に履行する。食事が終わると、マサキに何も言わせないままに片付けを始めた。だから、マサキは食器を下げるところまで手伝い…後を任せた。
風呂を済ませて出てきた時、イサナも丁度片付けを終えたらしかった。
「ご苦労さん。風呂、空いたぞ」
「…ああ」
すれ違うときの自然な距離。だが、思わず髪を拭うタオルで視線を遮ろうとしてしまう。
もう、半年近くも経ってるじゃないか。
この微妙な居心地悪さに、少し疲れてもいた。イサナはイサナなりに、皆を案じてくれている。そこは疑わない。だったら、いつまでもこんなぎごちなさを引き摺っているのも莫迦ばかしいだろう…。
「…なあ、イサナ」
意を決して足を止め、顔を上げる。そのタイミングで、イサナもまた足を止めていた。
ダイニングの煌々たる灯火の下では、あの不思議な双眸の青紫は見えない。その深い色が湛える、少し寂しげでさえある光に戸惑って…かけようとした言葉が霧消した。
「…まだ、駄目か」
向こうの頭の回転が無駄に速いのか、こちらの察しが悪いのか。マサキは時々イサナの言葉の意味を取り損なう。この時も意味が繋がらず、返答に困った。
その遅延をどう採ったものか、イサナが焦れたように距離を詰める。マサキが背にしていた壁に手をつき、絞り出すようにして紡いだ言葉は…刺さるような鋭さを以てマサキの耳朶を打った。
「悪かったよ。俺も頭に血が昇ってたが、あれほど嫌がられるとは…思わなかった」
瞬間的に力が入ったのだろう。壁についたイサナのよく鍛えられた拳…その関節が、カクン、と小さな音を立てる。
位置取りを誤った。背後が壁では逃げも効かない。マサキは咄嗟にそんなことを考えて、もうさすがに逃げるわけにもいかないか、と思い直す。
ゆっくりと壁に身体を預けて、マサキは小さく吐息した。
「拒もうとしたのは、お前じゃないんだ…イサナ」
拒みたかったのは、あさましい自分。
あのひとを憎みたかった訳ではない。でも、憎まなければ平衡を保てなかった。何としてでも拒むべきだったのに。
優しいひとだったと思う。ただ、越えてはいけない線を守れる強さがなかっただけ。
それを言うなら、秘密に秘密で蓋をするためにタカミとの関係を続けていた自分こそ、度し難いというものではないか。信頼していた相手に裏切られることの辛さを自分は知っていた。…なのに踏み留まる強さがなかった。あのひとを責める資格など、自分にはありはしないのだ。
それを突きつけられた気がした。だから、あの時は全力で抗った。
しかし秘密が秘密でなくなった今、タカミを束縛する理由もなくなった。
昔のように戻れるものかどうか判らないが―――――――。
無駄に鋭い上司に言われるまでもない。平衡を欠いていることは自覚していた。寄りかからせるつもりで寄りかかっていたことを今更思い知る。
誰かを支えられるほどの力が欲しいと思う。大切なものたちを守っていける強さが欲しいと思う。ずっとそう願いながら簡単に死を口にしたことは、今でも悔やんでいる。生きることを諦めたら、傍に居ることも守ることもできないのに。甘えた理屈にイサナが怒ったのも無理はない。
結局、自分の弱さが…イサナもまた傷つけた。そこは素直に謝るべきだろう。ただ、それをどう説明したものか考えあぐねた。そのために生じた空隙をイサナがどうとったものか、深い色の双眸にひたと睨まれる。
「…もう一度、訊いていいか。
好きな相手を抱きたいと思うことは、そんなに悪いことなのか?」
あの夜のように、叩きつけるような烈しさはない。真摯な問いかけの意味合いが、あの時自分が捉えていたものとはわずかにずれていることに気づいて…不覚にも呆然としてしまう。
「…俺のことか。ひょっとして」
「…他の誰の話をしてると思ったんだ」
辛抱強く答えを待っていたイサナが、やや呆れたように言った。
「訊いてその場、返答も貰わないうちにあんなことになってしまったのは、悪かったと思っている。だから距離も時間も置いた。でも、そろそろ答えを返して貰っていいだろう」
―――――――自分とタカミのことを言われていたのだと信じて1ミリも疑っていなかったなどと、この場合言うべきなのかどうか。
「…好きなら何をしてもいいって事にはならんだろ」
少し視線を逸らす。それは、自分自身に宛てた言葉に他ならない。理由はどうあれ自分がタカミの優柔不断につけいったという側面があったことは忽せにできない事実なのだ。
「だからこうして訊いている。…『まだ、駄目か』と」
忍耐力を試されているという表情で、イサナが唸った。海に対する子供のような憧憬を見せる時を除けば、普段から物静かで穏やかな所作しか見慣れていないだけに…当惑が先に立つ。だからあの夜のことだけでも十分衝撃だったのだが、今のイサナを見ていると、こんな表情もできたのかという間の抜けた感慨さえ催す程だった。
「…どうして俺なんだ」
自分にないものをすべて持っているイサナが、自分に何を求めているのかが理解らなくて…そう問い返す。イサナの口からまず漏れたのは、吐息だった。
「そんなもの、理路整然と説明されて…納得できるのか、あんたは?」
それでも丁寧に返された答は、反問の形をとってはいたが…非の打ち所のない正論というべきだった。説明できるような感情なら、そもそも誰も悩んだりしない。自分はともかく、イサナでさえ…相応の逡巡を重ねてのことなのが判るだけに、自分の問いの軽忽さに気が滅入る。
『理論じゃない』…そんな言い回しが脳裏を掠めた。やれやれ、この期に及んで?
当惑、混乱…そういったものに今この場で整理をつけることを諦め、ゆっくりと顔を上げる。
「…いつも、お前の望みに応えてやれるとは限らないぞ」
その言葉に…イサナは薄く笑み、唇を重ねてきた。
手付けを打つのだというような、軽い触れ方だった。
「…で、その妙な留保は何だ?」
「正直、まだよく解らない。拒む程の理由がないだけだからな。…運が悪くても妊む訳じゃないし、お前が望むなら付き合わんことはない」
イサナはわずかに鼻白んだようだった。
「…医療系技術者は言うことが露骨だ」
「生物学者ほどじゃないさ。…もう一つ言えば、俺は怪我したくない」
「それについては謝っただろうに」
「キレたお前があれほど凶暴とは思わなかった。正直言って命の危険を感じた。お前、鯨かと思ってたが鯱だったんだな。あんなことはもう御免だ」
「…そういう理由で応じられてもな…まぁ、よく理解った」
ややばつが悪そうにそう言い、イサナがもう一度吐息する。そして、今度は前よりもゆっくりと…深く口づけた。
それに応えた時、ぞくりとして膝の力が抜けそうになる。壁に背を押しつけることで持ち堪えようとしたが、その動きはイサナに距離を詰めさせる結果になった。
唇を離し、イサナが耳朶を咬むようにして囁く。
「嫌なら、やめる。あんたが嫌だと言ったらそれ以上は絶対に何もしない。それでいいか」
『嫌なら、やめる』。…こんな狡い言葉だったなどと、言われてみるまで気付かなかった。慚愧に身を食まれる苦痛も、相応の罰ということだろう。
熱くなってきた息をゆっくりと吐いて逃がしながら、マサキは目を閉じた。
「…わかった。好きにしろ」
――◇*◇*◇――
軋む身体を起こして、携帯電話を取る。少し急げば出勤時間にはまだ十分間に合う時刻が表示されていることに安心して、マサキは深く息を吐いた。
傍らにわだかまる艶のよい黒髪が、わずかに動いた。
「…行くのか」
ゆっくりと肘で半身を起こして、イサナが問うた。
「これから支度するんだよ。…多少忙しいことになっちまったから、台所の片付けを頼んでもいいか…ってか、そのぐらいは責任範囲だよな?」
今度こそ、捕捉まる前にベッドから滑り出る。敢えてやや小意地の悪い言い方をしたが、先方は全く頓着していないようだった。
「…了解だ。後でやっておく」
そうして、またひとの枕を占領して心地好さげに目を閉じてしまう。どうにも向かっ腹が立つのだが、此処で突っ込んでも拗れるだけだ。第一、そんな時間的余裕はない。
リビングの一隅には、帰ってきたままのボストンバッグが置かれていた。今回は南大西洋だったか、インド洋だったか。大体、訊いたところで素人のマサキに判るような括りで説明をするという配慮をしないから、最近では行き先を訊くことすらやめてしまった。
朝食の下準備をしてから、シャワーを浴びる。朝食を済ませて、食器をシンクに滑らせるまでに30分弱。身支度を調えるのに2分少々。…しかし鏡に映った、鎖骨のすぐ下についた紅い痕に軽く舌打ちする。カレンダーに目を走らせ、曜日を確認して更に舌打ち。今日は上司が来る日ではないか。無駄に鋭いあの女のことだ、勘繰られるに決まっている。
この忙しいのに!と多少苛つきながら、救急箱から絆創膏を2~3枚ポケットに滑らせた時、イサナが起き出してきた。
敢えてマサキは動作を止めない。止まればまた捕捉まると警戒しているように思われるのも業腹ではあったが、何にせよ時間がない。
「じゃ、後を頼む」
「あぁ、気をつけて」
そうしてやや音高く閉まった玄関扉を眺めやって、イサナはかすかに笑った。
――――――――Fin――――――――
Evangelion SS 「breeze」
はい、今回カヲル君すら出て来ませんでしたね。ヘッダー(Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS)が嘘つきなのは今に始まったことではないとは言え…連日の酷暑で万夏の熱耐性の低い脳味噌が煮えてしまったに違いないというモノを書いてしまいました。
「夏服 最後の日」の裏話です。「夏服~」は基本Rei-Kaworu-Sweet、それでもってタカミ×リツコさん。しかしやってるこたサキ×タカミという本編の裏側で、イサナ×サキ(爆)
コラ待て!イサナって本編ワンカットしか出てこんだろ!
…と自分で突っ込んでみたり。はい、全く以て後付けでしかも自分でも今回どーしたんだと思うような言葉が頻出するオハナシになってしまいました。
「夏服~」設定なので、ここの使徒連中はみんな人間だし、別に特殊能力とかはありません。サキは医者の志望はあったけどゼーレの思惑を慮って臨床検査技師。パワハラ上司で非常勤病理医のリツコさんに日々遊ばれています。タカミくんはコンピュータ関連の研究開発法人に務めてて姉(セラフィン=ローレンツ)の遺児であるカヲル君の名義上の後見人(実務は弁護士の真希波マリさんに一任)。夏の一件でいろいろあったけど現在のところリツコさんと至って幸せな交際中。…でもって、サキから割と一方的に疎遠にされて一寸心配してます。ど天然ですから、この御仁。
で、そのサキが…タカミ君に少し心を残しながら、でも思い切ろうとしてうだうだやってたら、全くノーマークだったイサナにいきなり喰われたというのが今回の話。
イサナが「No Apology」からそのまんま横滑りしてるというのが如実に判ってしまいますが…こちらのイサナはサキonly。サキ自身の心がタカミ君にあるんなら仕方ないと思ってたけど…というところです。もっともらしい理由つけてルームシェアに持ち込むあたりは、実は計画犯という気がするのですが。どんなもんだか。
何が問題といって、どうやら終わってない感があるってことですね。一応全部吐いたつもりですが、どうにも書き足りない。おいこら、こんな非道ぇ話をまだ続けるつもりか!という大家の罵声が聞こえてきておりますが、茹だった脳味噌はまだなにか吐くつもりでいるようです。
タイトル「水の中の風」は杉山清貴さん。「夏服 最後の日」が収録されているアルバム「彼方からの風」からの一曲です。「Hula moon sessions in Tokyo Night」のピアノバージョンも素敵。
それでは皆様、次回まで万夏が正気でいたら・・・・・いや、何も申しますまい・・・・・・(^^;
2018.7.29