唇が触れている数秒。まっすぐに立っている自信がなくて…タカミは思わず彼女が背にしている車のルーフに手をついた。
「…いいんですか?Angel-11だってまだ感染疑いInfection suspectedなのでしょ?」
 余韻に眩みそうになる視界を懸命に瞠って、囁くように告げる。あるいは少し声が掠れてしまったかも。
「今更ね」
 彼女はかすかに頬を染めてはいたけれど、深い色の双眸は胸が痛くなるほどまっすぐに自分を見ていたし、その声は1ミリの揺らぎもない。
感染疑いInfection suspectedってだけじゃなく…キャリアとなることであの子達と同じ時間を過ごせるなら、あなたは手段を撰ばないだろうと…高階君は言ってたわね。…私は構わないわ。付き合うから」
 告げるべき言葉が片っ端から頭から飛んでしまって、タカミは思わず彼女を見つめたまま呼吸いきを停める。
「そういう台詞の中で…どうしてサキが出てきちゃうんでしょうね」
 ややあって、タカミは詰めた呼吸をそんな苦笑混じりの台詞と溜息で逃がしてから、今度は自分から彼女にくちづけた。


Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS 
「Angel’s Summer」
夏服 最後の日 Ⅵ

 寒蝉ツクツクボウシが啼いている。
 8月も終わり近い。昼間は相変わらずの暑熱が地上を支配していたが、早朝や夕方は存外にひやりとした空気に出会うこともある。
 …だが、とりあえず空調がきっちり効いている割に酢酸の臭気がこびりついている病理検査室に外気は無縁だった。
 丁度午前に依頼のあった検体の処理が終わったところで、高階マサキはドアが開く音に顔をあげた。
「おはようございます、室長。今日午前の分まで標本あがってますんでよろしく」
「あら、早いのね」
 青いカットソーと黒のミニタイト。相変わらず医者とは思えない格好の赤木リツコが律動的な歩調で入ってきて、コートハンガーから白衣をとるとショルダーバックを代わりに掛けた。
「今回分の依頼オーダー一覧が机の上に。結構多いですよ、覚悟しといてください。それと午後、外科から術中迅速病理診断の依頼が来てます。手術オペ出しが14:00」
「…何だか此処に来てから無駄なく酷使されてる感じがするわ」
「済みませんね、それが役目で。じゃ、俺はすこし休ませて貰いますよ。このあと細菌検査室から応援要請あるんで」
 リツコが白衣を羽織って顕微鏡の前に座る。代わってマサキがデスクから少し離れたソファに身を沈めた。
 検体に振られた番号通り、リツコが診断を進める。手と目は油断無く仕事を続けながら、リツコが何気なく切り出した。
「…マヤ、9月の異動で外来に転属になるみたいね」
「そりゃご愁傷様」
「ご愁傷って…誰が?」
「外来にはミサヲがいます。…外来主任ミサヲも今回の件に関しては一通り知ってますよ。一時いっときは少々やりにくいでしょうね、お互い。…まあ、発想と行動力に関しては結構な才能をお持ちのようだから、却ってミサヲあたりに叩き上げて貰うのが丁度いいのかも知れない。余計なコト考えずに済みますよ、きっと。
 まぁ願わくば、これ以上病院うちの新人離職率を押し上げて欲しくないもんですが」
 紅茶缶のプルタブを引いて、その貧弱な香気にすこし落胆がっかりしたような顔をしてから一気に呷る。
「何だか他人事ひとごとね。殺されかけたのはあなたでしょう」
「有り難いことには顔を合わせずに済んでますから、何とでも。ただ、リエは本気でしたからね。…あのお嬢さんにくれぐれも自重するように言い聞かせてあげてくださいよ。俺としても身内から犯罪者を出したくはない」
「ええ…」
 上司相手に言いたい放題ではあったが、リツコはかすかに苦笑を閃かせただけだった。
「…高階君?」
「はい?」
「初めてにしては合格点だったわよ。ちなみに…キスのしかたから仕込んでくれる間柄を言うわけ?彼の言う『身内同然』って」
 流石に、マサキは紅茶の最後の一口を噴きそうになった。辛うじて飲み下したものの、暫く咳き込む。
「大丈夫?高階君」
 リツコが一応、顕微鏡から手と目を離して振り返る。
「…まかり間違っても仕事中の会話じゃありませんが」
「そうかも知れないけど、他に誰も聞いてないから。なんだかいろいろ気を回して貰ったみたいだし、一応報告入れとこうかと思って」
 あっけらかんとしたものである。マサキは昨今もはや慢性化しつつある頭痛にこめかみを揉みながら、一応言ってみた。
「あなたのそういうところが…実はあらぬ誤解を招く遠因になってるとか思いませんか?」
「そうかしら」
 思った以上に怖い女性ひとだ。マサキは内心で毒づいてから立ち上がった。空になった缶をダストボックスに放り込む。
「一応言っときますがね、この間あそこにいた賑やかな面々…あれ全部、『身内同然』ですよ。大体、どうしてそういう報告がに来るんです」
 玲瓏美人クールビューティの微笑は、空気が凍り付く音さえ聞こえる気がした。
「女の勘よ。それとも、彼に訊いた方が良かった?」
「…過分なご配慮、痛み入りますよ」
 ほとんど唸るようにして、マサキが言った。これはもはや、パワーハラスメントというべきではなかろうか。…多分、返されなかったメールの件だろう。とんだ側杖とばっちりだ。
 視線を窓の外…茹だるような暑熱の光景に抛り投げて、呟く。
「…俺が悪いんですよ。多分ね。でも仕方ないでしょう。あの時子供ガキだったのはタカミだけじゃない。俺だってそうだ。俺自身が、周囲まわりの大人がすべて敵に見えてるところへもってきて…許容量キャパを上回る問題を抱えてあいつは転がり込んできた。なんとかしてやりたくても、手札カードは一枚もなかったんだから。
 手っ取り早く、その刹那だけ現実を忘れる…都合はいいが最低な手段だけ知ってたのが…悪かったと言えば、悪かったんだろうな」

***

 母が再婚したのは、マサキが中学へ上がった年で、ミサヲはまだ小学生だった。
 前夫とは数年前に死別。マサキもミサヲも再婚に関して特に反対はしなかった。…するほどの理由がなかった。家族として付き合っていくのに困難を感じるような相手ではなかったし、それで母が楽になるなら、それもありだろうという程度のものだった。
 実際、社会的に見て悪い人間というわけではなかった。夜勤をこなす母と上手に家事を分担していたし、職業柄か周囲の人当たりも好かった。
 だからこそ、前後の記憶を飛ばしてしまう程の衝撃ショックだったのだろう。
 怪我をしていた。何の怪我だったのか、それも憶えていない。傷の数は多かったが、病院へ行くほどの怪我ではなかったのは確かだ。土で汚れた傷を浴室で洗い、自分で処置をする程度の余裕があったのだから。ただ、後に冷静になって考えれば考えるほど、その原因は背筋の寒くなるような状況しか思いつかない。だが、それすらどうでも良くなるようなことが起こったのは、その直後だった。
 自室に戻ってから、ノックの音がしたのは憶えている。母の再婚相手だったその人物は、交代勤務の母ほどではないがやや不規則な勤務だった。その日は週休でたまたま家にいたのだと思う。書斎がリビングのすぐ隣だから、リビングで救急箱をあさる音を聞き咎められたのかも知れない。その時は、そんなことを考えていた。
 扉を開けてしまったことが、良かったのか、悪かったのか…。
 どんな会話があり、何が起こってそうなったのかは記憶から飛んでいる。ただ、はっきりしているのは…その日一度で終わらなかったということだけ。
 母が夜勤や、休日の勤務で不在の時。もともと、それにあわせて在宅できるようにシフトを組んでいたことは知っていた。家が子供だけにならないようにするための、保護者としての当然の配慮だと、母やミサヲは理解していたし、正直なところその時まではマサキもそう信じていた。
 それが、こんなことに利用されてしまうなど。
 お定まりのように、誰にも相談できないまま三ヶ月ほどが経った頃。突然、思わぬことで全てが清算されてしまった。
 ―――――例の爆発事故である。
 一瞬にして、全てが消え失せた。だが自分の吐いた呪詛が成就してしまったことに恐怖し、ミサヲも消えてしまったと思っていた間は相当不味い精神状態だった。ゆるゆると病んでいったあの三ヶ月ばかりがいっそまともにさえ思えるほどである。奇跡のような僥倖で程なくミサヲの生存が判明して持ち直したが、それがあと数日遅れていたらどうなっていたか判らない。ただ、他の子供達はもっと酷い状態だったから、マサキ一人が取り立てて問題視されることもなかった。
 「ゆるゆると病んで」いきながら、表面上は普通に生活をしていたマサキの中で、当時殺意に直結するほどの憎悪があったのかというと、実のところ今でもよく判らない。傷が残るほど酷く痛めつけられたという記憶はないし、自身が大人しくしていることで同じ家にいるミサヲに災禍が及ばなくて済むなら結構なことだという居直りさえあった。
 それが既に病んだ状態でないという保証はどこにもなかったが、本当にいつまでもあの歪んだ状況に甘んじるつもりもなかったのだ。
 全て消えた。なら、全て忘れればいい。それ以上でもそれ以下でもない。そう思っていたし、忘れたつもりでいた。
 幸いなことには、やらねばならないことがあったから。物質的な支援はあったものの、医療的なケア以外の人的支援は殆ど無いままに放置された子供達に、最初に懸命に手を差し伸べたのはミサヲだったと思う。当時まだ中学校に上がったばかりだった筈だが、もともと世話好きな性格が幸いしてか、まるでそうすることが当たり前のように能動的に動き回った。マサキはそれを手伝っていただけだ。
 今にして思えば、あるいは自身に役目を課すことで存在の理由を作ろうとしていたのかもしれない。…そう、その時は存在し続けることにさえ理由が必要だった。
 ミサヲは正しい。人間は無為には耐えられない。
 そう認識してからは随分と楽になった。だから今でもなんのかのと言ってもミサヲには頭が上がらない。
 しかし、あの夜。
 恐怖、愛惜、悔恨、憎悪、悲哀。それらに押し潰されそうになっていたタカミを前にして…結局自分に何も出来ないことに愕然とした。
 そして何より、自分の裡に生まれた衝動に絶望した。
 …その衝動にも、それに抗えなかった自分にも。

***

「…よく考えたら、この状況って…また余計な誤解を招いたりしませんか」
 職員向けのカフェ。昼食後のコーヒーを啜りながら、マサキが不意に眉を顰めた。
 テーブルの向こうにはリツコがいる。
 万人が認める美貌だろう。だが、その美しさは華というよりやいばのそれに似る。
 喩えるならドライアイスで被覆コーティングされた直刀レイピア。鑑賞するにはいいのかも知れないが、正直なところあまり近寄りたくはない。
「今更でしょ。…それとも、職場で上司と部下がお茶していたら何か勘繰られるの?」
 マサキとしては、上司でなかったらそもそも声をかけるのすら遠慮したい。女が苦手とは言わないが、正直なところ、このひとばかりは何と言われようと御免だ。
 これ・・に恐れ気もなく近づいた上、望んで捕まる奴もいるのだから世の中は広いと言うしかないだろう。
「…はい、そーですね。俺が悪かったです。ついこないだ誤爆で殺されかけた身としては、これ以上余計なトラブルは抱えたくないなと思っただけで。有り体に言えば早く戻りたいんですが」
「心配しなくても、術中診断の時間までにはまだ余裕あるわよ」
 繊麗な手首を翻して、リツコが時計を見遣る。
「何が哀しくて検体待ってる間に上司からカウンセリングされにゃならんのです」
「高階君が壊れたら困るからよ」
「赤木室長!」
仕事上オフィシャル私的プライベートにもね。私もいくつか病理検査室を回されたけど、此処ほど仕事のしやすいところも今までなかったわ。高階君に倒れられるのは非常に困るの」
 至極真正面ストレートな讃辞に、多少居心地悪さすら感じて退き気味に応える。
「…そりゃ、過分なお褒めにあずかり光栄なことで」
「もうひとつ。私のメールは十日間開けもせずに置いてた割に、あなたからの返信がなかったらたった一週間でそわそわしだす人がいるからよ。調子崩してるんだろうかって」
 とびきり意地悪く微笑まれ、マサキが天を仰ぐ。
「…あの、莫迦…しかもそれを誰に向かってこぼしてんだ…?」
 あの件が落着してから、意図的にメールを返していない。それが、こんなかたちで跳ね返ってくるとは。
「他意は無いと思うわよ。週二回、確実に顔を合わせると判ってる人間がいたら訊いてみようと思うのは自然だわ。…彼、私や高階君と違って素直だもの」
「…怒っていいのか安心していいのか、もしくは笑っていいものか判断に迷うんですが」
「関わりがあるとわかってて、三ヶ月以上慎重に空惚そらとぼけてる人を、素直とは言わないわよね。まあ、それに関してはお互い様だけど。それぞれ事情もあったことだし?」
「そう言って貰えると助かりますが」
「…もう、あまり関わらないほうがいいと思ってる?」
「距離を置いた方がいいとは思ってますよ。…多少、タイミングを誤ったかも知れませんが」
 リツコがやれやれといった風に嘆息する。
「…ひとつ大事なものができたら…他の全てがどうでも良くなるなんて、人間の心はそこまで単純に出来てないわよ。…あなただって判ってるでしょう」
「少し…疲れてしまったのは確かですよ」
「…やっぱりバランスを欠いてるわね。色々片付いたと思って、焼き切れた? そうだとしたら、早計というものよ」
 不意に声を低めたリツコの台詞に、マサキが目許を険しくする。
「何か、ありましたか?」
「…あってからでは遅いわ。
 碇CEOが失脚してAngel-02…レイちゃんを隠匿しきれなくなったって処までは話してるわね。…Angel-02のデータがある程度流出し始めていることも。…『侵入事件』でデータがかなり意味を消失してしまって以来、『CODE:Angel』の情報はあまり重要視されなくなっていたけど、Angel-02のデータが流出したことで、多少騒がしくなってる」
「…まさかと思いますけど…」
「件のウィルスの標本は、事故で散逸して…もうこの地上にはレイちゃんとカヲルくんの中にしかないの。確認されている分にはね。勿論、Angel-03からAngel-16まですべて感染疑いInfection suspectedのままよ。油断してると何が起こるかわかったものじゃないわ。今のところ流出範囲はゼーレ内だけだけれど、このままじゃどこまで広がるか」
 それだけ言ってしまってから、リツコは小さく溜息をついた。
「一歩間違わなくても既にウィルス争奪戦の渦中、というわけですか」
 マサキが天を仰ぐ。やれやれ、これでは振り出しだ。
「9月からはレイちゃんを学校に通わせる。これについては私も譲歩しないわ。あの子はもう十分に待った。大人の都合に振り回されながら、よく耐えたと思う」
「判ってます。協力は惜しみませんよ。…まあ、俺がとやかく言わなくても全身全霊でガードに回りそうなのが約一名いますからね。少し離れるがバックアップもいますから」
「その『ガード』も狙われる立場に居るってコト、忘れないでね。今まである意味、キール・ローレンツCEOに遠慮してた人達がどう動くか分らないもの。
 …まあ、あの子に関して言えば…CEOの後継者候補にも挙がってるってのがややこしい処なのよね」
「…はい?」
「ローレンツCEOの後継は、現在の処暫定なの。人材がいないところじゃないんでしょうけど、組織のトップに最終的に必要とされるのは、求心力だもの」
「血筋だけで後継者になれるほど、甘い世界じゃないでしょう」
「それは勿論。でも、幸か不幸か…素養はあるみたいじゃない?」
 カヲルの学業成績のことを言っているのだろう。
「カヲルが諸々規格外なのは認めますがね、それだけでどうなるものでもないでしょう。第一、頭の出来はともかくまだまだ子供ガキだ。…ああ、人誑ひとたらしの才はあるかな。あれだけ目立つ容姿で、奇矯な性格の割に嫌われない。ある意味才能ですよ、あれは」
「褒めてるのか貶してるのか微妙だわね。でも、そういうのをカリスマと言わないかしら?…そして今まだ子供だからこそ、今からトップとしての教育をしていけば、十分モノになると考えてる人達がいると言ったら?」
「…また、大人の勝手で振り回すのか」
 その声は低かったが、語調が尖るのを止めることはできなかった。
「状況が把握してもらえたみたいで良かったわ。でも、こういう考え方も出来る。
 カヲルくんが向こうで最終的に実権を握ることが出来れば…研究に関してローレンツCEOの意向を堅持させることも不可能じゃ ない。そしてそれはあの子があの子自身を守ることにもなるわ」
 艶麗に笑んでリツコがそう言った

***

 その日、来訪者はタカミの職場へ姿を現した。
 上から呼出があって出頭すると、応接室で若い女性が待っていた。きちっとしたスーツを着込んではいたが、栗色の髪を後ろで二つに分けて流し、前髪をヘアバンドでとめている。赤いフレームの眼鏡の奥、その双眸は色彩が判然としない。
 ぱっと目に学生のようにも見えるが、その挙措は落ち着いていて、年齢不詳な雰囲気を纏っていた。
「…弁護士さん、ですか」
「初めまして。真希波マリ・イラストリアスといいます。ゼーレ本社の顧問弁護士を務めています。以後よろしく」
 陽気に差し出された名刺と握手を求める手を拒む程の理由はなかったが、その肩書きには緊張せざるを得ない。
「お仕事中に時間を頂いているのですし、ここは端的にお話させて貰います。
 榊タカミさん、あなたの祖父にあたる故キール・ローレンツ、ゼーレ本社前CEOの意向…遺言をお伝えします。その上でご返答は十日以内に。よろしいでしょうか?」
「…また、随分と急なことですね。祖父がついこの間まで存命していたという事実さえ、僕は知らなかったんですが」
 用心深く、真希波マリといった年若い弁護士の反応を見ながら言葉を撰ぶ。
「そこはローレンツ前CEOの意向でもありましたので。…大丈夫、もう一人と相談するぐらいの時間はありますから」
「もう一人…!?」
 タカミは血の気が引く音を聞いた気がした。

***

 時折、遠くにかすかな交通騒音トラフィックノイズを聞くこともある。だが、起きて気をつけていれば気づくというレベルで、その部屋はほとんど無音に近かった。
 傍らの静かな寝息をはっきりと聞き取ることができるほどに。
 枕を占領している、わずかに癖のある銀色の髪は薄闇の中で淡い光を放つかのようで…その所在をはっきりと教える。タカミはその銀色をそっとかきやって半ば隠れていたしろい頬に触れた。
 ―――――夕刻のことだった。
 帰宅直前に入ったメールはカヲルからのもので、夕食の誘いだった。家に帰ってこいという意味だと思って、とりあえず荷物を置くつもりでマンションに帰ると、カヲルがエントランスで待っていた。
「家で待ってればいいのに。わざわざ出迎えかい?」
 鍵を開けながらそう問うと、カヲルはかぶりを振った。
「タカミんとこで食べてくるって、出てきた。どっか出るの?」
 無邪気な笑みの中の、笑っていない紅瞳。思い当たるところがあって、タカミはそれ以上詮索しなかった。
「…いや、何処にも行かないよ。とりあえず入ったら」
 タカミがキッチンで夕食を支度する間、キッチンカウンターでアイスティを傾けながら…カヲルはよく喋った。ほとんどが学校のことだった。新学期が始まってレイが編入してきたことで、カヲルにとっての学校生活は随分と精彩を放つものに変わったらしい。
 クラスメイトや教師など、そこで出会う人々のことも、以前は訊かなければ話さなかったように思う。だが今日は、実はそこまでちゃんと見てたんだ、というようなことまで面白おかしく話して聞かせる。その中に、碇CEOの息子の話も含まれていた。確か、カヲルと同年の筈。…そうすると、綾波レイの異腹の兄ということになるのか。そこの部分はカヲルの話からはきれいに抜け落ちていたが。
 内容よりも、カヲルの楽しそうな様子が愉しくて…タカミは軽く相槌をうちながらそれを聞いていた。
 食事が終わると殊勝にも後片付けを手伝ってくれたが、タカミが気がつくと未成年を一人で帰すには憚られる時間になっていた。送ろうか、とタカミが立ち上がりかけた時、カヲルが機先を制する。
「いっぱい食べたから、なんか眠たくなっちゃった。泊まってっていいでしょ?」
「そりゃ構わないけど…明日、学校は?」
「今日は金曜だってば」
「…そーだっけ…」
 曜日感覚が希薄な仕事をしていると、こんなものだ。
 タカミは大学から一人暮らしを始めている。別にわざわざ家を出なくても、と当初はいたくカヲルの機嫌を損ねたが、頻々と泊まりに来ることでその不平は徐々に聞かれなくなっていった。
 そういえば、カヲルが泊まりに来るのも久し振りだ。
 カヲルが風呂を使っている間に家に電話して、「やっぱりそうなったわね」と笑うミサヲに報告を入れた。タカミが明日勤務かどうかだけを気にしていたが、大丈夫だと返答する。
「カヲルの送りついでに、明日のお昼は食べて行きなさい。ユウキたちも戻ってくるみたいよ」
「了解…ありがと、ミサヲちゃん」
 電話を切った時、丁度カヲルが出てきた。
「ミサヲ姉?」
「一応連絡したよ。明日はお昼食べにおいでって」
「そういえば結構明日は皆が帰ってくるって…何かあったっけ?」
「別に何もないと思うけど…ところで、髪はちゃんと拭いてから出ておいで。雫が落ちてるよ」
「あー…ごめん。もう…眠くてねむくて」
 欠伸をしながら緩慢にバスタオルを被り直す。拭き方が荒いものだからおさまりの悪い髪が余計にはねる。…が、そこへ突っ込んでも仕方ない。とりあえず水気を拭き取れた処でバスタオルを取ってやり、寝室の方へ背中を押した。
「はい、もうおやすみ」
「おやすみー…」
 パジャマ代わりに貸したリネンのシャツは幾重にも袖を捲り上げてはいたが、思ったよりも着丈が余っていないのにタカミは新鮮な驚きを感じた。
 いつの間にこんなに大きくなったんだか。
 もう一度大きな欠伸をしながらふらふらと寝室へ歩いて行くカヲルを、タカミはかすかな笑みすら湛えて見送った。
 散らかったままの浴室を整えるついでに自分も湯を使った後、ダイニングの灯を落として寝室の様子を見た。
 部屋の半分を占めるベッド。その床頭に置かれたフロストガラスのフロアランプが、柔らかい灯を投げている。その光の外縁で、わだかまる銀色の糸がかすかに動いた。
 枕の方は容赦無く占有していたが、一応の遠慮かセミダブルほどの広さのあるローベッドの奥端に寄っている。中途半端な気の遣い方に内心で苦笑しながら、空けて貰っている側へ腰を下ろした。本を読む時のためにクッションをいつも二、三個転がしているから、枕については特段困りもしない。
 カヲルが緩慢に寝返りを打つ。薄く開かれた紅瞳が柔らかな光を映していた。
「やっぱり、起きてたね」
「うん…」
 先刻まであれほど饒舌だったのに、もの言いたげにタカミを見上げたまま…言いかけてはやめる。
 タカミはそれを敢えて促すことはせず、ただ待った。しかし、いかにも待っているというていを見せないように、ゆっくりとランプの脇に置いているハードタイプのカバーのついたブックリーダーを手に取る。
 それを開くほどの間は要らなかった。
「…今日、弁護士の真希波さんって人がうちに来て…いろいろ話して行ったんだ」
 タカミはブックリーダーをフロアランプの脇に戻して、カヲルの方へ身体を向けた。
「…いろいろ、吃驚した?」
「まあね…」
 カヲルが僅かに目を伏せる。
「この間、入院した夜…サキに、『なりたいものってあるか』…って訊かれた」
「何て答えたんだい?」
「『まだ、よくわかんない』って。…実際、実感がなかったし」
「そうだろうね。仕方ないよ。まだ中学生なんだし」
「でも、タカミは僕くらいの時に…もう今の仕事決めてたんでしょ」
「はは…僕はカヲルくんほどいろんな才能に恵まれてないからね。得意なことで仕事ができるならそれがいいな、と思ってただけさ」
「…タカミ、『行き過ぎた謙遜は嫌味にしかならない』って前にサキが言ってたよ」
「カヲルくんも、サキのことを無茶苦茶に言う割に…ちゃんと言うこと聞いてるよね」
 苦笑いしながらも混ぜ返しておく。カヲルもかすかに笑い、そしてその笑みをすいと消した。
「…僕、ドイツに行くよ」
「いいのかい?」
「僕に何が出来るのか、実はまだよく判らない。でも、真希波さんって人が言うように、僕が曾? ?父の仕事を継承することでレイを守れるなら…迷う理由なんてない」
 毅然とした覚悟が、そこにはあった。
「そうか…じゃあ僕も、迷う理由はないね」
 タカミが微笑って、カヲルの銀色の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「タカミも、来るの?」
 カヲルが少し驚いたように問うた。タカミの仕事を知っているからだ。
「ごめん、それはできない。でも、カヲルくんが勉強に行ってる間、後顧の憂いのないようにしておくことくらいは出来るさ。…まあ、多少面倒臭そうなんだけど、バックアップメンバーには事欠かないからね」
「そう…なんだ」
 軽い落胆を声音の中に察し、タカミはあえて笑って見せた。
「寂しい?」
「子供じゃあるまいし!」
 憤然として言い返すカヲル。しかし、今までごく限られた場所だけで生活してきたのだ。不安がないと言えば嘘になるだろう。況してや、行き先は知る人とてない異邦である。
 まるで猫を構うような…言ってしまえば少し雑な撫で方が、不意に止まる。
「ねえカヲルくん。これから何が起ころうと、君は決してひとりになることはない。今はそれだけ知っていればいいよ」
「…うん」
 カヲルにしてはひどく素直にそう言って、緩慢に眼を閉じる。
「サキにも言われた…」
「それは、僕もサキも、ミサヲちゃんやリエさん、ユキノさん、カツミにタケルにイサナに…とにかく皆、君が大好きだからね。君がとても大切だから。皆がついてる。何も心配しなくていいよ」
「うん…ありがと」
 髪に触れているタカミの手に自分の手を重ねて、カヲルが静かに吐息した。微妙に力の入っていた眉間からすっと力が抜けていくのを感じて、タカミが静かに言った。
「おやすみ、カヲルくん」
 返答はなかった。あるいは何か呟くように言ったようでもあったが、程なくカヲルの手が滑り落ちたことで、眠りに落ちたのを知った。
 それからフロアランプを消して、暫く静かな寝息を聴くともなしに聴いていた。
 言うほど楽な道程でないことはわかりきっている。それでも、決めた以上この子は歩いて行くだろう。自分が守りたいと思ったものを守るために。
 羨望に値する、真っ直ぐなつよさ。
 だったら、それを支えることに何の躊躇が要るだろう。

***

 初秋の海。
「流石に、なんだか風が涼しいよね。行ってみよう」
 あのコテージの一件から、実は丸3ヶ月経っていないのが何か不思議な程である。カヲルがレイの手を引いて波打ち際へ駆けていくのを見送って、タカミは少し口許を綻ばせた。
 淡い水色のサマードレスの裾を少しだけ持ち上げて、レイがおずおずと汀に足をつける。打ち寄せた波に足下の砂を流されてバランスを崩しそうになり…そこをカヲルに支えられて、笑っていた。
「全く…見てる方が恥ずかしくなるような甘いデート風景だな。俺は車に戻ってるぞ」
 微妙に機嫌の悪いマサキの声に、タカミは振り返って苦笑した。
「…そこは、幸せそうで眼福だなとか、もうちょっといい感想コメントはないんですか?」
「折角の休みにWデートの運転手に駆り出されたら、普通あまり機嫌はよくないもんだ」
「Wって…別にそういう意図があったわけじゃありませんけど。だって、サキもリツコさんも昼過ぎまで仕事抜けられないって言うから、僕らだけ集合が遅くなったんでしょ。多分もう、皆コテージに集まってますよ。まあ、適当に遊んでるとは思うけど」
 木陰の恩恵を受けた岩場に腰掛けて、日傘を傍らに畳みながらリツコがくすくすと笑う。
「おまえな…」
 車のキーを弄ぶ手を止めて、マサキが嘆息する。だが、それ以上タカミには何も言わずにリツコの方へ視線を投げた。
「…赤木さん。お願いだからこの天然をしっかりしつけといてくださいよ。流石にそろそろ面倒見切れない」
「…物凄い言われようだなぁ」
 タカミが鼻白む。日が落ちるまでには戻ってこい、と言い置いて車に戻っていくマサキを見送って、リツコが笑いを抑えながら言った。
「この際、コメントは差し控えるわね」
 リツコの感想に、タカミが少しだけ複雑な表情で暮れかけた空を仰ぐ。だが、続けられた言葉にゆっくりとリツコに視線を戻した。
「…正直なところ、あなたがあれほどあっさりカヲルくんのドイツ行きを認めるとは思わなかったわ」
「どうして?」
「どうしてって…。すごく、大事にしてるでしょう」
「カヲルくんが大切なのは、僕だけじゃないし…腕の中におさめておくことだけが大切にするって事でも無いでしょ。あの子が望むなら、僕がその道を妨げることは決してありませんよ」
 タカミが微笑う。リツコが小さく息を吐いた。
「私も含めて…レイちゃんの傍に、そう言い切れるだけの意志を持った大人がいたら…あの子ももう少し様子がちがっていたのかしらね」
 少しだけ心細い、重みに耐えるような声音。タカミがリツコの傍に寄り添うように腰掛けて、軽い口調で言った。
「大丈夫、まだ遅くないですよ」
 夕刻の風にレイの白い麦わら帽子ストローハットが飛ばされそうになり、危ういところをカヲルが捕まえる。…が、バランスを崩して汀に片膝をついてしまった。カヲルは構わないふうであったが、レイが慌ててポシェットからハンカチを出して膝の砂を払う。その動作でワンピースの裾が濡れるのに気づいていなくて、今度はカヲルが慌ててレイを水際から遠ざけようと苦慮するのが見てとれる。
「…遅くなんか、ないんです」
 その光景を柔らかい笑みで眺め遣る。
 ――――キール・ローレンツ前ゼーレ本社CEOの遺産は、その社会的地位を思えば決して莫大とは言えなかった。どうやら生前、かなりの部分を寄付という形で処分してしまった所為らしい。弁護士・真希波マリに言わせると「相続人に危険が及ぶのを回避する」というのが第一にあったらしいが、それでも個人資産としては大きい。
 子供達が育った療養所も随分前に買い取られ、キールの個人所有に変わっていた。それを含め、日本とドイツにあるいくつかの不動産がカヲルに相続される手続きを進めることについて、タカミは同意を求められたのだった。
 閃光の中に消えてしまった義母のことしか記憶になかったタカミとしては「父親」という言葉に、そういえばそんなものも居たはず、という至極曖昧というより淡泊な感想しか持てなかった。況して十以上歳の離れた姉という話は、晴天の霹靂としか言いようがなかった。
 カヲルの母、Angel-01こと「ナギサ」…セラフィン・渚・ローレンツは当時顔を含めて上半身の火傷が酷く、片腕を切断していた。とても顔で判別がつく状態ではなく、意識状態もあまり良くなかった。しかし、救助に当たっていた者にはなんらかの確認手段があったはずである。今にして思えば一度だけ、観察室の硝子越しでなく直接の対面がタカミに許されたのも、タカミが思っていたように母の可能性があったからではなく…間違いなくタカミの実姉であることが確認できていたからに違いない。
 父親は結婚に際してドイツを出奔、十五年近く音信不通であったという。それがタカミが生まれて間もなく母親が死亡、タカミの記憶にある女性と再婚するが、その際にセラフィンは父親の籍を抜けて祖父であるキール・ローレンツの養女となっている。ゆえに事故の時はローレンツ姓を名乗っていた。
 何があったかは、当事者が残らず墓の下となった今では知る由もない。
『…ま、ざっくりまとめるとそういうコトです。順番とか年齢から言ってあなたが後継として指名される可能性もあったんですが、ローレンツ姓をきっぱりお断りになったあなたの父上のこととか、今のあなたの立場とかを勘案すると…まあ、そっとしとけという話になりまして』
 学生にも見えかねない若い弁護士はそう言って肩を竦めてみせた。
 立場、というのは技術流出を忌む国の機関に身を置いていることを言うのであろう。然もありなん、基本的に出不精な質なので自身はまったく不自由を感じたことはないが、タカミは海外渡航に関して少々喧しい制約を受ける身の上であった。
 カヲルについていてやりたくても出来ないのに、面倒事ばかり押し付けることになるのはタカミにとっても心苦しい処ではあったが、その代わりに後見人を引き受けることになる。要はカヲルが成人するまでその財産管理をしろということだ。
「正直なところ、財産管理って言われても僕だけじゃどうしようもありませんけどね。ぼくらの家がうっかり人手に渡っちゃっても困りますし、皆に協力して貰いながらがんばってみようかなって。ま、随分な資産家だったようだし、やり方さえ間違わなければ決して悪い話じゃありませんからね」
「それで、今から行くコテージ?…でもこの番地アドレスって…」
「…ええ、そうです。…日本法人のほうでも? ??なりゴタゴタして、その加減でレイちゃんが自由になれたっていう経緯がありましたよね。日本法人のCEOも資産を相当処分しようとしてたらしくて…もしかしてと思って調べてみたら、やっぱり手放す話になってたんです。
 だから、例の顧問弁護士さんにお願いして、押さえて貰っちゃいました」
「…存外手が早いのね」
「褒めて貰ったって思っていいですか?」
 そう言って、悪戯っぽく笑った。
「レイちゃんが適応障害であっちこっち転々としてた中で、あそこに居るときが一番落ち着いてたって話をカヲルくんから聞いてましたから。カヲルくんも二つ返事でしたよ。
 …と、そろそろ行かないと」
 空に蒼然たる暮色が迫るのを見て、タカミが腰を上げる。カヲルも丁度レイの手をひいて戻ってくるところだった。

***

 そこから五分ほど車で走ると、砂浜に朽ちかけた廃船が見えた。
「…あ…」
 それを見つけたレイが小さく声を上げた。
「…また、来られたね」
「また、行こう」
「来年も?」
「来年も、その次も。その次の次の夏も」
「…うん。嬉しい!」
 レイが微笑む。
 もうすぐカヲルがドイツへ発つことも聞かされている。少し心細げに…「また逢える?」と問われて、カヲルが「絶対!必ず!」と即答したら、じゃあ待ってるね、と明るく答えたという。
 車が減速し、コテージの敷地に乗り入れる。
 所有者が変わったところで、特に手を入れたわけではないから、かつての佇まいと何が変わったわけもないだろう。が、その風景には柔らかさがあった。コテージには灯がともり、庭ではバーベキューの用意が進んでいる。マサキがそれを見て苦笑した。
「やってるやってる。…それにしても好きだなあいつら。バーベキューなんてこないだやったばかりだろうに」
「手間が少ないですからね。ミサヲちゃんは手伝わせ易いから面倒がないって言ってましたよ。夏も終わりですし、前回折角の花火を上げ損ねたってタカヒロがぼやいていましたから、多分盛大にやらかすつもりですね」
 停まった車を見つけて、子供達の何人かが駆け寄ってくる。
「そうだな、夏が終わるか…」
 「行っていい?」という言葉が巧く出てこないらしく、レイがリツコの顔をひたと見つめる。リツコは優しくその頭に手を載せて言った。
「行ってらっしゃい」
「うん!」
 はじけそうな笑顔。カヲルのエスコートで車を降りると、幾らも歩かないうちにミスズとユカリに捕まった。
「きゃー、レイちゃんいらっしゃいっ!!」
 妹ができたようで嬉しいのか、この二人は殊の外レイを気に入っているようだった。些か手荒いハグに眼を白黒させながら、抱えられるようにして庭へ入っていく。
 そんな微笑ましい光景を、リツコが車のドアに凭れたまま見送った。その背中に、マサキが少し抑えた声で言った。
「そういえば赤木さん、あの子の親権、れたそうですね」
「耳が早いわね。…今更だけど、私に出来ることをしたいの。あの人もね、今更争うつもりもなかったみたい。…綾波さんがあんな形で亡くなって、あの子は存在すら秘匿された。実際には認知だって宙に浮いてたのよ。それでも、手放せなかったのね。
 …可哀相な、ひとだわ」
「可哀相、ね…」
 今ひとつ腑に落ちないという顔でマサキが呟き、降るような星を仰いでから歩き始めた。後には、リツコとタカミが残される。
「さて…こんなところで突っ立ってても仕方ないし、行きましょうか?」
 そう声を掛けて歩き出したリツコだったが、ふわりと背が温かくなって思わず足を止める。背中から抱きしめる腕には、シルバーのチェーンブレスレットがあった。
「ごめん、リツコさん…」
 遠くの灯火を受けてゆらゆらと光る、小さな切痕きずの入ったプレート。それへそっと指を添えて、リツコが問い返す。
「…どうしたの?」
「あの時…すごく怖くなった。…あなたの心の中に、誰か先に住んでる人が居るのかと思ったら…怖くて、何も考えられなくなったんだ。だから逃げた。…本当に、ごめん…」
 相当溜め込んでいたようで、かすかに声が震えている。
「…困った人ね。…まだ気にしてたの」
 耳朶をくすぐるほどに近い栗色の髪に手を遣って、リツコは笑った。
「あなたにちゃんと謝ってなかったし…メールのことも」
「そうだったかしら」
 リツコの中では既に報復リヴェンジまで終わっていることだけに、改めて言われてみるまで思い至らなかった。無論この際、謂れのない報復とばっちりを受けたマサキの事情はまったく斟酌していないが。
「…謝りたいのは、私もなんだけど…」
 その声は、あまりにも小さかったのかも知れない。あるいは、声にならなかったのかも。

 いつから、想っていたのだろうか?

 …多分、バレッタを届けてくれたときから。
 『理論ロジックじゃない』心の動きに自分でも驚いていた。恐ろしくさえあった。説明がつかない。理由がない。結果も見えない。…どうしていいか判らない。
 しかし、それを外側から悟られることは敗けを認めてしまうような気がしていた。だから、最初はその心の動きを認めることさえ強烈に抵抗があった。
 今にしてみれば可笑しくすらある。誰に、何に敗けるというのだろう。
 そのくせ、他愛のない話をとても嬉しそうに聞く、学部すら違う五つも歳下したの後輩に逢う時間を作るために…気がつけば予定を詰めている自分がいた。
 説明がつかない。
 理由がない。
 結果も見えない。
 …どれも、自分が一番嫌いなコトの筈だった。進むことも戻ることも出来ない自分の姿を、ひどく無様とも思った。
 更にリツコを戸惑わせるのは、向こうがある程度の距離を置こうとしていることだった。世間並に、逢って話をして、食事に行って。お互い就職してしまうとまとまった時間さえ取りにくくはなったが、それが途切れるわけでもない。しかしそこには常に、微妙な距離があった。
 友人と言って差し支えない関係が、それほど居心地悪かった訳ではない。だが、彼がそれをどう思っているかが気にならなかったと言えば嘘になる。それが歯痒い。
 だが、微妙な距離になんとなく踏み込み損ねているうちに…その時は来てしまった。

 ―――――秘匿されたAngel-02、綾波レイ。

 母の研究に関わったことで、リツコは彼の背負うものを知ることになった。
 人好きのする微笑に隠した、絶対境界線。その理由。
 知らなければ良かった。もしくは、知る前に一歩踏み込んでしまえば良かったと後悔した。しかし、知ってしまった後では…興味で近づいたと思われるのが、怖かったのだ。
 …私は弱い。何も喪うことが出来なくて、何も行動を起こせなかった。
 レイのこともそうだ。ひとの温かみから隔絶されて育たねばならなかった少女レイ…自分に出来ることがある筈と思いながら、あの子にも何も出来なかった。
 還してあげるべき場所がすぐ近くにあるのに、自分が結局、無力だと思い知らさるばかりで。
 もっと早く、言えたら良かった。もっと早くに、一歩踏み出せば良かったのだ。…多分、お互いに。
 指に絡めて弄んでいた、少し癖のある栗色の髪の一房を…リツコが軽く引っ張った。然程痛みを伴うものではなかったが、不意のことで、タカミの腕が緩む。その隙に、リツコはするりと腕から逃れてしまった。
 向き直り、出会った頃よりもすこし位置の高くなった孔雀石の翠マラカイトグリーンを見る。
「遅くなんかない。…そうだったわね。じゃあ言うわ。
 私があなたに逢うために時間を作ってたのは、あなたがAngel-11の刻印を持つ者だからではなく…あなただったからよ。
 だから、そんな情けない顔しないで頂戴」
 やや強引に腕をほどかれ、なんとも言えない表情になってしまったタカミの狼狽を、少しだけ愉しんだ。そして、少しだけ寄り掛かる。爪先立った姿勢を、タカミが自然に支えた。
「情けない顔で済みませんね。…じゃ、ちょっとの間でいいから…目を閉じててくれませんか」
 リツコが笑う。
「いいわ」
 唇を重ねる。リツコはバレッタとブレスレットが触れて、耳の後ろでかすかに澄んだ音を立てるのを聴いた。

 ―――――あとは、潮の音。

――――――――Fin――――――――


Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「Angel’s Summer」


「夏服 最後の日 」reboot に関するAPOLOGY…..


完結‼

 はい、「夏服 最後の日」これをもちまして全編のお終いでございます。

 タイトルが大嘘になるのはいつものことだから、ここは笑って流していただければ幸い。…書き始めたときのコンセプトなんぞ、およそ十七年も前ですから、疾うの昔に頭の中から散逸しております。データが残ってたのが不思議なくらい。煩悩だけが褪せてなかったというのも救い難い話ですが、タイトルから察するに「海のあるリゾートのらぶすとぉりい」っ気なものをやるつもりだったのは確かですね。なんたって杉山さんですから。(<しつこい)

 …しかし、その通りになったかどうかは…微妙。

 書き始めたら話が膨らんじゃった、というノリは「遠雷」とか「Snow Waltz」あたりと同様(…てか、いつもと同じ)なのですが、今回ヒドいのはこれがまるごと天井裏なお話だということです。天井裏シリーズの経緯をご存知ない方にはこれがエヴァのSSなどととーてい思えないことでしょう。それでも書いちゃった。ははは。(大家には物も言わずにしばかれましたが)

 今回、リリンの役者が足りなくなったので真希波マリさんにも出演していただきました。新劇場版を入れると使徒のナンバリングがややこしくなるので割愛、というのが大家のスタンスですが、ノンポリ天井裏はそんなことちーっとも気にしません。海千山千の顧問弁護士!…結構ハマりました。「あはっ、やっちゃったぁ♪メンゴ~」でミスを笑い飛ばしそうですね。いいのか弁護士、そんなんで。

 役どころとしてはキール爺さんの懐刀として暗躍してた腕利きで、若作りだけど実は結構歳がいってそうです(<新劇場版にはそーいうネタもあるらしいし)。周囲を慮って孫であるカヲルを手元に呼びたくても呼べなかった爺さんに代わって、諸々の手続きをしてた人です。下手するとタカミのお父さんとも面識ありそう。だからキールの遺産整理について相応の権限を持たされていたのでしょう。続編があったら美味しいところをさくっと攫っていきそうで怖い御仁です。

 弁護士、というと…あんな酷い役回りで退場しなければ、加持さんにお鉢が回ることは十分考えられました。しかし今回は落選。今回のお気の毒大賞は間違いなく彼ですね。(サキもさんざっぱらヒドい目に遭わされてるけど、相応にイイ目もみてるので次点ですな)

 で、そのサキですが。

 Ⅱまでのノリが嘘のように退き気味、どっちかとゆーとタカミ君に引きずられる感じでずるずると関係を続けていたっぽいのは、ひょっとすると死ななくて済んだ所為かもしれません。

 天井裏の「濡れた髪のLonely」では既に死んだことにされてますが、「僕が、さよならを聞いた夜」に始まって、「彼女と夏と学術書」でその死亡を示唆されるまで、結局自分の寿命のこととか、消えていく仲間のこととかで不安定になっては不味いと思いながらタカミ君に寄り掛かってたというキャラでした。お軽そうに見えて苦労性なところは共通ですかね。

 今回はとにかく、自分の目の黒いうちは自分と自分の身内に手出しさせやしないぞという姿勢スタンス。何者!というぐらい図太いなぁと思いながら書いてたら、15禁かい?という過去話に行き着いてしまいました。結構ヒドい目に遭ってたのが大人不信のベースだったようです。んでもって、タカミ君みたく状況流され型ではなくて紛れもない真性ですが、実は女が駄目ということもない。
 今回は書き損ねましたがね。ふふふ。

 そのサキになんとなーく反発しながら実は結構認めてたらしいカヲルくん。気にくわないけど一応正論、と思っているのでしょうね。タカミ君はとりあえずツラいときに頭撫でて匿ってくれるけど、サキは面倒くさい正論をガッツリ突きつけてくるキッツい身内、という認識と思われます。頭いいけど性格はまだまだ子供ガキですね。世に言う「貞カヲ」に近いでしょうか。レイちゃんと幸せになってください、以上!

 それでは皆様、次回まで万夏が正気でいたら・・・・・いや、何も申しますまい・・・・・・(^^;

2017.7.30

暁乃家万夏 拝