砂礫のアリア Ⅲ
「…そいつ、ルフトシャンツェに連れてくるのか」
ある日、リヒャルトの腕…正確に言えばもう痕だけになってしまった腕の傷を見ながら、アーニィがふと訊いた。
どこから聞いたのものか…この人の好い瓜坊はこの傷をすこし気に掛けているらしい。対抗意識というほどのものではないようだが、自分が数年掛けてまだ一撃入れられない相手に、初見、不意打ちとはいえ外から見てはっきりと判る傷をつけた者に興味がないと言えば嘘になるのだろう。
「…ああ…多分、それはない」
リヒャルトは即答した。
「…どんな奴?」
常は必要以上の会話をしようとしないアーニィが、やけに食い下がるのが面白くて…リヒャルトは少し大袈裟にその顔を覗き込む。
「気になるのか?」
揶揄うような問いに、アーニィが不貞腐れたようにふいと他所を向いた。
「別に…でも、あんたが気に掛けてるみたいだったから」
「ふーん…」
珍しいこともあるものだ。
俺がアースヴェルテの外で誰と逢い、何をしようが…お前、いままで気にするどころか訊いたことさえなかっただろ。リヒャルトはそう言ってやろうかとも思ったが、ここで話を拗らせても何の得にもならない。
あれは違うのだ。何かが。
素養はあると踏んでいたが、あの少年はアースヴェルテという組織の中で飼える類の人間ではないだろう。第一、そんなことをしようものならシェンロウに撲殺されること請け合いだ。
それなのに、何故…自分は繁々とイェンツォへ足を向けてしまうのだろう。
答えは、まだ出ていない。だからリヒャルトは巧く説明することはできなかった。
「心配しなくても俺の後継者はお前だ、アーニィ。だから修練に励んで早く俺に楽をさせろよ。…まあ、面倒な条件つけずにとっとと譲っちまう、って選択肢もあるか…」
「…別にあんたの勝手だけど…なんかつまんねぇ」
「ほう、大きく出たな」
アーニィがやおら向き直った。いつもより言葉の調子が強い。
「あんた、いい加減すぎんだよ! あんたが本当に認めてくれなきゃ、意味ないだろ」
存外真剣な様子に少し驚き…リヒャルトは、声を立てずに笑った。
寝返りもまともに打てない頃に、篭に詰められてルフトシャンツェの岩間に遺棄されていた赤児が自分を確かめるものは…今のところ自身が身につけた技術だけだ。コンラートからアーニィを預かった時に聞いた話を思い出す。
そうか、まだ何も変わってはいないのか。
子供扱いするなと気炎をあげて嫌がるから滅多にしない。が、リヒャルトはその時、アーニィの肥沃な大地の色をした、癖毛の頭に軽く手を乗せた。
「そんな偉いもんでもないんだがなぁ…」
***
シェンロウの家の裏手は、ルフトシャンツェと似たような砂礫だらけの岩山だ。
その岩山に、サーティスはシェンロウの手伝いの合間を縫って通っているという。どうやら件の古文書の解析がかなり進んでいるようで、それを手がかりに岩窟の奥にある遺跡を調べているらしい。文字通り寝食を忘れかねない没入ぶりに、シェンロウがまた気を揉んでいる。昨今、膝を悪くしたとかで…姿が見えなくなっても探しに行くことさえできん、とぼやいていた。
だからその日、リヒャルトがシェンロウの家を訪ってもいつもの渋面をされなかったのは…様子を見に行くことを期待されたからに違いなかった。
リヒャルトが教えられた道を辿って着いた岩窟。その入り口の岩陰に、サーティスはいた。
自分で持ち込んだと思しき携行用の椅子に座を占め、岩山の地形図と写本を抜粋した覚え書きを広げて思案の最中。リヒャルトが声をかけるまで顔を上げることもしなかったのは…それだけ集中していたのか、それとも注意を向けるに値しないと思っていたのか…微妙なところだった。
「お久しぶりです。良く此処が判りましたね」
幾分伸びてきた金褐色の髪を後ろで束ねている。その所為か、双眼の翠がより明らかになる。それは、静謐でありながら生命力に満ちた…初夏、一斉に萌え出る若草の色彩。
「シェンロウが教えてくれた。あの爺さん、お前のことが心配でたまらんらしいぞ。…それを思えば、よく俺に道なんか教えたもんだ。以前はそれこそ、来る度に塩を撒かれかねなかったが」
サーティスは微苦笑をうかべて帰り支度を始めた。
「沈大夫だってもう、理解っておいでですよ。あなたが…本当は、何もしなかったことぐらい」
「何も…というと、語弊があるな。お前だって、ここに来た頃には…俺とはろくに口を利かなかった。赦されてないものと思っていたが」
「赦す…?」
サーティスがひどく不思議そうな表情で手を止め、リヒャルトを仰ぎ見た。
…この、眸だ。
このあやうさを含んでいるくせにひどく透徹したまなざし。怜悧といえば聞こえは良かろう。だが、一歩間違えば魔物。シェンロウに牽制されてこの距離で直接会話を交わすことなど久しくなかったが、会う度に思う。
ややあって、サーティスが笑った。
「あなたが拾ってくれなければ、私はあのまま獣の餌になるところでしたよ。助けてもらっておいて、何も返せていない私の方が赦しを乞わなきゃならないくらいだ。…ああ、その傷のことも…ね」
微かな笑みのままリヒャルトの腕に視線を投げ、サーティスは帰り支度を再開する。地形図と覚え書きの他、筆記用具と何やら測量器具と思しき物まであった。やはり相当に基礎知識の守備範囲は広いものと見える。
リヒャルトはサーティスが年季のいった革鞄にそれらをしまうのを見守っていたが、徐にその頬に手を伸べた。
「…何か、返してくれるつもりはある訳か…」
リヒャルトの手を振り払うでもなく、静かに鞄を措き…サーティスは促されるままに再び貌をあげた。微塵も揺るがぬ、翠の眸。
「あなたもご存じのとおりの身の上でね。今の私には何もない。情けないほど力なき身がここにあるだけだ。今は力を得たいと足掻いている最中のことで…まだ何も持ち合わせがない。
そんな私に…何を、望むんです?」
ひどく冷え、錆びた声。そこにあるのは温順な書生の貌ではない。あの夜、細い月光が差し込む藁の褥でひどく挑発的な光を放った翠色。あの時よりも随分と血色がよくなり、濡れ光るかのような唇を…リヒャルトは顎を捉えた手をずらし、指先を伸ばして軽く撫でた。
「…今ここにあるものを」
完全に詰みだと言った。好きにしろと言った。それでも敢えてそれ以上触れなかったことを、リヒャルトは悔いている訳ではない。ただ、骸にも等しい身体を力尽くでものにするようなことは…したくなかった。
最悪の場面でも決して生きることを諦めない輝きこそが、美しい。だから、もう一度見たかったのだ。〝今ここにあるものを〟。
シェンロウから露骨に煙たがられながら、アースヴェルテに迎え入れる意図があったわけでもないのに、頻々と足を向けてしまった理由を、リヒャルトは今…得心した。
革鞄の傍には、あの剣が置いてある。外出するときには常に携えているという。サーティスにとってただの武器というより、大切な何かの依代であるようだとシェンロウが言っていた。それを喉元に擬せられたとしても、今はこれが欲しい。
指先でゆっくりと数度撫でた朱唇に、唇で触れる。最初は軽く。一度離れてから、もっと深く。…拒絶はなかった。硬直しているだけ、という可能性も絶無ではなかったが、構わずリヒャルトは思うさまその唇を賞玩した。
余韻を愉しみながらゆっくりと離れた時、そこには…面憎いほど些かの感情の揺れもなかった。
「…是非もない」
サーティスが薄く笑って立ち上がり、鞄と剣を肩にかけて岩窟の奥に足を向ける。…そして続けた言葉は、ひどく恬淡としていた。
「いいですよ。こちらへ。でも、がっかりしないでくださいね。…それほど上手じゃないと思うから」
調査をしていて偶然見つけたという岩室は、備蓄倉庫のような様相を呈していた。家のある山麓よりもさらに乾燥しており、しかも気温が若干低い。直接陽が当たらず温度変化も少ない。多少家から遠いのが難点だけれど、と笑って言った。
細い灯火が揺らめく下、敷かれた薄縁に片胡座で座を占めてリヒャルトを仰ぎ見るその双眸には、怯えの翳りはなかった。
「性急なことだな」
揶揄うように言ったが、サーティスは動じなかった。
「〝今ここにあるものを〟って言ったのはあなたですよ。それに、家に戻って…とか…大夫に扼殺されたいですか?」
「違いない」
リヒャルトは笑い、その傍らに膝をつくと改めてその繊細な顎の線に手を掛けた。指先で唇をなぞると、その指を薄い舌先がさらりと舐めた。
「何が佳いのかわかりませんけれど。…あまり酷いことをされると、発作的に喉を掻き切るかもしれませんからそのつもりで。この剣を汚したくはないんですが、あなたはいろいろ隠し持ってるから」
鞄と剣を壁際へ寄せながら、笑いもせずにそう言い放つ。…やはり魔物。
「…気をつけよう」
そう言って口づける。鄭重に歯列を割って上
顎に舌先を這わせても、今度は喉奥で呻いたりはしなかった。拙く応えようとする舌を絡め取って、リヒャルトは金褐色の頭と相変わらず繊い肩を両腕に収め…薄縁の上へ緩々と押し倒した。
***
〝何が佳いのかわかりませんけれど〟。
そう言い切った…ひどく透明な眼差しは、薄縁の上に横たえられたときから固く閉ざされていた。
あれだけ酷い目に遭ってしまうと、そういう感想に落ち着くのが自然というものだろう。行為そのものが苦痛にしか結びつかなければ、発作的に相手の喉を掻き切りたくなるとしても不思議ではない。
しかし、緊張の解けきれていない身体を丁寧になぞってゆくと…リヒャルトはそこにかつて丹念に慈しまれた痕跡を感じた。
目を瞑り、耳に入る全てを意識から閉め出し、ただ与えられる感覚に総身を委ねようとする姿は…息が止まりそうなほどの艶を帯びて、また哀しい。身を震わせ、掠れた声を上げてリヒャルトの胸に取り縋っても、その眸は閉ざされたままだ。微かに開かれる事があっても、色彩も定かでないほど潤んで焦点を結ぶことがない。
ああ、喪ったのだな。
余韻に震える身体を丁寧に宥めながら、リヒャルトは確信を深めた。
死別か、生別か。強制されたものか、自ら択んだのかはわからない。…ただ、それは『力無きが故』。
衷心から慈しんでくれた者を、自らの力無きが故に喪った。…だから、どれほどに身を堕としても生き延びる覚悟をしたのだ。
何を得たら、この渇きが癒やされる日が来るのだろう。イェンツォでの穏やかな生活が、いつかそんな日をもたらせば良いが。
最悪の場面でも決して生きることを諦めない輝き。それをただもう一度見たかった。見られればもう、それで気が済むと思っていた。
だがその正体を識ったら…捕まってしまったことを、認めざるを得なかった。
リヒャルトは半身を起こし、硬い岩の上に薄縁を敷いただけの褥で微睡むサーティスを抱き上げた。
寝乱れた金褐色の頭を抱き寄せると、少し大儀そうに小さく唸るから、宥めるようにその髪を梳いた。
――――俺もとうとう、焼きがまわったかな。
***
シェンロウはリヒャルトが相変わらず用もないのにイェンツォを訪うことについて、もうあまり喧しいことは言わなくなっていた。
最初の経緯が誤解を多く含んでいたのに気付いたのもあるが、シェンロウ自身が体力の衰えを感じ、遠からずひとり残されるであろうサーティスに、頼る先を確保しておかねばならないと思い始めたからだ。
しかし、ある時期を境にふつりと訪いが絶えた。最初は放縦、気紛れな男がふと興味の対象を変えたのかと思っていたが、用事があってコンラートと書簡の往復があったときに…そうではなかったと知れた。
***
「…もう、気に病むのはよせ」
肥沃な大地の色の、癖の強い髪の少年は、その日も黙々と投げ刃の手入れをしていた処を長に呼ばれて岩窟の最奥にいた。
「お前はリヒャルトの言ったとおりにした。…その結果だ。リヒャルトにしたところで納得ずくだったのはわかっているだろう」
「…わかってる」
口ではそう返答したものの、ひどく昏い眸だった。膝の上に措いた拳を握りしめる。
「でも、なんで止めるか避けるかしなかったんだ」
「…それができなかった。それだけだ。修練用でも刃を潰すなといったのは奴だ。皆知ってる。誰もお前を責めたりはしとらん」
「…知ってる」
また、返答と裏腹に眉間に縦皺を寄せる。
「でも…俺は生きてるリックに認めて欲しかった」
「奴は認めた。この足の悪い年寄りを臨終の床に呼びつけてな。最期まで我が儘な奴だった。奴が認め、世界蛇コンラートが認めた。何の不足がある。
仕事が入っている。期日も短い。お前でなければ無理だ。いい加減に義務を果たせ、アーニィ。
…いいや、怪狼エルンスト」1
「Jawohl…」
短く応えたその一瞬だけ、完全に表情から感情は消えていた。
少年は長に一礼して立ち上がり、岩窟を出た。
新たに与えられた部屋へ戻ると、手入れの済んだ投げ刃を仕込むための帯を取り、一つ一つ差していく。譲られたばかりのそれを身につける時、少年は静かに毒づいた。そこには、口惜しさと綯い混ざった寂寥が滲んでいる。
「…あんた、いい加減すぎんだよ」
***
リヒャルトが修練中の事故が元で命を落としたと聞いたとき、サーティスは自分でも呆れる程に何も感じなかった。自分はそれほどに感情を摩滅させていたのだろうかと、暫く愕然としてしまった。
あれほどリヒャルトのことを悪し様に言っていたシェンロウでさえ、その報せをサーティスに告げた時はひどく落胆していたように見えた。だから、余計に。
助けて貰った恩があるから、欲しいと言われれば与えられるものは与えた。ただそれだけ。それ以上の何かを、サーティスは探すことができなかった。
…あれほど逢瀬を重ねたくせに。
それから暫くして、シェンロウは自身が大陸を渡り歩いていた頃に使っていた大剣を打ち直させ、サーティスに渡した。…曰く、
「お前の剣も良い品だが、そろそろお前には軽くなっているだろう」
それは、サーティスの見解と一致していたから…サーティスは素直にその剣を受け取った。そして今までの剣と、シェンロウが与えてくれた剣を振り比べ、シェンロウの観察眼の確かさに改めて心服する。そして、そのことがまた…サーティスにひとつの決心を促した。
家の裏手にある、その地下に大陸暦以前の遺跡を抱いた岩山。風が吹き渡り、イェンツォ郷を一望できる砂礫の尾根に、サーティスは立った。
幸いにして、イェンツォに居を定めて後は人間相手に剣を振るうような事態には遭遇しない。だが、修練を続けるうち、マーキュリアの遺品である剣が、自身の膂力と釣り合わなくなっていることに気づいていた。
心は置き去りに、身体だけは確実に成長する。そのことを喜べばいいのか、悲しめばいいのか。今のサーティスには判断がつかない。
手許に残ったのはこの剣だけ。あとは全て喪った。
ゆかしさから手放すこともできず、さりとてなおも縋ろうとする自分が厭わしくもあった。
いつまでも、自分が握っている訳にもいかないのに。
いつまでも、縛っていてはいけないのに。
そんな想いから、此処へ来た。
この辺りは砂が細かく、風の具合によっては砂の流れが音楽にも似て聞こえる。風のアリア2のように。
剣を包んできた布を払い、鞘から抜く。その白刃にそっと口づけてから、砂礫の大地へ一気に突き立てた。
浅ければ砂の層を越えず、すぐに倒れてしまう。だが、剣は砂の層を刺し貫き、岩混じりの大地にその身を沈めた。その手応えを感じて、柄にもう一度頬を寄せる。
こんな処まで連れてきてしまって、済まなかった。だからもう、眠って。
包んできた布が風に煽られて飛び去る。サーティスは鞘を砂に埋めて、立ち上がった。
――――――――Fin――――――――