時に、冬神に魅入られた者が森に消えることがある。
 その殆どが、二度ともとの世界に帰ってくることはない。ただ、誰かが森に消えた年は常よりも寒さが緩み、雪崩が里人に被害を及ぼすこともないと言われる。
 ゆえに里人は、冬神に魅入られた者が森に消えることを凶事としない。


Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS
「Snow Waltz」
Snow Waltz <中編>

 ステンドグラスが割れる音、吹き込んだ風が祭儀所の調度を薙ぎ倒す音に、使用人達が起き出してきたとき、そこにいたのは梯子の下で頭を抱えて震えているシンジだけだった。
 窓という窓はすべて鍵が吹き飛んで開け放たれ、荒れ狂う風に蝶番が耳障りな悲鳴を上げていた。酷いありさまに使用人達が事の次第を尋ねようにも、ただ「ごめんなさい」を繰り返して青ざめた唇を震わせるばかり。
 だが、少し遅れて館主がそこへ一歩足を踏み入れたとき、形相が変わった。
 館主が足早に蹲るシンジに近づいたかと思うと、使用人達が止める間もなく凄じい勢いで平手が飛んだ。
 シンジの身体は吹き飛び、背後の梯子で頭を打って昏倒した。
「・・・・・莫迦者が・・・!」
 それは言葉というより唸りに近かった。
「山狩りだ。勢子を集めろ」
 頽れたシンジを抱き起こした使用人達に、冷然と言い放つ。
「マローズの子が逃げた。森に逃げ込む前に捕らえろ」

***

 彼は小さい頃から、あまり外へ出して貰ったことがなかった。
 ある年に病気をして、完治はしたが医者からもっと外気にあたったほうがいいと指摘された。父は渋ったが、結局狩猟祭に彼を伴ってくれたのだった。
 何もかもが珍しく、そして新しい。喜んだ彼は、こっそり馬車を降りて薄雪のかぶった木立ちの中へ分け入ろうとした。
 父はそれを見つけ、警告した。だが、珍しいものばかりの外界に触れた子供が、そう簡単に引き返せるわけもない。警告を聞き流し、さらに奥へ足を踏み入れる。
 近侍の者はそれを微笑ましげにみていたが、主の手にしたものに気づいて表情を凍らせた。
 三度目の警告は、発砲と同時。雷鳴とまがう音に、近侍の者達は声もない。
 彼は倒れた。片足を撃ち抜かれて。

 カヲルが父の異常を確信した・・・というより確信せざるをえなかったのは、その時だった。
 父はカヲルの手当てを命じたが、以後完全に外出を禁じた。窓は開かぬように施錠され、隠封が施された。
『お館様はカヲル様が冬神マローズに魅入られるのを恐れていらっしゃる』
 使用人達の噂を、カヲルは必死で信じ込もうとした。そうでなければ撃ち抜かれた脚の痛みに耐えられなかったから。
 だが、そんな祈りにも似た思いも砕かれる日が来た。
 また雪が降った夜のことだ。
 ――――――カヲルは、雪風が窓を鳴らす音を聞いていた。
 それに聴き入っていた所為かも知れない。扉が無遠慮に開けられるまで、それに気づかなかった。扉の開け方、そこからの足音、そして近侍の者が控える様子から、カヲルは入ってきたのが父だと知った。
 近侍の者をさがらせ、父がすぐ側に立つのが分かった。
 およそ見舞いという言葉とは無縁な人だということは理解していたつもりだった。だから、動けないカヲルの寝台の側に立った父から感じたのは恐怖だけだった。
冬神マローズが来る・・・・・」
 カヲルはそれをまだ、今年の根雪となるであろう今夜の雪の比喩としか捉えていなかった。大きく硬い手に顎を捉えられ、さすがに身を硬くする。
「その眼・・・その髪・・・そのままだな。冬神マローズ・・・いかに手を尽くそうと帰しはせん・・・・」
 言葉に揺らぎはない。だが、僅かな息づかいの変化で、カヲルは父が笑いを浮かべたのを知った。
 次の瞬間、カヲルは呼吸を停めた。
「・・・・・っ!」
 やおら癒えかけた足の傷を強い力で捕まれたのである。声を上げなかったのがいっそ奇跡だった。
「この足なら、今冬中は歩くのは無理だな」
 言いつけを破ったのは自分。その自覚があるからこそ、今の今まで口答えはしなかった。だがその言葉、嘲弄さえ含んだその声音に思わず声をあらげる。
「なにを、父・・・・!」
 その言葉は、最後まで発することはできなかった。不意に、すさまじい力で横面を張られたのだ。カヲルは寝台から転げ落ち、調度で頭を打った。
 霞んだ意識の中で、カヲルは最後の糸を断ち切るかのような言葉を聞いた。
『・・・私を父と呼ぶな!』

***

 捩れた衣が軋る音と、手首の痛みにふと気がついた。
 そして、自分がおかれた状態にも。
 喉奥を虚ろな、乾いた音が通り過ぎる。あげかけた声が下肢を滑った感触に力を失ったのだ。
 硬い手が、鋭敏な部分を無遠慮に撫で回す。こみあげる不快感が白い膚を粟立たせた。
 膝立ちの姿勢を、どれだけとらされていたのだろう。床は上物の絨毯とはいえ、膝頭はとうに痺れていた。その身体を後ろから支え、蹂躙するのが誰か・・・そこまで思考を戻したとき、今度こそ身のうちから全ての力が失われた。
 両手を拘束された姿のまま、身体の力が抜けてゆく。
 しばらくの間、呆然としていた。しかし身体を揺すられる感覚と、膝と手首の痛みにいやでも引き戻される。
「・・・う・・・っ・・・」
 突き上げられ、引き裂かれるような痛みと、前に回された手の無理矢理追い上げるような動きの狭間で、自分の身体が自分のものでないような不可解な感覚に囚われた。
『・・・・冬神マローズ・・・・冬神よ!』
 声にならない声で、カヲルが叫ぶ。開かれることのない目で至高天を仰いだ時、身体がひくり、と撓った。
『・・・・冬神マローズよ・・・・この哀れな魂に慈悲を垂れ給え・・・・・』
 下肢が痙攣し、カヲルの身体が再び沈む。だがそれは結果として凶器の侵入と拘束された手首の痛みを強め、引き結んだ唇から小さな呻きが漏れた。
 不意に浮かぶある映像。厳寒の森を、父が嬰児のカヲルを抱えて歩いてゆく。
 何故こんなものが見える?自分は、生まれつき目が・・・・・
 カヲルがまとっているのは、明らかにこのあたりでは見られない様式の産着。映像が意味するところに気がつき、カヲルの肩が震えた。そして、弱々しく首を横に振る。
 ありえない・・・・・。
 父は病んでいる。そうでもなければ・・・・・・・・こんなことが出来るわけがない・・・・・・・・・・・・・・
 身体は既に動かぬ。感覚だけが冴々と保たれるのが残酷だった。なおも蹂躙され続ける身体が、時折不規則に痙攣するのみ。
 祈りだけが、今のカヲルにできる総てだった。

『・・・・この・・・・哀れな魂に・・・・慈悲を・・・・』

***

 変わり者といわれた父だが、母が存命していた頃は、此処まで常軌を逸する行為に耽るような人ではなかった。
 母の他界が、それほどに酷い痛手であったのだろうか。
 領主の一族に相応しい家から嫁いできたというその女性に、カヲルは鮮明な記憶を持っているわけではない。亡くなったのはつい先年だが、カヲルがいるこの館に、殆ど居留することのないひとだったから。
 母として接して貰った記憶さえも希薄だった。立場上であろう、口には出したことは決してなかったが、自分が母に嫌われているということを幼いカヲルが理解せざるをえない程に、母の態度は徹底していた。
 だから訃報を聞いたときも、身内の死という実感がなかったと言うのが正直なところだった。
 母にすら忌まれ、物心つく前から人里離れた館に軟禁され、友人も、なすべきこともなく、ただ暗闇の中で生きているだけのあてのない日々。それでもカヲルが自分を保っていられたのは、ひたすらに父だけは自分を側に置いているという事実があればこそであった。
 たとえろくに声を掛けてくれなくても、過酷なまでに厳格であっても、父は自分を愛してくれている。そう思うことで、存在の無為に耐えていた。
『・・・私を父と呼ぶな!』
 すべてをこわすその言葉を、カヲルはあの日から狂気の名を冠した箱に閉じ込めることで自分を保ってきた。
 だがその脆い箱も、冬ごとに繰り返される陵辱が滴らす毒に腐食されてゆく。
 それでも、カヲルが逆らうことはなかった。

***

 四方を雪混じりの突風が覆い隠さずとも、疾うに方向など失っていた。
 夜着にケープを掛けただけの姿では、到底体温を保つことなど出来ない。加えて素足である。感覚などなくなっていたが、不思議と前に進むことはやめなかった。
 どうやって祭儀所を出たのか、どうやってここまで歩いてきたのか、それすらも分からない。
 祭儀所で彼を包んだ気配に対する想いだけが、彼を動かしていた。
 陵辱を逃れる術もなく、ただ祈り、時が過ぎるのを待つしかなかったカヲルに、いつの間にか寄り添った気配がある。
 拘束された両手にそっと重ねられたほそい手。
 狂気に陥りそうになる時、そっと触れて安息をもたらす柔らかい頬。
 言葉は判然としないのに、苦しみに耐える力を与えてくれるかすかな囁き。
 祈りが届いたのかと思った――――――。
 何ゆえにあの時、あの場所であったのかカヲルにも分からない。ただ、そうすれば逢えることだけが判っていた。憎むことも、逃げ出すことも、逆らうことも出来ない自分に、救いを与える者に・・・・。
 だが、シンジが上げた叫びに、一瞬にしてかき消えた。焦燥が、あるいは失望が、一時自分の正気を失わせたのではないかとさえ思う。そうでなければ、どうやって自分があの祭儀所を出て、人の気配のない所まで歩いてきてしまうことが出来るだろう。
 ものを見ることのない視線が、吹雪と闇に閉ざされた空間を彷徨う。
 もとより、一筋の光も見えぬ目で、たった一人、十分な装備もなくこの雪原に踏み出してしまったことがすでに正気の沙汰ではない。同じ事を誰かがしたとしたら、カヲルはそれを死を求めての行為と断じたに違いない。
 だが今、カヲルの裡を占めているのは死などではなかった。
「・・・どこに行ってしまったんだい・・・・?」
 ついに降り積もる雪に足をとられ、身体が揺らぐ。その時、暖かな腕がカヲルを包んだ。

***

「マローズの子を森に帰してはならん。あれを帰せば、また冬が荒れる」
 異様な命令だとは誰しも感じていただろうが、館主の命とあらば動かぬ訳にも行かなかった。雪はまだ降り続いていたが、
 篝火が焚かれ、人手が集められた。
 シンジが運ばれた自分の部屋で目を覚ましたのは、第一陣が出た頃のことだった。
「まだ動かれない方がようございますよ」
 慌てて跳ね起き、当然のように襲ってきた頭痛に頭を抱えて呻いたシンジへ、その老女はゆっくりとしたもの言いで声をかけた。
「カヲル君は・・・・」
「まだお姿が見えないとのことでございますよ。目がご不自由でいらっしゃるのに、どこをどうお出になったものか・・・。賊に連れ去られておしまいになったのではないかと、皆も落ち着かぬ様子で」
 老女が深く吐息していったことに、シンジは一抹の安堵を覚えていた。少なくとも使用人達は、マローズの子云々という話を真に受けてはいないらしかったからだ。
「・・・・お父上のこともあるし、もしや冬神様に魅入られたのでなければよいのですが」
「・・・え?」
「・・・ご存じありませなんだか。お館様は昔、一度冬神様に招かれておられるのですよ。十月ばかりで戻られましたが、それからは人が変わったようになられて・・・。
 私はしばらくお暇をいただいておりましたので、詳しいことは存じ上げませぬが・・・・・ひどく気難しくなられて、使用人をほとんど入れ替えてしまわれたとか。
 そうそう、あの子がお暇をいただいたのもそのころでした。今にして思えば、あなた様を身籠ったからでしたか」
 それが誰を指していたかに気がついて、シンジははっとした。
「・・・・母さん・・・・」
「丁度そのころお生まれになったカヲル様のことも、お館様はひどく神経質になられて。まあ、ご自分のかわりに連れていかれるのではないかとお思いになるのでしょうねえ。その所為か奥様とも不仲に。だからといってカヲル様に当たられることもないでしょうに・・・・」
 老女が、口が軽いたちであるのは間違いないにしても、領主の一族ではあるが庶出、しかも見知った者が産んだ子ということでつい話がしやすかったのだろう。それに言動の不可解な館主に対するちょっとした愚痴でもあったかもしれない。
「こうしてみると、シンジ様はお館様のお若い頃に本当によく似ていらっしゃる」
「え、そう・・・ですか?」
 素直に喜びかねる言葉ではあった。ふと気づいて問うてみる。
「・・あの、それじゃあ、ひょっとしてカヲル君は、お義母様に似てるのかな?」
 老女はふと首を捻った。
「・・・はて、言われてみるとあまりはっきりとそういう趣はありませなんだなぁ。どちらかといえば奥様に似ているかもしれませぬが・・・・」

***

 温かい雪の中で、カヲルは目を覚ました。
 ――――――あぁ、君だね。
 四肢の感覚は既にない。だからただ、凍りかけた髪を雪のかいなに預けた。
 ――――――やっと逢えたね。
 体温を失った蒼い頬に、柔らかな頬が触れる。その温かさに、カヲルは小さく吐息した。
『ごめんね・・・・』
 耳朶に滑り込む、優しい…しかし今にも泣きそうな声。
 吹雪の音が遠くなる。霜が降りたように凍てつく胸腔の奥に灯火が点り、触れた温もりが、ゆっくりと全身に伝わってゆくのがわかる。四肢の隅々までも。
 感覚を取り戻してゆく腕を伸べる。触れた華奢な肩は、震えていた。
『・・・・・遅くなって・・・ごめんね・・・本当に・・・』
 温かい頬を零れ落ちる涙。だがカヲルはただ微笑み、頬を寄せた。
 ――――――逢えてよかった・・・・。
 少女が、開かれないカヲルの目に気づいて呼吸を呑む。
『・・・・こんな・・・ひどいこと・・・・』
 ――――――何も、言わないで・・・・こうしていて・・・・。
 少女は再び泣きそうな顔をしたが、今は何も言わずただ包み込んだ。
 ――――――ずっと昔から、知ってたような気がするね・・・・。
『ずっと知ってたわ。ずっと昔から』
 ――――――僕を?
『あなたを』
 ――――――いつから?
『生まれたときから。ううん、きっとその前から・・・』
 いとおしげに額を滑った指が、カヲルの閉ざされた瞼をなぞる。その瞼が開かれたなら、カヲルは青銀の髪の下、白い頬を涙が滑り降りるのを見たであろう。
『こんなに長く別れることになるなんて、思ってもみなかった・・・』
 ――――――泣いているの?どうして?
 触れあった頬が、涙の湿りを伝える。そのことに驚いたカヲルが、ようやく動くようになった腕を伸べた。
『・・・でも、もう終わる・・・』
 伸べられたカヲルの手に、少女が手を重ねる。そしてカヲルの右の瞼に、優しく触れるように口づけた。瞼の下から、小さな氷のかけらが転がり落ちる。
 氷の色は、血を溶かし込んだかのような紅。少女の手の内へ転がり込み、儚い音を立ててはじけた。
 儚い音。だがそれはカヲルの頭の中に、雷鳴とまがう轟音として伝わった。
凄じいばかりの眩暈に、カヲルの身体がその場に沈みかけ…少女に支えられる。荒い呼吸いきで身体を震わせるカヲルを、少女は全身で包み込んだ。

 ややあってカヲルが自ら身体を起こしたとき、その右の瞼は開かれている。瞳は少女と同じ、雪に落とした血のような紅。
 少女が愛おしげにカヲルの頬の線を指先でなぞる。カヲルは紅瞳を見開くと、ゆっくりと息を吸い…溢れそうな何かを抑えながら、その名を口にした。
「――――――――レイ・・・?」
 少女は涙を湛えたまま微笑み、頷いた。
「・・・うん・・・・」
 その答えに、カヲルが開いた右眼に透明な水滴を滲ませて…花が咲くような笑みを浮かべた。どちらからともなく頬を寄せ、互いの腕で互いを引き寄せる。そして、ただ唇を重ねた。
 暫く呼吸いきをすることも忘れていた。
 離した唇を、カヲルがレイの耳朶に寄せた。軽く口付けて、囁く。
「…やっと、逢えたね…」

―――TO BE CONTINUED―――