桜流し

 もう二度と逢えないなんて、信じられない。

***

 彼は、起き上がることさえ難しくなってからも…時折、そのペンダントを耳許でかすかに振って…その音を愉しんでいた。紅い珠が、銀色の翼を象った籠に抱かれている意匠モティーフ。珠には細工があるらしく、ありふれた鈴にはない深く澄んだ音を立てた。
 オルゴールボールとか、ドルイドベルとか。そんな名で呼ばれるものであることは…随分後になって知った。
 『どうなりようもない片恋の形見、あるいは大切な預かり物』
 懐かしさと、寂しさが綯い混ざった表情でその音色に聞き入る。いつだったか由来を問うたときの彼の言葉が、何処まで本気で、何処からが韜晦だったのかは…いまだにわからない。

Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「Time after time Ⅴ」

桜流し

~Time After Time Ⅴ

 赤木リツコが病理医として勤務している総合病院の病理検査室。そこに病気休職となった前任者の代わりに配属されてきた臨床検査技師は、高階マサキと名乗った。
 初対面のときには落ち着いた印象であったが、同僚と話をしているときには剽げた雰囲気も纏う。むしろ捉えどころがない感じだった。
 仕事は至って正確・確実。いつも、リツコが出勤すると、よく整理された検体がずらりと並んでいる。いつだったか…無駄なく酷使してくれるわね、と言ったら、それが俺の仕事ですから、という常識的なのか偽悪的なのか判断がつきかねる返答が返ってきた。
 周囲と気軽に話をしているようで、実は一切踏み込まないし、踏み込ませない。面白味はないかも知れないが、職場のクルーとしては至って有り難い人材ではあった。
 最初はただ、それだけだった。

***

 その日、リツコが検査室の扉を開けたとき…彼の姿がなかった。
 まず、珍しいなと思ったのだ。だが、室内に入って3秒で思わず息を呑むことになる。検査機器の谷間に散乱する報告書の束。その上に、彼が倒れていた。
「…ちょっと…高階君!?」
 動かない。意識がない。呼吸および心停止。コードブルー 1だ。リツコが内線に手を伸ばす為に立ち上がりかけた時、その手がぐいと引かれた。絶妙なタイミングである。たまらずその場にしりもちをついてしまった。
「…大丈夫ですから、そのコールは不要ですよ、室長」
 高階が倒れたままリツコの手を掴んでいた。それだけ言って、咳込む。急激な吸気の所為だ。どの程度の時間か判らないが、確実に呼吸は停まっていた筈。
「…それは良かったけど…コレはひどくない?」
 一緒になって報告書の束の上に座り込んでしまった有様をさしていうと、高階は咳がおさまってからようやく立ち上がってリツコに手を差し出した。
「すみませんね、慌てたもんで」
「慌てたのはこっちよ。朝っぱらから肝を潰させてくれるわね。きちんと受診してるの? まさか、寝不足でひっくり返ってただけだなんて言わないわよね。一応私、医者なんだけど」
 呼吸停止、心拍停止は確実だった。落ち着きぶりからして頻々と起こっているらしいが、そんな状態が大丈夫なわけはない。医者相手にトボけるのも大概にしろ、といったつもりだったが、高階は軽く笑って散らばった書類を集め始めた。
「いや、病院なんてどこも大したブラック職場ですからね。休み取れないし。こまったもんです」
 どうやら本当にそれで済ませるつもりらしい。半ば呆れて、リツコは書類を集めるのを手伝おうとして身を屈めかけ…バランスを崩してデスクに手をついた。
「…っ!」
「室長!?」
 今度は高階の方が慌てたらしい。集め終えたばかりの束を置くのもそこそこに身を乗り出したが、リツコはなんとか自力でバランスを維持した。そして、足下の具合の悪さに気づく。
 リツコがデスクに手をついたまま、パンプスの片方を脱いだ。先程の転倒の所為だろう。ヒールが折れて中途半端にぶら下がっている。
「コーヒーの一杯くらい奢って貰う理由はできたわね?」
「…コーヒーとは言わずお昼だって奢りますから、この件は黙っといて貰えませんかね。健康上の理由で首切られても困るんで。
 あー室長、そのまんまそこの椅子に座っちゃってください。補修用具ありますから、応急処置しますよ」
「あら、ありがと」
 一日にそう何度も転びたくはないから、リツコは素直に椅子に腰をおろして言われるままに折れたパンプスを渡した。高階がデスクに敷いた反古紙の上にパンプスを置いて引き出しを開ける。どうしてそんなものが入っていたのかも謎なのだが、接着剤とへらを取り出して要領良く補修を始める。
「器用ね」
「お褒めにあずかり恐縮、といいたいところですが、貧乏性でものが棄てられないだけですよ。…あぁ、でもこの靴はもう諦めた方がいい。派手な立ち廻りするんじゃなければ二、三日くらいは何とか保つでしょうが」
「そうね、就職してからずっと履いてたから…」
「何か思い入れが?」
「就職祝いに祖母が贈ってくれたってだけ」
「それは…」
 高階の飄々としたおもてがやや居心地悪げな色彩を帯びる。
「いやね、なんて顔してるの。そんな大した品物じゃないし、贈ってくれた祖母だってまだピンピンしてるわよ」
 リツコがその表情を一笑に付すと、彼は釣られたように笑った。

***

 謎はスパイスだ。普段なら興味を持つなどあり得ないことに、なんとなく惹かれてしまう。
 職場のクルーとしてはまず優秀。いつものリツコなら、そこに面白味を求めはしない。だが、その一件以来…彼に興味を持っている自分に気づいていた。
 大体、何歳いくつだ。
 20代から40代まで、どうと言われても納得できそうな容貌ではある。会話は誰にでも適当に合わせてしまうのでそこから推し測るのは難しい。かといって直接訊いてみるというのも何か業腹だった。
 …興味を持っていると思われることに、微妙な抵抗感があるからだ。
 余計な他者とは接触しない。踏み込まない、踏み込ませない、でも日常の社会生活というものに支障をきたすのはまずい。そつなくこなす、という基本姿勢スタンスが重要。
 ああ、私と似てるのか。リツコは苦笑と共に納得する。
 この街に住む大人で、昔の事情に少しでも通じている者なら、「赤木」の名で大体ああ、という表情をして、それから速やかに憐憫で味付けされた愛想笑いを浮かべ、話を変える。
 学生の頃にはそれが苦痛であったが、じきに気にしなければ何ということもないのだと学んだ。冬月教授のようなよくできた大人がいてくれたのも大きかっただろう。
 私は私だ。進みたいと思った道を進み、獲得した能力で為すべき事を為す。ただそれだけ。母のことは関係ない――――――。
 その姿勢を貫くうち、仕事はできるが冷たい女、という評が定着していた。まあ、それで身辺が静かになるなら好都合だから、リツコはそれに対しての是非も含めてコメントしたことはない。だが、病理検査室付の技師が立て続けに病休に入ったのは、彼女の冷気・・に当てられてのことだという噂が立ったのには多少辟易していた。
 リツコは別に仕事の出来不出来について部下をいちいち叱責するほど面倒見が良くないし、イラついてあたり散らすなどという醜態はリツコ自身が忌避するところであった。だから病休の件に関しては不幸な偶然と思いたいところであったが、さすがに二人も続くと自分にも何らかの問題があるのだろうかと少しは考えてしまう。
 だから、今度のは結構長持ちしているな、という認識は、実のところリツコにもあった。そこへあの一件だから、ヒヤリとしなかったといえば嘘だろう。
 しかし…
「室長、これあげます」
 数日経ったある日。リツコがデスクに着くなり、高階がくるりと椅子を返してすこし悪戯っぽい微笑と共に小さな袋を差し出した。
 ペットボトル飲料の景品らしい。シリコンのマグネットが一つ入っていたのだが、愛嬌のある黒猫が首を傾げてこちらを見ているデザインだ。素朴だが悪くない。
「先日のご迷惑・・・のお詫びに」
「それなら、もうお昼奢ってもらったけど?」
「口止め料にもう一つオマケです。今朝、出がけにコンビニで買い物したらついてきたので。実は好きでしょ、猫」
 …バレている。
 親しい友人というのも少ないから他人に喋ることもあまりないが、自分でも子供っぽいとは思いながら確かに猫の小物に関しては目がなかった。
 猫の表情に魅了されつつ高階の方を振り返ると、先の悪戯っぽい微笑を何処へやったのだろうという冷静なかおで検体のチェック作業へ戻っている。
 一体、何処でバレたものだろう。不干渉を決め込んでいるように見えて、存外周囲を見ているということだろうか。
「…ありがとう。貰っておくわ」
 ともかくも、リツコは猫のマグネットを目の前のホワイトボードに鎮座させた。
 踏み込まない。踏み込ませない。この距離感は悪くない。

***

 ある日の午後、リツコは…外線を受けた高階が飄々とした眉目にふと憂鬱そうな翳りを落とすのを見た。
「室長、申し訳ありませんが2時間ほど年休を頂けませんかね。一寸、人と会わなきゃいけない用事ができましたんで」
 この男でもこんな表情をすることがあるのかと思っていたら、電話を切ってこちらを向いたときにはそれを綺麗に払拭していた。器用なことだ。だが、その表情に気づかなかった振りでわざと言ってみる。
「仕事切り上げてデート? お安くないわね」
「残念ながらそんなイイ話じゃありませんよ。…まあ、ぱっと目には綺麗な姐さんなんですがね…これがまた大変なタヌキで。あー、綺麗ったって室長ほどじゃないですから」
 上手を言ってさらりと躱し、帰り支度を始めてしまう。それをなんとなく見送って、ふと気づいた。
 女、って事に関しては、認めたな。
 高階の姿が消えた後のデスクを見遣る。大概、リツコよりも早く来て、後に帰っていたから、彼が居ないデスクなどそうそう見る機会がない。何だか珍しいものを見た気がして漠然とその景色を見ていると、ふと彼がデスクの上に忘れていった…あるいは持ち帰る習慣がなくていつものように置いて帰った…ものに目がとまる。
 健康保険カードだ。病院勤務の者には時々いるが、受診を自身の職場の隙間時間で済ませてしまうため、本来は持ち歩くべき保険証をデスクとかロッカーに置きっぱなしにする。普通に考えれば休日や出先で急病なり怪我なりした場合に困ると思うのだが、医療従事者の度し難い性癖というべきか、自身がそうなることをあまり想定しない。
 高階もそういった性癖の持ち主なのかどうかはともかく、この間からの…「わざわざ訊くのも業腹だがなんとなく気になる」部分の疑問を解消してやろうと軽い気持ちで立ち上がってそれを手に取った。
 だが、本来見てやろうと思っていた部分よりも別の記載に目がとまった。
 普通はただ空白ブランクだけがあるべき空間にコードが付されている。…無論、リーダーを通さなければ読めるものではないが、そこにコードがあるということ自体、ある事実を示していた。
 それは…この街の公然の秘密。CODE:Angelと呼ばれる『生存者』。
 それに思い至ったとき、『高階』の名がリツコの中で突然符合した。ありふれた名前というわけではないが、希少とも言えないからあまり気にしないでいたのだ。こんな処で遭うなんて。
 プラスチック製のカードに皹を入れてしまいかねない力がこもったことに気づいて、リツコはそっとそれを机に戻した。
 CODE:Angelなど都市伝説。そう思っている人間は多い。医療費の減免措置など、政府施策によっていくつもパターンがあるから誰も気にしない。おそらく、周囲で知っている人間は絶無に等しいだろう。
 もう、15年も前の事件に起因するそれをリツコが知っているのは、リツコが当事者に近い位置にいたからに他ならない。だが、あくまでも当事者ではないから…本当のところ何が起こったのか、リツコは知らない。…知りたくても、知ることのできる立場に居なかった。
 だから、知ってどうなると自身に言い聞かせて、今まで来た。でも、できることならば知りたい。知って納得したい。
 ――――何故、母が自ら命を絶たねばならなかったのかを。

***

「…成程、ナオコさんの娘か。…道理で似てる。赤木なんて姓、ありふれちゃいないが希少ってわけでもないからな。それと、髪の色で騙された」
 翌日、高階が出勤してきたところを問い詰めたところ…彼はあっさりと認めた。わずかに苦い笑みさえ浮かべて。
「人聞きが悪いわね。私は何も騙してなんかいないわよ」
「ごもっとも。まあ、訊かれないのを幸い黙ってたことに関してはお互い様ってことか。いいだろう、あなたには聞く権利がある」
 いつの間にか敬語が抜けていた。いつもひょうげた表情で覆い隠してきた何かが、色だけ見れば何の変哲もない黒褐色ダークブラウンの眸の底で炯々たる光を放っている。
「だが、聞いてどうする。俺は多分あなたが推測する通り…あの爺さん方・・・・・・と諍いの真っ最中でね。場合によっては聞かなきゃ良かった、ってコトにもなりかねない。
 あなたは何も知らされてなかったし、今も知らないままってことでゼーレの監視からも外れて久しい筈だ。今更あんな化石になりそこなったような爺さん方と関わり合いになっても、然程いいことがあるとは思えんがね」
「私は、真実が知りたいだけよ。それから後は私のことだから、あなたに心配して貰う必要はないわ」
「…気性もそのまんまか。…ったく、勝てる気がしないな」
 諦めたように目を覆って天を仰ぐ。そのまま数秒間沈黙したあと、意を決したように息を吸い込むと、不意にいつもの表情に戻って言った。
「…とりあえず、いくら何でもここで出来る話じゃありませんよ。俺は逃げも隠れもしません。仕事ひけてから、場所を改める…てことにさせて貰えませんかね。
 とりあえず仕事・・してください、室長」
 ギアチェンジでうっかりクラッチを滑らせてしまったときのような…急激な減速感に気を削がれたが、彼がこのままはぐらかすつもりはないことは理解った。
「…いいわ」

***

 ――――その日、リツコは高階から15年前の真実を聞いた。
 守ろうとしたもの、守れなかったもの。
 喪われたもの、遺されたもの。
 すべての始まり。歩いてきた道程。目指す終着点。
 研究所のシステム管理者でしかなかった母・赤木ナオコが何故、その責任を取るような形で自ら命を絶ったのか。…もっと言えば、そう噂されるに至ったのか。
 それを聞き終えたリツコは、高階の協力者となることを択んだ。高階の為などではない。母のためというのも…少しはあるのかもしれないが、きっと違うだろう。

 他でもない、リツコ自身がそうしたいと…そうすべきだと思ったから。

ページ: 1 2 3 4

  1. コードブルー…患者の容態が急変して心肺停止などの緊急事態が発生したことを知らせる言葉。発動するととりあえず手が空いているスタッフは全員集合。