僕が、さよならを聞いた夜

「そうだな…じゃあ、高階マサキ、という名前になら覚えがあるだろう? 高階博士の遺児で、君と同じ、あの事故の生存者のひとりだったそうだが…」
 加持リョウジ。フリーのジャーナリストと聞いている。伸ばしっぱなしの髪を無造作にうなじで括り、大概無精髭を生やしている。ワイシャツにネクタイ、ジャケットという格好が定番なのに、ネクタイを締めるというよりぶら下げている所為か…浮かべる薄笑いには胡散臭さがつきまとう。…大体、いつも煙草タバコ臭がするのがいただけない。
 探るような眼、鄭重を装う執拗な口調。胸腔が霜で覆われてゆくような感覚に、タカミは慎重に呼吸を整えた。
 やはり、狙いはそこか。
 だが渡された荷物に手を塞がれていたものだから、加持に軽く肩を押されただけで容易にバランスを崩して背後の壁に背をつけてしまう。すかさず無遠慮に距離を詰めてくるあたり、手練手管に長けた身のこなしというべきだろう。
 …感心してなどやらないが。
「手癖が悪いとは聞いてましたが、見境がないとは知りませんでしたね」
 反応を観察されているのは明らかだったから、タカミは殴りつけたい衝動を辛うじて押さえ込む。
 強請ゆするつもりなら的外れだ。しかし、ここで事を荒立てるのは得策とはいえない…。

 ――――タカミは、おもむろに息を吸い込んだ。

Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「Time after time Ⅳ」

僕が、さよならを聞いた夜

~Time After Time Ⅳ

 大学構内なんて、迷路だ。
「冬月教授の講義なら、第3講堂よ。そこの角をまがった突き当たり」
 途方に暮れていたところへ降ってきたその声に喜んで振り向いた一瞬、榊タカミは思わず一瞬息を呑んだ。どうやら脱色と思しき金色の髪に縁取られた美貌は、ただ綺麗というより怜悧とか玲瓏という形容が相応しいように思える。
「・・・あ、ありがとうございます。ええと・・・」
 目を奪われて、いま一つ締まりのない返事になってしまった。今日が第1回の講義なのに、何故このひとは自分のことを知っているのだろう?
「どこかでお会いしましたか?」
「ああ、ごめんなさい」
 そのひとは笑った。
「教授から聞いたの。面白そうな子が形而上生物学部うちの講義を希望してるらしい、って。榊君でしょう?情報工学科の」
 皆目話が繋がらなくて、タカミはよほど間抜けな顔をしていたに違いない。また笑われて、タカミは少なからず傷ついた。
「確かに僕は情報工学科の榊タカミですけど…とりあえず、お名前を伺っても?」
 さしあたって向こうはこちらの事を知っているらしい。この大学に知り合いなんていないけどな、と思いながら問うてみた。
「ごめんなさい、私は医学部の赤木よ。赤木リツコ。形而上生物学部にも片脚突っ込んでるけどね。あなたの技術うでを見込んで、今度手伝って欲しいことがあるんだけど…話だけでも聞いて貰えないかしら」
「…えっと…」
 すこし悪戯っぽい微笑は、それは美しかったけれど…あまりにも唐突で、思わず一歩も二歩も退いてしまった。
「まあ、また連絡するから考えておいて。ああ、引き留めたわね。早く行った方がいいわよ。教授、時間にはうるさい方だから」
「…はい、ありがとうございます」
ともかくも会釈して、踵を返す。教えられた方向へ早足で向かいつつ、タカミは憮然とするしかなかった。
 今更気づいたが、なにゆえ連絡先まで把握されているのだろう。技術を見込んで、というなら入学してからこっち何件か請け負ったことのあるデータ解析用のアプリ開発のことなのだろうが、ちょっとした腕試し兼小遣い稼ぎのつもりだったから会社を構えているわけでもない。だからそうそう連絡先を触れて回った記憶はないのだが。
 義務教育を殆ど受けないまま、結局高校へも行かずに17で大学に入ったという経歴は確かに好奇の視線を浴びることもあろう。あるいはただ単に揶揄われたという可能性もある。
『…でも、綺麗なひとだったな』
 揶揄う目的だったとしても、あれほどの玲瓏美人クールビューティに笑顔とともに声を掛けて貰えれば…それほど悪い気はしない。
 新しい環境に慣れて、少しずついろんな知り合いが増えていく。ほんの2、3年前の自分が見たら、さぞ吃驚するだろう。
 これでいい。時々滲む微かな苦さを噛み潰しながら、タカミは自身にそう言い聞かせて日々を過ごしてきた。そして、これからもそうしていく。
 そう思っていた――――――。

***

 それは、家というには少々風変わりであったには違いない。どちらかと言えば、療養所敷地内の一郭という場所柄に合わせた外観。しかしそこは、彼らにとって確かに家だった。
 タカミは、玄関の鍵が掛かっていたことに僅かに怪訝な顔をしたが、すぐに得心した。
「・・・今日から、検診だっけ。みんな出払ってるのか」
 内装は一応作り変えてあるが、もとはといえば療養所の職員宿舎の一棟。もっともそうでなければ十人を越える大所帯が家族のように暮らすには、とても広さが足りなかっただろう。
 タカミは静まり返った廊下を抜けて、食堂に入った。テーブルに買ってきた食材を置いてしまうと、ひとまず自分の荷物を部屋へ置きに行った。
 自室から戻ってきたとき、夕日の差し込む食堂に忽然とその場に現れ出たような人影を見つけて、思わず立ち止まる。
 壁に身をもたせかけ、そのひとは漫然と宙を見ていた。見慣れた景色を何か深い感慨をもって眺めていたようにも見えたであろうか。
 一瞬、呼吸を停めた。驚きと、逡巡のための一瞬の空隙。しかし、抱え続けてきたわだかまりよりも、逢えた嬉しさのほうが優って…タカミは微笑った。
「サキ・・・・・帰ってたんですか」
 タカミの声に、マサキが振り向いていつもの悪戯っぽい笑みを見せる。
「・・・・・びっくりしたか?邪魔してるよ。さっき来てみたら皆出払っててね。しばらく外をぶらついてたんだが・・・・そういえば今日あたり検診か」
「あなたはもう済んだんですか?今月のは」
「・・・あぁ、まあね・・・・・・」
 食材を冷蔵庫や戸棚にしまいながらそう問うと、彼は曖昧な返事をした。その表情には、先刻見せなかった憂鬱のようなものが、僅かに影を落としていたのだが…その時のタカミは、それに気づけないくらいうわついていた。
「一体どのくらい閉め出しくらってたんです?だからみんな鍵ぐらい持っていけばって言ってるのに・・・・・夕食ぐらいは食べて行けるんでしょう?皆が帰ってきたら喜…」
 だが、はずんだ声は振り向いた次の瞬間に途切れた。
「・・・・・・・っ!・・・」
 腕を取って引き寄せられ、顎を捉えられる。触れる腕はさして強い力を込めてなどいないのに、その流れるような動作からは逃れることができない。
 抗議の言葉は発する前に重ねた唇に吸い上げられた。
 タカミの膝が崩れかかるのを憎らしいほど冷静にはかり、今まで背を預けていたダイニングの白い壁にタカミの背を縋らせると、一度そっと離れた。
「…サキ…こんな…」
 それがどういう態勢か解っていても、呼吸を乱し、マサキの肩につかまることでようやく立っているていたらくでは、抗議に説得力はない。
「・・・・・誰もいないんだろう?」
 優しく、だが悪戯っぽいというより少し意地悪い笑みを浮かべて、タカミの首筋に口づける。片手は遠慮のない動きで衣服を緩めにかかっていた。
「…待…っ・・・・ぁ・・・・・」
 普段なら、かくも性急に触れてきたりはしない。ふと怖くなって、制止の言葉を唇に載せかけた時、タカミの身体がびくりと震える。
 ズボンからシャツを手繰り出され、その内側に…しばらく外をぶらついていたというから少し冷えたのだろうか…冷たい手が滑り込む。与えられた刺激に、タカミはその言葉を口にし損ねた。
 頭の中が熱くなって、シャツのボタンが次々と外されていくのも何か他人事のように感じていた。マサキの唇が首筋から寛げられた胸元に滑り降りて、堪らず背を反り返らせる。
 あるいは、少し声が漏れたかも。
 しかしそのとき、反対側の壁にかけてあった時計が視界に入る。いつもなら、カヲルが帰ってくる時間だ。でも今日は、そのまま検診に行った筈だから…
「――やめて…ください。お願いだから…!」
 かすれてしまった声は、必要以上に大きかったかもしれない。だが、身の裡の熱を抑え付け、振り捨てるにはそうするしかなかった。そうでなければ、流されてしまう。
 いつものように…熱に身を任せてしまえたらと思う。でも、今はできない。事実をはっきりさせるまでは。
 ようやくのことで目を開けると、少し滲んだ視界にマサキをみとめて、思わず目を逸らす。
 このひとは、狡い。そんな表情かおをされたら、訊けない。身の裡に燻る熱に震えながら、タカミはようやく声を絞り出す。
「…カヲル君が帰ってくるんですよ、もうじき」
 ああ、狡いのは自分もか。あの子をだしにするなんて。
 恐ろしい空隙。しかし、マサキはただ優しくタカミの髪を撫で、まなじりに軽く口づけてから身体を離した。
「わかった。悪かったよ。立てるか?」
「大丈夫です…」
 目を逸らしたまま、がくがくと震える膝を軽く拳で打って、タカミは乱れた衣服を正した。

***

 高階マサキ。最年長とはいえ、事故の当時は記録によれば13歳だった筈である。それなのにひどく老成していた。施設に保護された子供達の面倒を見るだけでなく、処方される薬のことは殆どわかるようで、子供達に体調の変化があるときには細かく様子を訊いて診察依頼をしたり、あるいは直接に薬を貰いに行ったりしていた。かいがいしく皆の世話をやくのは妹のミサヲも同様であったが、専門知識に関してはマサキの方に一日の長があるようだった。
 凄いな、お医者さんみたいだ。子供達はは口々にそう言い、どこか遠巻きな大人達よりもマサキの言うことを諾くのが常であった。
 門前の小僧が習わぬ経を読んだだけだ。マサキはそう言って笑っていたが、それが凄いというより異常なレベルであったことにタカミが気づいたのは、タカミ自身が情報ネットワークの海を泳ぎ渡り、捜し出し、解析し、操作する技術を覚えて後のことである。
 コンピュータとネットワークについてタカミが興味を持ち始めたのも、タカミがマサキの部屋に入り浸っている間のことであったし、初歩を教えたのもマサキだった。
 確かにマサキの父親が件の研究所に所属し、しかもかなり中核的な位置にいたという話はどこからともなく聞いていた。タカミだけでなく、身体的・精神的な理由で学校へ通えない子供達の勉強の面倒をみていたのはマサキだったし、普通なら学校へ行っているはずの時間に学校におらず、研究機関と提携した病院にいた事実もある。
 それでも何ら疑問を持つことはなかった。マサキは何でもできて、何でも知っている。その認識は全幅の信頼の拠り所であっても、疑惑の種にはなり得なかったのだ。

 事故の後、保護された子供達は程度の差はあれPTSD 1の傾向があったが、その中で一番重篤なのがタカミだった。学校へも行けず、夜驚症 2様の不安発作に苛まれることが度々あったのだが、マサキはそのうち治ると言い聞かせ、ただ怪我をしないようについていてくれたものだった。
 ――――――最初の夜。いつだったかの記憶は曖昧だ。例によって発作の予期不安から、タカミはマサキの部屋のドアを叩いた。
 胸が潰れてしまいそうな感覚に喘いで目が覚め、ふらふらしながらようやくマサキの部屋までたどり着いた処までは憶えている。
 だが、何と言ってドアを叩き、マサキが何と言ったのか憶えていない。
 マサキが決して突き放さないことに甘えてもいただろう。何より触れること、触れられることの安心感は…どんな薬剤よりも有効だった。
 だから、何の疑問もなくその腕に縋った。いつの間にか安寧以上の熱を与えられていることさえ気づかなかったし…気づいた時にはどうしようもなく耽溺していた。その頃には行為の意味がわからない程の子供ではなかったが、その耽溺から抜け出せるほどの大人でもなかった。
 マサキの部屋に入り浸るうち、タカミはマサキが自室のパソコンから明らかに違法な手段でもって企業のネットワークに潜り込み、自分たちの検診の結果と思しきデータを独自に解析していることに気がついた。
 当時の生活環境に然程疑問を持っていなかったタカミには、マサキが何を疑い、何を探ろうとしているのかすぐには理解できなかった。だから、マサキが疑問をもつという段階を踏み越えるに至った原因を知りたくて、タカミもまた独自に調べ始めた。
 結果、ネットワークを操る技術についてタカミは程なくマサキのレベルを通り越し…そして、知ってしまった。
 事故とされるあの日、そこで何があったのか。
 Angelと呼称される事故の生存者が当初隔離され、現在も緩く監視されている理由。
 皆が、そしてタカミが「高階マサキ」と認識していた人物が、一体何者であったのか。
 ――――最初は半信半疑だった。すべてが足元から崩れ去るような気がして、反証となりそうなものを狂ったように捜しまわり…そして、果たせなかった。
 だから、すべてのデータを破壊した。世界中に散らばるバックアップデータの一片に至るまで、悉く。
 記録を幾ら破壊しても、起きた事実がなかったことになるわけもない。だがその時はただひたすらに、穏やかな水面みなものごとき平穏な日々のはるか下…そこで揺蕩う、真実という名の血色の熱泥に怯えていたのだと思う。結局あまり表沙汰にされることもなく、未曾有のサイバーテロ事件が闇に葬られた経緯など…正直知ったことではなかった。

 その直後、マサキは突如として施設を出てしまう。

 それは確かに皆を驚かせたが、タカミもまた不意に手を振り払われたような…突き放されたような感覚に暫く呆然とした。
 しかし、いつの間にか発作に悩まされることもなくなり、やりたいことも見つけることができたタカミは、進学の忙しさの中へ自身を投じることでその虚脱から抜け出すことができた。
 棄てられた。最初はそんな言葉さえ頭の隅を過った。だが、そもそもがそういう関係だったのかということさえ、少しずつ曖昧になってゆく。マサキがすべてだった日々が突如として消え失せてしまったのに、発作が再発することもなく日々を過ごしている自分が可笑しかった。このまますべてを忘れてしまった方がいいのかも知れない。そんなことまで考えるようになっていた。おそらく、マサキもそれを望んでいるだろうと。
 大学へ進んだ後…タカミにとっての世界は、少しずつ変わり始めていたのだ。
 特に、彼女…赤木リツコに遇ってから。

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  1. Post Traumatic Stress Disorder :心的外傷後ストレス障害
  2. 夜驚症…主に小児が睡眠中に怯えたような叫び声や悲鳴をあげ、目を見開いたリ起き上がったり、パニックを起こす状態。発作中のことはあまり憶えていないことが多い