はじめから、友達でいるべきの…僕の過失。
Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「Time after time Ⅲ」

Night
~Time After Time Ⅲ
恋することがいつも、幸せならいいのに。
そうはならないから、皆、苦しむ。苦しんでいるのはカヲルだけではない。おそらくはシンジのほうでも、相応に苦しんでいる最中なのではないか。そんなことがタカミには容易に想像できてしまうから、かえって気が滅入る。
古い記憶は、今もタカミの胸の中で縺れた刺草 1の束のようにわだかまるが、ぎゅっと握ってカヲルの苦しみを除く薬が得られるものなら、そうしたって構わない。
時間の流れは、あらかたの棘を溶かし去っているから。
何十年も経った訳ではない。ほんの数年前なのに、何故かひどく遠い。苦しさも、痛みも、悲嘆さえも。
それは言葉では伝え尽くせない、心の破片。
あの頃、自分は欲しがることしか知らなかった。与えられる安寧にただ依存し続けるだけの、子供に過ぎなかったのだとタカミは思う。
――――だから、あのひとの陰翳も知らなかった。
優しい腕の中で微睡みながら、時折見せるあのひとの少し辛そうな表情の理由が解らなくて…不意に訳もわからない哀しさでいっぱいになった。それなのに当時は理由を問うこともせず、ただ縋って目を伏せてしまったのだ。
それが今、悔やまれてならない。自分は結局、あのひとに何も返してあげられなかった。
だが今、それを償う術があるのなら。
***
「よっ、こんばんは」
「…こんばんは」
扉を開けた途端、隣人…榊タカミが露骨に眉を顰めたのを見て…加持リョウジは苦笑した。
「…奥さん、来てますよ。今、食事中です。いつも新鮮な野菜をいただけるのは大変有り難いんですけど、いい加減迷惑料払わなくても済む努力はしてくださいね」
渋面を隠しもしない、「迷惑」の二文字を前面に押し出した応対ではあったが、怒る気にはなれなかった。
「努力がいつも報われるとは限らなくてね」
「それについては賛同しなくもないんですが、一寸おざなり 2なんじゃありませんか?」
確か同い年か、ひとつふたつ下くらいだったはずだが…小柄というより線が細い所為もあって、あまり脅しの効く見目とはいえない。だから、ひょっとして凄まれているのかも知れないが実のところ全くそんな気がしなかった。
10代の頃には名うてのハッカーだった…という噂が、やっぱりただの噂でしかないのではないかと思えるほどに実直な勤め人である。会社の形態から週の半分くらいは自宅で仕事をしているようだが、在宅勤務の日は実にかいがいしく家事をこなしている…。
「…僕の顔に何かついてます?」
さらに不機嫌な方向へ傾斜した口調でそう言われて、加持は自分がこの隣人の顔をあまりにも不躾に見つめていたことに気づいた。
「や、失敬。さて、食事中とあれば邪魔するとまた機嫌が悪そうだなぁ」
「そうですね。食事が終わったら丁重にお返ししますから、今はそっとしておいてあげていただけると幸いです。うちで一戦交えられても困りますから」
「本当に悪いね。じゃ、これはいつもの迷惑料」
苦笑しながらそう言って、採ったばかりの野菜が入った袋を差し出した。
仕事の手伝いとかで時々訪れる、憂世離れした美貌の従弟よりは幾分地味にしても…係累というだけあって十分人目を惹く顔立ち。それを幾分困惑で曇らせながら、彼は丁寧に礼を言って受け取った。
「恐怖の天使イロウル…」
「…それ、何かのおまじないですか?」
一歩近づいた瞬間…そっと零してみせた台詞に、タカミは表情をわずかに硬くした。だが十分な反応が得られたことに、加持はほくそ笑む。
「いや…そう呼ばれたハッカーがいたらしい、という話さ。大企業を相手に恐れ気もなく侵入を繰り返し、最終的には派手なクラッキングをかまして姿を消した…とか」
加持を睨むようにして、タカミが注意深く口を開く。
「それが何か?僕のことだと思ってるんなら御門違いです。大体、ソフト関係の仕事ってだけでそういう技能があるってのは偏見ですよ。
「そうだな…じゃあ、高階マサキ、という名前になら覚えがあるだろう?」
そう言いながら、加持は抱えた野菜で両手が塞がっているタカミの肩を軽く押す。容易にバランスを崩して玄関の壁に背を凭せかけることで踏みとどまった処へ距離を詰め、壁に手をついて囁きに近い声で畳み掛ける。
「…高階博士の遺児で、君と同じ、あの事故の生存者のひとりだったそうだが…」
今度こそ、明らかな動揺が穏やかな容貌を引き攣らせるが、一瞬で払拭した。そして先程までとは打って変わった冷徹な表情で言い放つ。
「手癖が悪いとは聞いてましたが、見境がないとは知りませんでしたね。一応言っときますが、僕、男ですよ」
「関係ないね。それに君は、構わないんじゃないか?」
「…どうしようもない人ですね。葛城さんに同情しますよ」
表情を動かさないまま、そう言った。そして徐に息を吸い込む。
「葛城さーん、旦那さん迎えに来てますけど、どうします? あがってもらいましょうか?」
先程の、低く抑えた声と同一人物とは思えないようなハイ・トーン。流石にたじろいで離れた。間髪いれずにダイニングからミサトの威勢がいい声が返ってくる。
「ジョーダンじゃないわよ。折角のポークソテーが不味くなるわ。今は顔も見たくないからとっとと帰れって言って!」
そう言いながら、食事にありついている最中なのですでに然程機嫌は悪くない。
「…だそうですよ」
「狡いぞ」
「やっぱり葛城さんは怖いんだ」
悪戯っぽく笑う。表情の硬さは既になく、そこには人好きのする微笑があるだけ。さて、先刻の冷徹な表情と、どちらが本性か。
「いや、あれにシメられるのは慣れてるが、リッちゃんに睨まれるのが怖い」
野菜の袋を置いて、タカミが加持の傍をすり抜けて玄関扉を開ける。
「一つ言っておきます…」
出て行けという意志表示なのは明らかだった。玄関先の薄闇の中で、常は深い色としか見えない双眸が…磨き抜かれた孔雀石の緑の光を放つ。穏やかな色であるはずなのに、いっそ鋭利とでもいうべきその光。
「リツコさんはサキのことを知ってますよ。部下で、友人で、患者でしたから。…強請のネタにするつもりなら見当違いです」
冷えた声だった。
「ジャーナリストというご職業の悪口をいうつもりはありませんが、根も葉もない噂を元に他人のプライベートを嗅ぎ回って脅しつけるってのは…あまり感心しませんね。
…じゃ、おやすみなさい」
***
「何だか、疲れてるわね。洗い物、私がするから休んでていいわよ」
シンクの前に立ったまま焦点の曖昧な視線を手許に落としていたタカミに、ミサトを『丁重に』送り返してきたリツコがそう声をかけた。それで我に返ったらしく、慌てて重ねた皿に湯を当てる。
「いやいや、疲れてるのはリツコさんでしょ。葛城さんって酔っ払うと話が諄いから。いつも思うけど、よく最後まで傾聴できるね」
「私は単に慣れてるの。右から左へ流してるだけよ。ミサトは根がさっぱりしてるから、喋るだけ喋ったら大人しくなるの。まともに聴いちゃいないわ」
「達観してるねー…」
半ば呆れたような嘆息にリツコは笑ったが、ふとその笑みを引っ込めて言った。
「…加持君にも、困ったものね?」
「あれ、やっぱり気づいてたんだ。
そうだね、職業意識とか功名心っていうより…あの人の場合、好奇心の方が先に立ってるんだろうなぁ。真実ってものが時に…っていうより、往々にしてパンドラの箱だってこと、あんまり考えないんだろうねえ」
手の方は忙しく動かしながら、その口調は緩い。殊更にゆっくりと、それでも話し続けることで自身を落ち着かせようとしているのは明白だった。
「飄々としたフリで割と諦めが悪いわよ、彼」
「うーん…えらいひとに張り付かれたもんだよね。しかも葛城さんの旦那じゃただ追っ払うわけにもいかないな。誰かの差し金…ってのは考えにくいね。ただまあ、今更嗅ぎ回ったところで出てくるコトはたかが知れてるし…やっぱりあれかな、ローレンツCEOの容態が良くないって噂。どっかから何かこぼれてくるかも知れないって期待してるとか? どんなもんだろう…」
笑いながら、坦々と下洗いをした食器を食洗機へ並べていく。それをリツコは少し気遣わしげな表情で見ていたが、タカミが食洗機の蓋を閉めてスイッチを入れたタイミングでようやく口を開く。
「…ったく、わかりやすいわね。その、口許だけの痛々しい笑い方」
言われて、タカミがふと呼吸を呑む。そうして緩々とエプロンをはずしてダイニングの椅子に座り込むと、おそらくは無意識に…口を片手で覆った。そのまま発した声は、微かに揺れていた。
「…ごめんなさい、リツコさん」
「そういうのは、私の前ではやめなさいって言ったでしょ。それと、〝ごめんなさい〟じゃなくて…」
リツコが静かに椅子の後ろへ回り、座り込んだタカミを背中から両腕で包み込む。その腕に、タカミが自分の手をそっと重ねた。
「…うん…ありがとう」
***
手応えはあった。
加持リョウジは、追い返された自宅の仕事部屋で最近入手した資料をざっと見返していた。
榊タカミ。事故の生存者のひとり。コードネームを振られ存在を秘された生存者がいるということは以前からわかっていたが、まさかこんな身近にいるとは思わなかった。
普段は日だまりのような微笑を湛えている癖に、あの一瞬だけは氷のような眸をした。事故の現場で何があったにしろ、彼はその真実を知っている側の人間だ。それを確信させるに十分な反応だった。
事故の真実の糸口が身近な処に転がっていたことに…気が逸る。
確かに、ただ彼の周辺をかぎ回って得られるところは少ないかも知れない。何と言っても彼とて事故当時は小学校低学年だった筈。何かを知っているとすれば、知っている誰かから受け継いだと考えるのが妥当だ。…しかしあの分では、ガードは硬いだろう。
なら、従弟だというあの少年は?少年と言っても今年成人らしいが、憂世離れした繊細な美貌はちょっと人目を惹く。
彼の仕事の手伝いとかで時々このマンションを訪れているのを時々目にする。確かまだ大学生で、友人とルームシェアしながらこの近くに住んでいるという。…その友人というのが。
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――――碇シンジ。あの、碇所長の息子。
偶然なのか。何かの作為が働いているのか。調べてみる価値はあるだろう。