Little Light
マサキは片手で目を覆って…静かに嘆息した。
『話が無茶苦茶だぞ。追い出されたら死んじまうって…お前それ、言外に俺を脅迫してないか?』
『そうだな…でも、俺は…あんたがいるから、息をしていられる』
Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS 「breezeⅥ」

Little Light
「…やめんか、こんな処で」
困じ果てた、というより…呆れて他に言いようがないといった口調。
後ろから抱き竦められ、緩めた服の間から滑り込んだ指先が煽り立てても…マサキの声には冷然たる拒絶しかなかった。
〝こんな処〟…。夕食の片付け途中のダイニングは昼光色のシーリングライトが隈なく照らしている。だから、捲ったままのマサキの袖から覗く腕が、緩められた襟から見える首筋が、皮膚に粟を生じてさえいるのが…残酷な程よく見えてしまう。
「駄目か」
「当たり前だ。片付け途中に」
鯨吉イサナは苦笑して、するりと腕を解いて身を離す。マサキは重ねた食器を一度テーブルに置いて持ち直してから、にべもなくキッチンへ足を向けてしまった。
苦笑のまま見送り、イサナは残った食器を重ねる。
こういうときのマサキは、押してもまず無駄だ。家事に限らず何かをやりかけで中断させられることをひどく嫌う…それはよくわかっている。
わかっていてちょっかいを出す自分も悪いのだ。しかしそれでも、何もそこまで嫌がらなくても…と時にひどく不安になる。三週間ぶりに逢ったというのに、いつもと何も変わらず素気ない。そこが何か口惜しい。
ふと手を止めたマサキが、つい先刻の…鳥肌立てての拒絶など無かった事のように、至極普通な口調で言った。
「イサナ、片付けは俺がするから、先に風呂行っとけ。今日ぐらいは俺がするさ。それといない間に来た郵便物…まとめてお前の机の上に置いてるが、大学からも何だか来てたぞ。早いとこ確認しとけよ」
「――了解だ」
マサキの至って平静な声を聞いていると、自分だけが相変わらず子供のような駄々をこねているような気がして…イサナは思わず嘆息した。
***
高階マサキ。2歳上の情人。温かく、冷たく、広くて、捉えどころがない。何処までも透明に見えて、ゼーレの件が落着したあとも、まだ幾許かの闇を抱えている。それはまるで、イサナが物心ついたころから識りたいと渇望し、ずっと追い続けてきた海そのものだった。
退けばただそこに在るだけで、近づけば穏やかに迎え入れる。怖れれば親しみを見せ、侮れば手痛い報復がある。
――――捉えきれない。
それは迷いと綯い混ざり、時に苛立ちとなる。
***
イサナがたまった郵便物を整理してリビングへ戻ると、今風呂から上がったところなのか、マサキは髪に残った水気をタオルで拭きながら、朱色を湛えたタンブラーグラスを手にして入ってきたところだった。
「郵便物は片付いたか」
「ああ、毎度手間を掛けて悪いな」
「なんてこたない。…お前も呑むか? どうせ割るつもりないだろ、好きに注いでこい。冷凍庫の方だ」
そう言って、グラスを持った手でキッチンを指し示す。
「冷凍庫?」
冷凍庫に酒?と一瞬思ったが、言われるままにキッチンに入って冷凍庫を開ける。
「スミノフの黒1 じゃないか。あんたが買うなら赤の方だと思ってたが」
「喧しいよ。どうせ俺に拘りはないさ。でも…ま、一応…お前が帰ってくるしな」
さらりとそう言って、マサキが自分のグラスを軽く掲げた。
「…それは…有り難いことで。で、あんたはブラッディメアリ2 か」
ロックグラスに氷を入れて、イサナはボトルの中身を注いだ。リビングのソファに掛けながらマサキが笑う。
「お前みたいなウワバミと一緒にするな。40度をストレートなんて、人間のすることじゃないぞ。普通は胃壁が爛れる」
「…えらい言われようだ」
それでも、イサナが帰ってくることを一応気に掛けていたのだという意思表示かと思うと、先程から胸にのしかかっていた重石がすっと取れた気がして思わず笑ってしまう。…我ながら何と現金な。
リビングに戻り、グラスを軽く触れ合わせる。澄んだ音。
ブラッディメアリを1/4ほどあけて、マサキが問うた。
「まあ今回も、無事でよかったな。怪我しなかったか」
「…お蔭でな」
傍に置いてくれるなら、自分は必ず戻ってくる。そう約束したから。
マサキから安否を問われるようなことは…今まであまりなかったように思う。それでも、あの一件からは…何気ない会話の中に、ふとそんな問いが混じるようになった。…そんな気がする。
――それもまた、自惚れでないという保証はなかったが。
互いの留守中の、他愛ない話。グラスの中の香気を愉しみながら興じる、その時間。
それは確かに心地好くて…でも、もどかしくて。ソファの後ろに立ったままでグラスを傾け続けるイサナは、ついピッチが速くなるのを自覚していた。
マサキの手の中でブラッディメアリの朱色が消え、氷だけになってしまったタンブラーを、マサキがやや名残惜しげに揺らした時…堰が切れた。
イサナがソファに掛けたままのマサキの肩越しにロックグラスをテーブルに置いた。
タンブラーを持つマサキの手をやんわりと捉える。そのまま、タンブラーをリビングテーブルの上に戻させながら、空いた手でその顎を捉えた。
引き寄せて、唇を重ねる。明確な拒否はなかった。…離れたあとに零れたのは、小さな吐息。
「忙しないやつだな。…少しはゆっくり呑ませろよ」
少し目を伏せながらそう零しても、首筋から滑り込み、ボタンをはずして襟元を広げながら鎖骨の線をなぞるイサナの指先を払いのけることはしない。
むしろ陶然とその感覚を賞玩しているように見えるのは、欲目というものか。焦れたイサナが耳許に唇を寄せて囁く。
「…駄目か?」
僅かな間があった。そして目を伏せたまま徐にイサナの指先を捉え、するりとほどいて立ち上がる。
「あと…もう一杯だけ呑ませろ。その間くらい、いいだろう」
そう言って、マサキはテーブルの上に置かれたままのグラスに手を伸ばした。
***
「…無理…してるのか。ひょっとして?」
ベッドに倒れ込むようにして身を横たえたマサキの顎を捉え、軽く仰向かせながら…イサナは問わずにいられなかった。
「…何を…?」
マサキのひどく気怠げな様子が、先程グラスを持って行った後…キッチンに立ったまま流し込むようにして呑んでしまった二杯目の所為なことぐらい、気づけないイサナではない。まさかストレートということはあるまいが、一杯目と比較にならない濃さであったことは容易に想像がつく。
然程強くもないくせに、呑むのが好きで…ただ、本来は自分を喪うような呑み方はしない。だからこそ、こういうときのマサキが…自身を上手に騙すために酒精を利用しているような気がして…イサナはふと居たたまれなさに苛まれることがある。それでもとろりとした艶を湛えて見上げる黒褐色と目を合わせてしまうと、何も言えなくなってしまうのだ。
この夜もまた、結局気怠げな反問に答えをかえすことなくただ口づけを落とす。歯列を割って探り出した舌先が、特段怯えたふうもなくそれを受け容れるから…深い海の底から浮かび出る泡沫のような不安を…イサナは黙殺した。
脱がせたシャツの下の膚は、首筋からゆっくりと撫で下ろしても…先程のように粟を生じることはなかった。微かに熱をはらんではいたが、まだ汗ばむ程でもなくさらりとしている。
『…いつも、お前の望みに応えてやれるとは限らないぞ』
そんな台詞でイサナを受け容れたマサキだ。自分から求めてくることは…まず、ない。
求めるのはいつもイサナの方で、しかも先程のような明るい処や昼間から行為に及ぶことを極端に嫌い、反応の硬軟は機嫌次第としてもほぼ…拒んだ。イサナが揶揄っている時もあるが、時として何か地雷を踏んだのだろうかというくらい激しい拒絶に遭うこともある。尤も、それでも先刻のようにすぐ何もなかったようなふうに接してくるから…迷いのタネは尽きない。
今もまた、首筋を撫でた指先を更に鋭敏な部分へ進めても…ただされるがままだ。時折、少し苦しげな喉声が漏れるが、それさえもかすかに甘い。
***
――――傍に居るだけで、海にいるときと同じ安息を感じることができた。
最初に『欲しい』と思ったときから、マサキの心の在処に気付いてはいたが、安息以上のものを望むつもりはなかった。海は、独占できるものではないだろう。ただ傍に居られればいい。そんな言葉で自分を納得させようとしていた。…納得したつもりでいた。
マサキが時折見せる、ひどく素直で、無警戒な様子は…信用されているといえば聞こえはいいが、要はそういう対象として見られていないのだということくらい、わかっていた。
だが、タカミのことがある。駄目なわけじゃないだろう。そんな甘えがあったのは間違いない。
結果として…昨年の初夏 3。嫉妬に駆られて殆ど陵辱に近いかたちで想いを遂げてしまった罪悪感に、イサナはその夏中苛まれることになった。
翌朝からマサキはひたすら沈黙でイサナを拒絶し、居ていいとも出て行けとも言わなかった。直後にイサナが長い調査に参加することが予め決まっていて、その夏をほぼ帰れなかったことは…今にしてみれば、幸いであったのかも知れない。
しかし秋…出て行けという宣告を覚悟で帰ったイサナを待っていたのは、イサナはもとよりマサキやあの施設にいた子供達すべての人生を変えてしまった「事故」の真相だった。
街ひとつ吹き飛ばした隕石落下事故…といわれていたものが、実は特殊なウィルス研究所の爆発事故で…生存者として保護された筈の子供たちは実のところ隔離されていたということ、研究所を所有していた企業体の方針が変わったことによって隔離と監視が緩んできた事情が、ロストナンバーの少女の所在と共に明らかになったのだ。
『今まで何も話せなくて、悪かった』
翳のない穏やかな微笑でそう言われて、イサナはあの居たたまれない沈黙の理由を知った。事故についてはすべてが明らかになるまで誰にも口外しない、というタカミとの約束から、隠していたのはあくまでもタカミとの関係のことだと押し通すためだったのだ。
タカミもまたあの一件を通じて、苦しんだ末…心を預けられる相手に出会った。
マサキはそれを歓迎し、秘密に秘密で蓋をする必要もなくなったことから、静かにタカミから距離を置くことを決意している。
それを知って…イサナはまた抑えきれなくなった。
傍に居るだけで、同じ空間を共有していられるだけで良かったはずなのに、求めずにいられなかった。
マサキは求めれば応えてくれる。すべてを預けてはくれないとわかってはいたが、暫くはそれでも良かった。だが、手に入らないと思うと欲しくなる。手に入れたと思うと独占したくなる。
しかし度し難い身勝手は…やがて相応の報いを受けた。
『これ以上一緒に居たら、俺は多分…お前に全部預けきってしまうだろう。一度預けることを覚えてしまったら…きっとひとりでは立てなくなる。俺はそれが怖い』
一度そういう言葉で終わりを告げられた時。イサナは心臓が冷たい汗に覆われていくような感覚を味わった。
挙げ句、イサナはよく言って子供の駄々、悪く言えば脅迫に近い言辞を弄して出て行くことを拒んだのだ。結局その『子供の駄々』をいまだにマサキが許していることに…自分は自惚れてよいのか。イサナは迷う。
海を喪えば、魚は渇いて死ぬしかない。しかし、マサキはどうなのだろう。イサナを受け容れながら…いつでも突き放す準備が出来ているかのようなあの言葉は、胸に刺さったままだった。
***
マサキが思考を麻痺させるために敢えて酒量を増やしているようにも見えて…ふと、やるせなさが抱き締める腕に力を込めさせてしまう。時に、マサキが苦鳴を零すほどに。
酒精で思考を麻痺させなければ耐えられない程の何かを噛み潰しながら抱かれているのかと思うと、身体の熱さとは裏腹に…イサナはいつかのように心臓が冷たい汗に覆われる感覚に苛まれるのだ。
最近でこそ遠慮なく『莫迦、呼吸が止まる』などと文句を言うようになったが…最初の頃は、それでも何も云わなかった。苦鳴に気づいてイサナが腕を緩めると…ただ、諦めきったような吐息をする。それが余計にやるせなさを深くした。
だから訊いた。『無理をしているのか』と。だが、やんわりと晦まされると、それ以上訊くこともできない。…大体、行為の最中にそれを訊くなど野暮の骨頂ではないか。
イサナの腕の中で全身を紅潮させ、熱い息を吐きながら四肢を戦慄かせる。その姿態に嘘や粉飾を疑うことが出来るほど…イサナは器用ではなかった。
だからこうして抱いていても、わからなくなる。
半身を起こしたイサナに背中から抱えられ、深く繋がった部分の圧迫感に喘ぐマサキの腕が、縋るものを求めて宙を彷徨う。ベッドの上に突いたマサキの膝はガクガクと震えてもう限界近く、既に身体を支えることさえままならないようだった。
切れ切れに掠れた声を上げながら、イサナの肩に背を押しつけ、触れたイサナの髪に手を伸ばす。掴もうとしたのかもしれないが、もう殆ど力が入らず、しかも不自然な体勢から伸ばされたこともあって…イサナからすれば撫でられているようにしか感じない。
その感覚に、また煽られる。
イサナはその指先を捉え、前に回した腕のほうへ導こうとした。しかしマサキの指先はそれに縋ることなく、一瞬だけイサナの指を握り返した後…滑り落ちる。時を同じくして身体の中心を締め付けられ、イサナは思わず呼吸を停めた。
腕の中でゆっくりと弛緩していくマサキの身体を、イサナは暫くそのまま抱き締めていた。しかし意識がないのに気づいて…流れる程の汗に濡れた身体をそっとベッドへ横たえる。
身体を離す瞬間、声が漏れるのを抑えることはできなかった。離れがたくはあったが、このままでは身体を拭ってやることもできない。
身体を起こしたイサナは、シャツに袖だけ通して…ベッドを降りた。
***
汗がひいて冷えつつあるマサキの身体を、絞ったタオルで拭いながら…イサナは自分がつけた痕をなぞる。時には、我慢出来なくなって新たな印を刻みながら。
少し煩わしげに唸る時もあるが、大抵はされるがままだ。
タオルをランドリーに放り込んで、再びベッドに戻った時。イサナが腰掛けたことで軋んだスプリングの音に、マサキが薄目を開けた。
「…何時だ?」
気怠そうな問いに、イサナは枕元の時計に目を遣った。
「三時半だな」
「そうか…まだ一眠りできる…な」
そう言って、また両眼を閉ざす。見る間にとろとろと寝入るのが何か可笑しくて、戯れに顎を捉え、軽く唇を重ねる。
そっと離れたとき…目を開けることさえしないままに、少し不機嫌そうな声があがる。
「…寝かせろよ」
「わかってる」
笑いを堪えながら、イサナは応えた。これ以上は本当に機嫌を損ねる。それでも、触れたいという欲求に逆らえずにゆっくりと髪を撫でた。…ここまでは許容範囲。
今日は大丈夫なようだが、宵闇の中でふと目覚めると…マサキはひどく呼吸を乱す時がある。声も上げられない様子にイサナも最初は何かの病気を疑いもしたが、視線を合わせるとすぐにおさまるようだから、悪い夢でも見たのかと思ってあまり深く訊きもせずに流してきた。
眸…。
何を見るのか、視線が焦点を結んだ時…いつもふっと緊張が落ちるのがわかる。
ふと、マサキの瞼が開いた。気怠げに身体を返し、イサナの方へ向き直る。
「寝かせろというのに」
「済まん」
「お前も寝ろ。オフだからって昼夜逆転したような生活はするなよ」
「俺としては、あんたがいない昼間に起きてても仕方ないんだが」
声に笑いが混じっていることを悟られたか。マサキが手を伸ばしてイサナの額を指で弾いた。
「痛いぞ」
「喧しい」
そう言い放ったマサキの指先が、ふと、イサナの前髪をかき遣った。
「…灯りがないと、本当に紫だな。今更だが」
一瞬、何のことを言われたのか解らなくて…思わず黙る。
「お前の眸だ。まさか気づいてないわけじゃないだろう」
「…あぁ」
思わず、マサキの視線を遮るように額に手を遣ってしまう。光量の少ない場所では紫に見える、この眸。両親いずれの血なのかは今となってはわからないが。
「イヤなのか、ひょっとして」
「何が」
「眸のことをいわれるのがさ」
「…そういうわけじゃない。まあ、驚かれることはあるな。だが、別に意識はしてない」
「それならいい。…まあ、俺としては…目が覚めたときに見えるその彩のほうが…落ち着くんだが」
「…何?」
意味を取り損ねて、イサナが訊き返す。だが、マサキは小さく吐息して、目を閉じてしまった。
「つまらん話さ。いや、気にするな。…綺麗な色だぞ」
***
翌朝は雨だった。
朝というのに夕方のような暗さで、マサキは気が滅入る、今日は上司が来る日でそれでなくても憂鬱なのにと文句を垂れながら出勤していった。
オフの日常は、ほぼ家事で潰れる。マサキは散らかす質ではないが、日中仕事で居ない分、やや雑然とはしてくる。
専門書以外の持ち物にひどく淡泊なイサナからすると、どうでもいいようなものが部屋のスペースを圧迫してくると何となく居心地が悪く、片付けたいという衝動に駆られる。かくて、「イサナが帰ってくるとやたらと部屋が広くなるわね」とミサヲに評される状況が現出するのであった。マサキとしても意図があって取っておいたものがいつの間にか処分されている場合もあるはずだが、大概「まあ、いいか」で済ませてしまう。物に対する執着が薄いことにかけては、有り体に言えば同類項だからだろう。
単に片付ける時間がないだけで。
そうして午前中一杯を片付けに費やした後、自分の部屋へ入って読みかけの雑誌を手に取った時、視界の隅を過った光にふと動作を止める。
部屋に造り付けてあった鏡に、自分が映ったのだ。窓のない部屋だから昼間でも灯りを点けなければ暗いのだが、雑誌のある場所くらい見当でわかるから灯りを点けずに入った。開いたままの扉からもれ入る細い光程度だと、昼間でもこの色が出る。今日は雨で空が暗いから、余計に。
当然だが、いつもなら動作を止めるほどのことではない。昨夜…と言うより今朝、マサキにあんなことを言われなければ、である。
多分、かなり久しぶりに…イサナは自分の両眼の紫をまじまじと見た。
『…綺麗な色だぞ』
それを素直に喜ぶには、マサキの台詞はやや重かった。
***
その日、帰ってきたマサキの顔色はひどかった。
「…何があった?」
イサナが開口一番そう言ってしまった程だ。
「たいしたことじゃない」
マサキは即座にそう言ったが、顔色は完全に言葉を裏切っていた。体調が悪いとか、そういうことではないのはわかる。職場で何かあったとしても、職場のことを家に持ち帰る質でもないから考えにくい。上司に揶揄われたなどというのはおそらく日常茶飯事だし、本来その程度でへこむマサキでもない。
「そういえば、カヲルが帰ってきたぞ」
沈黙に押し固められた夕食のテーブルがあらかた片付いた頃…ふと思い出したように、そう言った。
「時間がとれないとかで、わざわざ職場の方へ来たんだ。家の誰かにでも言付けりゃいいのに、存外義理堅いやつだよ。相変わらず忙しそうだったな。一晩くらい泊まっていくのかと思ったら、とんぼ返りだそうだ。それでも、嬢ちゃんに逢って帰るあたり…まあまだ可愛気はあるか」
口許は笑っていたが、双眸の光はやや澱んだままだ。
「…で、カヲルが何を持ってきたんだ」
イサナがそう斬り込むと、マサキは一瞬呼吸を呑み…そして嘆息した。
「お前最近、無駄に鋭いな…」
マサキは立ち上がり、ウォールハンガーにかけた通勤用のバッグの中から掌に載るほどの小さなプラスチックケースを出した。ダイニングテーブルの上に些かぞんざいに置く。透明なケースの容積の半分には緩衝材が詰めてあり、その緩衝材に焼け焦げたネームプレートのようなものが固定してあった。
「研究所のあったあたり…ようやく再開発が始まったって話は?」
「そういえば聞いたか」
「基礎工事で掘り返していたら、瓦礫の下から遺品らしい物がいくつか出てきたんだそうだ。まあ実際…誰の持ち物だかわからないものが殆どだったらしいんだが、その中でもこれは…まあ間違いないと」
ネームプレート…社員証や入退室管理のタグを兼ねた物なのだろう。プラスチック製で多少焦げてはいたが、手に取ると社名や氏名は十分に読み取れた。
イサナが読み取った名前。英字で、心当たりはなかった。社名が大手の製薬会社だということくらいか。…製薬会社?
「…ひょっとして、サキ…」
イサナがケースをテーブルに戻して顔を上げたとき、マサキの顔色は既に最悪のレベルに達していた。青いというより既に白い。今にも倒れてしまいそうな程…血の気が引いていた。
「…なんで、よりによってあの人かな。…母さんのならまだよかったのに」
それでようやく理解する。ネームプレートの主は、マサキの母親の再婚相手…義理の父親。外国籍とは聞いていなかったが。
テーブルに置かれたケースを覆うようについたマサキの手…その指先が、微かに震えている。爪が白くなるほど力が入っているのが看て取れて…イサナは慄然とする。
マサキが昔、母親の再婚相手から関係を強要されていた…という告白を聞いたのも、去年の初夏のことであった。
ああいった事案のお定まりとして、誰にも相談することが出来ず…妹に被害が及ぶことを怖れてただそれを受け容れていたという。しかし件の事故でその義父もいなくなったことから、努めて忘れようとはしていたらしい。
「死んだんだ。いなくなったんだ。あの熱風が全部吹き払ってくれたんだ。それでいいじゃないか。…何だってこんな物が、今になって出てくるんだ…。いや、カヲルが悪いんじゃない。あれはあれで、気を遣ったんだろう。こんな物一つ手渡すのに、わざわざ帰ってくるくらいだからな。大体、あいつが知ってるわけもないし…。でも…要らない…こんなもの、俺は要らないんだ…」
声が徐々に上擦っていく。
受け取りたくない物なら、受け取らなければ良かったはずだ。だが、何も知らずにわざわざ帰国してまで直接マサキの処へ持ってきたカヲルを思いやれば、それは出来なかったのだろう。
蒼白になって声を上擦らせるマサキなど、多分、誰も見たことはないだろう。イサナにしたところで、今自分の目の前に居るのが本当にマサキなのか、不意に自信が持てなくなった程だ。
泰然。昂然。そして飄々。多少波立つことはあっても、その総体は何も揺るがない。それがマサキだった。自分にとって。そしておそらくは、他の皆にとっても。
人が現在の姿をとるには、相応の道程がある。出会ったときには、もうマサキはマサキだった。だから皆、誤解する。彼は何にも揺るがないのだと。
『兄さんは、何でもなかったようなフリをするのが得意よ』
以前、ミサヲに言われたことの意味を…イサナはようやく理解した。それと同時に、ぱきん、という何かが砕ける音に我に返る。
ケースの上に置かれたマサキの手は、込められた力のために爪ばかりか関節も白くなっている。それに自分の手を重ねて、イサナはそっとケースから手を放させた。
マサキの掌の下で、ケースは皹を生じていた。尖って浮き上がったその破片が指先を刺したのか、マサキの指先に細い傷がついている。細くても存外深かったのか、赤珊瑚のような血玉が浮いていた。
その手を捉えたまま立ち上がり、イサナは立ち尽くしたままのマサキを背中から抱き締めた。片付けを終えたばかりのダイニングは皓々と灯りがついていたが、マサキは抗わない。
イサナが血玉を浮かせた指先を口に含み、舌を絡めると…目を伏せたままのマサキの喉奥からくぐもったような声が漏れた。そして、ゆっくりとイサナの胸に背を預けてくる。
ややあってイサナが指先から唇を離した時、濡れた指先にはもう血は浮いてこなかった。
「…執拗いぞ」
「だが、止まった。…無茶するな、全く」
「しようと思ってやったわけじゃない」
「それはそうだろうが…。で、消すのか…灯は」
「当然だ」
何を今更、というように、マサキが言い放った。苦笑して、イサナはマサキを腕に収めたまま…壁のスイッチを探る。
照明が落とされたとき、マサキが不意にイサナの襟元を掴んで引き寄せた。
薄闇の中で重ねられた唇の感触に、驚かなかったと言えば嘘になる。
「…付き合え。このままじゃ、とても眠れそうにない」
耳朶を咬むようにして紡がれた声は、既に微かではあるが熱を含んでいた。
***
いつもなら、疾うに音を上げている頃合いなのだが。
シーツの上に俯せ、マサキは絶え入りそうな呼吸に肩を揺らしていた。もはや快楽を追うためというより、自身を傷つける目的で行為にのめり込んでいるのが明らかなだけに、イサナはいつかと同じいたたまれなさに苛まれる。
「もう、いいだろう」
イサナは身体を離し、色の淡い髪を撫でる。
それ以上は何も云わず、ただ黙して汗ばんで張り付いた髪を整える。その所作をマサキはじっと見つめていたが、収斂してきた呼吸を整えるように一度大きく吸い、ゆっくりと吐き出しながら緩々と目を閉じた。
「…済まない、イサナ」
「サキ…」
「いまでも、時々…自分の居る場所がふっとわからなくなることがある。暗闇の中で目を覚ましたりすると、自分がまだあの悪い夢のような時間の中に閉じ込められている気がするんだ。…そのたびに呼吸が停まる。あれに比べたら、まだ…火のついた瓦礫の間を歩いてた時の夢のほうがましなくらいだ」
あの爆発事故の記憶の方がまだましと言い切るほどの地獄を、イサナは想像することができない。だが、以前から気になっていた…闇の中で目を覚ましたときのマサキが何を見ていたのかが判った気がした。
「身体に傷が残るほど痛めつけられたわけじゃない。…殴られた記憶もないし、物理的に拘束されたわけでもない。…それなのに、あの人が怖ろしかったし…抗うことが出来なかった自分が嫌だった。ただ当時は、それすら自分ではわかってなかったな。一種、失感情症 4に近かったのかもしれない。施設のカウンセラーは、当時の俺についちゃそろいも揃って匙投げてたって聞いてるよ。まあ、表面的な日常生活に差し障りがなかったからな。
ミサヲには『なんとも思ってないフリをするのが上手』なんて言われたが…実態はそんなもんだ。まかり間違っても自分でコントロール出来てたわけじゃない。そんな上等なもんじゃない…」
そう言って一度深く息を吐いた。気怠そうに仰向けになり、イサナの頬に手を伸べる。
「目が覚めたときに、お前のその蒼に近い紫を見たら…何か安心するんだ。…自分がもう、あの悪い夢の中にいる訳じゃないって確認できるような気がするから…かな。
だからお前が望むなら、付き合わんことはない。…ただ、いまだに慣れないから…多少、酒の力を借りたくなる時はある。それだけだ。
あのひとの眸は、赤みの強い色だった。…ああ、やなコト思い出しちまったな。折角殆ど忘れかかってたのに…そうだ、限りなく赤に近い色だった」
振り払うように軽く頭を振って、再び吐息する。
「いつまでもとは言わん。…せめて俺があの紅を忘れることが出来るくらいまでは、居なくなったりするなよ、イサナ」
そう言ってしまうと、俄に眠気を催したものか…伸べていた手をするりと落として目を閉じた。
イサナは髪を撫でていた手を、まだ少し汗ばんだ頬に滑らせる。
いろいろなことが、胸の奥で片付いていくのを感じた。…丁度、縺れた糸がするするとほどけていくような。何か変わったのかと言われると、決して何も変わってなどいないのだが。
「…それであんたが俺を必要としてくれるなら、その紅とやらのこと…ずっと忘れられなくたって構わんが」
口に出してしまってから、ふと笑う。何という言い草だ。
「…なんてこと言いやがる…」
眠くはあるのだろう。目を閉じたまま、マサキが唸った。
「起きてたのか」
「眠くてしょうがない。身体も痛いし怠い。それなのに人の耳許でとんでもないことを抜かす奴がいるから、眠り損ねてるだけだ」
「…それは悪かった。じゃ、こうしてるから遠慮なく寝てくれ」
ベッドの下へ落ちてしまった枕の代わりに、イサナが自分の腕を滑り込ませる。
「やめんか暑苦しい!」
発条のような勢いで起き上がったマサキだったが、怠さに負けてまた緩々と身を横たえた。予防線なのか、ベッドの下から枕を拾い上げることは忘れなかったが。
「…寝かせてくれ、頼むから」
置き直した枕に頭を預けながら、マサキが吐息混じりにそう零す。これは本気だ。これ以上揶揄うのは拙いだろう。
「ああ、それと…明日でいい、ダイニングの片付け、頼んでいいか」
一瞬、意味を取り損ねてイサナが黙る。だが、テーブルの上に置いたままの壊れ物のことだと思い至り、イサナはふっと息を吐いた。
確かに受け取った。でも、保存しておく必要はないものだ。だったら、片付けていい。
「承知した。…じゃあ、これくらいいいだろう?」
イサナがそっと身体を屈め、唇を重ねた。あくまでも軽く、触れるだけにとどめて…。
小さな灯だけの薄闇が、今は心地好い。
――――――――Fin――――――――
Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「breezeⅥ」
「Little Light」についてのApology…
すみません嘘吐きました
「Le Grand Bleu」で完結!とか大上段ふりかぶっておいて、半年も経ってからのこのこ続編書いてる大うつけ万夏でございます。でも今度こそ終わりですきっと。
終わらせた、と言いながら、「Le Grand Bleu」だとイサナが駄々こねてるだけで話全然終わってないよなぁ…という反省がありまして(今更!?)、一念発起しました。なぁんてのはタテマエで、ウチとこの大家が「てのひらの赤い月」を仕上げにかかってるのを横目で見てますと…なんかむくむくとサキ受な話が書きたくなったという、大家に言ったら絞め殺されること請け合い(爆)な動機があったのでした。(サキのトラウマになってる御仁の眸が赤い、という設定が付加されたのは、間違いなくこの所為です。わっはっは)いや、だってそーでしょ。どう考えてもあのお話、シュミット大尉×サッシャがベースにあるように読めるんですが。
え? 素直にそっち書け? さすがにマジ殺されそうですね。どうしよう。
(リクエストという名の錦の御旗があれば…ごにょごにょ)
それはさておき、今回は「イサナはサキを喪ったら生きてけないと思ってるけど、サキはイサナがいつかどっか行っちゃうんだろうなって思いながら付き合ってる」という状況にイサナが焦れる話。やっぱり何も進んでませんね。オマケにサキってば、真性は真性らしいけどやっぱり下になるのは苦手らしい。ただ、イサナがイヤだってんじゃないというのがややこしいところで、イサナが焦れてるのもわかってるけどそーは言ったって苦手なものは苦手。だから酒の力を借りてしまう。…で、呑まなきゃ相手できないくらいイヤなのかとイサナは余計に焦れるという悪循環。あぁ鬱陶しい。
とりあえず、サキもイサナを必要としてるってことを、ようやくイサナも理解した、というのが今回のオチなのでした。ある意味、遺品が出てきちゃったためにサキ自身もそれを自覚しちゃった部分があるかも知れません。…書いといて何ですが、鬱陶しくて疲れる話です。ぜえぜえ。
で、今回もチョイ役だったカヲル君。
サキに遺品を渡して帰ったはいいけど、いくらサキが「何もなかったフリをするのが得意」とはいえ…やっぱり微妙に「おかしい」と感じていました。それでもって、ドイツに戻った頃になって「ひょっとしたら自分はサキの地雷を踏んじゃったかのかも知れない」と蒼くなったという話は…盛り損ねました。実直に本筋(あったのかそんなもの…)から外れますし、そこまで書いてたらケリつかなさそーでしたので。
「Little Light」は杉山さんの「My Song My Soul」から。実にしっとりした素敵な曲で、書いてる最中エンドレス状態で聴き倒しました。…挙げ句これか!?というのは、いつものコトで。
意味合いとしてはまんま、「小さな光」でよいのかなと。お互いにとってお互いが支え合う小さな光、みたいなイメージでしょうか。
『やるせなさが/夜をさらに艶めかせ/恋を憂う』
とか
『あなた描く明日に/私がいるなら/
あなた描く明日を/彩りたいから』
とか…なんて萌えるシチュエーション! 嗚呼、どうしてこういうしっとりしたお話にならないのでしょう。つくづく自分の無能が恨めしい。
それでは皆様、次回まで万夏が正気でいたら・・・・・いや、何も申しますまい・・・・・・(^^;
2019.7.24
暁乃家万夏 拝
- スミノフの黒(ブラック)…ご存じウォッカの定番。ただし黒は普通のスミノフ(赤ラベル)よりも蒸留に手間暇かかってるので同じ度数(40)でも価格高め。ポットスティル蒸留(銅製単式蒸留器による蒸留)のため通常の蒸留方法(連続式)より香気が強く出るそうな。
- ブラッディメアリ…トマトジュース+ウォッカのカクテル。
- 「永遠のもう少し」参照。時系列的には「夏服 最後の日」のコテージの一件よりも少し前のこと。「夏服…」前半でサキがタカミに対してやたらと積極的なのは、実はこのときの反動だったりして…
- 失感情症… 心身症の患者に特徴的な性格特性で、 自分の感情(情動)への気づきや、その感情の言語化に障害 がある。平たく言えば、自分の感情を巧く自分や他者に説明できない。