「天文寮神官・ユリス=オリヴィエは、マルフ紛争における戦病死とする。
〝シエル〟には以後、南海へ旅立つ御子レオンの水先案内を命ずる。知識と経験のすべてを注ぎ、統領に代わって御子の旅を支えよ」
公的には存在を抹消し、追放処分とすることでシエルを助命する。これが、アンリーが神官府との交渉で勝ち得た結果。だが、準備した帆艇一艘、艤装品と糧食は、アンリーの誓約を果たすためのものだった。
戦が終わったら、南の海、海流の向こうへ行く。それはかつて〝ヴァン〟と交わした約束でもあり、彼が彼自身に課した誓約だった。
喪われた南海航路の先には、常世国ではなく、人の住む陸がある。そしてそこには、レオンの本当の故郷がある。
アンリーの誓約。それは…時が来たら、シェノレスのためにその出自を封じられたレオンにすべてを話すことだった。そのうえで彼が望むなら、彼のためにも南の海への道を拓く。
それが、神官府への反逆にあたるとしても。
その身は病床にありながら、凄烈なまでの覚悟であった。だから、ミランはそれ以上何も言葉を差し挟むことはなく、ただ遂行を誓約した。
――――遺詔となってしまった、その命令を。
言い切ってから、深く息をつき…ミランは改めて頭を垂れたままのシエルを見た。シエルは天文についてこそミランと同等の教育を受けているが、航海術の実践経験はさほど豊富というわけではない。そんなシエルにいきなり未知の海への水先案内は、控えめに言っても荷が重い。
いっそ自分も行こうか。命令を受けてこの方、そんなことを考えたことさえあった。ジュストも、アンリーもこの地上から去ってしまったあとに、まだここに在らねばならぬ理由を見つけられる気がしなかったからだ。
だが、今回シュエットからソランジュの護衛を依頼されたとき、老獪な前審神官はさらりと付け加えたのだった。
『ちゃんと帰って来いよ、ミラン。彼女をアンリーの処に連れ帰るまでが、お前の役目だからな』
見透かされていたのだろう。それでも、シエルの顔に不安が見えたなら、ミランは何らかの方策を考えようとしたかもしれない。
だが、顔を上げたシエルに迷いはなかった。
「拝命します」
そして、ただ静かだった。
ミランは掛けるべき言葉を、最後まで見いだせなかった。
***
数日後、ミランは海神窟に帆艇を寄せた。
夜であった。晴れ渡って風もなく、波も穏やかであった。
シエルは海神窟の詳細な地図を残していた。昔の図なら神官府にもあったが、数度の崩落で塞がったり新たにできたりした隧道があり、詳細な構造は実のところよく判っていなかったから、シエルの地図は有意義なものとしてシュエットが管理する書庫の預かりとなった。
眼を通し、大体の構造を把握していたミランは、シエルが足繁く通っていたらしい星見台に足を運んだ。
崩れかけた石積みに周囲を囲まれた窪地。耳が痛いほどの静寂の中、石積みの不整な地平線を境に闇と満天の星空だけがある光景は、一瞬自分が何処に居るかわからなくなるような気がして…ふと恐怖に駆られた。
それは、孤独感といわれるものであったかもしれない。
あれでよかったのか。他にどうしようもなかったのか。
星空を仰いで、バラバラになりそうな思考を星の位置を確かめることで繋ぎ止めながら、ミランはいつしか視界が滲んでいることに気づいた。
――それでも、誓約は成就されたのだ。
――――――――Fin――――――――