典薬寮の女神官・ソランジュは典薬寮頭クロエの采配で本殿で起居するようになったらしい。その日、いつものように統領に伺候したミランを取り次いだのも彼女だった。
おそらく本殿詰めになる段階で、ミランが何者であるか聞かされたのだろう。ミランをアンリーのもとに案内した後、アンリーとミランに一礼してさらりと場をはずした。
その瞬間、ふたりが言葉でなく視線で意志を伝えあうのを見て、ミランは数日来胸を塞いでいた重苦しさが少しだけ溶けるのを感じた。
シエルは衛視寮の仮牢に収監されたが、後日シュエットの預かりとなった。あの日以来、魂が抜けたようになってものも食べなくなり、衰弱の一途を辿ったため、シュエットのはからいで移送されたのであった。ただ、扱いとしては咎人に違いはなく、処遇が決まるまでの暫定措置としてネレイアの統領代行であるシュエットの監察下におかれるという名目であった。そして後日、さらにかつての禁域・海神窟へ移送となる。
移送に当たることになったミランは、ひたすら事務的に命じられたことだけをこなして…半ば逃げるようにその場を立ち去った。
シエルの憔悴ぶりは痛々しかった。だが、何より防ぎ得たかもしれない過ちを防ぎきれなかった負い目はずっと胸奥に蟠っていたのだ。ミランはシエルを信じたいと思いながら信じ切れず、その懊悩を除いてやることよりも、アンリーがようやく得たこの静穏を守ることを選んでしまったのだ。
火輪に憧れ、遂にその身を灼いてしまった友人を嗤うことなどできない。ひとつ間違えば、自分がそうなっていた。
「…ミラン、傷は…?」
儀礼的なやりとりが終わった後の問いに、ミランはふと息を呑んだ。それはシエルが移送の途中、怖ず怖ずと訊いてきた言葉でもあったからだ。
「…もう治りました。もともと浅手です」
拝跪したまま、ミランは応えた。嘘はない。
「そうか…」
暫く、沈黙が下りた。
「…赦してくれ」
絞り出すような声でアンリーが口にしたのは、シエルの件以外ではありえなかった。
「衛視寮の関与があった以上、なかったことには…できない」
シュエットの言葉からも薄々知ってもいた。だから、ミランの答えも決まっていた。
「仕方ありません。当然の処置かと」
アンリーは少し寂しげに微笑った。
「デュナンのことを思えば、一太刀ぐらい受けてやるべきだったのかもしれない。それで、シエルの気が済むなら…」
「統領…!」
アンリーがとんでもないことを言い出すから、ミランは思わず腰を浮かせた。アンリーが軽く片手を挙げてそれを制する。
「あさましいものだな。こんな身体になっても、もう少し、生きていたいと…生きて、夢を見てみたいと思っている自分に、気づいたばかりだったんだ。
以前の私なら…もっと早い段階で動けた。だが、動きに迷いがあったと思う。結果、あんなことになってしまった…」
「…あなたの所為ではない」
ミランも今は奥殿で起きたことの経緯を知っている。事態は衛視寮だけでなく、典薬寮をも巻き込んでいるのだ。所詮、内々で処理することは不可能な状況だった。
シエルの処刑は不可避だったのだ。
「ただ、私なりに足掻いてはみるつもりだ。執行は本殿の承認をとりつけるまで待たなければならない。相応の準備は要る」
アンリーの声に、力強さは欠けていたかも知れない。ただ、穏やかだった。
「これは、私の最初で最後の我儘…そして…おそらくは、お前への最後の命令になる。諾いてくれるか、ミラン」
ミランは胸腔に氷塊が滑り落ちるのを感じたが、仰ぎ見たアンリーはいっそ無邪気でさえある微笑を浮かべていた。
溢れそうになったすべてを呑み込み、ミランは再び頭を垂れた。
「…統領、下知を」