――――その日、シエルが姿を消した。
天文寮神官ユリス=オリヴィエが、定められた観測の時間に星辰台へ上がらなかった。天文寮の中にも、宿房にもいない。シュエットからその連絡を受けた瞬間、ミランの胸中を不吉な予感が駆け抜けた。
シエルはマティアスの一件を口にした頃から、統領への目通りを希っていた。許可が下りず、相当に焦れていたことも知っている。シュエットの命でミランが統領の下を訪っていることを知ったときの取り乱しようから察して、いつか行動を起こすのではないかと危惧もしていた。だからこそ、シュエットも挙動に注意を払っていたのだが。
目許を引き攣らせたシエルが、大神殿裏の小径を駆け上がって行く様子が見えるような気がした。その光景が強烈な不安とともに脳裏に焼き付いて、ミランは居ても立ってもいられなくなった。
すぐに陸路、神殿の崖下へ向かった。
エルセーニュの市街地から風の通い路の起点までは基本的に海路だが、細く険しい海岸線沿いの小径も存在する。それは、普段は使われない祭儀場への道でもあった。
かつて奉献の儀が行われ、そしてジュスト=ブランシュがその命を終えた場所。
砂浜がわずかに現れた海岸を走り抜ける刹那、あの日のことが脳裏を掠め…常なら呼吸を圧する程の胸の閊えさえ感じる。だが今日ばかりは胸奥に重い石の存在を感じただけだった。
止めなければ。いまはただ、それだけ。
昏い海蝕洞の中は、波音だけがあった。岩陰に腰を降ろして、ミランは吐息する。
考え過ぎならそれでいい。強いてシエルを疑いたかった訳でもない。シエルは代々神官府に仕え、かつネレイアの一端を担ってきた一族の出だ。至って真面目で、シェノレスの柱たる大神官家を尊崇もしている。そのことにかけては、ただ生きていくために今の生き方を択んだミランとは比較になるまい。
しかし、だからこそ…統領が神官府の命、大義のためとはいえ、シェノレスの民を殺したという事実を受け止め損ねたのではないか。遍く光を分け与える火輪が権謀術数の徒に成り下がったと…手前勝手な義憤に駆られたのではないか。
ミランはとめどない思考を堰くように奥歯を噛み締めた。
それこそ妄想だ。元来、あいつは真面目なのだ。事実を知れば、それを呑み込むだけの理性はある男だろう。ただ本当に、統領の口から真実を聞きたいだけなのかもしれない。
だが、今、統領の傍には…!
ミランの閉じた瞼の裏を、あの褪せた麦藁のような色彩がちらつく。
あの髪の色以外、何も似ていない。ジュストと重なる何物も…彼女の中には見つけられない。それでも昨今垣間見えるアンリーの表情は、確かにかつてジュストの腕の中にいたときのそれとよく似ていた。
しかしそこにあるのは…蕩け溢れるような官能というより、唯々深い安寧だった。
静謐に包まれた安寧。それはある意味、実はジュストでさえ遂に与えることができなかったのかもしれない。
あのひとは、あるいは生まれて初めて安らぐということを識ったのではないか。そんなことさえ考えてしまう。
――――今はただ、あの安寧を壊したくない。
波音だけが満ちた暗闇の中に蹲り、自分の憂慮が妄想であることを、ミランはひたすら切願した。
だが、それを打ち砕く足音が、穏やかな波音の律動を崩す。
胸に氷の針を打ちこまれるような痛みに耐え、行く手を塞ぐように…ミランは立ち上がった。
「…どこへ行くつもりだ、シエル」
足音が停まる。
「…統領に目通りを」
薄闇の帳の向こうに、シエルが立っていた。ひどく、硬い声。
「無理だ」
言ってしまってから、背に冷汗を感じる。もっと他の言い方はなかっただろうか。シエルを激昂させない、穏当な言い方が。その焦りが、ミランに更に言葉の選択を誤らせた。
「あの方は今、療養の身だ。お前だって判っているだろう」
「お前は、目通りが叶うのだろう…?」
シエルの引き攣った薄ら笑いは、ミランに自らの言葉が完全に逆効果であったことを雄弁に物語っていた。絶望に目が眩みそうになりながら、言葉を継ぐ。
「シュエットの命で、様子を報せているだけだ。あの方には休養が必要なんだ。…そっとして差し上げるべきだろう」
「何を…むきになっているんだ、ミラン? 俺は…ただ、訊きたいんだ」
シエルが再び歩をすすめる。崖の小径へと続く階段への道を塞ぐように、ミランは前へ出た。だが、ここにはないものを見ているシエルの両眼が直視できず…思わず目を逸らしてしまう。
厭うたのではない。ただ、傷ましかった。
「訊きたいだけなんだよ…」
鞘走りの微かな音に、ミランは反射的に身体を捻る。ネレイアとして叩き込まれた体術は、幼馴染みを信じたいという温い思考に欺かれることはなかったのだ。
胸を衝撃が縦走して、薄闇に、緋を纏った刀身の鈍い光が踊ったのが見えた。
シエルが、剣を、持っていた…――
驚愕が、胸の痛み以上にミランの呼吸を圧した。次の瞬間、何も、わからなくなった――――
***
シエルを止められなかった。
暗闇の中で、慚愧に胸を咬まれて呻く。その時、シュエットの声が聞こえたことで状況を思い出した。まさか、シュエット自ら来てしまったのか。
「シュエット、ご無事ですか…!」
直後、今度は傷の痛みに声を堰かれて呻いた。胸の傷には的確な固定がされていたが、倒れた時に打撲した頭と背が凶悪なほどの痛みをもたらす。
「気づいたか。わたしは大丈夫だよ」
目を開いても闇。だが薄闇だ。はるか向こうに差し込む陽光は、海蝕洞の中にわずかな視界をもたらしていた。
ミランのすぐ傍にかがみ込んでいた誰かが、音もなく立ち上がる。神官衣を纏った美丈夫。黒檀の双眸、射干玉の髪、怜悧な美貌。
――――見間違いようがない。 鋼のクロエだ。
何故この場に彼女が居るのか全く想像がつかなかったが、手当てをしてもらったのは確かなようだ。
薄闇の奥から、シュエットの吐息が聞こえた。
「…よかった。怪我で済んだならよかった。お前を殺してしまったら、シエルは後戻りが出来なくなるところだった」
「シエルが…?」
シュエットの声に続いて、統領の声がしたのに驚いて身を起こす。すると、シュエットが薄闇の向こう…岩の上に座っており、その傍にアンリーがいた。
起き上がった瞬間に胸郭を貫くような激痛に息を停めたものの、師父と統領の無事を確かめることができて、ミランはふっと安堵の吐息をした。肋骨を傷つけたか、呼吸する度にひどく痛む。すぐ傍の岩に凭れ、ミランは呼吸を整えた。
師父たちの会話は聞こえてはいたものの、内容はミランの意識を通過していった。だが、シュエットの一言に思わず再び呼吸を停める。
「事が衛視寮に伝わったとなると、まぁ…シエルの処分はやむを得んか」
〝訊きたいだけなんだ〟。熱に浮かされたような呟きが、そこにないものを見据えた両眼が、今更のようにミランの脳裏で火花のように儚くはじけた。
ミランは自身で剣の鞘走りを聴いてしまうまで、シエルが統領へ刃を向けることなどあり得ないと思っていた。ミランが最初からシエルを取り抑えるつもりで動いていれば、確実に止められた。自身の甘さが、シエルを罪に墜とすことになってしまったのだ。
――――すまない、シエル。
失血よりも絶望感で、ミランは自分の視界が再び闇に覆われるのを感じていた。