ミランは、のろのろと身体を起こして重い瞼をゆっくりとあげた。
視界に入る、見慣れた光景。神官府内にある宿房の造りなど、何処の寮でも大差なく簡素なものである。牀と書机、あとは椅子。造付けの棚。それだけだ。
多くの神官にとって宿房とは文字通り寝に帰るだけの場所なのだから至極当然といえるが、その狭い空間に置いてあるわずかな小物、そしてその置かれかたが辛うじて主の性格らしいものを垣間見せる。
そんな中で、天文寮神官の宿房にだけは決定的な特徴がある。窓だ。
熱情
神官府でも、普通の宿房にはまず窓はない。
硝子の一枚板を嵌め殺した窓は、天体に変事があったときにいち早く察知して観測所へ馳せ着けられるようにそうなっている…というのが定説だ。だが、然程大きくもなければ透明度も高くはない。外の明るさが判る、という程度のものである。だから真偽の程はわからない。
この部屋にもまた、天井に近い位置に硝子が嵌まった窓がある。気泡が多くて世辞にも透明度が高いとは言えないが、確かに外の明るさはすぐにわかる。今も丁度、明け方の淡い月光が差し込んで室内を蒼く浮かび上がらせていた。
ただし、この部屋はミランのものではない。ミランは正式な神官ではないから神官府内に宿房を持たないのである。
宿房の主…シエルは深く寝入っていた。敷布の上に広がった淡い金髪を、身を起こしたミランがうっかり肘の下に敷き込んでいても起きなかったほどだ。
用事は済んでいる。わざわざ起こすほどのことはない。ミランはそう判断して牀から足をおろすと、身を屈めて床の上に落ちた服を拾い上げた。昨夜いっそ忙しないほど性急に剥ぎ取られたそれは、解かれた細帯をまといつかせたままだ。
昨夜遅く統領の命令を伝達に来て、そのまま褥に引っ張り込まれた格好である。毎度のことだ。統領に復命しなければならない刻限にはまだ時間があったし、少し休ませてもらうつもりでもあったから別に構わないが…宿賃としては些か高価くついているような気がしてならない。
別段、苦痛なほど責め苛まれる訳ではない。ミランにもそこそこ快楽を享受している自覚はあるのだが、どうにも息苦しさが付き纏うのだ。それはおそらく、シエルがミランに挑みかかるときに垣間見せる…絞め殺さんばかりの熱情…というより執着の所為だろう。
執着されているのは自分ではないのだ。
ミランは神官としての籍を持たず、リジュー島にいる統領の許で伝令を担うことが多い。ミランが公的には〝存在しない者〟だからだ。
エルセーニュ北方の山林、倒木に囲われた古い鳶の巣に遺棄されていた嬰児が、奇跡とでもいうべき僥倖に恵まれて神官府に保護され、そのままネレイアとなった。そうして、あらたに統領となった大神官の子、風神アレンの後身と呼ばれるアンリーの側近に当てられることになったのだった。
ミラン自身はそういった自身の境遇にそれほど深い感慨を持ったことはない。命が助かって、衣食も住む処もあって、楽だとはいわないが任せて貰える仕事がある。ただし、公的にはいないはずの存在…言わば幽霊の身の上である。だがそれとて気にしなければ何ということはない。まあ可もなし不可もなし、といったところだ。
だが、シエルの見解は違う。
統領アンリーを殆ど神かなにかのように崇め、その傍近くに仕えるミランをひどく羨むのだ。
シエルの気持ちも判らなくはない。見事な緋の髪と紅榴石の双眸、端正な容貌とよく鍛え上げられた身体。伝説にある緋の風神・アレンもかくやと讃嘆する古老の感慨も尤もなことだと思う。見た目だけのことではない。大神官の直系と言えば国主一族と同義なのに、日々ミランと同等、それ以上の厳格な修練を積み、その間で南海航路の開拓のために膨大な情報を収集・整理・分析している。…一体いつ寝んでいるのだろうと思うほどだ。
それらはすべて、ツァーリの軛を斬って落とし、自由になった海へ乗り出して南海航路の更に先へ進むためだった。
夢…壮大な夢だ。少し前なら子供の夢想と一蹴されていたが、彼とその師の努力でかなり現実味を帯びたものになっていた。現在既にツァーリに搾取されない貿易ルートが確立され、それらが確実な利益を生み出してツァーリの貴重な軍資金となっていた。
ミランやシエルと幾らも歳は違わない筈だが、率直に凄いひとだとミランは思う。その統領の下で働けることは嬉しいし、確かに誇らしい。羨ましい身分と言われれば確かにそうかもしれない。
それでも、シエルの執着は常軌を逸しているように思えてならない。
統領の命令を伝える間のシエルは、ひどく神妙に頭を垂れている。だが、それが終わるといつも早々にミランを牀に引きずり込んだ。そしていっそ呆れる程見事な手練であっという間に裸に剥き、出立する直前に統領がどうしていたか、どんな様子だったのか、子細に訊ねながら舌と指先でミランの全身を丹念に撫でまわすのだ。
――――まるで、統領の痕跡を探すかのように。
無論、シエルが口に出してそんなことを言ったわけではない。言えば、莫迦も休みやすみ言え、と横っ面のひとつも張ってやるところなのだが…口に出すのは統領の事ばかり、そのくせいつも全身を使ってミランを丁寧に追い上げ、追い詰める。ミランが何度達しようが、自身が充足するまで決してやめようとしない。
かくて、今朝のようにようやく果てたシエルが髪の毛を引っ張られても起きないという状況が常態化するわけである。
歴とした天文寮神官なのだから、決して莫迦ではないのだろうが…頭の良すぎる奴というのは時に複雑すぎる配線が縺れ絡まりでもするのだろうか。
痕をつけられることはよくあるが、傷を負わされたことはない。それでも、訳も分からず追い詰められ、一夜に何度となく狂わされるのは…一度や二度なら諦めもつくが、こう常態化すると身体というより神経にこたえる。
一度躱して逃げようとしたら、いつもより激しく責め立てられた。曰く、『見せられない痕でもついているのか』と。
この時ばかりはさすがに喧嘩になりかけた。結局ならなかったのは…抑えつけにかかるシエルの横っ面を平手で張って『この莫迦、痕ならお前がつけたのがまだ消えてないに決まってるだろう』と本気で怒鳴ったら…シエルの方が真っ青になって謝罪したからだ。まあ、無理矢理…しかも深く侵入された直後だったから、幾らシエルでも避けきれなかっただろう。
うっかり躱されたら火に油なのが判っていたから、最も確実な一撃を入れられる瞬間を待ったとはいえ…あまりにも哀れな萎れようだった。挙句、夜っぴて泣いて縋りつかんばかりに謝り倒された。
――――そこで絆されたのが、敗因といえば敗因か。その夜は結局、逆に朝まで抱いて宥める羽目になったのだから結果は同じだ。
『…莫迦か、お前。統領が、俺なんかに手も触れる訳ないだろう…?』
ようやく落ち着いたシエルに言った時、その肩が確かにビクリと震えた。シエルの執着の正体を、ようやく確認できた瞬間だった。
そのときも、明け方の淡い月光が差し込んで…室内を蒼く浮かび上がらせていた。
***
『…莫迦か、お前。統領が、俺なんかに手も触れる訳ないだろう…?』
それは決して自虐でも、統領が木石だと言っているわけでもない。そういった部分は…前統領が根こそぎ持って行ってしまったからだ。
前の統領は、ジュスト=ブランシュという元・衛視寮神官だった。
大神官家の傍系で、衛視寮に身を置いていたが、本来は天文寮から次代の寮頭にと嘱望されていたほどの逸材だったらしい。しかし、身を持ち崩して大神官リュドヴィックの勘気を被り、ほぼ強制的にネレイアに放り込まれたというのはミランがジュストから直接聞いた話だ。ただ、シュエットから聞いた話では…やはり南海の夢に憑かれてネレイアとなったというのが真相らしい。
シュエットというのはジュストの前の統領だった人物だ。
若いときに片脚を損ない、義足であったが本殿の書司とのふたつの顔を使い分け、形骸化していたネレイアを崩壊から救った。そして急激に時代が流れ始めた大神官リュドヴィックの代に至り、細作組織としてのネレイアを見事に再編した傑物である。
この男の気紛れがなかったら、ミランは間違いなく嬰児の頃にエルセーニュ北方の山林で獣の胃袋におさまって命を終えていただろう。
シュエットは遺棄された鳶の巣で泣いていた嬰児を拾って連れ帰り、育てた。教え込んだのは細作としての技術と知識だった。シュエット自身は片脚を損なっていたから、体術に関してはジュストが仕込んでくれた。
そのジュストが、次代の統領を仕込むためにリジューという小さな離島に引き籠もった後は、シュエットに座学をみてもらいながら彼の許を訪れるネレイア達を相手に鍛錬した。
かくて、ミランは十やそこらでネレイアの成員として働くようになっていた。
シエルと出会ったのもこの頃だ。
シエルは歴とした天文寮の見習い神官としての籍と名前を持っており、将来的にネレイアの活動を表側から支援する役目を期待される立場にあった。言わば、シュエットの表の顔の継承者というわけだ。天文寮神官としての専門教育を受ける傍ら、シュエットの下でミランと共にネレイアとして必要な知識を習得していた。ネレイアとしての任務と並行のミランとはまた別の忙しさがあったのだろう。最初の頃のシエルは結構愚痴も零していた。
だが、暫く経ってからシュエットの指示でミランがシエルを連れてリジューに渡り、久し振りにジュストから体術の指南を受けることがあって、様相は変わった。
シエルはそこで初めて、次代の統領・アンリーに引き合わされたのだ。
ミランは既に任務として数度リジューには来ていたし、ジュストの命令でアンリーの修練の相手を務めたこともある。だから幾らも歳が違わないのに凄い人だな、という漠然とした感想は持っていた。
だが、シエルの…奇跡を目の当たりにしてしまったかのような驚愕には驚きを通り越して少々退いてしまった。
「お前、あの方にお仕えするのか」
帰りの船の中で、ミランに掴みかからんばかりの前のめりで詰め寄るシエルに、お前もネレイアになるならいずれそうなるだろ、と軽く返したら、そういう意味じゃないとキレられた。
当時はまだシエルの方がすこし上背もあったから、てっきり歳上だと思っていた。実はほぼ同年か、ミランの方がすこし早生まれであったらしいというのを知ったのは後日のことだが、そういう相手によく判らない理由でキレられても困る。場所が船の中だけに暴れられても面倒だと思ったが、要は次代のすぐ傍で姿を見、言葉をかわすことのできる立場を羨まれているらしい。
ミランにしてみれば、場合によっては命の危険も伴う御用聞き、雑用係なのだから、天文寮神官として白刃の下に身を晒さなくても安穏に生きていけるシエルのほうが余程恵まれている。だが、そんなことをうっかり口に出そうものなら即座に絞め殺されそうな雰囲気ではあった。
だから、実戦でなく体術修練、刃を潰してあるとはいえ本物の鋼で打たれればこうなる、と服を脱いで脇腹についた傷と打痕を見せてやった。
さすがに、シエルは衝撃をうけたようだった。ネレイアの成員として実働に出るということの意味を悟ったとみえて、それ以上言い募りはしなかった。ただ、痣になった部分に恐るおそる手を伸ばして「痛まないのか」「こんなことがよくあるのか」と問うてくるから、押さえればまだ痛い、このくらいは珍しくないと答えたら、やおらその場にミランを押し倒してその傷を舐め始めた。
押し倒されたはずみで軽く頭を打ってぼうっとしている間に、とんでもない処まで弄られているのはミランにも判ってはいた。だが、驚きもしたし妙なことになったものだとも思いながら、させるままにしていたのだった。決して青痣になっている部分を抑え付けたりすることはなく、至極鄭重に舐めたり擦ったりするだけのことだから、格別苦痛とも思わなかったのだ。
それよりも、今までシュエットのところで机を並べている間より他は、ミランがただ遊び暮らしている程度にしか思っていなかったらしいシエルが、その現状を理解して衝撃を受けたという事実がわけもなく心地好かったのを憶えている。だから終いにはミランの腹の上で啜り泣きながら遂情するシエルの頭を…ミランにもよく判らない理由で撫で、背を擦ってやっていた。
ただ…理解して貰える、ということは、ある種の心地好さを伴うのだと…初めて知った。
その日を境に、シエルが愚痴を零すのを聞くことはなくなった。
置かれた場所で、与えられた職務をこなしているだけのミランにしてみると…心身の限界を試すかのように、ネレイアとしての知識の習得や修練に打ち込むシエルののめり込みようは鬼気迫るものすら感じられた。太陽に焦がれて空へ駆け上がり、陽に灼かれて落ちた鳥の逸話を地で行っているようで、先が思いやられる。
その懸念をシュエットに話したら、「暫く代わってやるか?」と笑いながら返された。
そういう問題ではないだろう。大体、すぐ傍で仕える立場というだけで、振り向いて貰えるとは限らないではないか。
そう反駁を加えようとして、シエルが何を望んでいるのかにようやく思い当たって暗然とした。
――――莫迦なシエル。まさか本当に、太陽に焦がれているのか?
***
大侵攻以降、シェノレスは海上貿易の収益をツァーリに取り上げられた。大神官リュドヴィックの掲げる南海航路構想とは、ツァーリの監視の届かない航路を確立し、搾取されない収益を確保することで軍資に当て、国土回復戦争の準備をするものだ。一方で同じく大侵攻によってツァーリの膝下にあるリーン・シルメナ両国と同盟を築き、包囲網を形成する。現在のネレイアはそれをツァーリに悟られずに進めるのための組織といっていいだろう。
ツァーリとの戦端を開く準備は着実に進んでいた。
開戦も間近となった頃、ジュストは胸を患って一線を退き、アンリーが統領となった。統領付の伝令が主務のミランにとっては、それまでと違って自ら動き回ることの多いアンリーが主たる命令の出元で復命先となると、追いかけるのも一苦労になってくる。
ミランは職務の円滑な遂行のために、ある人物を頼ることにしていた。リジューから出ることのなくなった前統領ジュストである。
胸を患ったとはいえ介護の必要な病人というわけではないから、静養もかねてリジューの本拠からは少し離れた海辺の庵にひとり居を定めていた。昔、リジューに現在のような本拠が築かれるより前…大神官が奉献というかたちでツァーリの目から隠したアンリーを、ジュストが統領として育てる間に住んでいた茅屋である。まさに茅屋というに相応しい以前の姿をミランも知っているが、今は補修がなされ、ひとの棲家らしくはなっていた。
静養中の身ということで限られた者しか訪問を許されていないが、ミランはその限られた者の中に入っていたから、その日も伝言を頼むつもりで庵の扉を叩いた。
応えはなかった。蔀戸もおりている。
体調がよいなら不在のこともあるし、そうでないなら昼間でも気分がすぐれず横になっているときもある。不在でも書き置きだけはさせてもらうつもりだったから、構わず扉を開けた。ジュストからそのように言われているからだ。
下ろした蔀戸の隙間から洩れ入る細い光。小さな庵だ。そう何部屋もあるわけではないから、薄闇の中でも入った瞬間に殆どが見渡せる。
奥の壁際につけられたひとつしかない牀に、座っている人影が見えた。
「…ジュスト?いらし…っ…!」
いらしたのですか、と言おうとして、顔をあげたジュストが唇の前に指を立てる仕草をしたものだから、ミランは慌てて口を噤んだ。
「済まんな、ミラン」
低く抑えた声でそう言って音もなく立ち上がったジュストの、少し着崩れた襟許を見て…ミランは状況を諒解した。
牀へ視線をずらすと…緋の髪に半ば覆われた裸の肩の白さが、薄闇の中でも鮮烈にミランの目を射る。俯せに横たわる統領アンリーのいっそ痛々しいほどに無防備な姿がそこにあった。
「外で、いいか?」
否やはない。立ち上がったジュストは全く音を立てずにミランの傍をすり抜けて外へ出ると、庵が見える位置ではあるが少し距離を取った木陰へミランを差し招き、腰を下ろした。
招かれるまま木陰に入ったミランは、声を低めたまま言った。
「こちらこそすみません…」
「風が佳かったとかで、少しだけ旅程が短縮できたといっていたな。さて、伝言で済むなら俺が聞くが、直接話した方が良ければ…」
ミランは慌てて頭を振った。
「い、いえ、大丈夫です。もとより伝言のつもりで来ましたから」
アンリーは統領となっても…いや、統領となってますますいつ寝ているのか思うほど多忙だ。僅かでも隙間ができたなら寝んでもらったほうがいい。叩扉の音でも目を覚まさなかったというなら尚更だ。それだけ、ここでは気を緩めていられるのだろう。
「判った、聞こう。ところでここなら普通に話して大丈夫だぞ、ミラン。さっきから赤くなったり青くなったり忙しいな。今更驚くことじゃあるまいに」
「あ、はい…」
言ってしまった後でもう少し無粋でない言い回しはなかったものだろうかと考えたが、前統領が浮かべるすこし意地悪い微笑を見て…莫迦ばかしくなってやめた。シュエットも幾分そのきらいがあるが、どうしてネレイアの統領まで務めたような人がこうもひとを揶揄ってあそぶのだか。アンリーにその悪癖が伝染しなければいいが、と余計な心配をしてしまう。
努めて事務的に重要な伝達を終えると、ミランは早々に立ち上がった。庵の方を向いて一礼する。
此処にいるときのアンリーの表情は、日頃の冷徹な統領の貌からは想像も出来ないほどに…とても柔らかい。ミランが此処を訪った時、たまたまアンリーが居合わせたのは今日が初めてというわけではないが、その度に思うのだ。
ああ、この貌がこのひとの素顔なのだろうな、と。
だからこそ、ミランはシエルのように無邪気な崇拝に傾斜することはできない。統領といえど血の通った人間なのだ。重い責任を果たすために強固な仮面で身を鎧うてはいるが、素はひどく繊細な、自分と幾らも歳の変わらない青年。
「…今日はすみませんでした。統領によしなに。
それとジュスト、お願いだから長生きしてくださいよ。あの方の為にも」
ジュストの面憎いほどの余裕がふと薄れる。だが、口は容赦なかった。
「何だ、ひとを年寄りみたいに。おれはシュエットよりよっぽど若いんだぞ」
養い親を引き合いに出されて、ミランは笑って言った。
「あのひとは妖怪1 ですから」
「違いない、ネレイアの親だな。あの海坊主、2 うっかり出歩かせると船が転覆しかねん。エルセーニュで大人しくしててもらうのが一番だ」
「先代掴まえて言いたい放題ですね」
「言えた義理か」
そう言って軽妙洒脱に笑うこのひとも、往時より痩せた気がする。相変わらず口は減らないが、病魔は確実にその体力を削りつつあるのだろう。
「そういえば…私も、風とお呼びした方がいいですか?前統領では長くてしょうがないし、あの方の前では、昔の名でお呼びしない方が良いのでしょう」
返ってきた答えは、苦笑であった。
「えらく気を回してくれるな。悪い物でも喰ったんじゃないか?…あれも知ってはいるらしいから、別段かまわんのだが。…そうだな、ジュスト=ブランシュはもう死んでる。ヴァンでいい」
「では、ヴァン。身体を厭ってください」
ミランは前統領に対するに相応しい礼を執り、踵を返した。
――――その前統領ヴァンは…総督府襲撃成功の翌朝、海に還った。おそらくは、挙兵に際し海神の御子レオンの審神官となったアンリーの腕の中で。
あれからミランは…アンリーのあの穏やかな貌を見ていない。
***
気泡の多い硝子の高窓から、蒼い月光が降りてくる。
宿房の愛想のない壁に、硝子の気泡や歪みがもたらす陰翳が落ちていた。床…その上に滑り落とされた神官衣…寝乱れた敷布。すべてが蒼のなかに沈んでいる。
そして、ミランに覆い被さったまま寝息を立てているシエルの背も、また。
当たり前だが一人前の幅しかない牀は、二人で横たわればかなり狭苦しい。船底で丸くなって眠ることも珍しくない身の上としては、いっそ敷石の床の方が手足が伸ばせるだけましとも思える程だが…ここでそうしようものなら結局シエルがのし掛かってくる。敷石の硬さの上でそれを受け止める位なら、狭苦しい方を甘受するしかなかった。
――――開戦後2年。南の海からツァーリ駐留軍を叩き出し、殊に主戦場がイェルタ湾に移ってからは、ミランはカザルとエルセーニュの往復に明け暮れた。
最前線にいる主・審神官アンリーとその直属の上司たる大神官リュドヴィックの間を往復する訳だが、大きな船を仕立てていれば時間も掛かるし何より目立つ。乗って3、4人の小型舟艇で可及的速やかに伝令の任を果たすのは、控えめに言っても命懸けだった。
本殿の用が済んだら即座にとんぼ返りというのが常だったが、天文寮を抜かすとシエルが煩い。極力昼間、シエルが天文寮神官ユリス=オリヴィエである時を狙って天文寮に紛れ込み、挨拶程度の訪問で済ませたいところだが、そうもいかないときが多い。そもそも、公にはミランの方が大っぴらに名を告げて天文寮に出入り出来る立場ではないのだ。自然、夜半になって宿房へ潜り込むことになる。
言いたくはないが、喰われにいくようなものだ。
だが、統領の伝令船が着いた、という情報は遅くとも一両日中にはエルセーニュにいるネレイアの間に共有されるから、知らんふりも出来ないのだった。
昨夜のことだ。叩扉に応じて開かれた扉の向こうに立っていたシエルは、物も言わずにミランの腕を掴んで部屋の中に引き摺り込むと、閉めたばかりの扉にミランの背を押し付けて噛みつかんばかりの勢いで唇を重ねてきた。
開戦のすこし前頃から気づいてはいたが、以前はシエルの方が高かった身長は…今はミランが僅かに追い越した。だからシエルは少し低い角度から、舌先で遮二無二ミランの歯列を割って口蓋を弄った後は、首筋から襟許に唇を移してくる。そして両手は忙しなくミランの裾を割り、解いた帯を滑り落とす。
『おい、シエル…!』
あまりな性急さに苦言を呈する暇もない。…というか、何を言っても諾く気もない。本気で止めさせようとするなら横っ面を張るしかないというのも困ったものであった。
然りとて、横っ面を張って萎れられるとこれがまた後が面倒ときた。結局、好きにさせるようになる。結局、ミランの足許に跪き、熱の中心を咥えて唇と舌先で扱き立てているシエルの頭に手を置いて言うのが精一杯だった。
『…せめて座らせろ。…立ってるのが辛い』
後はいつもと同じだ。狭い牀にミランを組み敷いて、一撫で、一舐めごとに統領の様子を訊ねる。シエルはその返答を聞いてまた昂っているようだった。次第にその息遣いが荒くなると、質問も間遠になるのは有難かった。その頃にはミラン自身も頭が回らなくなって、何も応えられなくなるからだ。そうして昇り詰め、大抵はミランの裡で果てた。
充足したシエルはそのまま気を失うようにして眠ってしまうが、ミランとしても僅かでいい、休息の時間が欲しいから、大概そのまま寝入ってしまう。結局、朝まで狭い牀で身を寄せ合って眠ることになる。
…今朝のように。
ミランは身を起こして牀から抜け出ると、身を拭って服を整えた。
シエルの質問は、統領のカザルでの様子についてであって…決して房事の話に及んでいるわけではない。しかし、身体を執拗に弄られながら思いだそうとすると…つい、一度だけ見て灼きついてしまった統領の姿が何度でも浮かび上がってきてしまう。
蔀戸から洩れる薄明かりの中だ。
牀の上に半身を起こしたヴァンの腰を跨ぐようにして膝をつき、身を反りかえらせて切なげに喘いでいた。与えられる律動に揺らされながら、半開きになった朱唇からは切れぎれの…紛うことなき嬌声が溢れ出す。
そうして最初はだらりと垂らされていたその両腕が、繰り返される律動に促されるように持ちあがり、ゆるゆるとヴァンの背に回されるのだ。
愛しげにその背を撫で、やがて不意に力が籠もる。
膝をがくがくと震わせながら伸び上がってヴァンの耳朶に唇を寄せ、熱に浮かされた声で何事かを囁いた――――。
あの時よりも美しい統領を、ミランは見たことがない。今でも、思い出す度に身体の芯が熱くなる。もしあれを見てしまっていたら、シエルの狂いようは今の比ではなかったに違いない。
風は南の海に還ってしまった。
もう二度と…この地上の誰も、あの表情を見ることは叶わないだろう。
可哀想なシエル。今やこの地上の誰も手が届かなくなったものを、必死に追い求めている。いつか寓話の鳥のように、陽に灼かれて墜ちる前に…気づいてくれればいいが。
――――――――Fin――――――――