人は過つ。だが、贖えない罪はない。
贖罪
アニエスがナステューカへ連れ去られてからというもの、ジュスト=ブランシュの素行は荒れていた。
いずれは寮頭と嘱望されていた天文寮を去り、衛視寮1 に身を置きながら出仕さえ怠っていた。典薬寮でやはり寮頭と期待されていた、幼馴染みのクロエに狼藉を働き、表沙汰にはならなかったものの当時の典薬寮頭フレデリークから典薬寮内への出入り禁止を宣告されている。
だから、大神官リュドヴィックから呼び出しを受けたとき…ジュストはてっきり叱言をくらうものだと思っていた。本来、大神官が不良神官の素行を一々叱責をするほど閑ではないはずだが、少し遠いとはいえ血縁ではあったから、一族の誰かが説諭を依頼したのかと思ったのである。
大神官の一族は決して王侯のような生活をしている訳ではないが、大神官直系は本殿の一隅に居を構え、その身辺には複数の神官や巫女が傅く。それは大神官の祖先が聖風王に仕えた風の御使の血筋であるという伝承に基づき、その血筋であることが大神官の要件という不文律があるからだった。
先代大神官の娘、当代の実妹であるアニエスはツァーリに赴き、リュドヴィックの細君は既に亡い。本殿にはリュドヴィック本人と、その息子たちが住まうだけだ。ジュストは大神官兄妹と再従兄弟に当たるが、自身は本殿で生活した経験はない。ただ、幼馴染みのアニエスがそこにいた間、繁々と訪れたから特に案内を乞わなくても問題は無かった。
喚ばれはしたものの、奥殿2 というだけで何処とも伝えられていなかったから、ジュストの足は自然とアニエスのいた部屋へ向いた。
小さいが中庭に面した部屋。僅かな手回り品を除いて、殆どがここに置いたままであった。部屋は埃のひとかけらとて置かないように手入れされてはいたが、全て覆いがかけられて生活感などあろうはずはない。だがその光景は却って喪失感を甦らせ、ジュストはゆかしさに引き摺られて来たものの、踏み入ったことをすぐに後悔した。
仕方なかったのだと理解っている。
王族かそれに親しい者から未婚の子女を差し出させられるのはシェノレスに限ったことではない。リーン、シルメナもそうだ。表向き同盟国とされるノーアでさえ、大公の血縁者が人質同様にナステューカでの生活を余儀無くされているのである。
他ならぬ、大神官リュドヴィックに対する人質。当時十代半ばでしかなかったアニエスでさえ、それを理解していた。理解し、向き合い、己に為せることを為さんとしてナステューカへ赴いた。
そしてツァーリ王太子カスファーの子を儲け、王太子妃として地歩を固めている。最近では、王都の詳細な状況を私信を装ってリュドヴィックにもたらすようになっていた。
アニエスは間違いなく戦っていた。…剣も弓も用いぬ戦を。
それに比べて、自分は何だ。
喪ったことを歎き、無力を歎き、温めていた筈の夢さえ見失いかけている。その自暴自棄な態度はもうひとりの幼馴染みにも愛想を尽かされる始末であった。
今日も今日とて面倒な話を聞かされるのは確定と踏んで、ジュストは此処に来る前に一杯呑んでいた。とても素面で聞ける話ではないとひとり決めつけてのことだ。
どうしようもない。 ――――わかっている。わかっているのだ…!
かつて彼女の纏っていた花の香などとうに失せてしまった牀に掛けて、刻々と暮色を深くしていく中庭の風景を漫然と眺めているうちに、どうやら寝入ったらしい。
肌寒さと、圧迫感。それらにのろのろと現実の水面へ押し上げられたジュストの意識が最初に捉えたのは、薄闇の中に浮かび上がる白であった。
神官衣の白。結い上げられた、白に近いほど色の淡い金の髪。物静かというより無機質な白皙の面。
「リュディス…」
まだ子供だったアニエスがよく口にした兄の呼び名。ジュストもまた身内の気安さで時々そう呼んでいた。寝起きでぼんやりした頭でふとそう呟いたものの…次の瞬間、状況の異常さに一瞬呼吸を停めた。
「陽のあるうちから一杯呑んでの午睡か。優雅なことだな」
ジュストのもともと着崩した神官衣は大きく開けられ、下衣も殆ど解かれていた。相変わらず無機質な口調のまま、重厚な枷のごとき力でジュストを抑え付けているのは間違いなくリュドヴィックであった。
「…痛いぞ、リュディス」
「そうだろうな」
ジュストは腐っても武官である。腕力仕事とは無縁に見えるリュドヴィックに、自身が完全に動きを封じられていることに気付いて血の気が引く。
「…何をする気だ」
「どうして欲しい」
そう言いながら、リュドヴィックがやおら解かれた下衣の中の弱い部分を無遠慮に探った。ジュストはただその刺激に身を反らして呻く。伸し掛かるリュドヴィックを退けることも忘れ、震えながら敷布を掴んだ。ひっかけた程度の軽い酔いなど一瞬で吹き飛んだ筈なのに、身体が動かない。
何が起こっているのか理解できなかった。ただ、与えられる刺激に身を捩り呼吸を弾ませるしかない。開けられた胸に一瞬だけ痛みが走ったが、紅点を食まれたとわかった時には、痛みは既に別のものに変わりつつあった。
「何…を…」
下肢の間で熱を持ち始めたものを容赦なく煽り立てられ、胸の紅点を吸われ捏ねられれば抗議の声は裏返り、無惨に掠れた。
リュドヴィックはアニエスよりも十ばかり年長であった。ジュストが物心ついた頃には既に大神官の後嗣として定まっていて多忙でもあったから、同年のアニエスと違ってそれほど親しくしていたわけではない。寡黙で、真面目で、面白味のない歳の離れた再従兄弟。間違っても悪ふざけとは無縁な存在の筈だった。
――――恐怖を感じた。
それでも身体は昂ぶり、昇り詰める。自らの中心から溢れ出たものがぬるりと下肢を濡らし、内奥を指先で探られるのを絶望と共に感じても…ジュストは既に反応できなくなっていた。
滲んだ涙で視界は歪み、嗄れた喉は意志とかかわりなく意味を成さない掠れた声を上げ続ける。
身体を返され、腰を持ち上げられて…内奥が容赦のない侵入に晒されたとき。遂に意識が途切れた。
***
四肢は鉛を鋳込んだように重く、身体の内奥は穿たれた痛みに軋む。どれだけの時間が経ったのか、すでにわからない。
部屋を入ってすぐ横の壁にあった壁龕。ぼんやりとした光に、そこにいつの間にか灯盞が置かれていることにようやく気づいた。リュドヴィックが入ってくるときに持っていたものだろう。…ということは、リュドヴィックが来た時には陽が落ちていたのか。
その芯がはぜる細い音を、ジュストは朧気に聴いていた。
灯りはたったひとつ、しかも遠いから、部屋の中を悉に照らすというわけにはいかぬ。だがそれは今、却って有難かった。今、自身の身体がどういうことになっているのか…あまりはっきりと見たいわけではない。
リュドヴィックは既に服を整え、同じ牀に端然と掛けていた。曖昧模糊とした灯盞の光の所為でなく、いつものようにわかりにくい表情で、漫然と窓越しに昏い屋外を眺めていた。
何かを言ってやろうとして、息を吸い込んだ途端にジュストが咳込む。リュドヴィックはそれで初めてジュストの存在に気付いたかのように、ゆっくりと視線を落とした。
「ようやく起きたか」
文字通り足腰が立たなくなるほどに痛めつけておいて、起きたかもないものだ。もはや口答えをする気力も失せて、ジュストは擡げかけた頭を再び褥へ戻した。
「…これは、懲罰というわけか」
懈さに負けて目を閉じたまま、痛みさえ残す喉奥から嗄れた声を押し出す。
「懲罰?」
思いもよらず訊き返され、ジュストは思わず口籠もった。
「…その、クロエのこと…とか」
「フレデリークがいきり立っていた件か。…そういう言葉が口に出るということは、ある程度自覚はあるということだな」
ジュストの背筋にびくりと戦慄が走る。続いたリュドヴィックの低い笑声は、紛れもない嘲笑であった。
こうして我が身を蹂躙されて初めて…自身が犯した罪の重さが理解る。
幼馴染みのクロエ。強くて優しいクロエ。忍耐強く、常に自らを律し、鍛えていた。男数人が同時に掛かっても容易く叩き伏せる程の体術を修めながら、他者を傷つけることを嫌い、典薬寮で他者を癒やす途を択んだ。
親友であるアニエスがツァーリに送られることになって一番悲しかったのは本来彼女であったろうに、ただ自棄になっていただけのジュストとは違い、旅立つアニエスに持たせる薬を集めていたという。そこで事故に遭い、傷がもたらす熱のために見送りさえできなかったと悔しがっていた。
―――そのクロエに、ジュストがしたことは。
「そこは案ずるな。あれが本気で拒むつもりなら、お前とて肋骨どころでは済まされなかった」
思考が透けて見えたかのように卒然と浴びせられた言葉に、身が竦む。
あの夜。アニエスの出発を見送ることもせず山野を彷徨った後、ジュストはクロエの許を訪れた。そうして、熱で消耗したクロエにとりとめのない話を散々聴かせた挙句に、力尽くで犯した。
…そう、犯したのだ。
『やめろ。愛してもいないくせに。私はアニエスじゃない』
彼女ははっきりとそう告げた。それでも、ジュストは一方的な行為に及んだのだ。…それは紛れもない陵辱であった。
リュドヴィックの言うとおり、熱で弱っていたとはいえ彼女がその気になれば…ジュストの肋骨と言わず、手一本足一本叩き折ることは容易だった筈だ。端正な顔を紛れもない苦痛に歪めながら、それでも彼女はそうしなかった。そしてジュストを詰りもせず、ただ淡々と乱れた衣服を整えながら…いっそ昂然とクロエは宣したのだ。
『…気が済んだか。なら衛視寮に戻って自分の職務を為せ』
クロエはジュストの蛮行を表沙汰にするつもりはなかったようだが、その直後クロエの傷が悪化し再び熱を発したため、事は典薬寮頭フレデリークに露見した。クロエを次期寮頭にと嘱望していた彼女は嚇怒し、ジュストの処分を求める勢いであったが、他ならぬクロエのとりなしで典薬寮への出入り禁止で決着したのである。ただし、フレデリークはいまだに今度クロエに近づいたら叩きのめす、と公言して憚らない。
爾来、ジュストはクロエとまともに顔をあわせられずにいる。フレデリークに叩きのめされるのが怖かったのではない。クロエに何と言って詫びていいのか見当もつかなかったからだ。
アニエスを喪ったのは自らの力無きが故。しかし、ジュストが得難い友人を喪ったのは…紛れもなく、自身の浅慮の結果であった。
分かっていたことだ。今まで、そこから逃げ続けていた。行き着く先が此処というわけだ。
――――嗤うしかない。
心身双方の内奥の痛みに困じ果て、ジュストは瞑目し深く吐息した。その時、またも卒然とリュドヴィックが口を開く。
「ジュスト。お前は波の下の者となれ」
身体が震える。額面通りとるなら、それは死んでしまえということだ。だが、リュドヴィックの言葉には続きがあった。
「人知れずツァーリの軛を潤び3 させ、来たる日に備えろ」
一瞬頭の中でうまく繋がらず、ジュストは茫然としていた。だが、ややあってのろのろと自身の身体を引き起こす。
「海神宮の召命…」
「お前は言っていたな。現在の航路よりも更に南へ進路をとれば、人が住める島がある筈と。…ならば、ツァーリの支配の及ばぬ南の海に、新たな航路を拓くことは可能だろう。ツァーリの監視が届かぬ航路を確立し、ツァーリの搾取の及ばぬリーン、シルメナとの独自交易を再開する準備を整えろ」
思わず息を呑む。それは、つまり。
「〝来たる日〟とは?」
「ツァーリの軛を砕く日」
「…本気か」
思わずそう言ったジュストに、リュドヴィックは冷然たる一瞥を投げる。言わずもがな。色の淡い双眼はそう告げていた。
「まずは情報を集める。かつて存在した南海航路の記録は神官府の書庫にもあるが、リーンやシルメナにも残されている筈だ。それらを調べ尽くし、交易拠点となる島を選べ。そこに砦を作り、安定して航行できる詳細な海図を作りあげろ」
「…簡単にできることじゃない。それに…」
「運が悪ければ海の藻屑となるかもしれんな。あるいはツァーリの司直に捕まったところで私は何もしてはやれん。だが神官府を統轄する私としては、お前がこのまま呑んだくれて生命を浪費するだけなら…いっそ海神宮の炊夫4 にでも差し出すべきだというのが結論だ。
…異存はあるか、ジュスト=ブランシュ」
それは怒鳴るというには程遠く、決して大きな声でもなかった。それでもジュストは一瞬、槍で胸板を衝かれたように仰け反った。
役に立て。さもなければ死ね。そう言われているのと同じだ。説諭には違いないのかも知れないが、やり方が常軌を逸している。衝撃を受けたのも確かだったが、その一方でジュストは妙な…安堵にさえ似たものが胸奥に灯るのを感じていた。
南海航路。かつて、誰に話しても子供の夢想と一笑に付された。それを憶えていたばかりか、こともあろうにツァーリに対して叛旗を翻すための礎にしようなどと。
自然と、笑いが出た。最初は低く、くつくつとした笑声。次第に吊り上がり、裏返る寸前で噎せ返って咳込む。ひとしきり咳込んだ後、大きな息で肩を揺らしながら、ジュストはようやくのことで言った。
「…あんた、凄いな…リュディス。全く以て…正気とは思えん。あんたが…そんなに面白い御仁だったとは、今の今まで識らなかったよ。
だが、良いさ。どのみち俺なんぞ、供犠に出しても海神宮から突き返されそうなろくでなしだ。まだ出来ることがあるっていうなら、喜んで承ろう」
「面白半分でやられては困るな」
「滅相もない。やるからには全力を尽くすさ。だが運悪く、途中で俺が本当に海神宮へ召されたらどうする」
「許さん」
「…直裁なことで非常に解り易いんだが、俺だって人間だ。運と寿命が切れたら死ぬしかないぞ。大体、航路の開拓なんて本来気が遠くなるような時間と手間と人手が要るんだ」
「誰が一人でやれと言った。航路の開拓とは、海図と拠点と運用する人間すべて含めてのことだ。時期が来たら〝波の下の者たち〟をお前に預ける。使いこなせ」
「簡単に言う…」
「…承けると言った以上、無駄死には許さんということだ」
――――直裁を具現化したようだったリュドヴィックの、妙な歯切れの悪さが引っ掛からなかったと言えば嘘になる。だが、それを詮議するほどの気力は、その時のジュストにはなかった。身体の重さに引き摺られ、そのまま褥に身を横たえる。
「使えないなら海神宮の炊夫に差し出すんじゃなかったのか? …まあ、精々気を付けるさ」
――――〝衛視寮神官ジュスト=ブランシュ〟が波の下の者となりエルセーニュから姿を消すのは、その数年後になる。それまでの間もジュストの立ち位置は相変わらず『頻々と出仕を怠る素行不良の神官』であったが、その不在の殆どが航路の調査、そしてリュドヴィックの細作としての活動であった。