ゆめ

 淡い月光でも、その血の緋色ははっきりと視認できる。
 血の緋色の髪。シェノレス大神官家に現れるという風神の後裔の証。開け放した窓から、それが木立の間へ消えるのを認めて…サーティスは僅かに眉を動かした。
「…まさかな」
 背後で衣擦れの音がした。〝翡翠のような眼、銀の雨のような髪〟と讃えられる美貌のシルメナ国王が帷帳を払って入ってきたのだ。
 サーティスは酒杯を傾け、軽く睨む。
「…忙しいことだな、〝身持ちの堅い〟国王陛下?」
「少々待たせたのは悪かったが、そう拗ねるな。思わず抱き締めたくなるではないか。…仕方ない、これからたっぷりと埋め合わせをするとしよう」
 シルメナ王ルアセック・アリエルは優美な笑みで皮肉を切り返し、美酒であえかに色づいたサーティスの頬へ手を伸べた。
 だが流れるようなその動きを、サーティスは空になった酒杯をルアセックの手に押しつけることでさらりと躱して傍をすり抜ける。
「よく滑る口だな。その口で、南海の風神さえも口説き落としたか」
「…口説き落とされたのは私の方かも知れんな」
 押しつけられた杯を苦笑と共に受け取ったルアセックが、そのまま酒を注ぎ、その色と香を賞玩する。この従兄がひどくあっさりと白状したことに少し驚いて、サーティスが思わずルアセックの方を振り返った。やはり、シェノレスの使者か。
「何を企んでる」
 幽かに眉を顰める。企みの中身ではなく、それを自分に開示したことへの疑問であった。リーン、シルメナ、シェノレス三国の往来はツァーリによって厳しく統制されている。シェノレス、それも神官府の使者がシルメナ王を訪うなど、表沙汰になれば面倒この上ない。それはツァーリが大侵攻以降警戒し続けてきた三国連合の動きに直結するからだ。
 ルアセックが杯を乾した。
「今のお前は一介の『旅の医者』だろう。「ツァーリの王弟」も「颯竜公」も、此処には居らぬ。ならば、何も問題はあるまい?
 …何故か無性に、誰かに話を聞いて欲しくなる時というのはあるものでな」
「そんなしおらしい台詞、お前が言うと気色が悪すぎるぞ」
「お前はつれなさすぎだ」
 ルアセックはそう言って杯を置き、その腕をとってサーティスをすいと引き寄せる。…咄嗟に距離をとろうとしたが、逃げ損ねた。
「…潮の匂いがするぞ」
 背中から抱き竦められ、肩越しにルアセックを睨む。当てこすったつもりだったが、先方ルアセックは全く意に介していなかった。首筋に唇を寄せ、その手は抜け目なく服の下へ滑り込む。
「そうだな、あの蜂蜜のような髪をしたイェラキは、ファルーカからの遊学という触れ込みだったが、潮の香が髪に染みついていたからすぐに判った。
 シェノレスへ渡った風の後裔…だとな」
「何の話…っ…」
 先程見た、緋色を纏った後ろ姿と繋がらない。サーティスが発しかけた問いに、ルアセックは服の下へ滑り込ませた掌でさらりと弱い部分を煽り立てることで応じた。サーティスがひくりと身を震わせ、呼吸を詰める。
「昔の話だ。…まだ、お前を識る前の…」
 そう言いながら、サーティスを抱き竦めたまま背後の牀へ歩み寄る。均衡を崩されて、サーティスは背をルアセックに預ける格好になってしまった。
「あの頃は私もまだ若くてな…」
「…また、じじいのようなことを。…どうでもいいが、いい加減に放さんか」
「断る。手間暇かけてようやく掴まえたのに、誰が放すか」
 身動みじろぎするサーティスをとらえる腕の力をより強くして、ルアセックが笑う。
「こら…ルーセ! メール・シルミナに着くなりマキが神殿の巫女どもに引っ張られていったのは、やっぱりお前の差し金か!」
「差し金などと人聞きの悪い。即位式以来、かの利発で闊達な小公女ひめぎみは神殿では大した人気者だからな。訪れるときがあったら是非とも教えてくれと巫女頭みこがしらから頼まれていたからそうしただけだ。
 …まあ、お前が外苑ここへ来やすいように配慮した…とも言うか?」
「この化狐バケギツネ!……っぁ…」
 ルアセックが不意に指先を鋭敏な部分へ滑らせるから、サーティスの悪態は甘やかな掠れ声に紛れた。他愛なく、牀に掛けるルアセックに導かれるまま膝の上へ据えられてしまう。
「話ぐらい…聞いてやるから…いい加減にやめんか。第一、こんな状況でっ…何を聞かされても、わからん…だろうが…っ…」
 熱くなってゆく呼吸いきに揺らされながら、ようやくそれだけ言ったが…切れぎれの言葉は、ルアセックを煽りこそすれとどまらせるなどあたうべくもない。
「…お前ときたら…相変わらず罪作りだな。だが、そういうところがたまらんのだ」
 軽く溜息をつき、万人をうっとりさせるような笑みを零して…ルアセックが改めてサーティスの首筋をついばむ。
「良いさ、どのみち独語ひとりごとのようなもの。聞こえても良いし聞こえなくても良い…気にせず感じたままに振る舞ってくれ。覚えておくも忘れてしまうも、お前の好きなようにしてくれて良い…」
 得手勝手な前口上を並べる間に、ルアセックはサーティスが纏っていた衣服をほどいて次から次へ牀の下へ滑り落としてしまった。その合間も繊細な指先で鋭敏な部分を煽り立てること怠りない。
「ルーセ…この…莫迦…ッ…」
 どんな罵詈雑言も、反らせたうなじを相手の肩口に押しつけて喘ぎながらでは睦言に等しい。
 ルアセックは細く笑み、より近くへとサーティスの身体を抱き寄せて内腿を撫で上げる。震える下肢を割り開くと、その間に指先を進めた――――。

***

「確かにリーンやシェノレスとの往来は制限されているが、抜け道はいくらでもある。他国者を装って寺院や神殿に寄留するというのはまあ、まだ真っ当な部類に入るだろうな。神殿は聖域だからツァーリの目も届きにくいというのもあるか。お前が風神殿に匿われたのも、それを思えば妥当な判断ではあったんだろう」
 ルアセックの不問語とわずがたりを、サーティスは褥に伏せたまま…気怠さのもや越しに聞いていた。
 サーティスが風神殿に寄留していた時期は、頻々と発熱していたこともあり少し記憶が曖昧だが、確かに神殿には明らかに異国人と見える者も沢山出入りしていたような気がする。
「ファルーカ風の名を持っていたが、すぐに判った。シェノレスの人間だとな。風神殿の古い記録を調べに来ていた。大侵攻…否、聖風王の御代の頃の地理を現在の地図と照合する研究をしていたらしい。それがどんな意味をもつのか…その頃の私は全く興味がなかったが、ようやく判った。
 その頃から南海の夢を見ていたんだ、あの男は」
「南海の…夢…?」
 サーティスは軋む身体をゆっくりと返した。片膝胡座あぐらで月光に裸身を晒しているルアセックを見上げるかたちになる。荒事には無縁の筈だが、月を見上げるその身体は驚くほど精悍なラインを保っていた。
「これまでのような大陸沿いの航路ではなく、思い切って南寄りの航路をとることでツァーリの監視を免れ、リーンとも協働することで新たな交易路を開く。そしてその富を戦費として蓄積する。…さても、壮大な計画だ。痴人の夢と一笑に付されるのが普通だろう。
 だが、あの男はそうは思わなかったのだな。それを大真面目に研究し、検証し、旅程に掛かる日数、一度に運べる荷の量、あるいは再発見された島々で採れる品々…ほんの十年ほどの間に…具体的な数値と見本サンプルを揃えてみせるとは」
 ツァーリにとっては戦慄すべき計画を、あっさりとサーティスの前で口にしてしまうルアセックの思惑が奈辺にあるのかはわからない。だが、辛辣で冷徹な銀狐がこの時ばかりはひどく素朴な憧憬を浮かべて語るのを、サーティスは不思議な心持ちで聴いていた。
「楽な話ではない。その昔、人々は海流を越えて南の海へ乗り出して行ったというが…狂嵐の時代以降、流れが変わったとかで往来が途絶えて久しい。海図も、遠洋の航海技術も今は喪われていると聞く。闇雲に漕ぎ出せば間違いなく海の藻屑だろう」
「…気が知れんな。船に乗ったことがないわけじゃないが、船の旅は板子一枚下が地獄だ。だがまあ、海の上を渡る風は…確かに心地好い」
 サーティスの話に、ルアセックが興味深そうに眼を細めた。
「海の風か…」
「河と違って独特の匂いがする。潮の匂いだな。当然だが湿り気を帯びていて、時に強く、あるいは緩い。ただ、時化しけると最悪だ。実直に、冥府の扉が開く音が聞こえる気がする」
「ほう…お前がそこまで言うか…」
 愉しげに笑う。その時、ふとサーティスは気づいた。あるいは、ルアセックは件の〝鷹〟を羨んでいたのだろうか。誰にも理解されず、誰にも期待されない、だが己だけの夢に向かって、ひたすらに進み続ける生き方を?
「…情人だったのか?」
 口に出せば、ひどく無粋な問いだ。サーティスは言った途端に後悔した。これではまるで、妬いているようではないか。案の定、ルアセックが面白がるように僅かに唇の端を吊りあげた。
「あれが神殿にいたのはほんの短い間だったし、そう何度も逢う機会があったわけではない。…気になるのか?」
「別に」
 サーティスには、肯定とも否定ともとれる答えを…更に詮索する愚を冒すつもりはなかった。ルアセックもそれ以上そこには触れず、ただ僅かに眼を細めて呟いた。
「今どうしているのかは知らん。生きているのかどうかさえ。調べようと思ったこともなかったな。ただ、使者として寄越されてきたあの年若い緋の風神は…まさに同じ話を…その話の続きをしたのだ。色彩は違うのに同じような光を放つ眼で、同じような抑揚イントネーションで、な…」
「ふ…それこそ、妬いているように聞こえるな」
 サーティスは殊更に意地悪く笑んでみせた。
「そう聞こえるか。あるいは、そうかもしれぬ」
 ルアセックが思いのほか素直に、自嘲するような笑みさえ浮かべてそう言ったのには、かえって鼻白んだ。
「若いといっても…息子、という年齢ではなかったな。だがあの髪からして、大神官の血縁者には違いないだろう。…これがあの鷹から総てを受け継いだ者か…と思ったら、少々揶揄からかってやりたくなった」
「お前…それで使者・・を喰うか?一歩間違えば外交問題だが」
「それが、ちょっと揶揄ったら供犠となるも辞さぬ構えでな。つい…」
 くっくっと、ルアセックが低く笑う。先程の自嘲の翳りなど完全に払拭した悪戯っぽい表情に、何か一杯食わされたような気がして…サーティスは小さく吐息した。
 聖風王の裔、揺るぎなき後嗣としての立場に生まれた者は、そう簡単に国都を出しては貰えない。国を追われ、流浪の身たる自分よりもある意味において遙かに不自由な身の上であろう。そんなことを考えて一瞬たりとも惻隠の情を催してしまったことが…有り体に言えば、莫迦ばかしくなったのだ。
「やはり世人の評など…いい加減なものだな」
「そう拗ねるなというのに。…あまりにも可愛らしくてまた箍がはずれそうだ」
「抜かせ。誰も気づかんだけで、実は最初から外れっぱなしなんだろう」
「何を言う。お前だけだぞ」
「…どの口が言う…!」
 そう言って身を起こしかけたサーティスを素早くもう一度褥に沈めて、ルアセックは微笑した。
「この口だが、何か?」
「…勝手にしろ」
 こうなると何を言っても諾かないし、下手に抗っても疲れるだけだ。それにもう、今夜は付き合うと肚を括っている。サーティスはゆっくりと降りてくる…宵闇に降る雨のような銀糸と、その所有者を仰いで嘆息し、おとなしくその口づけを受けた。
 この従兄の口はまったくあてにならならないが、いっそ鬱陶しいほど気に掛けてくれていることだけは間違いない。何か裏がありはしないかと勘繰るのさえ徒労と思える程に。
 だからこそ、此処は居心地が佳すぎて困る。やりたいことが、やらなければならないことが山積しているというのに…いつまでも此処に居たくなる。
 一頻ひとしきり賞玩し尽くした後、ゆっくりと首筋から胸に降りてくる舌先が与える感覚に思わずサーティスが身を捩ったとき、牀の脇にある机の上に置かれた簪が目に入った。
 相変わらず、国王の持ち物としては実に簡素なのだが、今夜は一緒に細い腕輪が置かれているのに気づく。彩色硝子のビーズで編まれており、深紅と漆黒ひとつずつの…大ぶりの勾玉が意匠デザインの中心に据えられている。
 こんなもの、着けていたか…?
 気が逸れたことを察したか、ルアセックがふと身を離した。そして、サーティスの視線の先を目聡く見つける。
「簡素だが美しいだろう。昔、西方から来た隊商からシルメナ王室に献ぜられた物だと聞いている。…護符らしいんだが、私には縁のないものだからな。意匠は気に入っているのだがあまり身につけることもなかった」
「何故、縁がないと?」
「旅の安全を護るのだと。特に海路。中心に配された勾玉は海神の加護を約す石だと聞いている」
「それは…」
 確かに縁はないな、と言いそうになって、サーティスは口を噤む。先程ルアセックが珍しくも垣間見せた、あえかな憧憬に似た表情を思い出したからだ。
「勾玉も元来は白と紺碧と…4つあった。西方では世界の海を四海と数えるのだと。その四海を統べる竜王の加護を示す石だったそうだが、散逸している」
「…意匠デザインとしては…べつにこれでもおかしくはないが」
 サーティスが身を横たえたまま腕を伸ばしてそれを手に取る。勾玉が触れ合ってしゃらりと澄んだ音を立てた。
「気に入ったなら謹んで献呈するぞ」
「遠慮しておく。下手に高価なものを持ち歩くと、余計な騒動トラブルに巻き込まれるからな」
「…それは残念だ。似合いそうだが」
 ルアセックは低く笑ったが、サーティスが腕輪を手の中で揺らしながら何気なく口にした言葉にふと固まる。
「それに、海路の護符なら…聖風王の裔たる者の祝福にまさるものはなかろう」
「…!」
「海路の安全は風がすべてだ。風を統べて狂嵐をおさめた聖風王の加護があるなら、何も畏れることは…っ…」
 サーティスの言葉が途切れたのは、ルアセックが不意に覆い被さって深く口づけたからだ。息継ぎもできないほどの烈しさに、サーティスが藻搔く。机の上に戻し損ねた腕輪が、サーティスの手の中で幽かな音を立てた。
呼吸いきが停まるぞ。殺す気かっ!」
 ようやく解放されたサーティスの悪罵を、ルアセックは蕩けるような笑みで受け流す。
「お前が煽るからだ。悟性が飛ぶかと思ったぞ。そうか、では海路の旅になるときには必ず私の許へ来い。念入りに祝福してやる」
「莫迦、そういう意味じゃない!」
 この横着な王の横面をひっぱたこうとして、サーティスは自分がまだ腕輪を持ったままであることに気づき、とりあえず机へそっと戻す。折角の佳品に傷を入れては勿体ない。勾玉もそうだが、硝子は存外繊細なものである。
 その所作の間になんとなく気が削がれ、吐息しながら褥に身を沈めたサーティスの唇を…ルアセックがその繊麗な指先でなぞる。
「冗談抜きにして、もう少し私を頼ってくれても良いのではないか。
 冥府の扉の音…だと?死を覚悟せねばならないような旅路に身を置かねばならん理由は何だ。…私には、何もできないのか?」
 その顔を正視できず、サーティスは眼を伏せた。
「気持ちは有難いが、お前にも立場というものがあろう。俺は俺で、やりたいことがある。やるべきこともな。それは、ツァーリの王弟としてでも、颯竜公としてでもない。…有り体に言えば、俺がやりたいようにやっているだけだ」
 サーティスは、意を決して慈しむような翡翠の眼を見上げた。
シルメナ王おまえを頼らなければならないようなことがあるなら、必ず声をかける。それでは駄目か」
 ルアセックは完爾として、鄭重に口づけた。そして一度ゆっくりと離れる。
「…さしあたっては十分だ。欲を言えば、シルメナ王というよりを頼って欲しいのだがな」
 ルアセックのいっそ寂しげでさえある表情に、サーティスはふと息を停める。
「…済まない、そんなつもりで言った訳では…」
 だが、その途端…ルアセックがとびきりに意地悪い笑みを零す。
「そうか…なら、今暫く付き合え」
 首筋に顔を埋める。印を刻んだ後、弱い部分まで一気に舌先を滑らせるものだから、サーティスの背が浮いた。
 だが、悪態をつくこともなく…ただ細く吐息して、サーティスはルアセックの背に腕を回す。

 ずっと此処に居られる訳ではない。玉響の時間とき
 だから今は、こうしているのも悪くはない。

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