サーティス ー月ー
いっそ何も考えられないようにしてくれていい。そうしてでも、この空転する思考を停めたい。…そんな狡い思惑など、とうに見透かされていたに違いない。
激しい律動に擦り切れたような苦鳴を上げさせられたかと思うと、丁寧に宥められ…酔いも相俟って眠ってしまいそうになった。だが、それを見計らうように再び急な動きで追い上げられるのだ。その間に何度達したかわからない。何度気を失ったかも。
事の最中に意識を失うなど…あり得ないとは言わないが、久しぶりであったには違いない。
そして、言い出したのはルアセックだったにしても、そうして欲しいと望んだのは紛れもなく自分だ。どのように扱われても文句を言う筋合いではない。
そうは言っても、格別惨く扱われたというわけではなかったと思う。むしろ、おそろしく丁寧ではあった。…執拗い、とも言うが。
薄闇の中で、サーティスは軋む身体を起こした。その動きで、掛けてあった薄地の衾がさらりと牀の下に滑り落ちる。身を屈めてそれを掴んだ。
褥に揺蕩う豊かな銀糸。身を屈める為にその上に手をついたことに気付き、所有者を起こしたかと見遣ったが…杞憂であった。…銀糸に視線を戻す。指先に絡み引き留めるような…細い割に弾力のある髪から俄に手を退き損ねたのと、身体の奥に残る快楽の残滓に縫い止められて、サーティスは起きたはいいが暫く褥から動けずにいた。
ややあって、緩い起伏を続ける肩に掴んだ薄布を掛けると、サーティスは牀から足を降ろした。ルアセックの飽食した捕食者のような泰然たる寝相に苦笑しつつ…絡みついた銀糸に軽く口づけてから指先をほどいた。
やはり牀の下へ滑り落ちたまま蟠っていた衣服を掴んで、緩々と立ち上がる。閨から出て、隣室へ出ると月の青い光が静かな室内を満たしていた。
庭に面したテラス窓を押し開ける。
豊かな緑の香と、水の匂い。
庭に噴水、水盤や池を設けるのは、この土地では神殿でなければ王侯の屋敷にしか許されない贅沢である。だがここに関しては、彫刻や柱の様式を見る限り贅を尽くしたというより聖風王の御世に築かれたものを大切に使っているのだろう。
瑞々しい緑に彩られた庭に広がる池は、膝を少し超すほどの水深を有していた。敷石に囲われており、常に緩く水が流れ続けているのは神殿と同様である。彫刻を施した列柱が緑と共に配され、周囲からその空間をゆるやかに隔絶する。
天上の月と、水面に映った月とで、中庭は仄明るい。満月に近い月は敷石に木々の影を落としさえしていた。
服を傍の木に掛け、サーティスは水に入った。清冽な流れが身を引き締める。汗ばんだ身体を洗いたいのもあったが、身の裡に残った酔いや熱を冷ましたかった。
緩い流れの中に膝をつき、掬った水をゆっくりと身体にかける。一瞬呼吸を停めるほどに冷たかったが、流れ落ちてしまえばそれも心地好い。
身体のいたるところに宴の痕が刻まれている。無茶苦茶をしているようで相応に気を遣ったものか、服で隠れない場所には痕をつけていないことに苦笑しつつ…汗を洗い流した。
腰を沈めて流れに身を浸す。爽涼な流れが身の裡の澱を流し去ってくれる気がして、上半身にも掬った水を掛けながら天を仰ぐ。
「――――いい眺めだな。そのまま画にしたいくらいだ」
不意に掛けられた声にサーティスは地上へ視線を戻した。見れば、先程サーティスが出てきたテラス窓に身を凭せかけてルアセックが立っている。すでに身繕いを終えていた。
「莫迦抜かせ。男の水浴見て何が愉しい」
サーティスが眉を顰めるのさえ面白がっているのは明白だから、それ以上言わずに水から上がると服を羽織る。
「よくこんな冷たい水に浸かれるな。沐浴したいなら湯ぐらい運ばせたのに」
水際まで降りてきたルアセックが、足先だけを浸けて苦笑しながら引っ込める。
「この夜中に湯を運ばせる?迷惑千万だろう。それに生憎と沐浴に湯を使うなんて贅沢、ここ十年ぐらいしたことがなくてな。俺はこれで十分だ」
「ほう…」
ルアセックがそう言いながらわずかに表情を曇らせたから、厭味に聞こえたかとサーティスは継ぐべき言葉を探す。その隙に、濡れたままの項にするりと手が回された。
いつの間に距離を詰められたものか。
「まったく、あいかわらずというのか…どれだけ煽ってくれるのだか」
低い笑声とともについと引き寄せられる。
「…濡れるぞ」
「構わんさ」
唇が重なる。列柱のひとつに背を預けるかたちになったのは、こっちが迂闊なのか、ルアセックが周到なのか。
柱にやんわりと縫い止められ、深く舌を絡めながら湿った服越しに下肢の内側を撫で上げられると、冷たい水が引き締めてくれた身体をまた蕩かされそうになり…サーティスは思わず身を硬くした。それを悟られたか、ルアセックがさらりと離れる。してやったりという表情が憎らしい。
「まこと、千金に値する祝儀だったな。佳かったぞ。まさに羽化登仙 1 、桃花源に至った心地だった」
薄く笑いながら、それでも名残惜しげにその指先を伸べてサーティスの唇を撫でる。ただそれだけなのに、背筋を軽い痺れが疾った。それを噛み潰すように奥歯を噛みしめてから、噴き上がりかけた熱を少し大袈裟な歎息に逃がす。
「…よくもまあ真顔でそんな歯が浮くようなことを。こっちは息切れるかと思ったぞ」
「息切れるほど感じてくれれば嬉しいが」
減らず口に関しては、まったく勝てる気がしない。
「あんな華奢でおっとりした奥方がいるくせに…手加減というものを知らんのか」
「パラーシァか?あまり頑健とも言えないのに、俺に子を与えてくれたんだ。大切にしているぞ、これでも。俺は相手にあわせて丁寧に愛しむ術は心得ているつもりだが」
「…お前という奴は…」
抜け抜けと、という形容を具象化した姿が目の前にあった。丁寧に刻み込まれた感覚が甦りそうになってすいと身を躱す。逃げるような格好になるのが業腹だったが、ここは戦略的撤退もやむを得ぬ。だが、投げかけられた問いに足を止めざるを得なかった。
「それで、あの小公女は…お前の何だ?」
「…言っておくが、隠し子ではないぞ。ついでに言うと、童女に手を出すほど不自由していない」
ルアセックが手を拍って、磊落に笑った。
「隠し子はないな。隠しておらぬ。童女だと?非礼にも程があろう。あれほどの名花」
「名花って、おい…」
思わず半身ほど振り返る。昨日の昼間は子供呼ばわりしたくせに。…冗談にしても、そういう形容をされるとは思ってもみなかった。
「賭けても良い。あと5年もすれば大陸に名だたる美姫の出現であろうよ。何の謂あってか知らぬが、男児のような格好をさせて…わざとか?」
「本人の嗜好だ、俺の所為にするな!」
ルアセックが面白がっているのが判っていても、つい声が跳ね上がる。むきになれば損をするのはわかりきっているから、ゆっくりと呼吸を整えてから言った。
「滅多なコトを言うな。あれは…佐軍卿からの預かりものだぞ?」
「ほう、シュライ卿の…?」
「ギルセンティアで雪に埋もれかけていた孤児だ。拾ったのは俺だが、縁あってしばらく佐軍卿のもとにいた。いろいろ勉強が…本人曰く、『苦労と勉強』したいというから俺が預かっているだけだ。…あの佐軍卿が実娘のように鍾愛してる。今度の騒動でほったらかしにしてるじゃないか…と先日もえらく叱られた。お前の守備範囲がえらく広いのは理解ったが…悪いことは言わん、手出しはするなよ?」
「だから、そんなに無分別ではないというのに。俺としては紫電竜王の怒りよりも、お前に嫌われる方が怖いさ。
…そうか、あの近侍衛士の係累かと思ったが…」
「…っ…!」
鋭利な刃物を突き立てられたような痛みに、喉奥で微かに呻くような声を漏らしてしまう。
一緒に過ごすうちにほとんど意識しなくなってしまったが、脳裏を過ったことがないとは言わない。マキ、という名を初めて聞いた時にも一瞬呼吸を停めてしまった位だ。それでも、この間からセレスに懐いているマキを見ていると…昔日の姿が重なって、微かな痛みさえ感じていた。
カーシァを鏡の前に座らせ、その髪を整えてやるマーキュリア。今となっては眩しいほどに穏やかな…喪われた光景。
「…自覚は、あるようだな」
ルアセックにしては、痛ましげでさえある口調であった。
「セレス、といったか?あのエリュシオーネの生き残りに、マーキュリア・エリスを重ねるのはやめた方がいいぞ」
瞬間、またセレスの涙痕鮮やかな目許が瞼に浮かび、サーティスはルアセックに背を向けて喉を堰かれたような呼吸を抑えるために自身の胸に爪を立てた。だが、その指先さえも無惨なほど震えているのが自分でも判った。
「そんな…つもりは…」
「お前にそのつもりがなくても、向こうはどうかな。…判るものだぞ。自分の腕の中の相手が、一体誰を見ているかくらい…」
そう言って、するりとルアセックが背中から腕を廻し、胸の上に爪を立てている指先にやんわりと掌を重ねてきた。
欲したものが、失いたくないものが、砂のようにさらさらと掌中から零れていく哀しさを忘れようとして。あるいは、臓腑を抉りたくなるような慚愧から遁れようとして。…与えられる温かさにただ縋ってしまう。そんな自分の度し難い狡さを憎みながら、それでも今は優しい腕を振り払うほどの気概さえないのが口惜しい。
背に触れる温かさに、握りしめた指先が緩み…サーティスは誘われるままに肩越しの口づけに応える。銀糸がさらりと滑り落ちてきて首筋を擽るかのように撫でるから、そっと指に絡めた。
『颯竜公レアン・サーティス、その名に誇りを持て。その称号はこの国を護る風の竜。聖風王の後裔にしてこの国の公子たるお前にこそ、相応しい。だから、辛くとも歩みを止めるな。…いつの日か、私とともにこの国を支えてくれ』
『前だけを見つめ、あなたの道を歩んで下さい』
凶刃からサーティスを護るために傷つき、結果として落命したライエン。サーティスをひとり遺していくことを詫びながら儚く逝ったマーキュリア。彼らの願いを、祈りを、サーティスはまだ成就できてはいない。行くべき道が、まだはっきりと見えてこないからだ。
今の自分はツァーリを逐われた身だ。そして、ライエンはもういない。それでもかの国に自分のやるべきことは残っているのか?
一方で、イェンツォの地で出会った、『レガシィ』。その中に封印されていた太古からの記憶。理解し、受け継ぎ、後世へ遺していかねばならぬ。そのために自分に何が出来るのか?それが知りたい。
そう思いながらも、与えられる安寧に絆され、思考は緩やかに形象を崩壊させていく。
――――此処に居てはいけない。此処は居心地が佳すぎる。安住することに慣れきってしまえば、もう二度と飛び立てなくなる。
思考の隅で警鐘が鳴っていたが、快美な感覚に抗いきれずにいた…。
その時、ふと髪を弄る手を捉えられ、耳許で囁かれた言葉に氷水を浴びせかけられた。
「…誰だ、などと…俺は訊かんよ。今、お前を抱いているのは俺だからな」
「ルーセ…?」
昨夜、自身を惑乱させた幻想が甦り…サーティスは思わず身を竦ませる。
「違…っ…ライエンとは、こんなっ…!」