風塵夜想曲

サーティス ー幻ー

 マーキュリア・エリスが最初からそれを教える為もあって近侍衛士として立てられたことくらい、理屈では解っていたつもりだった。解っていてなお、溺れた。その時はそうせずにはいられないほど…多くのものを喪ってしまっていたから。
 ――――――初めて識ったのは、ナステューカを遁れ、神殿に仮寓して左肩の傷がようやく塞がった頃のことだった。
 彼女の心が何処にあったとしても、彼女は役責としてその身をサーティスに与える。それでもいいと思っていた。理由など何でも。彼女が傍にいてくれれば、それでよいと。
 それを哀しいと感じるようになったのは、彼女が病を得てからだ。
 ライエン=ヴォリスという男がいた。過日、サーティスを護るためにナステューカで凶刃に斃れた。宰相ヴォリス家の後嗣という立場にあったが、颯竜公という地位を受けたことで宰相家の警戒感を買い孤立したサーティスにとってはナステューカにおける唯一の味方であり、兄にも等しい人物。そして…マーキュリア・エリス=エリュシオーネとは、相想う間柄でもあった。
 立場上、ふたりはお互いが到底結ばれ得ぬことを理解していたが。
 病床、熱に苛まれるマーキュリア・エリスの枕頭で…サーティスはそのライエンが、魂魄となって彼女を連れ去ってしまう幻想に苦しめられたのである。
 白金プラチナとでもいうべき美事な金髪ブロンドだった。とても穏やかな、蒼とも翠ともつかない深い色の双眸が、いつも優しげな光を湛えていた。サーティスの馬術や剣の修練に付き合い、時には書籍の知識だけでない、最新の政情についても…子供扱いせず丁寧に教えてくれた。
 斯く在りたい、と思っていた。そう、端的に言えば――――憧れていた。
 欲しいもの、憧れていたもの、奪われたもの、喪くしたもの。それらの狭間で、サーティスは半ば狂いかけていたのかもしれない。悪夢に魘され…連れて行かないでくれ、と幾度叫んだことだろう。
 ただ己の無力を歎くしかなかったサーティスが看取る中、マーキュリア・エリスは短い病臥の後…夭折した。
 その後まもなく、サーティスは神殿を出た。今と同じだ。ただ、ひたすらそこを離れたかった。

***

 異国ファルーカ渡りの貴重な香油で潤った部分への侵入を感じ、サーティスは思わず苦鳴に近い呻きを漏らした。
 既に衣服は取り払われ、塗り広げられた香油の艶めかしい芳香と、滅多と口に出来ない美酒の酔いとでなかば朦朧としているのは自覚していた。だが、鋭敏になった膚の上を既視感のある銀糸が撫でるのを感じて…あり得ないと判っていて惑乱してしまう。
 ――――ライエン!
 かつて憧れた。マーキュリア・エリスと同じように、傍にいて欲しいと願った。でもそれは叶わず、しかも自分の手からマーキュリアさえ奪って逝ってしまった。あの優しい白金プラチナの髪が、いま膚の上を這い…鋭敏な部分を撫でている。強靱だが繊細な指先が、丁寧に快楽を揺り起こす。あり得ない。あり得ないのに、その幻想にどうしようもなく追い上げられ、自身でも驚くほど他愛なく達してしまった。
 涙が滲んで、焦点が曖昧になった視界がルアセックの薄笑いを捉える。その瞬間に幻想はかき消え…残るのはただ、爪先まで痺れさせるような快楽の残滓。
 ルアセックの薄笑いはいつものことだが、それがやや意地悪さを含んでいる気がして辟易たじろぐ。あるいは、その名を口走ってしまったのか。
 いくらこの従兄が鷹揚でも、この状況シチュエーションで別の男の名を出されてはいい気がしないだろう。不穏な空隙にたまりかねて震える息を宥めながら口を開きかけたとき、まだ身の裡に沈められたままのルアセックの指先が、サーティスの深い部分を擦った。
「…っ…あ、待…まだ、動くな…っ…」
 刺激に耐えかねて哀願するかのような声をあげてしまったのが口惜しい。だが、ルアセックは細く笑んで、あっさりと指を退いて身を離した。それさえも背を電流が疾り抜けるような衝撃であったが、なんとか堪えた。
「あの時は、ここで泣かれたから諦めたんだがな」
「何の…話…」
 とりあえずライエンの名を口にしてしまったわけではないらしいと安堵し、改めて呼吸を整える。だが、ルアセックはひどく意外そうに、サーティスの顎を捉えてその両眼を覗き込んだ。
「まさかと思うが憶えてない…のか?」
「知るものか…」
 安堵が半分、揶揄われている気がしてその苛立ちが半分。サーティスは我知らず、挑発するような笑みを浮かべてしまっていた。
「…なんとつれない」
 ルアセックが大袈裟に嘆息してみせてから、改めてサーティスに覆い被さるようにして手をついた。再び白絹の柔らかな袖と銀糸が膚を撫でる。
「本当に憶えていなかったとはな。まあ、無理もないか。確かに…あんな時期ときにちょっかい出した俺も俺なんだが…」
 この従兄にしては珍しく、自嘲するような笑いを浮かべた。それを不審に思う間もなく、左肩の傷を香油で滑る指先で撫でられてサーティスが背を引き攣らせる。
「いまだにここは弱い・・らしいな。もう、随分経つというのに…いたましいことだ」
 それは本当に心痛だという表情で…思わず一瞬騙される。
 何故っている、とただすようないとまはない。振り払う隙も与えずにサーティスを抑え込むと、ルアセックは指と、唇と、舌先で丹念にその傷をなぞった。最後には痕までつけられ、サーティスは今度こそ掠れ声でやめてくれと哀訴する羽目になった。
 自分でもわかっている。痛みなど疾うになくなったこの傷痕は、ひどく感覚が鋭敏だ。サーティスは下手に身体の中心を弄られるよりも危ういこの部分を、閨を共にする相手にさえ滅多に触らせたことはない。自身を制御できなくなるのが嫌だからだ。
 マーキュリア・エリスでさえ…最初の一度だけしか触れなかった。
 よりによってルアセックに露見ばれてしまったのは、失敗というより他にない。
 ようやく身体を離してくれたルアセックから逃れるようにして横を向き、サーティスは身体を波打たせて息をく。傷を弄られる間に昂ぶらされてしまったものが、解放を求めてどうしようもなく疼いた。…それをこらえようとする間、ルアセックが何もしなかった理由など、この時点ではとても思い至るような余裕はなかったのである。

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