サーティス ー苦衷ー
セレスの涙痕鮮やかな目許が、サーティスの脳裏に灼きついて離れない。
自らの心臓を抉り出してしまいたくなるような泥沼の罪悪感からひたすらに逃れたくて、サーティスは翌日早朝の出立を決めてルアセックに伝えた。
この地を立ち去ったとて、逃れられるものではない。そんなことは解っている。…それでも。
「…また、急なことだな」
それを聞いて、この…鷹揚を装った周到な従兄は、嘘か本当か俄には判じ難い大袈裟な嘆息混じりにそう言った。即位直後で目の回るような忙しさであるはずなのに、きちんと時間を取ってくれるのは有難い。が、いつも何を考えているか今ひとつ掴みにくいのが困る。
「まだ祝儀を貰っていないが」
「即位の祝儀なんぞ戴冠式に列席した各国のお歴々からたっぷり貰っただろうが。俺だって窮屈なのを我慢して儀式に協力した1ぞ。十分だろう。今や一国の王の癖に、旅枕の貧乏人から搾取するつもりか!?」
「人聞きの悪い。気持ちの問題だ」
「…何が欲しい」
堪りかねて、サーティスは訊いた。この状況で、あまり神経に負担をかけたくない。
「千金でも購えぬものを」
蕩けるような笑みで、ルアセックが言った。立ち上がってサーティスの傍まで歩み寄り、その頬に触れる。
ざわり、と総毛立ったのを悟られたくなくて、サーティスはわずかに目を伏せた。
「…あまり出来の良い冗談ではないな」
「何で冗談なものか。…何が欲しいと訊かれたから応えたまでだが」
「本気か」
「本気だ」
「…どうしろと」
面白がっているのを隠そうともしない微笑が小憎らしい。
「そう身構えるな。明日出立するというなら、送別の宴を張ってやるから付き合えと言っている。…何ならあの小公女を伴っても構わんさ。
なに、心配するな。子供の前でお前を押し倒すほど、俺は無分別ではないぞ」
「当たり前だ!」
ひとを総毛立たせておいて、巧妙に逃げ道をちらつかせるのだから始末に悪い。ルアセックが笑いながら立ち上がった。
「…後から場所は報せる。返事はその時で良い」
そんな話をして別れた後のことである、マキがその顔を喜色に輝かせて、ここのところすっかり馴染みになった神殿から戻るが早いか、言った。
「今日で儀式が全部済んだから、今夜神殿は御直会2なんだって!ご馳走が沢山出るし、巫女のお姉さん達から、夜更けまで奉納舞とか楽もあるから観たついでにお泊まりしていかない?っていわれちゃったんだ!行ってきていい?」
異国の舞楽、珍しい食べ物。その興味の前には、幾ら新国王が私的に宴を張ってくれると言っても「それってきっと、高価いかもしれないけど酒の肴ばっかりだよね」という台詞で両断されるのは火を見るより明らかだ。
「…俺のことは気にするな。楽しんでこい」
笑いが引き攣っていないことを願いながら、そう言うしかなかった。マキにもこのところ随分と心配をかけてしまった。最後の夜くらい、楽しませてやりたい。
ひょっとして、直会のことも織り込み済みだったのだろうか。マキを見送った後、そんなことさえ脳裏を過った。何せ銀狐のことだから、そうだったとしても何の不思議もない。
しかし何より、サーティスは自分自身が微妙に逃げ腰であることに気付いて…思わず舌打ちしたのだった。
***
――――緑に溢れた庭園…国王の住居たる内苑と区別して外苑と呼ばれるそこには、いくつかの建物が点在している。
往時は内苑と外苑の区別が曖昧で、建屋の一つ一つに寵姫が住まい、主の渡りを待っていたのだろう。現在は王室の個人的な客をもてなすために利用されており、サーティスも今回はマキと共に半月ばかりをここで過ごした。ノーア佐軍卿の地位にあるとはいえ今回は非公式な来訪3であったシュライも同様だった。
ルアセックはこの外苑にある房のひとつに、ささやかな宴の間を用意させた。
サーティスを招き入れた時、ルアセックは既に侍者さえも退がらせていた。
「誰かいると、お前が入りにくくてはいけないと思ったからな」
涼やかな笑みでそう言ったものである。揶揄われているという線は棄てきれないが、それにしてもこの従兄がなにゆえ自分に執着するのかが謎だった。
品数を絞って選び抜き調えられた酒肴を前にしても、サーティスの気鬱は晴れなかった。
早くこの国都から立ち去りたい。この国を去ったところでこの泥沼の罪悪感から逃れられるものではないと解っていても。だが、逃れようとしている自分自身さえ厭わしくて、すべてを忘れてしまいたくなる。
自分は一体何処まで狡いのか。
そんな想いがひたすら酒杯を重ねさせる。酒に逃げるか。最低ではないか。感覚も、思考も麻痺させるために呑む酒など、ろくなことにはならない。第一、酒に失礼だ。
――――わかっている。そんなこと。
思考の空転を遮るように最後の杯を注いで、サーティスは自分から閨へ続く紗の帷帳を払った。その向こうは灯火ひとつだけの薄闇。酒を満たしたままの高坏を傍らの卓に置き、牀に腰掛けて何も言わずに襟を緩める。
ルアセックが望むというなら、それに付き合うくらいのことは何でもない。数少ない身内ではあるし、自分を案じてくれているのは間違いない事実だ。以前竜禅を離れ、愁柳の治療のためにシルメナに身を寄せた時も、何かと気遣って便宜をはかってくれた。
考えてみると、あのときの礼もまだきちんとしていない。
ふと、闇が深くなる。紗の帷帳の向こうで、ルアセックが先程の部屋の灯りを手ずから消していくのが見えた。紗を透いて流れ込む光が徐々に弱くなる。
終に闇に沈んだと思うと、帷帳が揺れてルアセックが再び姿を現す。髪を纏めていた簪を抜いたことで銀糸が肩から滑り落ち、ルアセックの姿は薄闇にあっても、浮かび上がってさえ見えた。
「…大陸の隅々、海の涯まで捜しても、これほど贅沢な祝儀はなかろうなぁ。シードル卿4が置いていった金子など比べるべくもない」
ルアセックがゆっくりと牀に歩み寄り、卓の上…先刻サーティスが置いた高坏の傍にその簪を置いた。細い灯火をはねて、装飾のない青銅の簪が鈍く光る。…国王の持ち物としては存外簡素だ。サーティスがそんな埒もないことを考えていると、ルアセックの指先が顎をとらえ、軽く仰向かせた。銀糸がさらりと落ちかかってくるのを感じながら…サーティスが目を閉じる。
準備はできているかと問うような、鄭重な口づけ。…今更逃げも効かぬ。それでも、一度離れた後…ひとこと言わずにいられなかった。
「歴とした妻子がある癖に…何を考えているんだ」
御簾越しではあるが一度見た、おっとりした正妃の穏やかな佇まいが脳裏を過ったのだ。しかしルアセックは何の痛痒も感じなかったらしい。揶揄うような笑みさえ浮かべてもう一度唇を重ねてきた。今度は更に深く。
「何とでも…」
侵入してきた舌先に口蓋を擦られ、落ちかかる銀糸に首筋を撫でられてサーティスの背に慄えが疾った。既にして首筋に手を掛けられていたから、悟られたかも知れない。流れるような所作で衣服をほどかれ、ルアセックの唇が顎から首筋、胸もとへ滑っていくのを感じて、その慄えが四肢に伝わっていくのを止められなかった。繊細な指先にするりと背を撫でられて熱い息が漏れる。
身体の奥底から何かがせり上がってくるような感覚にぞくりとする。…まさか、この程度で。
「ほう…西方で随分遊んできた割には…」
そう言って、耳許でルアセックがくすりと笑う。その微かな息がかかる感触さえ、痺れに似たものに変わるから…また、呼吸を詰めてしまう。莫迦な。生娘でもあるまいに。
「うるさい、黙れ…」
戸惑いを見透かされたふうなのが口惜しくて、思わず語気を強めたのに…その語尾は無惨なほど掠れた。
打算や興味や義務感でも、誰かと肌を合わせることはできる。相手が女であれ男であれ、そこそこ快楽を享受することもできる。そんな乾涸らびた見解に至る程度には、場数は踏んできたつもりだった。それゆえルアセックに求められたことに驚きはしたが、応じることにそれほど抵抗を感じた訳ではない。
ただ、まだ衣服をほどかれ、軽く触れられただけなのに…身体の芯で揺り起こされる熱に戸惑った。自分でも驚くほど簡単に声を上げてしまい、与えられる感覚に思わず身を慄わせる。
目的があって閨で相手を悦ばせようと画策するなら、サーティスは相応の演技さえ厭わない。…そういうものだと思っているからだ。だがもとより、身持ちは堅いと定評のある従兄相手にそこまでするつもりはなかった。
それが今、否応なく昂ぶらされ、意識さえ持って行かれそうになっていることに…うろたえてしまう。むしろ、演じていると誤解されかねない姿態を晒してしまったことが口惜しくて…顔を背けた。