あなたが望むなら、俺は。そう言いそうになり、ミランは寸前で呑み込んだ。
ひととき身代わりを求めることで、このひとのこころが和らぐなら、それでよかった。
自分がこのひとの救いにはなれないと、理解っていても。
誓約
扉を開ける音に、ミランは片目だけ開けて扉の方を見た。実のところ、扉の音がする前から、ミランはその足音を聞いていたのだが。
「…借りてるぞ」
「ああ…」
宿房に潜り込んで牀を借りる。部屋の主が帰ってきた時のことは、当然折込み済だ。
果たして、シエルはさして多くもない荷物を文机に置くと牀に歩み寄り、その端に掛けた。肩にそっと手をかけてくる。
「忙しそうだな」
「…何が変わったわけでも、ないんだがな…」
嘘だな。ミランは身を返して仰向けになり、自身の唇が自嘲に歪みそうになるのを晦ますために…覆い被さってくるシエルの口吻を素直に受ける。
以前は、時には鬱陶しくさえ感じていた。寝に来ている筈なのに、十分に休ませて貰えないことが煩わしくもあった。だが今、シエルが与えてくる感覚を…ミランは進んで味わおうとさえしている。
変わりないなど嘘だ。それを、ミランは知悉していた。
統領アンリーが病に倒れた。己の夢を叶えられる日を指呼の間に捉えながら、その身は急速に蝕まれつつある。
ジュストの遺した統領を護ると決め、ミランは持てる力の総てを注いできた。敵ならば斬り払うこともできよう。だが、病ではミランには為す術はなかった。緩々と衰弱していく姿をただ見ていなければならないのは、辛かった。
火輪のようであったその姿が日々薄くなり、儚い夕霧のように薄暮の海風にとけゆく…そんな幻想にとらわれ、背に冷汗を覚えることさえあった。
疾うに生きる気力など無くしているのではないか。そんな気がしていた。だからあの日、喪心したまま庭へ歩み出し、風の中に手を伸べるアンリーを必死で引き留めたのだ。
だが、違った。アンリーは、必死に踏みとどまろうとしていた。ミランが纏う、あの男の残香に縋ってでも。だから、ミランにできたのは…ミランが身体で憶えている、あの男の手管を…受け止めた細い身体に余さず注ぎ込むことだけだった。
その凄絶なまでに煽情的な姿態は、狂熱に身を預け、奔放に刺激を求めることで、自身の身体がまだ現世に在ることを確かめようとしていた。もうすこし、生きていたいと。そして海流の向こう、常世国の彼方を見てみたいと。
狂熱に身を撓らせながらも、その姿は美しかった。ひび割れかけていた唇は繰り返す口吻で妖しく濡れ光り、白さばかりが際立つ膚がわずかながら血色を帯びた。痩せ細った身体の中心で脈打つ熱塊から咲いた花は、生命の味がした。
シエルに妄想だ、邪推だと否定し続けてきたことが、はからずも現実になってしまったのを…ミランは翌朝、奥殿を退出した後になって気づいた。
これは、後ろめたさだろうか。いつものように息荒く挑みかかるシエルの、苦痛と紙一重の愛撫を身に受けながら…ミランは自問する。
そんなつもりはなかった。ただ、一刻身代わりを求めることで、あのひとのこころが和らぐならそれでいい。それだけのつもりだった。
だが…膚を重ね、快楽を与えあう…その沼のような愉悦に引きずられなかったか。ミラン自身が気づいた時には喪くしていた、旧い想いの欠片を追ったのではないと言い切れるか?
――――爾来、大切な何かを裏切ってしまったような気がして、身に鎖を掛けられたかのような重さがついて回る。細いが強固な鎖は、時に呼吸を妨げるほどにミランの胸腔を締め上げた。
用もないのにシエルの房を訪れるようになったのは、その所為だ。
統領アンリーを神聖視するあまり、伝令使たるミランを求めるシエル。聖者の靴跡に接吻する狂信徒のごとき彼の熱情は…元来、鬱陶しくはあった。しかし、机を並べて学んだ誼、同じ師について鍛錬した縁を思えばなんとなく邪険にもできなくて…結局ずるずると関係を続けていたのである。シエルがこの世で数少ない、ミランの負う重責を識る人間であったことも加担していただろう。
「怪我…してはいないか」
「ああ、昨今は荒事とは疎遠だからな…っ…」
シエルがもどかしげに雑色の装束をほどき、露わにした胸の紅点に吸い付く。その刺激に、ミランは思わず小さく喘いで背を反らせた。
喉奥から漏れたあえかな声に、シエルは更に昂ったようだった。不意に身体を離すと己の神官衣の下から自身の熱塊を掴み出してミランの腿の間に突き入れ、腰を動かして擦りたてる。
シエルの行為はいつもひどく性急で、荒々しい。脚間に突き入れられるぬめった熱塊の感触は世辞にも心地好いとは言いかねたが、啜り泣きながら抱きしめられれば振りほどくことも出来ぬ。
挙句、シエルが遂情するまで付き合う羽目になる。
だがその間、ミランが全く快楽を得ていない訳ではない。逸るシエルを慰撫し宥めながら自身の心地好い場所に誘導し、時にはミランも達することがあった。頭の奥は常に醒めているのに、腰から下がぐずぐずと蕩けていく感覚は奇怪ですらあったが、ミランはそれを享受した。
それが何故なのか、ミラン自身にもよくわからない。ただ、気を遣りそうになると…今なお何処からか響く低い声が耳朶を擽って、背筋を駆け上がる快美感に冷水を浴びせるのだ。
『…何も、望まないんだな』
ああ、そうだよ。手の届かないものに手を伸べて、苦しむのは御免だ。…いつもそう返していた。偽らざる本心だ。シエルを見ていると、余計にそう思う。
自分はかの人の救いにはなれない。判っていながら、この腕に抱いた。この苦しさは、身勝手の代償だ。
――――いつの間にか、ミランもまた眠っていた。薄目を開けて天窓から落ちる月影に時刻を知り、小さく吐息する。少しだけ、過ごしてしまった。でもまだ間に合う…。
重い身体を義務感で引き起こし、身繕いをしていると…牀の中でシエルが気怠げに身動ぎした。
「…いくのか」
余韻の中で緩々と寝返りを打ちながらの、蕩けきった声音。見果てぬ夢、決して手の届かないものを求めながら…落ちる影に触れることで充足している旧い友人に、ミランは幽かな苛立ちと共に、羨望すら感じてもいた。
「…ああ」
変わらないやりとり。いつも会話というより、言葉だけをかわしている気さえする。だが、その朝だけは違った。
「なあ、ミラン」
緩々と頭をもたげて、シエルが口を開いた。
「…マティアス=デュナンの件、お前は何か知らないか」
卒然と放り出された固有名詞に、思わず…動きを停めてしまう。
マティアス=デュナン。ツァーリ王太子アリエルの近侍衛士。ギルセンティアでリオライ=ヴォリスを庇い、諸共に谷底へ落ちた男。そして統領アンリーに、抜くことの出来ない楔を打ち込んだ者。
――――だが、統領の伝令使は、統領の忠実な使い鳥だ。指示された以上の情報は決して他者に洩らさない。それが鳶の存在意義。
「〝知らない〟。知っていたところで、俺が喋る訳はないだろう」
それが最良解だった。シエルはそれをエルセーニュにいる誰よりも識っている筈だ。だが、それを敢えて訊いた意味をはかりかねたミランは、ひそかに息を詰めた。
だが、シエルは一旦もたげた頭を緩々と褥に沈ませただけだった。
「…そうだな、済まん。忘れてくれ。
気を付けていけ。今夜は天気はいいが、風が強い」
半ば衾をかぶってくぐもった声は、やや聴き取りづらかった。だから、とりあえず無難に応えてから、立ち上がる。
「ああ、ありがとう」
無難な挨拶に紛れて…細く、息を逃がす。息を詰めてしまったことを悟られただろうか。だが、ミランとてただちにそれを問い質す勇気はなかった。だからただ、いつものように部屋を出る。後ろは見ない。
宿房を出て、海岸線への細い径を辿りながら…ミランは胸中に得体の知れない何かが蟠るのを感じていた。
マティアス=デュナンが何を考えていたのか…今となっては知る由もない。だが、それが仕組まれていたにせよ、自発的なものであったにしろ…神官府…もっと言えば大神官の意向に沿わぬものであるのは明らかだった。あの時点で、リオライ=ヴォリスにはどうあっても退場してもらわねばならなかった。阻むというなら、その場にいたのがミランであったとしてもやはり殺した。…そうせねばならなかった。
――――では、シエルは何を思って訊いたのだろうか。同族を殺された事実を確かめたかったのか。そうだとしたら、何故。