遣らずの雨

blues

 過日…ツァーリに差し出されることが決まり、最初声もなく青ざめて、次に会ったときにはもう自分の道を決めていたアニエス。彼女の勁さを、クロエは羨ましく思った。…それだけに、十年経って戻った彼女の弱り果てた姿に心がちぎれそうだった。
 だからこそ…見果てぬ夢を追い、クロエがいくら言っても結局アニエスの許を訪れることがなかったあの男ジュスト=ブランシュにも、異郷に残した我が子を想いながら命の灯を消したアニエスの想いを踏みにじるかのように戦の準備を推し進める大神官リュドヴィックにも、強い憤りを覚える。
 戦となれば武器・食糧とともに医薬品が必要になる。そして治療に当たることのできる医術神官の数を揃えなければならない。それは確かにクロエの職務しごとではあったが、クロエ自身は戦そのものに決して賛同をしているわけではない。
 己の職務と、大神官のやり方に対する反撥。折り合いをつける時間が欲しくて、クロエは薬種の確保を理由に一刻ひとときエルセーニュを離れることにしたのだった。
 ラ・ロシェルで過ごす静かな時間は、確かにクロエが心を調えるのに有効だった。男共の思惑など知ったことか。私は私の職務を果たす。…ようやく、そう割り切れそうな気がしていた。

 ――――その矢先だった。蛍火の汀で不思議な客人を拾ったのだ。

 雨の音が止んでいた。外は薄明るいが、曇っている所為か日差しはまだのようだった。
 クロエは緩慢に身を起こした。すぐ傍で褥に零れる金褐色アンティークゴールドの髪に指を通し…そのまま背中を縦断する傷に指先を滑らせる。
 …丁度、こんな傷だった。
 客人の背に刻まれた、比較的浅いが広範な擦過傷。小さく薄い辰砂の石片がびっしりと一面に張り付いたようなかさぶたは、既に小さいものから徐々に剥がれつつあったが…肌理きめの細かい背に禍々しいばかりの辰砂の朱バーミリオンレッドが散るさまはまだ少々痛々しいことには違いない。
 傷を滑った指先の感触にかすかに睫を震わせたが、微睡の中を漂っているようで…客人の若草色の双眸は閉じられたままだ。

 蛍火の汀で拾ったこの不思議な客人は、まだ始まってさえいない戦禍に巻き込まれたというわけではない。それでも、本当に戦が始まれば…こうした傷病者はおろか、まちがいなく死者も出る。

 そんな連想は気鬱を深くしたが、その一方でクロエは興味も持ったのだった。
 血の半分はシルメナ。おそらく風神殿、しかも本殿の関係者で、あまり穏やかな生き方をしてきたわけでもない。人好きのする微笑を浮かべながら、決して融けることのない氷塊を抱いた双眸は、肝心な所は何一つ明かそうとしない。
 それほどに惹きつけたものが何であったのかはわからない。
 だが、わからなければ、りたくなる。

 ――埒もない。どうかしている。

 そう思いながらも嬥歌かがいの神事に彼を伴ったのは、やはり興味からだったであろう。しかしその挙げ句にクロエが彼の裡に視たのは…一歩間違えば自傷に傾斜しかねない、凄まじいばかりの自責の念であった。そして、喪ったものへの哀惜。何年、何十年、ことによったら何百年も地下牢に押し込められてでもいたかのような深い孤独。
 いきなり神楽舞に引っ張り出すという無茶振りにもただ苦笑で応えた男が、苦鳴すら零しながら髪を掻き毟る姿に…クロエは胸腔に霜が降りるような後悔に襲われた。

 ――――他人の過去を興味本位で掘り返して、傷を抉ってしまった。

 償おうとした、といえば欺瞞か。…多分、ただ触れたかった。
 薬が効かなくても…ただ触れているだけで和らげることの出来る痛みもある。


 病魔と気鬱に苛まれ啜り泣くアニエスに、クロエがしてやれたのは…ただその腕で抱いてやることだけだった。それで、かすかではあってもその口許に笑みが戻ったから。そして、その笑みがまた、無力感に拉がれるクロエを刹那ほどの間…救ったから。

 結局、自分が救われたいだけなのだ。…何て、狡い。

 男は嫌いだ。身勝手で、自身の欲ばかり押しつけて…相手の事情は構いなし。その認識を棄てたつもりはない。だが、償いきれない罪の重みに今にも落涙しそうなほど苦しげな横顔に触れた時、クロエはその痛みを和らげたいと思った。
 何があったのかはもう訊かない。何に苦しんでいるのかも訊かない。ただ触れて、この腕で包んだ。かつてアニエスにそうしたように。
 そうすることで自分も救われたい。そんな狡さに敢えて目を閉じて…かすかに震える唇を唇で塞いだ。
 ――――…心底にわだかまる不信と恐怖に蓋をして。


 誘ったのは自分だ。自覚はある。だが、砂の褥に横たえられ神官衣をほどかれたとき、とっくに消えてしまったはずの傷の疼きと、旧い記憶に身を竦ませてしまった。
 …気づかれたか、どうか。

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