ナイトテーブルの上にグラスを置く手が、僅かにブレた。
 氷に痺れた唇から漏れる呼吸いきは、熱い。しかし身体の熱さとは裏腹に、頭だけはひどく冴えている。
 ドアの音に、タカミは顔を上げた。
 ドア近くに吊ったプランターから、白い花が零れている。その向こうに、さらに白い・・・・否、銀の髪があった。明らかにサイズの余るシャツから覗く四肢も白く、薄闇の中でその姿は光を放つかのように浮き上がっている。
 まだ少し濡れた銀の髪の向こうで、紅は僅かな戸惑いをのせて揺れていた。
 だが、ややあってゆっくりと歩み寄り、ベッドの端に掛けているタカミの側に立ちどまる。
 なおも戸惑うようなまなざしに、タカミは笑んでその前髪に触れる。
 戸惑いの奥で蛍火のように揺らめいている、情欲と言うにはあまりにも澄んだ光。
 タカミは苦笑してグラスを置き、細い身体を引き寄せた。


Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS
「Why do you weep?」

Scene 3 どうにもならない


 ――――――非道いやつだね。
 我が事ながら、呆れるよりない。
 ひとの寂しさにつけこんで、自分の寂しさを紛らわしている。
 叶うはずのない想いに疲れて。いつか訪れる、明けることのない夜に怯えて。平衡バランスを失いそうなこころの、脆い手綱を必死で握りしめていた。
 君は、行為の意味さえわかっちゃいないのにね。
 ただ、他者のあたたかさと、触れ合うことの心地好さを求めているだけなのに。
 そんなものじゃない。
 そんなコトじゃない。
 最初に教えてあげるべきだったのにね・・・・・・・。

***

 シャツの下の肌は、まだ湯の匂いを残している。そして熱もまた十分に残していた。
 襟元を広げて唇で触れると、その熱が伝わる。
 その感触に、カヲルが細く呻く。呼吸が早くなっていた。
 ベッドの端から垂らされた下肢が僅かに浮き上がり、上から3つ程しか釦を止めていないシャツの裾が割れる。そこに彼がゆっくりと手を滑らせた。
「・・・・っ・・・・・!!」
 白い腕が、彼の首に回る。
 胸の、繊細な部分に口づける。下肢に与えられる感触と相俟って、カヲルが背を反らして細い声を上げた。
 掠れた声がかすかに、だが断続的に彼の鼓膜をくすぐる。
『あたたかいのは、嫌いじゃない』
――――――違うよ
『あなたは、入ってこない。だから、イヤじゃない』
 ――――――そんなのじゃないよ
 「カヲル」は人を好きになった事などないのだ。
 そして、今も。
 白い腕は、他者のあたたかみを求めて伸べられる。
 ただ、寂しいから。それ以外の何ものでもなく。
『・・・・悲しい・・・・? 何故?』
 理解らないのだ。「カヲル」には。
 下肢の間に滑らせた指を、進める。
 下肢の奥にもたらされる感覚が、カヲルの掠れた声をつり上げる。
 甘やかな響きをともなった苦鳴を唇で吸い取り、さらに指を進めた。
 白い背がビクリと撓り、首に回された腕に力がこもる。切迫した呼吸が吐息に代わり、ゆっくりと身体が沈んだ。
 腕が音もなくほどけ、落ちる。
 タカミは肘で半身を起こし、弛緩した指先を捉えて軽く口付けた。そして、銀色の髪にそっと触れる。
 微睡まどろみの中の、あどけなくさえあるその微笑。それが罪悪感の刃となってタカミの胸を抉り…思わず一瞬呼吸を停めた。

***

 グラスの氷は溶けきってしまい、滑り落ちた水滴がグラスの周囲でわだかまっていた。
 タカミは身体を起こすと、自分のシャツに腕を通す。グラスを手にしてそっとベッドを降りた。
 キッチンで氷を出す。氷の冷たさに瞬間的に白くなったグラスは、琥珀色に溶かされた。
 細い音を立てながら割れてゆく氷を、タカミは暫時漫然と見つめていた。
 不意に、顔を上げる。視界の隅で、翠色の光が揺れた気がしたのだ。
 そして、嗤う。
 食器棚の硝子に映った己の姿。その両眼の、みどり。最初は、光線の加減で時折、という程度だった。最近は、暗い所ではまず判ってしまう。
 少し濃いめにつくった水割りを、一気に半分ほども流し込む。身の裡を灼く感覚に、思わず小さく吐息した。
 時間を止めることはできないし、遡ることは尚更。
 失われたエデンは戻らないし、父なる方の残したプログラムは次々と精密に発動してゆく。サキエルが消えた夜に、それは判っていたはず…。
 イスラフェルが消えたのは、つい先日のこと。以来、その事実から逃れるようにカヲルは彼のもとに来る。痛ましいほどの戸惑いを紅瞳にのせて・・・。
 受け止めるより他なかったといえば、それはまがうことなき欺瞞だろう。何せ…
 タカミは頭を振った。
 減った分をつくりなおし、寝室に戻る。ドアを閉める音も、極力小さく…。
 だが、グラスを置いた直後、身を横たえたままのカヲルと目が合った。
 目。黙って出て行ったことを、言外に責めている…。
 グラスを遠ざけようとした手は一瞬遅かった。
 タカミより一瞬早くグラスを押さえ、ゆっくりと肘で身を起こす。
「・・・・・・美味しい?」
 ことさらに彼を見ず、問う。少し、硬い声音。
「駄目だよ、それは…」
 ひょっとして拗ねてるのかい? そう揶揄からかおうとした、直後。
 止める暇もあらばこそ。素早く傾けられたグラスから、見る間に半分ほどがカヲルの喉へ滑り込んだ。性急な動作に、さすがに唇の端から雫がこぼれ、シーツを濡らす。
「…無茶をするなぁ…」
 タカミが嘆息してその傍らに腰かける。だが、そこまでだった。
「・・・・っ・・・・」
 グラスを置く音がいくぶん鋭角的だったことに、タカミがふと顔を上げる。
 淡いブルーのシャツの襟を掴んだカヲルの指先の力は、然程強くはなかっただろう。だが、不意であったことが決定的な敗因だった。
 引き寄せられ、柔らかい唇で塞がれる。アルコールの香気をまとった舌が滑り込んだ。
 そのまま、半ば押し倒されるような格好で、タカミは身を横たえた。逃がさないとでもいうように、カヲルがその肩の上に手を置いて、もう一度唇を重ねる。舌を捉えてしまうと、襟を掴んでいた手がゆっくりと下へ滑った。
「・・・ん・・・・・・」
 シャツ越しとはいえ、与えられた刺激に思わず呼吸を詰める。目の眩むような感覚にも決して酔えることはないが、無邪気な微笑と共にすり寄ってくる確かな熱は、今考えたくないことを意識の中から駆逐するには十分だった。
 この笑みが打ち砕かれる日が来るとしたら、その時タカミはもうこの世界に存在していないのだろう。あるいは、それはそれで自分にとっては幸いなことなのかもしれないと思いながら、それがひどく無責任で、しかも残酷なことだという罪悪感を拭うことはできなかった。


 …でも、もう、どうにもならない。