もう、月から眼を離せないのに。
魚のくせに溺れかかってる。
Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「Sweet Eden Ⅶ」
溺れる魚
*
「大体、無茶なんですよ。あの移動スケジュール。僕なら絶対蹴らせてた。そもそも、マネジメントをあの外道親父の事務所なんかに任せたのが間違いの元だったんだ!」
普段は穏やかな微笑しか浮かべない造作を怒りに染め、グラスを握りつぶさんばかりの勢いで握りしめてタカミは肩を震わせていた。
こいつでも激する事があるのか。深海リエは軽い驚きを感じていた。
セラフィンの遺児・カヲルが日本で事故に遭った、とは聞いていた。第一報が届いた時は軽傷で済んだという話だったが、後になって頸を傷めていたことが判ったのだ。
新進のヴァイオリン奏者として地歩を固めつつあったカヲルがその道を絶たれたことを惜しまない者はなかったが、セラフィンの弟で、カヲルの叔父であるタカミの憤懣は、カヲルの音楽活動をマネジメントしていた事務所へ向かっていた。
本格的な音楽活動のはじまりがカヲルの学校の友人たちとの四重奏だったから、そのマネジメントはその友人…碇シンジの父親の会社が請け負っていたのである。
タカミは最初からあまりそれを喜んではいなかったのだが、カヲルが友人たちとの活動を心から楽しんでいるのを知っていたから、敢えて口を緘していたのだった。
それが裏目に出たことで…穏やかなタカミがかくも荒れ狂う事態が出来したのである。
当人はなんとか日常生活には支障がない程度に回復し、音楽活動からは引退したものの、昨今はレイとの穏やかな生活にそれなりの安寧を見いだしている。それはそれで喜ばしいことではあるのだが、タカミはいまだに引き摺っているようで時折こうやって爆発するのだ…というのが、高階マサキの説明であった。
キティ1 のグラスを一気にあけてしまい、見事リビングテーブルに轟沈したタカミの栗色の髪を、丁度居眠りする猫でもあやすように軽く梳きながら…マサキは苦笑した。
「こいつにだって理解ってるんだよ。いくらNERVのやり方が、言っちゃ何だが営利寄りっていっても…それを言い立てて友人…碇シンジとかいったっけ?その坊ちゃんとの関係性をぶち壊しにすることの方が、カヲルにとって損だったってことくらい…な。
だから、ここに来たときくらいしか言わないのさ。
こいつ自身…少し前に運命の女をようやく射止めて有頂天になってた時期で、自分がふわふわしてる間にカヲルが大変なコトになったって…一時は酷く自分を責めてたからな。聞こえないところに向かって文句言うぐらい、健全なもんだ。
こいつ最近、めっきり甘えなくなったが…溜まったもの吐き出したくなるときだってあるだろうよ。ここでぶちまけてすっきりするなら、それでいいんじゃないか?」
そういって立ち上がるマサキを見て、リエは思わず呟いていた。
「…成程、他人のことはよく見えるもんよね」
「何か云ったか?」
「いいえ、なにも」
「…さて、イサナの奴、まだいたよな?こいつをベッドに放り込むの、手伝ってもらおう」
***
「上まで聞こえてたぞ。あいつでも、これほど荒れる時があるんだな」
潰れたタカミを客用寝室へ放り込むのに召喚されたイサナが、仕事を終えてリビングへ戻ってきたときの第一声はそれであった。手伝い、というよりイサナに丸投げしたマサキがへらりと笑う。
「いや全く以て…イサナがいてくれて助かった」
「よく言うわね、サキ。タカミのジンジャーエールをキティにすりかえたの、あんたでしょうが」
愚痴モードに入りかけたタカミの話を聞きながら、さらりと犯行に及んだ張本人がまるで事故であったかのように言うものだから、リエはとりあえず指摘してみた。
「確信犯か!」
一服盛られた当人以外の全員が気付いている事実だが、別室で仕事をしていたイサナは当然知らなかった。以前リエが純然たる事故でタカミを酔い潰した時にも呼び出されたことのあるイサナが、目許を険しくしてマサキを睨んだのも無理はない。
「言いたいこと言って、さっくり落ちたほうが明日の朝に響かないもんさ。心配しなくても明日には何もなかったみたいに起きてくる」
睨まれた方はあっさりとしたものである。
「あいつに呑ませると危ないからやめておけ、って話は、確かお前から聞いた気がするんだがな。細君にバレると怖いとか言って」
「何、バレなきゃ問題ない」
もはや何も言えなくなり、イサナが眉間に指を当てて吐息する。
「…片付けておきたいところまでは終わったから、俺は帰る」
「今からか?泊まればいいのに」
「明日の朝イチで打ち合わせがある」
「そりゃ済まんな。いつもありがとう」
「謝意は行動で示せ。お前の分の決裁、デスクに置いておくから忘れるな」
「Noted with thanks!」
そう言ってマサキがグラスを掲げる。リエはふと思いついて立ち上がった。
「私も帰るわ。悪いけど駅まで乗っけてもらえる?」
イサナは微かに意外そうな表情を浮かべたが、即答した。
「別に構わんが…駅まででいいのか?お前のフラットくらい、どのみち通り道だが」
「あら、ありがと」
***
ハドソンバレーにある高階邸の玄関ホールは、二階廊下との吹き抜けになっていてミニコンサートができるくらいの広さがある。
階上へ荷物を取りに上がったリエが、ショルダーバッグをひっかけてそのホールへの階段にさしかかった時、時代のかかったシャンデリアの柔らかく落ち着いた光の中に寄り添って立つイサナとミサヲが見えて、ふと足を止めた。
別離のkissの後、というところか。傲岸不遜な美貌が僅かに寂しげに翳っているのはそれなりに観物ではあった。そしてミサヲの、彼といる時の微妙な表情は、リエとしては苦笑しか出て来ないが…ただ、美しい。
少しはそれらしいコトしとかないと、兄さんが気を揉むから…そんな理由をつけて彼に時計を贈る。その一方で、最近ミサヲが着けるようになった簡素だが上品な花のチャームのついたシルバーのチョーカーは、訊けば晦ますものの贈り主はイサナに違いなかった。
いつもただ便利の虫除けのと言っている癖に…何だ、だいぶ様になってきてるじゃない。戸惑いながらも縮まっていく二人の距離を見るのは、時に楽しく、時に苛立たしい…。
「イサナ、決裁済ませといたぞ」
実に悠暢と…だが、無粋なタイミングで発せられた声で、リエは我に返った。全くこの男は。この二人を近づけたいのか遠ざけたいのか?
「サキ…ろくに読みもせずにサインだけするのは駄目だと言っただろう」
奥からファイルケースを抱えて出てきたマサキは、イサナの渋面を朗らかにスルーした。
「大丈夫だ、読んでも判らん! どのみち俺は弾くしか能がないからな。他はお前に任せてるって言ったろ?」
「兄さんってば… 指揮者ってのはそれじゃ不味いの、わかってるでしょ?そんないい加減なこと公言してると、またローレンツのおじいさまにどやされるわよ」
ミサヲが嘆息しながらマサキへ向き直る。そうして然り気無く、僅かに離れる二人の距離。
「心配するな、理解したかは別としてちゃんと目は通してる。カヲルの件…やっぱりキール爺さんめ、もう動いてたな2 。まあ良いさ、俺が要らん世話を焼く話じゃないだろう。あ、でも…ファーストアルバムに入れる曲、ヴァイオリンパートがあるなら是非俺に弾かせろよ」
「…サキ、やっぱり斜め読みだな。ヴァイオリンならもう響ユキノが手を挙げている。諦めろ」
「え…ユキノちゃんか。弱ったな、勝てん」
「だからいつも、ちゃんと読んでからサインしろと言っている。企画段階では当然お前の名前も挙がってたんだ」
「うーん…以後、努力しよう。ちょっと反省した」
そういいながら、その眉目に反省の色など微塵もない。ミサヲが吐息して、天を仰いだ。
「顔に出てるわよ。全く懲りてないんだから…」
ミサヲの叱言に、マサキが謝りながらやや不誠実な微笑を浮かべている。その傍でイサナは受け取った書類を手早くチェックしている。
そんな、いつもの光景の中へ…リエは再び足を進めた。