これで心配を掛けていないつもりか、あの莫迦。それならせめて携帯の電源は切るな。
ミサヲのこんな様子を見る度に、イサナは胸中で悪態をつかずにいられない。
今もそうだ。スタインウェイの鍵盤を滑る繊麗だが強靱な指先は過たず音を紡ぐのに、その響きには迷いがある。…彼女自身にも判っているのだ。だからこそ、〝縺れる〟と。
イサナがそれでも、マサキの襟首をひっ掴んで実際にその悪態をつくことを躊躇うのは…ミサヲがマサキの想いを知らないでいるように、マサキもまたミサヲの想いを知らないからだ。
互いに「どうしようもなく」惹かれあいながら、互いが互いの傍にいるために他者を必要とする。
――――それこそ、縺れている。
いつだったかセラフィン・ローレンツが、意味深な微笑と共に零した台詞が去来する。
『ねぇイサナ君? あそこに割って入るのは正直…大変よ』
割って入る?少なくとも最初、この強情な月に出逢ったとき…イサナにそんな意図はさらさらなかった。それとも傲岸不遜な熾天使は、既にこの状況を見抜いていたとでも言うのか?
彼女自身が「縺れた音」と評するこんな時のピアノを聴く度に思う。言ってしまえばいい。互いの想いは繋がっていると。…たとえそれが、罪であろうと。
しかしそれは二重の裏切りになる。
既に身動きもならないほど捕らわれているのは判っている。告げた筈の想いが届いていない事も判っている。それでも、逃げられない。逃げたくない。
――――――ふと、音が止んだ。
ミサヲが鍵盤から手を引き、膝の上で握りしめる。訪れた空隙に、イサナは顔を上げて壁から背を離した。
「…わかってるのよ。どうしようもないことくらい…」
届くわけもない、口にすることさえ許されない想いの苦しさは、痛い程に理解る。だから、イサナはゆっくり歩み寄るとそのまま微かに震える華奢な肩を背中から抱き締めた。
このまま傍にいられるなら、想いなど伝わらなくて良いのか。…だがそれは、あまりにもつらすぎる。
「…ありがとう。いつも、ごめんなさい…ね」
ミサヲが、回されたイサナの腕にそっと手を重ねてくる。
…どうしてこう、逐一罪つくりなのだろう?
振り向かせ、口づける。あの時に比べると、触れたときのミサヲの反応は…幾分硬さがとれてきた。抱き寄せれば、すこしだけではあるが…自然に体重を預けてくれるようにはなった。
彼女にとっては、額や頬ならともかく…唇へのキスなどあの夜が初めてだったのだ。そう気付くまでに月の単位で時間が必要だったなどと、今更口が裂けても言えない。マサキならたとえ誰にも見られることがなかったとしても、唇へのキスは避けただろうことくらい…なぜ思い至らなかったのだろう。それなのに、触れた肌に走った紛うことなき怯えの感触に…暫くはひとり傷ついた気になっていた。
だがそのくらい、イサナには自然に…二人が唇を重ねる姿が想像出来てしまうのだ。
触れていても…ひどく遠い。風が吹き抜けていく程の距離を感じる。だからこうして腕の中に抱いていてさえ、つい言ってしまいそうになる。
――――俺といる時には、彼を忘れてくれ。
――――――――Fin――――――――