してやられた。
ピアノに掛けられたカバーに触れて、イサナは唇を噛んだ。
高階邸のその一室は、ミサヲの練習のために当てられている。当然、置いてあるのはミサヲがいれば毎日、何度となく蓋を開けられるピアノだ。わざわざカバーを掛けられることなどない。だからこそ、ベルベットの全ての色を吸い込んでしまうような深い光沢と、温かな手触りがかえって断絶感をもたらす。
露骨な警戒の視線が煩わしかった筈だ。滅多にないミサヲの不在に、ほっとすることさえあった筈だ。
…それなのに、いつの間に。
ピアノにかけられたカバーを捲り、蓋をあける。鍵盤の上に指を滑らせると、澄んで深い音がした。彼女の奏でる音には比べるべくもないが。
鍵盤に指を落とし、主旋律だけを拙く弾く。
数小節を弾いた後、結局椅子に座った。両手の指を軽く載せる。ひやりとした鍵盤の感覚。
彼女たちのようにまともに習ったことがあるわけではない。ただ、マサキとシェアしているフラットのリビングには、マサキのグァルネリ 1 のほかに聞いたことのない銘のグランドピアノが鎮座していた。弾いても構わないと言うから、時々弾いてみたが…気が付くと、ハドソンバレーで聴いた曲をなぞっている。
最初は聴いた主旋律だけを、片手の指でそのまま落としていただけだから、低音部やコードは飛ばしていた。マサキがいないときに弾いていたつもりだったが、大抵、暫くするとその楽譜が無造作に譜面台に置かれていたりしたものだ。無視するのも業腹だから両手で弾いてみる。いつの間にか、常に両手で弾くようになっていた。
音を奏でることを面白い、と感じるようになったのはその頃からだ。鍵盤を滑る繊麗な指先を思い出しながら、ゆっくりと弾く。誰にも聴かれなくていい。…聴かせたくない。そう思っていた理由に、ようやく思い当たる。
自分の裡にあるものを悟られてしまいそうだったからだ。
結局、マサキの術中に嵌まったのか。そこには確かに口惜しさのようなものを感じるのだが、イサナがそれを悔いることはなかった。
ふと鍵盤から目を上げると、ピアノの譜面台には、年季のいった楽譜が置かれたままになっていた。セラフィンのリサイタルでの定番曲。びっしりと付箋や書き込みの入ったその楽譜の表紙には、滲んだ痕がある。
思わず手を止めた。
泣いていたのだ。ここで。この楽譜を抱いて。
自分自身の悲嘆を飲み込み、遺された子供達のために迷わず行動する勁さ。楽譜の表紙に残された涙痕を指先でなぞりながら、イサナはただ深く吐息した。
――――一週間ほどの不在が、ひどく長い。
***
だが、数日後…帰ってきたミサヲは子供達を伴ってはいなかった。
予定が狂った理由のひとつは、セラの子供達が住み慣れた家を離れ難いふうであったこと。もう一つは、身体的には軽傷だったセラの弟のことである。比較的早くに退院してハドソンバレーに引き取られたものの、PTSDからくる全緘黙症に陥り、時折フラッシュバックを起こして恐慌に陥った。以前の彼を知る者からすれば目を覆うばかりの憔悴ぶりで、とても今すぐ子供達に会わせるわけにはいかないだろうという結論に至ったのである。当初は三人まとめてハドソンバレーで面倒を見るつもりが、変更を余儀無くされたのだ。
セラフィンとて日本に係累がいないわけではなし、現に演奏旅行の際には決まった預け先もある。だが、長期というわけにはいかなかったから、マサキがこのままハドソンバレーで弟の面倒を見、ミサヲが当面日本に住んで子供達の世話をするというところで話が落ち着いたという。
当面、というのがどのくらいの期間になるか、今のところなんとも言えないと。
それを聞いた時、イサナは自身を襲った眩暈に困惑した。…その困惑のままに、埒もない問いを発してしまう。
「…長くなるのか?」
ミサヲは笑ったようだった。
「…あの子達を今の…あんな状態のタカミに会わせるわけにはいかないでしょう。タカミのことを兄さんに任せるから、行くのは私だけよ。…安心した?」
安心?何を安心しろと?
継ぐべき言葉を失って、イサナはただ彼女が窓の外から聞こえてくるヴァイオリンに耳を傾ける姿を見ていた。
身体の傷は癒えても、その心に負った傷で苦しみ続けるセラの弟のために、マサキが弾き続けているのだ。
――――それこそ、指を潰しかねない程に。
弦を既に何本切ったかわからないという。弦は替えられるがお前の指に替えはないぞ、と言ったら…マサキにしてはやや闊達さを欠いた、晦ますような笑みを浮かべただけだった。
今また、流麗な旋律がE線がはぜた音で遮られる。ミサヲの目許が顰められた。…それはいっそ、苦しげと表現してよい程に。
だが、その唇から発せられたのはひどく毅然とした言葉だった。
「イサナ、私の留守中…兄さんに余計なちょっかい出さないでね。兄さん、今タカミのことで手一杯だから」
ああ、やはりまだこの月は…イサナがマサキの傍にいるための方便として、彼女に接近したのだと思っているのだ。
「…君に暫く逢えないことが寂しいのだとは…思ってくれない訳だな」
自分でも驚くほどに、素直にそんな言葉が滑り出る。だが、月は月。玲瓏そのもの。彼女の前ではイサナの言葉も水面の泡ほどに儚く消えただけ。昏い海を漂う魚が零した小さな泡が…水面に達するが早いか毀れる様にも似て。
「もう休むわ。日本へ行く前に諸々済ませておかなければならないことがあるから、明日は早いの。…おやすみなさい、イサナ」
そう言って、ミサヲは足早に部屋を横切った。すれ違いざま、結い上げた襟足からアリュール 2 が香る。ダマスクローズの残り香が、胸を締め付けた。
どう言えばいい。どう言えば伝わる。言葉にならなくて、思わずイサナは手を伸べた。
だが、細い腕を捉えた瞬間…黒褐色の双眸に射られて後悔する。
「ちょっと、イサナ…!」
振り払われなかったのは僥倖。もし振り払われていたら、無理矢理にでも抱き寄せていたかも知れない。だが、イサナに向けられたのは静かな当惑。…当然だ。彼女にとって、鯨吉イサナという男は、まだ。
――――寸前で、イサナは自制した。掴んだ腕から指を滑らせ、その手を持ち上げると、手背に唇で触れる…ごく、軽く。
「…おやすみ」
そして、その手を解放した。
ミサヲは自身の胸元に解放された手を引き寄せ、握り締めて、やや性急に身を翻した。ただ、最低限の挨拶はきちんとしてから行く。
「…おやすみなさい」
硬い表情、生真面目な反応が、なまじ離れていた時よりも隔てられて…つらかった。
***
マサキが突如として姿を消すのは、自身を抑えきれなくなりそうな時だ。少なくともマサキはそう言った。ただ、何処までが韜晦で、何処からが本気なのか。あの男は全く悟らせない。
「どうかしてると思うだろう。こんなこと、あれに知られたら…二度と顔もみせちゃくれないだろうな。このとおりの俺と違って…それはもう、巌のような倫理観の持ち主だから」
そして、日本から戻ってくる彼女を自分の代わりに出迎えてやって欲しい…とひどく追い詰められた表情でイサナに懇請した。今彼女に逢えば、自分は何をするかわからないと。
何をするかわからないだと? そんなこと、お前に限った話じゃない。
想いを自覚した直後の別れ。聞き流されたも同然の告白。一週間どころかほぼ丸一年の不在。気が狂いそうだったのはイサナの方だ。ミサヲを迎えに空港まで車を走らせながら、やはり自分はあの男に嵌められたのではないかとさえ思った。
だが、帰ってきた彼女は、出迎えたイサナに向かって一足違いに欧州へ発ってしまった兄に対する文句を勢いよく並べ立てた後…ハドソンバレーまでの車中、ずっと沈黙を守っていた。
向こうで何かあったのだろうかとも思ったが、触れるはおろか、迂闊に声も掛けられないほどの沈黙の前に、イサナは為す術もない。
伝えたいことがあっても、口が開ける雰囲気ではなかった。
しかし、ミサヲをハドソンバレーに送り届けて辞去しようとしたイサナを引き留めたのはミサヲのほうだった。出迎えを労うために紅茶を淹れると言ってくれたのである。それまで何度か饗応にあずかったことはあるが、マサキが不在の時には例がないことだった。
何かを期待しなかったといえば嘘だろう。しかし紅茶を淹れてくれた後…昂然と、半ば宣するように、だがその両眼に涙を湛えて彼女が口にした言葉は。
「私は…サキを愛してる」
頭を殴られたような衝撃、と言えば大仰だろうか。だが事実、イサナは軽い眩暈にただ立っていることにさえ力を込めねばならなかった。
「離れてみてわかった。しょうがないじゃない。私は、サキしか要らない。どうにもならないんだもの。でもそれじゃ…兄さんは困るのよね」
ミサヲは寂しげに微笑った。正確には、笑おうとして失敗し、睫を震わせた瞬間にその頬を涙が滑り落ちる。
「兄さんはいつもまでも私のことが心配なの。私がいつまでも兄離れしないからでしょうね。わかってるの、そんなこと。だから、一人で日本へも行った。
でもそれで、わかっちゃった…。
サキは貴方のことを気に入ってる。…私も、貴方のことが嫌いじゃないし、貴方みたいな人がサキの傍にいてくれたら安心。だから、貴方がサキの傍にいる口実に私が必要なら、それでも構わない。
その代わり、どんな形でもサキを裏切ったら、私はあなたを赦さない」
深く吐息する。…もはや、吐息しか出て来ない。
「君がそう思いたいなら、それでもいいが」
イサナは静かにティーカップを皿に戻した。
そうして…玉座のごとく重厚なソファに歩み寄ると、膝に落ちた涙の痕を隠すように置かれたミサヲの手に、掌を重ねた。
「では俺は、君の傍に居ることに…もう一々理由を並べ立てなくてもいい訳だな?」
「誓える? …絶対に兄さんを裏切らないって」
「何に誓えばいい。俺は知っての通り無神論者だが」
「では私に。約束を破ったら…私があなたを殺すわ」
黒褐色の双眸が、決然とイサナを射た。その色彩をもっとはっきり見たくて、繊細な顎の線に手を掛ける。
「…契約成立だ」
指先が触れる白い頬の下を、細波のように通り過ぎた怯えを黙殺して…イサナはその唇に口づけた。重ねた手がかすかに震えたのが判ったが…月は、逃げなかった。
――――学生時代の、いつもの週末。出迎えた彼女が高階邸の荘重な扉を開けた時、マサキはいつも無上の愛しみを込めてその額に口づけた。
何も知らない頃…それは、〝仲の良い兄妹〟の一場面に過ぎなかった。だがミサヲが浮かべていた穏やかな微笑さえ…今のイサナには痛みをもたらす。