イサナは薄闇の中、隣室から聞こえるひどく切羽詰まった呼吸に目を覚ました。
正確に言うと、直前に聞こえた…何かがぶつかる音、ないしはある程度の重量のあるモノがフロアへ落ちた音で目を覚ましていたのだと思う。
しかし、はっきりと覚めたのは、その苦しげな息遣いに今夜の急な客のことを思い出したからだ。
Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「Sweet Eden Ⅳ」
醜聞
~After “Femme Fatal”
リエに言ったのはあくまでも最悪のケースを想定してのことだが、まさかその最悪のケースか。
何かあったときに声や物音が聞こえなければ意味がないから、イサナはリビングへ続く扉を半開きにしていた。ベッドライトを点けて起き上がると、扉の向こうからやはり苦しげな息遣いは続いていた。
その扉を押し開けたとき、また何かが落ちる音。今度は少し軽いが、硬質な音。
リビングは淡い月光が差し込んではいたが、薄闇が支配していた。
今夜の急な客…タカミが長椅子から滑り落ちた姿勢のまま蹲っている。リビングテーブルに半ば俯せて苦しげな息遣いに肩を揺らし、テーブルの上で伸ばした手は何も掴めずにただ震えていた。
テーブルの上に置いていた封をされたままのミネラルウォーターのボトルが、フロアに敷かれたラグの上に転がって月光を鈍く反射していた。少し離れて、一緒に置いていたグラスも。…定まらない手で取ろうとして、取り落とすかどうかしたのだろう。割れてはいない。先刻の物音はこれか。
「吐きそうなのか」
灯りを点けてもよかったのだろうが、イサナはその手間を省いた。喘鳴に揺れ続ける肩に触れても応えはなかったが、問うてみてから、違うと判った。これとほぼ同じ状況を、イサナは数年前に見ている。
セラフィンが他界した、航空機事故のフラッシュバック。
ほぼ完治、と聞いていた。投薬も終了して久しいと。ただ、薬でのコントロールはもともとあまり良くなかった。一番効果があったのは…
わかってはいるが、今此処にないものは仕方ない。
イサナは舌打ちしてからテーブルを長椅子から離し、苦しげな息遣いに震えているタカミの身体を長椅子の上に戻した。相変わらず軽い。
「おい、判るか」
震えながらも何かを探して伸べられた手首を捉える。正確にカウントする程の余裕はなかったが、心拍は上がっているし脈も不整だ。
いつも闊達な光を湛えている緑瞳は、見開かれてはいても涙で曇り、今は何も見えていないようだった。伸べた手を掴まれたことで却って混乱を深めてしまったようで、なおも呼吸を追い詰め続けている。
そのことに気づいて、手を離した。解放された手は縋るようにイサナのシャツを掴む。指先には関節が白む程の力が入っていた。
破かれてもかなわないので、その手に引っ張られて少し姿勢を下げた。その時、喘鳴の下から聞こえた…ひどく掠れた微かな声に思わず一瞬、呼吸を停める。
…手段に困じたのは確かだった。最善とは言い難かったも知れないが、他にどうしようもない。
シャツを掴んでいる手を捉えて距離を取ると、右手を軽く振り上げた。
「…とりあえず、目を醒ませ」
十分手加減はしたつもりだったが、結構な音がした。
***
「…ええ、ご迷惑かけたのはわかってます。自分の体質わかってて用心してなかった僕が悪いんですよ。でも、パニクってる人間をいきなりひっぱたきますか?…って、あれ、意外と痕残ってない。身体に痕を残さずに痛めつけるとか、どーいう技能?ひょっとして慣れてます?」
「…人聞きの悪い」
水音とともにバスルームから聞こえてくる声の調子はいつもと何ら変わらない。
嵐がおさまるのは一瞬だった。涙で曇っていた緑瞳がすぐさま焦点を結び、イサナのシャツを掴んでいた手が緩んで滑り落ちたかと思うと、荒れていた呼吸は見る間に収斂した。
喋れる状態になるまで、緑瞳を見開いてイサナを見つめていた。その間に状況の整理が出来たものと見えて、ふと目を伏せると喘鳴にかさついた唇を一度引き結んでから言った。
『…すみません、イサナ』
極端な程、冷えた声音だった。つい先刻の、ひどく掠れた微かな声が含んでいた調子は微塵も残っていない。もとより、タカミが丁寧な言葉と柔らかな微笑で本心を鎧うことに長けているのだと気づいたのは、そう最近のことでもないのだが。
ただ、ひどく汗をかいていたことと…おさまったとはいえ痙攣した四肢に痛みを覚えている様子だったから、少し水を飲ませた後、さしあたって着替えを与えてバスルームに追い立てた次第であった。
すっかり目が覚めてしまったから、とりあえずキッチンで湯を沸かして紅茶を淹れる支度をした。出てくるのを待つ程の義理もないから、自分の分の紅茶をカップに注ぐ。
ソファに腰を落ち着けて一口啜ると、その時になって初めて自身の内面も波立っていたことに気づいて、イサナは少しだけ驚いた。
あの声音の所為か。
タカミがハドソンバレーにある高階の屋敷で静養していたのは1年ほどであった。それまでも姉夫婦についてよく訪れていたが、年齢の割にはおとなびて、おおらかと言えば聞こえは良いが有り体に言えば大雑把な姉の音楽活動を…きびきびとマネージメントしていたのは憶えている。
それが、あの事故で一変した。
もともと線が細かったのが更に痩せ細り、闊達な緑瞳は彩も判然としない程に光を喪った。全緘黙症に陥って殆ど意思表示をすることはなく、ちょっとした物音にひどく怯えて度々恐慌に陥った。
イサナとしては、その様子も確かに気の毒とは思ったが…高階兄妹の心痛のほうが気がかりではあった。
ミサヲは自身に仕事を与えることで虚脱を防ぐかのように日本へ渡り、セラフィンの遺児たちの世話にあたった。そしてマサキもまた自身の音楽活動をほとんど休止してハドソンバレーに居を定めていたのである。
その間、マサキは決してヴァイオリンを措いていた訳ではない。むしろ、「指を潰しかねない」程に弾き続けていた。…唯一人のために。
事故状況のフラッシュバックを抑えるためにタカミは内服を続けていたが、あまりコントロールが良いとは言えなかった。むしろ故意か過失か判断しかねるオーバードーズで昏睡に陥ったことがあって、マサキが一時期薬を取り上げたことさえある。…その代わりが、ヴァイオリンだった。
少なくとも恐慌をおさめる効果はあったし、フラッシュバックの頻度も少しずつ減っていった。
『音楽療法1って、こんな仕事してながらあんまり信じてなかったけど…やっぱり効くんだ』
リエがそう言って感心したが、イサナの見解は異なる。…マサキのヴァイオリンは紛れもなく超一流だが、タカミの症状が改善したのは何よりマサキ自身が傍に居たことの効果ではなかったか。
『たすけて…サキ…』
関節が白くなるほどにしがみついて、ひどく苦しい呼吸の下から囁かれた…掠れて微かな声。
ただ苦しさからの解放を乞うというには、ひどく艶めいた声音だった。イサナでさえ、一瞬ぞくりとして呼吸を停めてしまった程に。
当時の状況を思えば無理もなかったのかも知れないが、確かに一時期のタカミの、マサキに対する依存は常軌を逸していた。自身でも後日になって「相当おかしかった」と言っているくらいだから、自覚はあるのだろう。ただ依存のレベルは、イサナが思っていたようなものではなかったということか。
事実と憶測。目に見えるものと見えないもの。真意と韜晦。イサナにとってはマサキともうひとり以外の人間は大概「わかりやすい」し、これまでタカミも例外ではなかった。
しかし一応、係累だというだけのことはあるようだ…。
「いやまったく、ご迷惑をおかけしました」
バスルームの扉が閉まる音で我に返る。タカミがリビングに戻ってきたのだ。
ツヤはよいがおさまりの悪い髪はなかなか水気が取れないらしく、まだ頭からタオルを掛けていた。あの姉と似ていないとは言いながら、十分目立つ容姿である。それが髪を僅かに湿らせたままサイズの合っていないシャツ一枚という格好は…一歩間違わなくても十分扇情的だ。しかし、先刻のはいったい何だったのかというくらいからりとした明るい笑いが、単におそろしく開けっ広げな印象しか残さない。
「…ほぼ完治、と聞いていたが」
「いえいえ、本当に何年かぶりですって。僕も吃驚してますよ。変な寝方すると良くないんでしょうね。申し訳ないですが、予備ベッドお借りできます? ちゃんと脚伸ばして寝ないとどーにも夢見が悪いようで」
「それは構わんが…」
「大丈夫、もう粗方酒精は抜けていますから。さっきミネラルウォーターも頂きましたし、心配しなくても吐いて汚したりはしませんよ」
「…判った。好きに使え」
タカミが心配の意味を微妙に履き違えたのはわかっていたが、一々訂正するのも面倒だった。
「本当にすみませんね…じゃ、そうさせていただきます」
ようやく水気が取れたか、タオルを肩へ落とす。その目許には先程の涙痕は微塵もなかった。
「…飲むか?」
端的過ぎる問いであったろう。しかしタカミはすぐに理解したらしく、笑って手を振った。
「折角ですが先ほどのミネラルウォーターの残りを頂きますよ。
僕としてはミサヲちゃん直伝の紅茶も非常に捨て難いんですが、今カフェイン入れちゃったらまず眠れそうにありません」
「そうか」
短く応いらえて、イサナはポットに残した紅茶を自分のカップに注いだ。紅茶の淹れ方をミサヲに習ったのは確かだが、判るものなのか、と場違いな感心をしてしまう。
それじゃぁ、とタカミがキッチンへ足を向ける。此処を定宿にして着替えさえ置いているマサキほどではないにしても、勝手はわかっているから場所を問いもしない。
飲み残したミネラルウォーターのボトルとグラスを持って戻ってきたタカミが、ソファに座を占める。
着替えに渡したフランネルのシャツはマサキのものだが、それでも肩が落ちているし、着丈は膝ほどもある。体格自体は以前とそれほど変わりがないようだが、歳相応というにはまだ微妙であるにしろ、随分と落ち着いて見えるようにはなった。
一応これでも所帯持ちなのだから、当然と言えば当然なのだろうが。
中身を半分ほど残したグラスを持ったまま、しばらく考えるように目を伏せていたタカミが、ぽつりと言った。
「聞こえちゃいました…よね」
それが、先刻の苦しい息の下での言葉であるとすぐに理解ってしまうのは…イサナの方にも、聞いてはいけないものを聞いてしまったような後ろめたさがあったからに違いなかった。タカミがグラスをあけて、深く息をする。
「白状しますよ。好きだったんです。そう…あの事故よりもずっと前から。…抱いて欲しいと思う程度には」
タカミがグラスを置いて零した台詞は、その内容に比してあまりにも恬淡としていたから…イサナは却って何も言えなかった。
ハドソンバレーでも…目の遣り場に苦慮するような場面がなかった訳ではない。ただ、心身ともに困じ果てていたタカミはともかくとして、マサキのほうは至ってあっさりとしたものだから、終いには気を遣うほうが莫迦ばかしくなった。ただ、イサナとしてはただ病み疲れた「片恋の忘れ形見」を憐れんで…ひたすらに猫可愛がりしていたようにしか見えていなかったのだ。
「出来の悪すぎる冗談」でショットグラスを投げられた経緯があるにしても、ようやく寝かしつけたタカミの頭にそっと手を置く時の…マサキの黒褐色の柔らかい眼差しは、揶揄を通り越して邪推のタネになるには十分だった。
憶測か、事実か。
だがそれを見透かすように、タカミがふっと表情を切り替えて笑った。
「誤解しないでくださいね。サキはすごく優しいけど、ものの理非は弁えたひとだから…そりゃ、パニクってるときに抱き締めたりはしてくれましたけど。
…僕が求めてた意味で、僕に触れてはくれなかったんですよ」
ボトルに残ったミネラルウォーターをグラスに注いで、最後の雫がグラスに落ちるのをどこか遠い瞳で見る。
「知ってて惚けてたのかもしれないし、本当に気づいてくれてなかったのかも知れない。…あのひとはわからないから」
律儀にも、一旦立ち上がって空いたボトルをキッチンのダストボックスまで持って行ってから、タカミはグラスに口を付けた。
「でも、ひとつだけ言えるのは…サキは正しかったってことですかね。…サキは抱いてくれない代わりに突き放しもしなかったけど、多分それは正しかった」
少し寂しげな微笑でグラスを置く。
「発作の回数が減ったのもそうだけど…結局サキの傍に居るのがつらくなって、僕はあそこを離れたんです。
あの頃の僕は、欲しがることしか出来なかったから」
「…今は、違うのか」
イサナの問いに、タカミは明らかにはっとしたようではあった。しかし、静かに瞑目した後でゆっくりと顔を上げて、いっそ誇らしげでさえある微笑を浮かべる。
「…だって、見つけちゃいましたし…”Femme Fatal”」
…リエに弄り倒された経緯が目に見えるようだった。
「言うようになったな、お前」
「リエさんにも言われましたよ。まったく、あなたといいリエさんといい…僕をいつまで経っても子供扱いして…
今だって僕は、サキのことが大好きですよ。あのわけわかんなさも含めてね。…あなただってそうでしょ。だから傍に居たい。…離れられない」
不意に、闊達な緑瞳が挑むような光を湛えてイサナを見た。
「僕はね、あなたのことも好きですよ。ミサヲちゃんも大好き。だから絶対、傷つけ合うようなことにはなって欲しくないんです」
「…何が言いたい?」
普段が穏やかなだけに、きつめの口調は挑みかかるようにも、逆に必死になっているようにも見えた。
こいつはこんなにわかりにくい奴だったろうか?
だが、タカミはイサナの反問には応えず、ふっと視線を逸らしてしまう。
「あー…やっぱりまだ、酔いが残ってますね。ごめんなさい、もう休みます」
タカミは目を擦る動作で目許を微妙に隠しながら、もう片方の手でグラスを持って立ち上がった。グラスの残りを呷りながらキッチンへ姿を消す。
「…置いておけ。後からまとめて洗う」
「すみませんね」
シンクにグラスを置いた音。キッチンから戻ってきたタカミは、一度肩へ落としていたタオルをまた頭から引っかけていた。
「申し訳ないんですけど、ひょっとしたらまた明日の朝、シャワー借りるかも…もう起きてられそうにないんだけど、このまま寝ちゃったら明日髪がすごいことになりそうで」
「別に構わんが…」
「ありがとうございます。じゃ、おやすみなさい」
「…ああ」
「それとね、イサナ…」
タカミは髪を拭いながら、笑いを含んだ声で言った。
「酔っ払いの寝言なんか…真に受けちゃ駄目ですよ?」
***
あんなにわかりにくい奴だったろうか。
タカミは晦ますような微笑を残して、予備の寝室へ引っ込んだ。眠かったのは本当なのだろう。あれからことりとも音がしない。
イサナが最後の紅茶にブランデーを落としたのは、このまま眠るのが難しそうだったからだ。
挑むようにも、逆に必死なようにも見えるあの眼差しは…別の記憶の中にもある。
『…あなたのことは嫌いじゃないわ。だから、兄さんの傍にいる口実に私が必要なら、それでも構わない。その代わり、どんな形でも兄さんを裏切ったら、私はあなたを赦さない』
あの時、黒褐色の双眸は怖ろしいほど真っ直ぐにイサナを射た。
それは危うい均衡を担保するために成立した契約。彼女にとっては純然たる契約なのかも知れないが、イサナにとっては何処までが契約で、どこからが口実、ないし言い訳なのか…今でもはかりかねている。
どちらに惹かれているのか、と問われれば…両方、という狡い答えがイサナの胸中で蜷局を巻いていた。あるいはマサキの掌で踊らされているという可能性も排除できないのに、それでも構わないという居直りと同居している。
タカミは何かを知っている、というひどく漠然とした確信があった。
「契約」はミサヲとイサナの間のことだ。イサナは勿論、誰にも言ったことはないし…ミサヲが誰かに言ったとも考えにくい。では何だ。
挑むようにも、必死になって何かを守ろうとするようにも…。
…考えても益のないことに時間を費やすのはイサナのやり方ではない。だから少し冷めかけた紅茶にブランデーで香気を補って胃の腑に落とし込むと、イサナは自身も休むためにソファを立った。
***
「おい、荷物が来たぞ」
「…はい?」
朝、他家を訪問するにはまだ非常識な時間。遠慮なく鳴ったチャイムに、イサナが朝食の席を立ち上がりもせずにそう言ったものだから、タカミはマグカップを持ったまま動作を止めてしまう。
「えーと、荷物って僕のですか?今更なんですが僕、こういう格好で…」
「まさに今更だな。面倒な奴だ」
「誠にあいすみません。こういう事態は想定してなくて」
仕方なくイサナが立ち上がってエントランスへ向かう。扉を開けると、日焼けした金褐色の髪を踊らせて、タカヒロが立っていた。
「ちわーっ!リエ姉の言いつけで荷物お届けにきましたーっ!」
「声がでかい。今何時だと思ってる」
「はいごめんよ。んじゃとりあえず入れて入れて♪ちょっち寒いよ今朝ぁ~」
そう言いながら引っ張ってきたスーツケースといっしょに既にエントランスに滑り込んでいる。
家主の許可も何もあったものではない。ただ、宿に置いていたタカミの荷物をリエの責任範囲と言い置いたのはイサナだったから、使いに立っただけのタカヒロにそう突慳貪にもできない。
「…まあ、お前も巻き込まれて災難だったな。コーヒーぐらい飲ませてやるから上がっていけ」
「ありがとさん♪イサナだったらきっとそー言ってくれると思ってた。ついでにトーストの一枚もつけてくれると、なお嬉しいなぁ」
「…えらく調子がいいと思ったら朝食をたかりに来たか。勝手に焼け」
タカヒロの本業は声楽なのだが、イサナの渋面に殆ど怯まず、リエの突拍子もない命令に飄々と応じることの出来る貴重な人材として、事務所では重宝がられている。今日も今日とて、リエに力仕事を押しつけられたものらしい。決して巨漢でもないし飛び抜けた剛力というわけでもないが、トレーニング2と称していつもくるくると動き回るので、つい力仕事系の雑用に呼ばれるコトが多いのだった。
「やほー! タカミ久しぶりー。荷物ここに置くよ?」
「うわぁごめんねタカヒロ、朝早くからありがとう。トースト何枚?目玉焼き、つけようか?」
「タカミ、お前な…」
イサナが起きた時、タカミは既に起きて予想どおり強固な寝癖のついてしまった髪をシャワーで直した後であった。昨夜のフラッシュバックのことなどまるでなかったようであったのは一安心としても、すっかり台所を占拠して朝食を調えていたのには少々呆れた。今もてきぱきとタカヒロの分のトーストをセットし、エッグパンに卵を割り入れると、予備のマグカップを持ってテーブルに戻りサーバーからコーヒーを注いでいる。…どれだけ順応性があるのだか。
「いやいやどーいたしまして」
温かいコーヒーを一口含んで、タカヒロが一息つく。そうしてやおら興味深々といったふうに身を乗り出すと、すこし声を低めて訊いた。
「なーなータカミ、昨夜リエ姉に一服盛られた挙句イサナにお持ち帰りされたってホント? 大丈夫?喰われてない?…ってかその格好、ひょっとして手遅れ?」
いくら声を低めても、元の声量が結構なレベルだから通常の会話と変わりない。これにはさすがにタカミが吹いた。
「タっ…タカヒロってば、所帯持ち掴まえて不穏な冗談やめてくれる!? 離婚訴訟になったらどーしてくれるの。ちょっとイサナ、笑ってないでなんとか言ってくださいよ」
なんとか言えといわれても、この場合何を言えというのか。昨夜はある意味それよりも不穏な話を聞かされた気がするのは気の所為か?
「…そうだな、弁護士の立場から言えば…なるべくなら訴訟になるまえに調停でコトをおさめる方を勧めるぞ。訴訟だと法定離婚事由の存在を詮議されるからな」
「…イサナ、論点が間違ってます…」
タカミがこめかみを押さえてテーブルに突っ伏した。タカヒロが腹を抱えて笑いこける。
いつも静かなこの部屋にしては、些か騒がしいにしても至って平穏な朝の光景。
イサナはその光景を漫然と眺めながら、昨夜の話はとりあえず聞かなかったことにする…というのが一番穏当であるような気がしていた。
…忘れることは、出来そうにないが。
――――――――Fin――――――――
Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「Sweet Eden Ⅳ」
「醜聞 ~after “Femme Fatal”」についてのApology…
やっぱり書きやすいのは…(自粛)
のーまるかっぷりんぐに挑戦だ!とぶち上げておいて既に挫折しかかってる万夏です。はい、認めます。難しいですノーマルカップリング。何でと言われても困りますが。…だもんでやっぱり寄り道。
お話としては「Femme Fatal」の直後。イサナsideでまさにタカヒロ君曰く「リエ姉に一服盛られてイサナにお持ち帰りされた」タカミ君の過去話です。このシリーズ(「I Wish~」版裏話)でなかったら間違いなくタカミ君、本当にイサナに喰われてます…が、此処は一応自粛。これで自粛してるつもりかと大家に張り倒されそうですが一応書いた本人そのつもり。
あえて「~after ”Femme Fatal”」と付けたのは、前の話がないと全く訳わかんないお話になってしまうなぁ、という反省の現れです。一応。(てめぇの話が訳わかるモノだった例があるか!というツッコミを受けそうだ…)
「天井裏」ないし「夏服 最後の日」の世界線ではタカミ君、ひたすら状況に流されてサキに喰われてましたが、このシリーズではかくのごとし。「欲しがることしか出来なかった」タカミ君は「恋してたかもしれないけど、愛していたわけじゃない」という結論に落ち着いたものと思われます。でもって、このお話の時点でもう既婚者です。あ、ここは「Femme Fatal」でも触れてますね。
さだまさしさんの「恋愛症候群」とゆー曲をご存じのかたはおられましょうか?
相手に求め続けてゆくものが恋 奪うのが恋/
与え続けていくものが愛 変わらぬ愛/
だからありったけの想いを/
あなたに投げ続けられたらそれだけでいい/
あなたに出会えて 心から しあわせ です
前半は笑わずに聴くことあたわざる名曲ですが、万夏はここのフレーズが大好きです。ま、このシリーズのお約束としてタカミ君が「ありったけの想いを投げ続ける」相手はリツコさん。決して報われない、求めるだけの恋に疲れた傷心抱えて日本に戻って、いきなり出会ったのが運命の女…とか、どんだけ恵まれてんだこいつ、というお話ではありますね。いーじゃないですか、他では大変な目に遭ってるんですから。はっはっは。
イサナ君視点でのお話ではありますが、今回狂言回しに徹していただきました。タカミ君の抱えてる「秘密」の存在をなんとなく感じながら、ひょっとして自分が触れるべきでない部分かも知れないと微妙に二の足を踏んでる。うわ、らしくないな!?
NC話というだけでも難産確定なのに結論が判っていながら着地点が見えない話、というのもなかなかハードルが高うございます。が、不肖万夏、頑張ります♪
例によってタイトル「醜聞」は池田聡さん。アルバム「Saturday 11:30 a.m.」よりいただきました。
今回の話と全く繋がってませんが、これはこれで非常にそそります。
最近やけにキレイになった彼女は、実は他の恋人が出来たんじゃないか…と疑ってしまう心理は本来なら別ネタで書きたいくらい。うーん、だとすると役者は誰かな♪イサナ君とミサヲちゃんで書けたら…なぞと妄想してみるのですが…挫折するのが目に見えとるな(笑)…だもんで今回はただ笑い話で終わっちゃうタカミ君の醜聞です。深読みしようとすればいくらでも深読みできちゃうというオマケ付きですが(笑)
全く思いつきで出てきていただいた声楽家のタカヒロ君。どんなもの歌ってるか全く想像がつかないです(笑)音域としてはソプラニスタとかカウンターテナーであることは間違いなさそうですが。…とすると、バリトンのタケル君とユニットだったりして。雑伎団ばりの曲芸しながら歌ってそうですな。
それでは皆様、次回まで万夏が正気でいたら・・・・・いや、何も申しますまい・・・・・・(^^;
2019/3/1
暁乃家万夏 拝