私たちの天使セラフィンは、あまりにも早く地上から翔け去ってしまった。

 楽園エデンは喪われたのだ。


Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS
「Sweet Eden Ⅱ」

沈黙 

―Dance with me tonight-


 心を落ち着けるために座ったはずなのに、ピアノに映る泣きそうな自分の顔を見てしまい…高階ミサヲは居たたまれずに瞼を閉ざした。
 そのまま、鍵盤キィに触れる。
 落ち込んだ気分の時、無理矢理にアップテンポの曲でメンタルを引き揚げようとしても決して巧くいかない。だから、ゆっくりと弾き始めたのはベートーヴェンの「月光」だった。
 旋律と和音に心を載せる。
 全くの目隠しで弾くのは難しい。だが今は、聴覚以外の全てを締め出したかった。
 何度か主題を繰り返して、ようやく眼をあける。あとは、指が憶えている曲を立て続けに数曲。零れそうになった涙をようやく振り払ったとき、ピアノに映り込んだシルエットに気づく。
 手を止めたが、ミサヲは振り返らない。
「…来てたの」
「ノックはしたんだが」
「構わないわ。練習レッスンしてたわけじゃないもの」
 そう言って、再び鍵盤に指先を降ろす。気が向くままの数曲を、その男は黙したまま…ただ聴いていた。

 鯨吉ときよしイサナ。ただでさえ少し灯を抑えめにした部屋の、光の届きにくい扉の傍に立つ、均整のとれた長身。常に濡れているかのような艶を持つ黒髪。切れ長の両眼の奥の眸は、この光量だと紫を帯びて見える。道を歩けば女の7割は振り返るであろう美貌だが、普段は容易に他者を寄せ付けない雰囲気を纏っていた。
…この屋敷に居るときは別だが。
 次にミサヲが指を止めたのは、ショパン「英雄ポロネーズ」の途中…自身の音にごく自然に寄り添った低音部が聞こえたからだった。確かに軽く目を閉じてはいたのだが、数小節を全く気づかずに一緒に弾いていたことに少なからず驚く。
鍵盤上に置かれたままの長く強靱な指が視界に入った。床には絨毯が敷かれているとはいえ、どうすればここまで音を立てずに歩けるのか。
顔を上げると、彼はすぐ傍に立っていた。
「…邪魔か?」
「別に…」
 ミサヲは軽く俯くと、椅子から少しだけ腰を浮かせて、右へ寄った。
当然のようにその隣へ滑り込む彼の所作を視界の隅で捉える。近くなった紫瞳をほんの僅か見上げて…それ以上何も言わずに鍵盤へ指を置く。
「序奏から?」
「ええ」
 序奏部16小節。堂々たる4度の連続。
 それを皮切りに全曲にわたって芯のある音が要求される。力の配分を間違えると、とても保たない。
 7分少々の曲だがフルで弾けば達成感と共に相応の疲労が来る。
弾き終えた後、ミサヲは知らず…少し長い吐息をついていた。
暫く弾いていなかった割にペースが崩れなかったのは、低音部の支えが効いていた所為だ。それは理解る。…でもそれが、訳もなく口惜しい。
「日本へは…子供たちを迎えに行ったと聞いていたが」
「そのつもりだったんだけど…」
 口を開けば声が揺れてしまいそうだったのが、かなり持ち直している。だが、代わりに触れている肩が妙に熱くて、椅子を離れた。
ゆっくりと窓辺に寄って、窓を開ける。夏も終わりの夜風は既に涼しいというよりやや冷たい。だが、今はその冷たさが丁度良かった。
「可哀想なセラ…あんな可愛い子達を置いて逝かなきゃならなかったなんて。
 カヲル君はともかく、引き取ってた女の子…レイちゃんって言ったっけ…家を離れたくないみたいでね。無理もないけど…だから暫く、私が日本へ行ってあの子達の世話をするわ。だから今日は、そのための荷物を取りに帰ってきただけよ。明後日にはまた出発する」
 窓の外に顔を向けたまま、言った。
「…長くなるのか?」
 抑制が効いた声の、幽かな感情の揺らめきを捉えて…ミサヲは苦笑する。
「…あの子達を今の…あんな状態のタカミに会わせるわけにはいかないでしょう。タカミのことは兄さんに任せるから、行くのは私だけよ」
 くるりと身を翻し、窓枠に背中を預けてイサナに向き直った。
「…安心した?」
「ミサヲ…」
 傲岸不遜な造作が、困惑に曇るのをたっぷりと楽しんでから…もう一度窓の外に目を向けた。繊細なヴァイオリンの音を、夜風が幽かに運んでくるのを聴く。だがそれは、E線がはぜた音で遮られた。
「あー…また切れたわね。兄さんってば…弦の替えはあっても自分の指は替えが効かないって判ってるのかしら。
 …判ってても、他にどうしようもないんだけど…ね」
 この夏、大切な友人が死んだ。飛行機事故だった。最愛の夫と共に、天使セラフィンはあまりにも早くこの地上から翔け去ってしまった。
同じ便に乗っていたセラフィンの弟は、奇跡的に軽傷で済んだが全く声が出せない状態に陥り、今もこの屋敷で療養している。目端が利き、年齢の割には落ち着いた印象があっただけに、その憔悴ぶりは目を覆うばかりであった。
 時々フラッシュバックに見舞われるらしく、薬でコントロールを試みている。ただし、その薬も故意か過失か判断し難い過用から一時的な昏睡に陥ったりと、上手くいっているとは言い難かった。
 今のところ唯一効果が認められるのが、兄のヴァイオリンだった…。
あの子タカミが生きててくれただけで、私たちには随分な救いだったっていうのに…タカミがあのままゆるゆると生命をすり減らしていったんじゃあ、セラ達が浮かばれないわよ。
 …だからイサナ、私の留守中…兄さんに余計なちょっかい出さないでね。兄さん、今タカミのことで手一杯だから」
 できる限りさばさばと、ミサヲはそれだけ一気に言ってしまった。
「…君に暫く逢えないことが寂しいのだとは…思ってくれない訳だな」
苦笑とともに紡がれた台詞を、ミサヲは笑い飛ばした。
「…残念ながら、私はそこまで自惚れの強い方じゃないのよ。あなたと違ってね。
 あなたはサキ法科大学院ロー・スクールでの親しい友人で、だからここにも出入り自由。それだけ」
「出入り自由ね…。さすがにこんな夜中、アポイントなしでも入れて貰えるのは…俺が君のお眼鏡にかなったと…君の兄上アーネストが認識してるからだと思うがな」
「あなたの音が気に入っただけよ。あなたを気に入ったわけじゃないわ」
「…なかなか手厳しい」
 突き放すように言っても、怯んでいるのは言葉面だけだ。
「帰れとは言わないわよ。でも兄さんに用があったんなら明日の朝にしてあげて。泊まるならいつもの客間へどうぞ。私ももう休むわ。
 日本へ行く前に諸々済ませておかなければならないことがあるから、明日は早いの。…おやすみなさい、イサナ」
 そう言って、足早に部屋を横切る。だが、ピアノの傍を通り過ぎようとしたとき、その腕が捉えられた。
「ちょっと、イサ…!」
 動作を止められたミサヲのつり上がった声が、途切れる。
捉えたのはその強靱な腕か。それとも、鮮烈な紫瞳か。ミサヲが奪われてしまった言葉を探しているうちに、捉えられた手はくるりと返され…その手背に薄い唇が触れた。
 ――――Shall we dance?
 そう請われたような、荘重だが流麗な所作。
「…おやすみ」
 顔を上げた時、そう言った口許が微笑っているようで、微妙に腹が立つ。
捉えたときの強引さとは裏腹に、引き留めるでなく、かといって急ぐでもなく…ごく自然に解放はなされる。
 引いたその手を握り締めて、ミサヲはやや性急に身を翻した。
「…おやすみなさい」


 これではまるで逃げているようだ。そう思うと、悔しさにも似たものに胸を咬まれたが、それ以上何も言わずにミサヲは部屋を後にした。

―――――Fin


Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「Sweet Eden Ⅱ」

沈黙」についてのApology


 はじめちゃいました。

 大家が「I wish~」シリーズのミサヲちゃんはイサナ君とこっそりいい仲、などとゆー裏設定(表で堂々と言っちゃってる以上、裏じゃありませんね)をぶちあげたもんだから、来ちゃいましたよリクエスト。イサナ君×ミサヲちゃん。裏では多分初めてのノーマルカップリング話。(※カヲル君×レイちゃんはうちのベースでありながら、実は今まで単品にしたことはない…(笑))

弁護士イサナ君のBでLな話、というお声もあったのですが、それは次話以降に譲ることにします(爆)(嘘ですごめんなさい。だって大家が「I wish~」シリーズはBL不可ってゆーから…)

 さて! …えーと、ごめんなさい(爆)とりあえず謝っておきます。
カヲル君の両親とタカミ君が飛行機事故に遭い、ご両親は他界、タカミ君は療養中というお話。どうしよう、今んとこヤマないしオチないし意味もない(汗)一話まるまる前振りだ!どうしよう!
…とりあえず、可及的速やかに第2話をアップします。わたわた。

 タイトル「沈黙-Dance with me tonight-」は池田さんの「WHY DO YOU WEEP ?」から。本当はもっとしっとりしたラヴソングなのですが、今回ミサヲちゃんsideなお話ですもんで姫様の性格が災いして何か妙な緊張感(笑)

  それでは皆様、次回まで万夏が正気でいたら・・・・・いや、何も申しますまい・・・・・・(^^;

2018/12/18

暁乃家万夏 拝