半分のあかりは 星座と戯れ

地上に堕ちた 月の影


Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS 
「NO APOLOGY Ⅳ」
Moon Shadow

 ふと、目を覚ました。
 カヲルは身を横たえたままゆっくりと眼を開ける。カーテンを開けたままの窓からは半分の月が覗いていた。開け放たれた窓から滑り込む潮騒、そして潮の匂い。
 同じような光景の、同じような目覚めを経験したことがある。
 しかし、いつかのような…胸を締め上げるかのような苦しさとは無縁だった。柔らかな月の光。潮の匂いも、その音も。それらは眠りを誘うほどに心地好く、何故目を覚ましてしまったのか不思議でさえあった。
 ふと、喉の渇きを覚えて身を起こす。灼けつくようなとは言わないが、目を覚ましてしまった理由としては腑に落ちるものであったから…カヲルはゆっくりと立ち上がって、廊下へ出た。

***

 吹き抜けをぐるりと廻る廊下も、その下のリビングも、今は蛍火のような足下灯が要所々々でひっそりと点いているだけだ。徹夜を辞さない勢いのガールズトークもさすがにやんで、コテージに静謐が降りている。わずかに開けてある吹き抜けの高窓から、虫の音ばかりがかまびすしい。
 灯の落ちたダイニングの引戸を開ける。滑りがよいので殆ど音はしない。
 キッチンの一隅には業務用と紛うばかりの冷蔵庫が鎮座している。今ここに居る人数からすれば大きすぎるほどだが、全員がここで数日を過ごしたら、これでも物足りないのかも知れない。
 その冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターを一本出して、封を切った。一本飲み尽くすほど渇いていた訳でもないので、まだ半分以上残っているボトルを手にしたままダイニングを出る。
 部屋に戻る途中の階段でかすかな物音に足を止めたのは、一緒に耳に届いた声ともいえない声が…苦鳴のようにも聞こえたからだ。
 しかし、完全には閉まっていなかったその部屋のドアを押し開けた時、カヲルは自分の勘違いに気づいて苦笑した。部屋の主に気づかれなければそのままドアを戻すという選択肢もあったのだろうが…目が合ってしまっては、かえってそれもできないものだ。
 カヲルは部屋へ入って、後ろ手にドアを閉めた。
「イサナにしては…ちょっと迂闊じゃない?」
 ベッドは2台とも部屋の奥側へ寄った位置にある。半分ほど引かれたカーテンの隙間から月光が差し込み、片方のベッドを白々と照らす。きっちりとベッドメイクされたままの、隈のないシーツが月を受けて淡い光を室内へ投げていた。
 その淡い光も届かぬ薄闇の中。ベッドの上で半身を起こしている部屋の主に、カヲルはそう声をかけた。
 常はただ深く、色彩も判然としない双眸が、薄闇の中では紫の鋭い光を放つ。服を着ている時には然程にもないが、浅黒く灼けた頚から肩の線は精悍さが際立つ。宵闇の中に半身を溶かした姿は、猫科の大型肉食獣を思わせる佇まいであった。
 元々動作に隙は無いのだが、日中の…書棚の間に座して重厚な書籍のページを捲っている姿とは、控えめに言っても繋がりにくい。
「…ああ、扉か。開いていたな」
 事も無げに言い、イサナはナイトテーブルの上のロックグラスを取った。からりと音がして、グラスの中で氷が踊る。ナイトテーブルの上には、グレーのスモークガラスのボトルが鎮座していた。…炎を近づければ、火柱が上がる度数の蒸留酒ボルス・ジェネヴァ。ゆっくりと一口、丁寧に味わう。
「驚かせたなら謝ろう。…だが、お前は別段動じてないように見えるが」
 そう言って、薄く笑む。グラスを置いて、自身の傍らにわだかまる、つやのよい栗色の髪に触れた。
 シーツから覗く白い肩は、まだ戻りきらない呼吸のために幾分早い起伏を繰り返している。イサナが乱れた髪をかきやると、桜色に上気した頬が現れた。その僅かな刺激にさえ一瞬呼吸を詰め…タカミはかすかに掠れた声を上げる。自分カヲルと似ていると言われるその声の、常にない艶に思わずゾクリとした。
 その感覚を黙殺して、カヲルはベッドの端に腰掛け…ミネラルウォーターを呷る。
「別に、何も驚いちゃいないけど」
 ベッドに伏せたままのタカミは、目を開けているとも閉じているともつかない。かすかに肩とかさついた唇を震わせながら、荒い呼吸が収まるのを待っている風情である。カヲルが目の前に座ったのにも、おそらく気づいていまい。
「こんなにして…ずいぶんひどい目にあったみたいだ」
 くすりと笑って、まだ上気した顎に手を掛ける。それは、ほんの悪戯心だった。荒れた呼吸でかさついた唇を指先で撫で、ミネラルウォーターを一口含んでから唇を重ねる。開き加減の唇と歯列を舌先で割り、ミネラルウォーターを流し込む。あえかな呻きを聞いた気もしたが、流し込んだ水を飲み下す音を、カヲルは聞いた。
 まだ巧く力が入らない指先でカヲルのシャツの袖を掴んだが、目覚めた訳ではないようだった。カヲルが離れかけたとき、かすかに舌先で応えるふうさえみせたから、カヲルのほうが少し慌てて身体を離す。立ち上がって反対側のベッドに座を移すと、揺り起こされた熱を鎮めるようにもう一度ペットボトルの中身を呷った。
「…醒めてないの、これで? 一服盛った訳じゃなくて?」
「さてな、よく判らん」
 イサナの答えは大抵素っ気ない。グラスの中身を継ぎ足しながら、いつものように端的に返す。
「『余計なコトを考えすぎて夜更かししてるようなら、丁寧に抱き潰して・・・・・・・・おけ』と言われたのでな。そのようにしてるだけだ。何も盛ってない。…あぁ、寝酒程度に軽く舐めさせはしたが」
 そう言って、揺らしたグラスに視線を落とした。流石にカヲルが顔を顰める。タカミはそれほど酒に強くない。こんなもの、一口含んでも昏倒するに決まっている。それでも、イサナにしてみれば特段、一服盛ったという意識はないのだろう。そこに他意はないから叱言こごともしにくい。
 酔い潰したのか、抱き潰したのかといえば…間違いなく後者だろうが、何もここまで、というくらいひどい有様である。おまけに、イサナのほうは呼吸を乱すどころか汗をかいてすらいない。いつもよりわずかに血色がよいのにしたところで、酒の所為と言ってしまえばそれまでだ。
「丁寧にって…本当に額面通りなんだから…」
 誰に言われたかは、訊かなくても判っている。目下の処、自らの所在すら知らせず…何やら暗躍している後見人マサキだろう。
「言っておくが、現在いまに始まった話じゃないからな。こいつが能力のコントロールを失い始めた頃は、本当に一服盛ってたんだが…」
 タカミがまだアベルという名で呼ばれていた頃。本来の感応系能力と、『仮面』の時空を越えた認識能力に振り回されてパニック状態に陥り、最終的には冬眠に近い状態で眠らせるしかなかった事情については、カヲルも大体の処は知っている。薬物を使って沈静させるのも一手段であっただろうが、ループする思考を圧倒的な感覚入力で飽和させ、堰き止めるというやり方もある程度は仕方なかったに違いない。
 おそらく、ネフィリムとしての身体能力が早急に薬物を代謝してしまい、高価な割に効力が保たない所為もあっただろう。
「それは、知ってるけど…」
 眠らせるしかなかった『アベル』ではなく、『タカミ』として覚醒した後は『仮面』の制御もできている。感応? ?能力の方も、むしろ抑制が効きすぎて多少鈍いくらいだ。それが、逢いたかったひとに出会えて、微妙な距離ではあるが傍に居ることが出来るようになった所為であることも…カヲルは知っていた。
「そんなに危険な状態とは思わなかったけどな」
「そのようだ」
「…え?」
 端的な返事に、カヲルが思わず固まってしまう。
「明らかに自分に関わることなのに、動くなと言われて多少落ち込んではいるようだが…まだよく制御できてる。頚の傷のこともあったから、何かに引っ張られてるのかとも思ったんだが、その痕跡までは追えなかった。…まあ、いますぐどうこうなりはせんだろう」
 そこまで言って、カヲルのやや批難がましい視線に気づいたのかどうか…少し考えるふうにグラスに口を付けた。しかし、沈思黙考した割に回答はにべもない。
「俺はお前やサキのように軽く接触しただけで読める・・・訳じゃない。おまけに随分こいつもガードが硬くなって、簡単に読ませないんだ。面倒だが仕方ないな」
 仕方ないでここまで追い込むのか。壊れる一歩手前じゃないか…そんな台詞が喉元まで出かかっていたが、辛うじて呑み込んだ。
 手段にかなり問題はあるにしても、イサナが至って真面目に心配していることは理解っていたから、タカミのほうもまともに抗ったりはしなかったのだろう。…もっとも、本気で抗ったところでどうにもならなかっただろうが。
「ちょっと可哀相じゃない? 『アベル』だった頃はどうだか知らないけど、今は想うひとだって居るんだから。…それに」
 先程の悪戯を完全に棚に上げているカヲルを敢えてあげつらうことはせず、イサナはただ薄く笑った。
「『それに…自分とは違う・・・・・・』、か?」
 カヲルがさすがにまじまじとイサナを見た。
「…イサナが読んだ、訳じゃないよね」
「俺のは、いくつかの状況からの推論。…タカミは昏睡してるお前を引き戻すためにかなり頻回に能力を行使してたからな。その後のあれの反応を見てたら、何を読み取ってしまったのかはわりと分かり易い。どう思っていたかもな。
 …あの男、加持といったか? 確かにゼーレと渡り合うために必要な駒ではあっただろうが…確かにこいつタカミではお前ほど上手に割り切れんだろうな」
「イサナ!」
 思わず遮る。そうだった。イサナは感応系能力者だが、その方向性は物質の状態・性質の把握に傾き、他者の感情や思考といったものには本来疎い。その代わり、ネフィリムとしての能力とは無縁のところで周囲の状況をよく見ていて、しかもかなり正確に把握している。…油断も隙も無い。
 イサナの面白がるようなまなざしを、カヲルは眼を閉じることで遮った。
「…もう、終わったことだよ」
 カヲルはかつて、ゼーレと取引をした。独走を始めた人工進化研究所の思惑をカヲルが自ら探る代わりに、ゼーレに当面の行動の自由を確保させる。ゼーレと、人工進化研究所と、両方を一度に相手にすることは不可能だと判断したカヲルの極限の選択の結果。
 加持リョウジはかつてのゼーレの代理人。ゼーレの命令でレイとカヲルを捜索していた彼を、カヲルは取引のための協力者として選んだ。彼とて元々はゼーレを探っていて抜き差しならなくなり、利用される身の上だ。相応の代償があれば多少の危険は冒すだろうと踏んでいた。…ただ、代償としてカヲルに提示できるものは、あの時点で自身の身体しかなかったというだけの話だ。
 ゼーレとの契約が破綻すれば、用のない相手。そのつもりでいたし、そう扱ってきた。…ただ、自身を与えることで契約が成立するなら。それでレイをゼーレに渡さずに済むのなら。その為なら何でも出来る。自分なんかどうなったって構わなかったから。
 優しくはなかった。あたたかくもなかった。ただ、心身を蚕食し続ける苦痛と、刹那の快楽。それさえも、行為が終わってしまえば空虚と自責に取って代わる。
   タカミは口を緘しているが、加持に対するタカミの態度が少なからず硬いのは…間違いなくその記憶に触れた所為だ。
 人の好いタカミの心痛の理由が手に取るように理解る。だが、間違っているのだ。加持だけを責めるのは。
 カヲル自身、刹那の快楽に縋っていた。…今ならそれを認めることが出来る。
 優しくもあたたかくもなく、胸腔に霜が降りるような空しさだけが残るのに、いつも拒めなかった。
 レイを失うことが怖くて、レイの笑みが損なわれることが怖くて、全てを背負おうとした。誰かに頼るという選択肢を思いつけなくて、刹那の快楽さえ厭わしかった。そしてその感情を、加持にぶつけていた。
「…そんなに考え込むな。責めたつもりはない」
 イサナの言葉に、自分が宙を見つめたまま沈黙してしまっていたことに気づく。
「すまない、俺はどうやら少し読み違えていたようだな。…そう簡単に割り切れるものでもないか」
「…謝ってもらう必要は無いよ。…僕にも、よくわからない、あのひとのことは」
 タカミは、加持が償う機会を欲していると言っていた。だが、償わなければならないとしたら、自分もだろう。どうしたらいいのか、全く見当もつかないが…。
「…イサナ、それ、僕にもくれる?」
 それがグラスの中身ボルス・ジェネヴァを指していると気づくと、イサナはわずかに眉をしかめた。
「サキやこいつタカミがお前は年齢相応に扱えとやかましいからな。…未成年は不可」
「…吝嗇けち
「ついでに言うと、困惑や不安を拗伏ねじふせるためにこんなものを呑むな。悪酔いするし、なにより勿体無い」
「…一々、言うことが痛いよね。イサナって」
「よく説教臭いと言われる」
「ごもっとも」
 皮肉が皮肉にならないのでは、言うだけ無駄である。
「…じゃ、僕は退散するよ」
「そのほうがいいだろうな」
 グラスに口を付けてから、ふと傍らを見遣ってそう言った。細い吐息とともに少し身動みじろぎした所為か、シーツが白い肩から滑り落ちていたのをそっと掛け直す。
「何、邪魔なの?」
 少し揶揄からかってみたつもりだったが、返答は至って真面目だった。
「俺は別に何とも思わんが、こいつタカミこの格好・・・・をよりによってお前に見られたと知ったら…後が面倒臭いぞ」
 今更のことだから言われるまで気にも掛けなかったが、確かにかなり面倒にはちがいない。露見ばれて いないと本人タカミだけが思っているあたりが既に度し難いほどに暢気なのだが、こればかりは気質だから矯正が効かない。もはや何も言い返せなくて、カヲルはベッドから立ち上がった。
「…おやすみ」
 部屋を出て、扉を閉めてから、ふと気づく。…そもそもイサナが扉を閉め忘れてたくせに。
 訳もなく可笑しくて、低い笑声を洩らす。
 吹き抜けの天窓から、月が覗いていた。
 最近、月の光に息苦しさを感じなくなった。かつては、水の中にいるような気がして呼吸いきが詰まっていたのに。
 多分…ジオフロントから戻ってからだ。
 自分一人でレイを護ろうとして、果たせず、レイを散々悲しませて、心配させて…。しかしそこから帰ってこられたのも、結局自分の力ではなかった。
 今ではわかっている。自分がひとりではなにもできないことくらい。…ただ、それをもう少し早く理解出来たら良かったのかも知れない。

 ―――――そうすれば、傷つけずに済んだひとがいた。


――――――――Fin――――――――

Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「NO APOLOGY Ⅳ」

「Moon Shadow」に関するAPOLOGY…..

裏なら裏らしく裏書きましょう ふたたび

 大家(千柳亭春宵)が「すべて世は~」の続編で七転八倒してる間にこっそりを先に書いちまいました。わっはっは。裏なら裏らしく裏書きましょうってことで、「すべて世は~」の続編「楽園に寧日なし」の裏SSです。時間的にはScene 3 Stormy Heavenあたりになりましょうか。お客さんご一行はまだ到着前のあたりですね。
 英文タイトル(いつの間にこんな偉そうなものをつけることになったんでしょう)を読んでいただければわかりますが、一応「NO APOLOGY」の4話目という位置づけです。だから本来は加持×カヲルなお話の筈なのに、何をトチ狂ったかと…あ、いつものことですね。いつものことと言えば、「Moon Shadow」はやっぱり池田さんの曲です。あんまり関係なくなっちゃいましたけど。
 ジオフロントから生還したカヲル君は妙に達観してしまいました。そのうえレイちゃんは傍に居て、おまけに甘やかしてくれる身内もワンサカいて、…しまった、付け入る隙が全く無いじゃないか! しかし、万夏としても加持さんっていい男だと思うし(どうにも浮気相手にしかならないというところがネックだけど)、カヲル君から一方的に捨てられた格好で放置というのはどうにも気の毒なので、なんとか締めくくりたいとじたばたしたのがこのお話です。

だから加持×カヲルなんだってば、本来。

 そんでもって、「楽園―」のScene 4 Moving My Heartあたりに繋がってくわけです。…繋がったかな?繋がったことにしとこう。
 なんだか随分な役回りになってしまったイサナ君。…大家がイサナ君のヴィジュアルを「小田切さん!」と言い切ったので、早速準拠。成程、だから紫瞳パープルアイって設定がくっついたのですね。何て安直な(<ご存知の方だけ笑ってください)。でも性格なかみはボスの頭痛の種になりそうなことを丁寧に潰して廻るよくできたNo.2。ただし多少手段に問題あり。「楽園―」で奇矯な癖が追加されましたが、『良質のお酒を少量ずつ美味しく味わう』というのがポリシーの御仁のようですので、ここではボルス・ジェネヴァなぞ呑んで貰いました。オランダの有名な強いジンで、瓶が素敵です。味?万夏に訊いちゃ駄目ですってば。
 今回、「丁寧に」抱き潰されてしまった後だったもんだから一言も発してないタカミ君。お気の毒様。ストーリィが平和な海辺のバカンスの間、昼間っからコテージの中で本ばっかり読んでたのはきっとこーゆうが(爆)。夜まともに寝かせて貰えないから日中にうとうとしてたり(笑)頚の傷をミサトさんに冷やかされて慌ててたのも多分に身に憶えがあった所為に違いない。
 タカミ君を寝かしつけるのなんて基本サキの仕事だったんでしょうが、今回暗躍中で不在。だからリエさん曰く「イサナは忙しいの!」という次第(笑)タカヒロ君とばっちり。さあ、今回一番気の毒なのはだーれだ?(うわ、大家に扼殺されそーだ)

 それでは皆様、次回まで万夏が正気でいたら・・・・・いや、何も申しますまい・・・・・・(^^;






2017.11.5

暁乃家 万夏 拝