『僕は人形じゃない』


Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS 
「NO APOLOGYⅡ」

十六夜


生温なまぬるい水の中にたゆたう―――――――――。
 だが、異様な感覚に意識はゆっくりと引き揚げられた。
 四肢をそれぞれ別の誰かに捉えられている。誰か・・・・何か・・・・。
 目を開けて、それらがすべて自分と同じ顔をしていることに慄然とする。
 飲んだ息は生温い水。咳込むこともないのが不思議。

 右腕を捉えたそれが、彼の手の甲へ恭しげに接吻くちづける。そのまま唇を指先へ滑らせ、その指を含んだ。
 彼がひくり、と背を撓らせたのは、鋭敏な指先にもたらされた感覚の所為ではない。別のひとりが、脇腹を撫でていた手を不意に溯行させたからだ。
 紅点に触れられ、首筋に唇の感触。
 水の中であることに、動きを封じられていた。
 身体を反らせたはずみで、僅かな気泡が彼の唇から離れて昇ってゆく。
 だが彼ら・・は何を躊躇うでなく、指先を進めてくる。
 逃げることも、声も出すこともできず、ただ与えられる感覚に呼吸を詰めるばかり。・・・だがそれにもいい加減、慣れ始めていた。

 そう・・・多分、初めてじゃない。

 それでも下肢を這う手と唇がゆっくりと溯上し、下肢の間を探り当てた時には、さすがに身体を強ばらせる。だが彼らは不気味なほどに無垢な笑いを浮かべながら、抵抗を許さない。
 追い上げられる。水の中でなければ、あられもない声を上げていたかもしれない。
「――――――・・・ッ・・!!」
 痙攣した身体が、ゆっくりと弛緩してゆく数秒。それすらも待たずに別の一人が入れ替わるように熱の残滓を探り始める頃には、もうどうでもよくなっていた。
 だが朦朧とした意識の中で、ガラスの存在に気付く。
 生温い水の向こう、ガラスの向こうの、暗闇に佇む者に。
 銀色の髪、紅瞳、ブルーのシャツに白いパーカーをひっかけた14、5歳の少年。彼自身に良く似ていた。ただ透徹したまなざしは、どこか哀れむようで、どこか嘲弄するようで。

 見られたということに取り乱し、身体を捩った。だがそれはかえって彼ら・・を煽るばかり。変わらず無垢な笑みを浮かべ、残酷な行為を続ける。
 明確な拒絶の意志に反して、身体は昂らされる。泣けるものなら泣いていたかもしれない。だが委細構わずひとりがそっと顔を近づけ、唇を貪る。・・・深く。

 ――――――僕を・・・見るな!

 暗闇に佇む者へ、叫ぶ。
 研究所のmixed-17th-cellを処分したとき、彼自身あるいはあんな目をしていたかもしれない。
 ――――――・・・見るな・・・・!!
 与えられる感覚に激しく抗いながら果たせず、嘆きすらも貪られる。
 彼は、ついに意識を手放した。

***

 薄闇の中で目を開いたカヲルの切迫した動悸を宥めたのは、開け放たれた窓から滑り込む潮騒、そして潮の匂い。
 パジャマ代わりのTシャツの下で、紅点が熱すら孕むかのように疼く。だがそれも、一呼吸ごとに引いていった。
 窓の外には、ぎょっとするような大きさの月。満月?・・・否、欠け始めている。
 不意に部屋の中を息苦しく感じ、カヲルは服を着ると外へ出た。

 月に照らされる海。
 部屋の中よりもはっきりとした波の音が、耳に心地好い。あるいは潮の香を含んだ風が、身の裡の澱を浚うようで。
 だが今、月の光はかえって身体を重くする。
 僅かに欠け始めた月。それでも晴れた空にも助けられて、夜の海には過分な程の光を投げかけていた。しかし月明かりは、それがつくる影の闇をかえって濃くしてしまう。あたりが明らかだから、余計にその闇が沈み込む。
 月の優しい光は嫌いではない。ただ月に照らされる光景が、水底の静寂を思わせて嫌だった。・・・息がつまるような気がして。
 昔はこうではなかったはずだ。多分、あのときから。
 研究所を脱出する際に、自分と同じモノのことごとくを、自らの手で消してから。
 言い出したのは自分。実行したのも自分。碇ユイ博士は、それを理解して手伝ってくれただけだ。
『僕は人形じゃない』
 その言葉を、あの人は正確に理解してくれた。・・・苦渋に満ちた表情で。
 水槽の中で自分と同じモノが形を失ってゆくのを、カヲルは許された時間の限り見つめた。
 見ておかなければならない、と思ったから。
 自分の選択。自分の決心の結果。それがどんなにつらいものであろうと、受け止めるのは自分。その事実から逃げることは許されない、と思ったから。
 あのときの夢を見ることはそう珍しくない。ただ単純に場面を再現するだけの夢のこともある。自身が水槽の中で形を失う夢であることもある。・・・・いわゆる良心の呵責なのかもしれない。
 だがその程度で揺らぐなら、そもそもあんな情景を見つめることなどできなかった。

 その夢に変化が現れたのは、そう最近のことではない―――――――。

***

 どうにも、良くない兆候だ。
 加持は、薄く雲を被りはじめた月を見上げて嘆息した。
 カヲル自身が口でどう言おうと、「タカミ」の件がカヲルにダメージであったことは間違いない。それを、彼は頑として認めようとしない。
 そしてなお悪いことには、冷静になろうとひどく無理をしている。
 出会った頃のカヲルが、丁度こんな感じだった。ただ、そんなことに気付く余裕が当時の加持にあろうはずもなかったが。
 あのときは、「家族」を守ろうと必死だった。
 だが今のカヲルが向き合わねばならないのは、自分自身。あるいはカヲル自身が「抹消」した筈のmixed-17th-cellを持つ少年。
 宿るはずのない、だが紛うことなき魂を持って、彼はカヲルの前に姿を現した。だがそれは「カヲル」の存在自体を揺るがすことだ。
 魂は、一つしかないのだから!
 彼の存在を認めることは、自身を否定することにもなりかねなかった。カヲルの態度がひどく硬かったのは、無理もない。
 あれがAI人工知能だなどと、誰が信じられるだろう。
 だが、彼は消えた。
 自らをAIと認め、繋がれた存在であることを認め、それでも最後まで自由だった。
 結局、「カヲル」の存在そのものを揺るがす者ではなかったにせよ、彼の選択した途はカヲルにとって強烈なまでのアンチテーゼではなかったか。
 ・・・だとしたら正負いずれにせよ、これほどにカヲルの心を捉えるのも無理のないことだ。だが、そう思いながらも加持は妬心に似たものすら覚えてしまう。
 ―――――――たとえば加持が消えたなら、彼はこれほどまでに心を揺らしてくれるだろうか・・・・?
『莫迦なことを』
 だが、自分がもう引き返せない処まで来ていることを、加持は自覚していた。

***

「海に入ったのかい?その格好で?」
 加持の声に、カヲルは緩慢に振り返って、また海を見た。
「・・・ええ」
 岩場に身を預け、加持の腰の高さよりやや低い程の岩に腰かけている。放心したように海を見るカヲルの銀色の髪は、重く濡れていた。
 近寄って、触れる。濡れていると見えた髪は、半ば乾きかけていた。ただ塩が絡みつき、本来の・・・波斯ペルシァ猫の毛並を彷彿とさせるような柔らかさを失わせていた。
 月の所為か、こころもち蒼い顔。常よりもひどく心細げな風情を感じたのは、果たして加持の先入観か?
 結晶を含んだ髪に接吻ける。その動作にカヲルは訝しげに再び加持を振り返り、そして疲れたような吐息をした。
「・・・コテージがすぐそこですよ」
「岩の向こう側だ」
「月が明る過ぎます」
「今は曇ってる」
 カヲルがついに沈黙する。俯いた顎を、加持の指先が捉えた。
 今となっては加持もまたゼーレから追われる身。カヲルにとってもはや利用価値など無いはずだ。・・・拒まれることも覚悟の上だった。
 しかし、カヲルは加持の手を振り払いはしなかった。
 重ねた唇からは、かすかに潮の味がした・・・。

***

 冷たい海水が鎮めてくれたものが、またざわめき出すのを感じる。
 僅かに身動きしただけで、海水を吸ってごわつくシャツで紅点が擦れる。
 だから動けない。声を上げてしまうことが怖くて。
 しかし温かい腕は、そんなことはお構い無しにカヲルの身体を後ろへ倒した。
 衣服がほどかれ、絡みつく塩が舐め取られていく感覚に思わず背を反らせる。たくしあげられたシャツの奥へ舌先が滑り込む。昂ったものを探り当てられて、知らず…おさまりの悪い長髪に縋りついた。
 もう、意味なんか無いのに。
 熱くなっていく身体と裏腹に、頭の中がどこか冷えていた。
 昨日今日の話ではない・・・・ゼーレとの協定が出来上がった時点で、もう意味を失っていたはず。拒んでも良かったはず・・・・まして、決裂した今となっては。
 自分はこの腕に心までも預けたろうか。契約としての関係に?
 刹那の心地好さに囚われただろうか。陵辱を受けてさえ?
 ――――――最初の夜の、明け方ちかくに見たのが最初だったような気がする。痛みを伴う夢が、おぞましさすら伴うようになったのは。
 自分が壊した、自分と同じモノたちが、笑いながら自分を陵辱する。
 嘲笑わらわれて当然なのかもしれない。ただ縋るものを求め、束の間の温かさに溺れる今の自分を、カヲル自身さえ心の何処かで軽蔑していた。
 闇の中に佇んだタカミを、自分は羨んだのかも知れない・・・・そのつよさを。

 でも今、この腕が温かすぎる・・・・。

 寄せた波に、カヲルは身体を震わせた。・・・・反りかえった喉から声が漏れたか、既に憶えぬ。

***

 契約が意味を失った今も、カヲルは拒もうとしない。そのことに自惚れていいのかどうか・・・・加持は迷う。
 白い腕を伸べて縋りついても、そのまなざしは常に加持を通過している。
 潤んでさえ見える紅瞳が、ここにいない誰かを求めているようで・・・いつも加持に鋭い痛みを与えるのだ。そしてそれはなまじ拒絶されるよりも、辛い・・・。
 かつては、その苦しさよりも終わりを与えてくれることを望んだこともあった。加持の知らない誰かの存在に、踏み込むことができなくて。これ以上、彼を汚したくなくて。
 そのくせ、加持がしていることは。
 ゼーレに対してカヲルの力になれると思うほど、加持は自身を過信してはいない。しかしこのままでは彼が壊れてしまうような気がして、怖い。

 ――――――もう何も見えない。どうしていいのか分からない。

 彼の遠いまなざしの先に、誰がいても構わない。・・・だから・・・。

***

 疲れた身体を投げ出して、カヲルはうつろな紅瞳に十六夜の月が照らし出す光景を映していた。
 雲はいつしか風に流され、嫌になるほどさやかな月光が降り注ぐ。この身にも。

 ――――――月の夜は嫌いだ。・・・水の中を思い出して、息が詰まる。

―――了―――

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