冷たい床にくずおれた彼を、男は白い腕を無造作に掴んで引き起こした。
そして石の壁に押しつけ、顎に手をかけて仰向かせる。
 彼は荒れた息を鎮めると、穏やかに、だがはっきりと言った。

「――――――それでも、あなたの願いが成就されることはない」


Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS
「Unconquerable」
氷輪

 天使が閉じ込められた塔屋に、珍しい客があった。
 この館の主、そしてこの一帯の領主。彼の翼を一刀の下に斬り落とした男。
しかし彼は窓の側に置かれた椅子にかけたまま、特に何の反応も起こさない。
「傷の治癒が遅いそうだな」
 供を連れるでなく、唯一人。彼の翼を斬り落とした剣の柄が、黄昏の陽をはねて鈍い光を放っている。彼は男の言葉に何ら反応を示さず、暮れてゆく窓外の景色を漫然とその紅瞳に映していた。
 彼の無視を、男は然程気に留めてはいないようだった。むしろ、最初から返答など期待していなかったかのように、無造作に近づき、彼の顎に手をかけて仰向かせる。
 彼は逆らわなかった。
 初めて、紅瞳が男を見た。
「何を、企んでいる?」
 無論、彼は答えない。冷たい紅い瞳もまた、怯えも怒りもなく、ただ拒絶だけを湛えていた。
「そのつもりなら、翼の再生など造作もないことの筈。力をためて、一体何を画策している? ・・・退けぬ理由は理解らんでもないが、悪戯に時を稼いで何か益するところがあるとも思えんがな」
 男はその沈黙を鼻先で嗤い、やおら胸元を掴んで引き上げる。
 立ち上がったところで、背後の壁に押しつけられる。傷をまともに打ち、彼が呻いた。
「喋れなくとも、囀ることくらいはできそうだな?」
 嗜虐的な笑みにも、動じぬ。あくまでも紅瞳は静かだった。
 しかし、武骨な指で晧歯をこじあけたあとの無遠慮な侵入に、白い指先が一瞬震えた。
 それを押し殺すように、壁に爪を立てる。

***

「何と、仰せあるか?御身が行かれると?」
 司祭長キールはさすがに驚いておもてを上げた。
 窓の一つもない、狭い石室。跪いた司祭長の前には、簡素な祭壇がある。
 数多の燭台に揺れる光が照らす祭壇の中央には、神像ではなく、緋の絹で幕を降ろされた空間があるだけだった。揺れる光が絹布に描き出す陰影は、見る者によっては何かの形を成していたかもしれない。
 だが、絹布の内には、少なくとも形あるものは何もなかった。
 それでも確かにそこには何者かが存在するのだ。
『・・・それが我の責務なれば。それともキール、汝がゼーレの手勢率いて攻略するか?』
 司祭長は項垂れた。周囲の絶対の信仰を集めるゼーレとはいえ、実際の規模は都市国家程の国力も、また武力もない。戦上手として知られたネルフの、それも碇の勢力圏を攻めることなどまず不可能だった。
『・・・然もあらん』
 緋絹の内で、彼は笑ったようだった。
『・・・おのが手で何とかなると思えば、我を喚びはすまい』
 その言葉に、再び深く項垂れる。そして絞り出すように言った。
「・・・・松代を動かして噛み合わせれば、あるいはとも思いましたが・・・・」
『・・・そして大量の人血を流して後に、彼女を救い出すか? やめておけ、彼女を悲しませるだけだ』
 暫時の、沈黙があった。司祭長も、身を屈めたまま石の如く動かぬ。
『他でもない、我を喚びしこと・・・・よもや意味を知らずしてとは言うまいな』
「ヒトの領域を越えた魔術の行使は、ヒトという種の破滅を招くのみ。されば御身の手で、終焉を導きたまわんことを」
『さても、法の守護者とは面倒なもの。・・・・良かろう、相応の代償は覚悟の上としてよいのだな?』
 司祭長は、一度、呼吸を飲み込んだ。
「・・・・・我が娘が、身籠っておりますれば」
 用意していた言葉。だが、口にするには司祭長とて多大な労力を要した。
『・・・・・良い覚悟だ』
 彼の答えもまた、重い。そしてそれ以上は何も言わなかった。

***

 ―――――――――彼女は、男の娘の姿でそこに居た。
 紅の瞳に、虚無だけを映して。
 呪法によって囚われ、ここに移されるまでの十数年。一体どんな生活を強いられたのだろう。そう思うと、彼の胸の裡には痛みのようなものさえ、走った。
 しかし、そこへ舞い降りた彼を、彼女は一目で見分けた。
 青ざめた頬を喜色に輝かせ、呪を封じた鋼の檻から白い腕を伸べる。彼もまたその頬に手を伸べて、温かさを伝える。
 錠を落として扉を開くまでの僅かな間も、もどかしい。
 飛び込んできた彼女を腕の中に包んだ一瞬。他のこと全てが意識から消えていた――――――――。
「・・・あ・・・うっ・・・」
 突き上げられる痛みが、彼を現実に引き戻す。
 ようやく彼の口から苦鳴を引き出したことに、男が酷薄な笑みを浮かべる。
 二度、三度と繰り返される痛み。硬い石壁が、その度に背の傷を刺す。
 彼が奥歯を噛み締めたと見るや、男は笑いながら鋭敏な部分に触れ、無理矢理追い上げるように、残酷な刺激を与える。
 拷問のやり方としては、効果的には違いない。
 自由を奪い、徹底的に自尊心を毟り取る――――――。
「・・・・ぁ・・・・・っ・・・・・!!」

 波斯ペルシァ猫の毛のような髪が、ざらついた石壁に擦りつけれられて軋るような音を立てる。
「なかなか、強情だな」
 彼の吐き出したものに濡れた手で、再び白い顎を捕らえ、こじあける。繋がれたまま座り込む事もできない彼は、それを拒むだけの力を残していなかった。
「・・・・う・・・・・っ・・・」
 熱を帯びたものが、彼の裡を蹂躙する。・・・・・・胃が裏返りそうな不快感。
 爪も割れんばかりに石壁に突き立てられる指先へ、さらに力がこもる。

***

 契約を知った娘は、涙ながらに司祭長を詰った。
 泣き崩れる我が娘に、キールはひとことの弁解もしなかった。
 理詰めで説得することが無益だったからではない。
 ―――――――――いかなる大義名分があろうと、娘の子を贄に差し出した事実にかわりはないからだ。

***

 嘔気をもよおす程の不快感とは裏腹に、背筋を駆け上げる感覚は彼の呼吸を追いつめていく。
 引き抜かれ、膝を折りかけた彼を、男はなおも石壁に押しつけた。淡紅色の突起を弄び、彼の息が荒れるのを愉しんでいる。
 そのさなか、不意に男の舌が止まった。
 びくり、と彼の肩が震える。男は、例の笑みを浮かべていた。
突起をなぶっていた手を、ゆっくりと彼の首の後ろに回す。彼がそれを振り払ういとまもなく、彼は壁から引き離されていた。
 縋るものをなくした指先が、彷徨う。初めて、紅瞳に感情らしいものが揺らめいた。
 地下に囚われたままの半身のことが、脳裏を過ぎる。
『・・・・・・・見ないで・・・・!』
 腿を後ろから撫で上げた指が、侵入する。先刻の余韻のさめやらぬ裡へ、仮借なく。
 内側を擦られる感覚に、たまらず背を撓らせる。
「・・・・・・・・・・ぁ・・・・・ぁ・・・・」
 崩れそうな身体を、男の腕が支えている。一番縋りたくない腕に縋り、不快な音に、耳までが汚される。
「――――――――ッ!!」

もうやめて・・・私のことはいいから・・・・!!

レイ・・・・見ないで・・・

逃げて!お願い・・・・・・

大丈夫・・・こんなことで僕はどうにもなりはしないから・・・・・

 そう、こんなのは大した事じゃない。
 君の悲しみ、苦しみ、そして寂しさに比べたら、どれほどのこともない。
 弄びたいなら好きなだけそうすればいい。
 所詮この男は、僕から何を引き出そうとしているわけでもない。
 己のすることに絶対の自信を持ち、誰にもそれは揺るがせないと思っている。
 余興に過ぎないのだ。
 屈服させることを愉しんでいるに過ぎない・・・・・。
 ――――――だが、こんなことで、僕はどうにもなりはしない。
 こんなことくらいで、逃げ帰るなどできない。
 すでにひと一人、犠牲にしているのだ。

 「カヲル」という名を与えられるはずだった赤子を―――――――――

***

 出迎えた娘の、泣き腫らした目で司祭長は時が来たことを悟った。
 部屋の奥に居たのは、もはやたった一人の孫息子ではなかった。
 少し褐色がかった銀の髪は、新雪と同じ色に変わっていた。
 深い翠の双眸もまた、今や祭壇の緋絹を映したかのような紅。
 そしてその背には、身長に倍する光の翼。
 彼はゆっくりと立ち上がり、紅瞳でキールを捉えた。
 つい先日まで、「お祖父様じいさま」と言っていたのと同じ唇で、同じ声で、彼は言った。

「約束の時は来ました・・・・・司祭長殿」

***

 糸の切れた操り人形のように倒れ伏したままの少年。
 その白い頬にかすかに刻まれた涙痕が、蒼い月の光に照らされている。
 うっすらと紅瞳が開かれたと見るや、男は白い腕を無造作に掴んで引き起こした。
 そして石の壁に押しつけ、顎に手をかけて仰向かせる。
 向けられる紅瞳は、やはり静かだった。そのことに、初めて男が苛立ちに似たものを閃かせる。
 彼は荒れた息を鎮めると、穏やかに、だがはっきりと言った。

「――――――それでも、あなたの願いが成就されることはない」

TO BE CONTINUED


Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「Unconquerable」

「氷輪~遠雷~」に関するAPOLOGY…..

うちのカヲル君は外道オヤジなんぞには絶対屈服しないぞ!!

 はい、お約束の1600Hit記念&謝恩Novelです。
お題は1600ジャストを踏んでくださった方のリクエストによる「外ン道×カヲル」。お気に召したら幸いです<(_ _)>

 構想1日、書くのに2日。いえ(^^;ちょうど「遠雷」に煮詰まってたところへ渡りに舟♪ってなもんで、一気に書いてしまいました。「遠雷」の、<中編>と<後編>に挟まる話と考えていただいて結構です。時間的にはばらばらですがね。

 実の所、万夏は外ン道が大ッ嫌いで(そんなん最初からバレバレですがナ)、おまけに「カヲル君は天性の誘い受け」が持論(そんなりっぱなもんかい)なもので、当初は「紅葉」なみの悪戦苦闘を予想していたんですがさにあらず。
何かに憑かれたよーに書いてしまいました。なにゆえかはいまだに不明です。何か不気味だなぁ。

 結局、「うちのカヲル君は外道オヤジなんぞには絶対屈服しないぞ!!」とゆー話になってしまいましたが・・・・・これも万夏の趣味です。ゴメンナサイ<(_ _)>(おまけにシンジ君は何処へいったんだ?)

 しかし・・・リクエストされた方、後悔してません?(^^;
なんだかどんどんヤバさに拍車かかっていくんですけど・・・・(^^;;;;;;;

 ちなみに、「氷輪」ってのは月のことです。月の異称ってきっと他にもたくさんあるんだろうなぁ・・・

 それでは皆様、次回まで万夏が正気でいたら・・・・・いや、何も申しますまい・・・・・・(^^;

1997,11,19

                       暁乃家 万夏 拝