「・・・何をしている、取り押さえろ」
絶対の領主の言葉は、無秩序な突撃を誘発した。
彼女は、それでも微笑んでいた。
「FALL」
「・・・・始まったな」
ゼーレの司祭長・キールは、暗雲に覆われた空が運んでくる不気味な波動に、祭壇へ足を向けた。
十数年前のことだ。自分の最初の、そしてたった一人の孫を献じて、邪法で囚われた女神を月へかえす力を持った者を降ろした。
ヒトが、神の怒りに触れる前にすべてをもとにかえさなければ。その一心で、キールは多くのものを犠牲にした。鬼と言わば言え。悲壮な覚悟と言うより、いっそ冷えた居直りとでも言うべきものが、十数年をかけてキールの胸中に氷を造っていた。
窓の一つもない、狭い石室。簡素な祭壇の前に跪き、キールは雷鳴が少しずつ近づくのを聞いていた。
数多の燭台に揺れる光が照らす祭壇に降ろされた、緋色の幕。
落雷でもあったか。轟音に遅れて、樹木が焼け裂ける音が響いてきた。
近い。そう思った瞬間、石室の天井が雷霆に打ち砕かれる。
衝撃波と飛び散った石片に薙ぎ倒され、キールが地に伏せる。衝撃波に聾された耳に、冷たい声が響いた。
女の声のようにも聞こえる声であった。
『・・・・ヒトの不始末をおさめんとするは殊勝なれど、禁じられた呪法を用いたは事実』
キールはゆっくりと頭を擡げ、いつかと同じように、何者かの存在を示唆するように揺れる緋の幕を見た。
「・・・心得ております」
「良い心掛け。・・・・汝の覚悟に免じ、汝の覚悟が実を結べば、あえて地に火の雨は降さぬと主上の仰せじゃ」
キールは身を起こし、あらためて跪くと頭を垂れた。
そして待った。十数年前の報いと共に、雷霆が振り降ろされるのを。
***
シンジの口から、絶叫が迸った。
石英砂の中から拾い上げた深紅の球を抱き、ヒトのものとも思えぬ咆哮を上げ続けるシンジの頬を、深紅の涙が伝った。
雷鳴が轟く。
肉の薄い背がぐずぐずと盛り上がり、弾けた。そこから、かつてカヲルの背中にあったのと同じ翼が、かすかな光の飛沫と共に顕現する。
翼が開ききってしまうと、呻きと共に石英砂の中へ倒れ伏した。
砂が、シンジの頬を伝うものを吸って紅い固まりをつくる。
シンジが呻きながら、寝台を打ち破らんばかりの力で拳をたたきつける。呻きはややあって意味をなさない叫びにまでつり上がり、その叫びに感応するように翼が震えた。
「・・・・・っ!」
身悶え泣き叫ぶシンジの頬が紅の珠に触れたとき、まるでくちづけられたような感覚に、呼吸を呑み込む。
「・・・カヲル・・・・くん・・・」
紅の珠を凝視する。だが、中にあるのはただ紅。
「・・・・ひどいよ・・・一人にしないでって・・・・言ったのに・・・・」
憑かれたような笑みを零し、シンジはその珠にくちづけた。
***
その瞬間、少女は肺腑の空気をすべて吐き出すかのような絶叫を放っていた。
すべてを拒絶するように、頭を抱えて蹲っていた少女の首の護符が弾けとび、その背に六対の翼が顕現する。
呪を封じた鋼が飴のように捩じ曲がり、地を震わせる波動が重い石組みすら脆い積木細工のように毀してゆく。
狭い地下室に収まりきらない翼が、文字通り土台から崩れ去る館の残骸を弾き飛ばして広がる。
時を同じくして、あるじの部屋がある棟が一瞬にして炎に包まれた。
***
文字通り火の海と化したその部屋の中で、闇を纏う者は悄然と立ち尽くしていた。
すべての骸が消し炭になってゆく。
身の丈に倍するほどの大鎌を片手で操り、骸から離れてゆく紅い蛍火を然るべき方向へ導く彼の片腕には、もはや炎からも、時間の流れからも自由になった骸が抱かれていた。
こんなことになるのなら、あのとき、この大鎌の刃にかけてしまえばよかった。
昔、深い森のなかで、汚された身体を湖に沈めようとした娘がいた。
命数の尽きていない命は、彼の管轄にない。だから刈らなかった。・・・だが、こんな結末を見るために、かえした訳ではなかった・・・・・・。
眷属の気配が消えてゆくのを感じながら、彼は胸中ひとりごちた。
見るがいい、この結末を。属す世界の違う者が、心を寄せてしまった結果を。
これほどに呪われた成就もあるまい。
ヒトに心を寄せるものではない。自らが堕ちるか、破滅をもたらしてしまうか、二つに一つ・・・・・。
でもおそらくは、この女の想いだけは全うされた。
彼が手を下すまでもなく、神の怒りに触れた者は報いを受けた。
世界は破滅を免れるだろう。
半身を失った女神の怒りが、地上を焼き尽くさなければだが。
崩れおちる館の残骸から、彼女は身を起こした。
雷鳴が轟きわたる空へ、白い翼が広がる。翼が発する光は、周辺一帯の夜空を染め上げた。
紅涙を零す両眼は見開かれていたが、そこはただ暗く淀んだ血の色があるばかり。かつての紅玉のような輝きはどこにもなかった。
だが、彼女から発せられる光は、次の一瞬、衝撃波となって周囲の建造物や樹木を薙ぎ倒した。・・・・否、薙ぎ倒されただけではない。それらの輪郭は光に包まれたまま少しずつ崩れ、やがて形を失って消し飛んでゆく。
さながら小さな恒星が地上に現れたかのようであった。
発光圏は、波紋が広がるように少しずつその範囲を広げていく。
彼女は完全に我を忘れていた。悲しみが方向性のない破壊衝動と結びついて、すべてを消し去ろうとしている。かつて彼女が愛したものたち――ヒト――も、そしてそのすべての営みさえも。
「・・・・駄目だよ」
その目前に、白い翼が舞い降りる。シンジであった。ヒトに近寄れる場所ではない。だが、今のシンジは。
「・・・駄目だよ、そんなの・・・」
両腕を伸べて、少女を抱きしめる。
「・・・・・・君自身は決してそんなこと望んでいないのに・・・・カヲル君が悲しむよ・・・・・」
その時、風が熄んだ。
シンジは彼女に、紅の珠を二つ差し出した。一つはカヲルが遺したもの。ひとつはゲンドウに奪われていた、彼女自身のもの。カヲルが与えた力によって、焼け落ちた本館からシンジが引き寄せたのだった。
安堵の表情を浮かべ、彼女は二つの珠をかき抱いた。淡い光と共に彼女の胸へそのうちのひとつが消え、淀んだ両眼に光が戻った。
残った珠を抱き、彼女は膝を折った。
「ごめんね・・・ごめんね・・・・・・」
啜り泣きながら、紅の珠に頬を寄せる。
「私が地上へ降りたいなんて言わなければ・・・・・こんなことには・・・・・」
光は終熄し、空を埋め尽くしていた暗雲から雷光が消える。雷鳴もまた・・・・。そして、静かに雨が降り始めた。
「・・・・カヲル君は・・・死んでしまったの・・・?」
目の前で起こったことをいまだ承服しかねているシンジが、雨に濡れながら問うた。
彼女は静かに首を横に振った。
「・・・・あなたがカヲルと呼んだのは、誰?」
シンジは返答に詰まった。
「・・・いるわ、ここに」
少女の白い手が、シンジの胸に触れる。
「・・・・あなたの命で翼を再生することは出来たはず。でも、あなたをなくすことはできなかったのね・・・・・」
シンジの眼から再び涙が溢れた。
「・・・・僕に、何が出来る・・・・」
「生きていて」
彼女は即座に答えた。
「・・・それが、彼の望みよ」
そして、珠を愛しげに抱く。雨が降りしきる空へ、さらに翼が広がってゆく。
淡く光るかのような少女の身体が、それ自体まるで蛍火の集まりであったかのように儚くなる。
蒼い薄明のなかへ、少女の姿が溶けてゆく。
シンジはそれを茫然と見つめていたが、山の端から姿を現した陽に眼を射られて不意に落涙した。
いつしか雲は切れて雨が止み、シンジの背から翼は消えていた。
かつて館のあったあたりはもとより、みはるかす限りの地表は白い砂と、焼けた木々があるばかり。だが、ヒトの建造物と見えるものの残骸も、わずかながら点在していた。
そして、その側でいくすじかの煙が上がっていた。火災によるものではない。生き残った人々がいるのだ。
シンジは歩き始めた。
『生きていて。それが彼の望みだから』
――――――――Fin――――――――
Evangelion SS 「FALL」
苦節(<大嘘)一年、ようやく完結いたしました。「遠雷」最終話でございます。すでに毎度のこととなりつつありますが、感覚で読んでくださいまし。くれぐれも理屈を求めたりされませぬように(爆)
悲惨の一語に尽きる話となってしまいました。まぁ、初期コンセプトが「童話的世界の非道な話」でしたから(^^;;
出てきた瞬間に「・・・またか・・・懲りねぇ奴」と思われた方もあろうと存じますが、黒い翼の彼については・・・とりあえず謝っておきましょう。ははは。どうせ天井裏シリーズで幸せになるんだし、こういう役回りもたまにはいいでしょう♪ってことで。ただ単に、恐怖=死という安直な連想なんですけどね。思いついたら書かずにはいられなかったもので(^^;;キールさんとこに現れた声だけの御仁は、無論そのまんま、某カミナリ姐ちゃん(爆)です。
外道おやぢの野望をこれ以上ないというくらい思い切った方法で阻止してしまったリツコさん。つくづく悪趣味とは思うのですが、真剣に愛してたんですね。
今回はシンジ君、まぁまぁの役回りでしたでしょうか。カヲル君とは一応両想いだし。要するに今回のカヲル君は、利用するつもりで近づいて、うっかり情が移ってしまった訳ですね。・・・あんだけ非道いコトされといて、情が移るのかというツッコミはあっちへ置いといて(笑)レイちゃんを助けるという本来の役目を決して投げ出したりはできないけど、シンジ君も助けたい。そんなジレンマが最後の最後まで決断を持ち越させてしまったのですね。
・・・・・・しかし、某廃園の管理人はきっぱりさっぱり忘れ去られたようですな(爆)(<しかし約束を反故にされたわけではない・・・)
とりあえず、カヲル君に合掌。(<あっ石投げないで(^^;)
それでは皆様、次回まで万夏が正気でいたら・・・・・いや、何も申しますまい・・・・・・(^^;
1998,8,24
暁乃家 万夏 拝