彼は月を背に立ち、ゆっくりとシンジに手を伸べた。
「おいで。・・・・・・君の望みは?」
「FALL」
「碇の旦那が天使を捕らえなすったそうな」
「去年は女神を拾うたと聞いたよ」
「旦那に不可能はないのかねえ」
「いやいや、女神さまだ天使さまだってえのは、人が手を出してよい領域ではないよ。いつか必ず、報いがくるさ」
「しかしそんなおそろしげなもの、捕らえてどうなさるんだろうねえ」
市場のざわめきの中からそんな会話を拾い聞いて、シンジはうつむくと足早にそこを離れた。
父の考えていることは解らない。解りたくもないと思う。水色の髪と、紅の瞳の不思議な少女。シンジが王都での遊学から帰ってきた時、彼女はすでに囚われていた。
彼女があの暗く冷たい地下牢に幽閉されて、何カ月がたつだろう。
ここらあたり一帯の領主である父に意見する人間などいない。何故こんな酷いことを?というシンジの問いは、短い一言で片づけられた。
「おまえには関係ない」
それ以上の詮索は、シンジにも出来なかった。
シンジに出来たのは、父の留守を見計らい、地下室の鍵を盗んで彼女に逢いにいくことくらいのものだった。
牢の格子扉そのものの鍵は父が肌身離さず持っている。だから、彼女を逃がしてやることも出来ないし、逢えるのは格子越しだ。
最初、シンジが現れる度に彼女は怯えた。
父に似ている自分を嫌悪したのは初めてのことではなかったが、この時ほどそれを痛感したことはなかった。
しかし、何度もそこを訪れ、辛抱強く優しい言葉をかけ続けるシンジが父とは違うことを理解してくれたのか、徐々に態度を柔らかくしていった。
白い面に刻み込まれてしまったかのような愁いの翳りは消えることはない。だが、シンジが訪れると、ぎごちなくではあるが、微笑みを見せるようになっていた。
シンジはそれが嬉しかった。
***
こんな事が許されるはずもない。だが、一応まともな食事が与えられているようだったし、暴行を受けている様子もない。
一刻も早く自由にしてやりたかったのだが、周到な父に抗するためには相応の準備が必要だ。シンジは、機会を待つことにした。
彼女は、こちらの言葉は解るようだったが、話すことは出来ないようだった。それでも簡単な質問には、身ぶりで応えるようになっていた。
だが、困ったような顔で首を振ることが多く、シンジは詮索を諦めた。
自然、シンジが取り留めのない話を聞かせることになる。それでも彼女は微笑んでくれた。
・・・・・・あの夜までは。
***
初めて聞いた彼女の声は、魂消るような悲鳴だった。
それはシンジの寝所にまで響いた。
あるいは、声ではなかったのかも。
飛び起きて、地下室へ走った。
今夜は父がいるはずだが、そんなことはもう関係ない。
地下室の入り口で、倉庫番のシゲルが腰を抜かしたように座り込んでいた。扉は開いたまま。目もくれずに飛び込む。
「誰が入って良いと言った!?」
雷のような父の怒声に立ち止まったわけではない。
飴のように溶けて落ちた格子扉の鍵。
開け放たれた扉。
蹲り、泣きじゃくる少女。
血の匂い。
辺りに散る光の羽根。
血刀を携え仁王立ちのままの父。
切り落とされた白い翼。
――――――そして血溜りのなかに倒れ伏す、銀色の天使・・・・・・・・。
***
彼は北の塔屋で、命を取り留めているという。
あの後すぐに、館の医師であるリツコが呼ばれ、手当てをさせたのだと。
特に鍵をかけられてはいなかったから、シンジはそこを訪れてみた。
丁度リツコがその日の診察を終え、帰るところであった。
「・・・まだ眠っているわ。できれば起こさないでやって」
「リツコさんは知ってるの?この人が誰だか・・・・」
一瞬の沈黙の後、リツコは故意に視線を外した。
「・・・・・・・想像もつかないわね。それじゃ」
そう言って、出ていってしまう。はぐらかしにもなっていない。何かを知っているのは確かなのだ。
粗末な寝台に歩み寄る。上掛けに包まれた肩は、緩やかに上下していた。
自分と然程変わらない、まだ少年と言われる年頃だった。
銀色の髪は波斯猫の毛並みを彷彿とさせるつやをもち、肌の色は地下牢の彼女と同じ、透けるような白。・・・傷の所為か、こころもち蒼くはあったが。
――――――――似ていた。
溶け落ちた錠。天使は、女神を救い出しに来たのだろうか?
触れてみたいという誘惑に抗し切れず、シンジはその銀の髪に触れた。
見た目を裏切らない、細く柔らかい髪。絡めても、指の間からするりと逃げてしまう。
彼が僅かに眉を顰めたので、慌てて手を引いた。
長い睫毛が僅かに震え、ゆっくりと瞼が開かれる。
その下から現れたのは、やはり彼女と同じ、紅だった。
シンジの胸は、早鐘を打っていた。
紅が、シンジを捉える。途端に、彼は目を大きく見開いて起き上がろうとした。当然、背の傷に呻く。
「だ、駄目だよ、まだうごいちゃ・・・・」
慌てて、彼の肩を押さえる。シンジは声がうわずるのを抑えきれなかった。
苦痛の表情がすこし和らぐと、彼は理解ったと言うように元通り身を横たえた。
そしてシンジに微笑んだ。彼女と同じ笑みで。
程なく彼が動けるようになったためか、北の塔屋には錠が下ろされた。
鍵を持っているのは、父とリツコだけ。
シンジは時折、塔屋の下へ行って窓を見上げた。
彼は大抵、窓から空を見ていたから。
鳥が、空を恋うが如く。
***
彼女の顔から、笑みが消えた。
シンジが地下室に降りて、格子の前で彼女を呼んでも、彼女は奥の、それも隅に蹲って啜り泣くばかり。
シンジの声など、届いてはいないようだった。
その姿も、存在さえも拒絶していた。
胸を締めつけるような嗚咽だけが、そこを満たしていた。
そしてシンジの裡を、絶望が侵食していった。
***
「俺はあの時ほど旦那を恐ろしいと思ったことはないよ」
父の目を慮って屋敷から連れ出し、事の顛末を尋いたシンジに、シゲルは言葉少なに語った。
父は、日に一度は彼女のもとに訪れていたという。
明かりを持って父を先導し、件の牢の前の燭台に火をうつしてからさがるのがシゲルの役目だった。
あの夜、いつものように灯火を持って地下へ降りていくシゲルは、その先に自分の手元のものではない光があるのに気づいた。
それは灯火ではなく、光だった。
何であるかに気づいたとき、シゲルはその場にへたりこんだ。
その場に跪きたい衝動にすら駆られた。
牢の前に、この世ならぬものがいたからだ。
身長に倍する光の翼。それが放つ光で、そこだけがさながら真昼のような明るさだった。
彼は手で触れただけで錠を溶け落とさせ、堅牢な格子扉を幕でも開くかのように開けてしまった。
それを待ちかねていたように、少女が飛び出して彼に抱きついた。
彼もまた、優しく抱きかえす。
頬を寄せあうふたりを、光が包む。それは、なんぴとにも冒されざる光景と見えた。
――――――が。
父は、その光景に踏み込んだのだ。
光放つ翼を掴み、佩剣を抜くと仮借ない一撃を振り降ろした――――――。
その時の恐怖を思い出したように、こころもち青ざめる。
「・・・・・・悪いが、もう俺はあの方の下では働けないよ。あれが何だったのかなんて、俺の理解の及ぶところじゃないが・・・・・あの方は、やっちゃいけないことをやってしまった。そんな気がする」
元来敬虔な質のシゲルでは無理もなかろう。
――――その言葉通り、シゲルは程なくこの館を出て行った。
***
リツコは、シンジが診察に同道することを特に咎め立てはしなかった。
彼も、彼女と同じくこちらの言葉は解っても、話すことは出来ないようだった。ただ、彼女と違うのは、何に対しても決して怯えの表情を見せないことだ。
部屋を訪うと、彼はいつも窓際に寄せられた寝台から空を見ていた。
そして、シンジたちを見て穏やかに微笑むのだ。
シンジは、リツコが彼の背の傷を治療するのを見ている。
酷い傷。命を取り留めたのが不思議な程。
それを与えたのは、シンジの父だ。
そして今、この冷たい塔屋に閉じ込めているのも。
わかっていてなお、何故にこうも穏やかに微笑むことが出来るのか―――――?
薬酒で傷を洗うと、さすがに白い肩が震え、秀麗な眉がかすかに顰められる。だがそれすらも美しい。・・・シンジの裡を衝動が走る程に。
亜麻布の包帯を巻き終えるまで、リツコは終始無言。言ったのは、最後に服を着るよう促す言葉だけだった。
リツコが帰ってしまうと、シンジは意を決して歩み寄った。
治療が終わると窓の外に視線を投げていた彼は、その気配に振り向いた。
「君は、誰?」
彼は、質問の意味を理解したようだったが、即答はしなかった。
「あの子は、君の何?」
その問いに対しても、また。
「君は、あの子を迎えに来たの?」
その時初めて、彼は何も言わずに窓の外を指さした。
窓の外には、白い真昼の月。
シンジは言わんとするところを察したが、一旦ここを閉めてしまったら、鍵がなければ来ることはできない。
だが次の瞬間、視線を部屋の中へ戻して凍りつく。鼓動が一拍だけ、異常に高く聞こえた。
リツコは、鍵を卓の上に置いたままにしていたのだ。
鍵を取り、思わず彼を見る。
彼は、初めて穏やかさ以外のものを含んだ笑みをしていた。
***
合鍵をつくり、何くわぬ顔で鍵を届けておくは容易いこと。
ただ、いつものシンジに出来ることではない筈だった。
だから、リツコの所へ鍵を返しに行ったあたりから、すでにいつものシンジではなかったのかもしれない。
差し出された鍵に、リツコは少なからず驚いたようだった。しかし、すぐにその表情を隠してしまう。
「悪かったわ、うっかりしてて。お父上には内緒にね」
至極当たり前の言葉で本心を覆い隠す。だが、シンジはそんなことは既に意に介していなかった。
夕刻が近づくにつれ、嵐の前触れが風に乗ってやってきた。
彼方の雷雲。月が昇る時刻には、雷雨になるだろう。
***
強い風。そして間欠的に叩き付けるような雷雨が降る。
闇と雨に紛れ、シンジは塔屋へ入り込んだ。
あるいは、もう自分が何をしているのか解らなくなっていたのかもしれない。
胸が早鐘を打つのは、塔屋の急な階段ばかりの所為ではない。
身体が、熱い。
これは、彼が与えた熱。
彼が、彼が初めて見せた、穏やかさ以外のものを含んだ微笑が与えた熱。
鎮めるには―――――――――。
部屋の鍵を開ける手が、心許無い。だが、どうにかその扉を開けた時。
全ての音が、そこから消された。
風の音、雨の音。
そしてかすかな雷鳴も。
小さな窓いっぱいに姿を覗かせる赤い月という、有り得ない光景も既にシンジの意識の埒外。
彼は月を背に立ち、ゆっくりとシンジに手を伸べる。そして年齢に不相応な程、深みのある低い声ではっきりと問うた。
「おいで。・・・・・・・君の望みは?」
彼の前まで歩み寄ったものの、シンジはなにも言えなかった。口の中が完全に干上がっていた。
秀麗な、紅玉の唇の端がつり上がる。
「・・・・僕は君が考えている通りの者だよ。レイを助けるために君の助力が欲しい。代償として、君は何を望むんだい?」
俯いたまま何も言わず、シンジは伸べられた腕を、手首を掴んだ。
同じ瞳、同じ髪、同じ肌。求めているのは、代わりのもの。
向けられるまなざし、そして微笑。
彼は苦笑した。
「・・・・・・・契約は成立した」
その言葉に、シンジは掴んだ腕ごと彼を引き寄せた。
そのやや乱暴な所作に抗うでなく、彼はされるままに唇を重ねた。舌先でシンジの干上がった口蓋を湿してやりながら、上着の裾から潜り込ませた手を、そっと滑らせる・・・・・。
***
こんなことになるなんて。
卓の上に置かれた鍵を見つめたまま、リツコは深く吐息した。
雷光が時折照らし出す鍵の鈍い光沢は、禍々しくさえ見える。
鍵を置いたのは無論故意。
だがそれは、シンジに渡すためではない。
彼に、暗に出ていけと言ったつもりだった。
羽根など、もういつでも再生できるはず。そういう者なのだ、彼は。
やはり、手ぶらで帰るつもりはないのか。
危険だとは思っていた。しかし、よりによってシンジが魅入られるとは。
***
敷布は血に彩られていた。
シンジが彼の背の傷を斟酌することなく、巻かれた亜麻布を引き裂いた結果であった。
苦痛はあるだろう。だが、彼は薄い笑みを浮かべていた。
シンジは彼の上で狂ったように腰を動かし続けている。
恍惚とした面の、半ば閉じかけた瞼の下の光は、ゆっくりとその色彩を変えていった。
それはどこか濁った、血の色だった。
TO BE CONTINUED
Evangelion SS 「FALL」
まだ一応正気です。元がモトだけにわかりゃしませんがね(^^;めでたくわたりさんとこのS2同盟(The headquarters of Shinji-Seme allies)に加盟させていただいたことでもありますし、ここは一発シンジ君にめいっぱい狂っていただこうかと♪(<何の脈絡があるとゆーんだ・・・・) ここまでいきゃぁ立派な鬼畜ですね。やっぱり誰でもいいのかシンジ君!?(別に恨みはないんだっ信じてくれっ(^^;)
なんつってもサブタイトル「”FALL”」(=堕ちる)!でも最初は元ネタに沿ったもっと切ない話になる予定だったんですよ(^^; (「遠雷」だってもとは切ない曲なんだってば(^^;)しかし何をどう踏み違ったのかこの始末。カヲル君!!身売りネタはもーいいからもっと自分を大事にしてくれ!!ってなもんです。
それでは皆様、それまで万夏が正気でいたら、後編でお会いしましょう。
1997,9,15,20:40
暁乃家 万夏 拝