すべて間違いでもいい、君をかえしたくない
「FALL」
このところ連日、暗雲が空を覆う日が続いていた。
里人は女神の怒りと囁き、ただ身を寄せあって家の中に籠るばかり。夜ともなれば、いずこで鳴るとも知れぬ遠雷が人々の眠りを妨げる。
その夜、闇と雷光に紛れ、黒い翼が翔け降った。
***
純粋すぎるのだ。端から見ていて恐ろしいほどに。
リツコは、誰に怪しまれることもなくその部屋に入り、ドアを締めてしまってから初めて手燭に灯をつけた。
窓のない部屋。四方は書棚で埋まっており、中央に重厚な机が一つ。
人の世の基となった女神との間で行われる契約。それは誰もがなし得なかった、失われた魂を取りもどす、唯一の道。しかしこの世界に混乱をもたらす、魔の呪法。
行えばその名は世の終わりまで語り継がれるだろう。
許すべからざる、人界の背信者として。
それでもあの人はその成就を欲するのだ。
机の傍らに跪き、抽斗の鍵穴に細い針金をさす。軽く指で触れ、短い言葉を誦じる。かちりと音がして、抽斗が軽くなった。
ゆっくりと抽斗を開けると、手燭の光の中に絹布に包まれてなお光を放つ紅の玉が浮かび上がった。
・・・・あった。
これは本来人の手にあるべきものではない。女神の自由を奪うため、あえて奪ったもの。はるか遠い国の羽衣の伝承のごとく、女神が月へ帰るために必要となるもの。
この程度で、諦めてくれるのか。
リツコは自問する。
・・・・・答えは否。
しかし、こうでもしなければ。
その時、扉は開け放たれた。
扉の向こうには、ゲンドウ。そして数人の衛士。
さすがに身を硬くする。しかし、立ち上がると昂然と頭を上げた。衛士の持つ灯火に憶するでなく、顔を晒す。
「ここにきて裏切りか、博士」
彼女は笑った。とうの昔に、お見通しというわけだ。視察の話は嘘ではないが、事を察して秘密裡に日程を遅らせていたのか。
「あら、領主顧問として、博士の地位を利用したつもりはありませんわ」
弓銃を携えた衛士に抵抗の意志なきことを示すため、両手を見せる。
「・・・・あなたの愛人としての地位を利用したとは、思っていますけど・・・・・」
ゲンドウの表情は動かない。
「・・・拘束しろ」
***
貪られる感覚に揺られながら、彼は月を見ていた。
かすかな望みはついえた。先刻、領主が数人の衛士のみをつれて、人目をはばかる様子で館へ戻るのを見たのだ。
哀れな男。どうあっても、破滅を欲するのか。向けられるすべての想いを踏みにじってでも。
一旦顔を上げたシンジが、陶然とした目で白い首筋に顔を埋める。昂められ突き勃った紅点がお互いの肌で擦れ、どちらからともなく吐息が漏れた。
彼女はヒトの傲慢をこれ以上許容はしないだろう。
彼女はヒトを愛したのに、ヒトは彼女を手段としか見なかった。
準備が調うまであとわずか。
詮方ないと知っていても、彼女は悲しむだろうか?
***
「私がこんな所にいるのが、不思議?」
何度目かの眠りから覚め、リツコはこちらの房を見つめている少女に問うた。
少女は答えない。ただ赤い瞳を見開いてリツコを見つめるばかりだった。
この湿っぽい地下に幽閉されて、どれくらいの時間が過ぎただろう。今が昼なのか夜なのか、それすらも分からない。
・・・・あの森の中の、薄暗い氷室のようだ。
あの氷室での十余年。リツコと、母は地獄を見た。
母も、最初は魔術者としての興味からこの計画に加担したに違いない。・・・しかし、途中から完全にその目的を見失ってしまったのだ。
あの男を、愛してしまったから。
どんな思いで、母は呪法を完成させたのだろうか。愛した男のために、同じ魔術者として敬意を持ってもいたが、それ以上に憎んでいた女を再生させる。矛盾をかかえながら、それでも母は狂ったように研究を続けた。
そして、レイが生まれた。女の面影を宿し、女神をその身に降ろした子供が。
呪法の鍵となる子供が。
リツコが母を手伝い始めたのは、このころからだった。だからリツコは、母が静かに狂ってゆくさまを目の当たりにした。
突然大きな声をあげて、小さな子供に手当たりしだいに物を投げつける。冷静で、優秀な魔術者である母を尊敬していたリツコには、その光景はひどくつらいものであった。
母を責めることもできず、ただ怯える子を庇ってリツコが傷つく。正気に返った母は、いつもその行為を恥じ、そして悔いる。
だからリツコは男を憎んだ。
尊敬する母を苦しめる男を。
リツコが不在のとき起きた発作で、母は子供の首を絞め、危うく殺しかけた。・・・正確には気を失ったのを殺したと誤認して手を離したのだが、帰ってきたリツコが床に倒れている子供を見つけたとき、母の姿はすでになかった。
森中捜したあげく、森の外れの崖下で、岩に叩き付けられた母の変わり果てた姿を見つけた。
悲嘆に声もなかった。だがそのリツコに男がしたことは――――――。
一人の農夫が見た。
領主館の塔屋のひとつに、人ならぬ影が舞い降りるさまを。
身の丈の倍はあろうかという闇の翼。闇色の衣。
その手には大鎌。
舞い降りたものを形容する言葉を、農夫は知っていた。
―――――「死神」。
***
その夜、重い足音がして、衛士が二人ばかりリツコの房の前に立った。
リツコは無反応だった。
あえて見ないふりをしている訳ではなく、関心がないのだ。
衛士の一人が鍵を開け、重い格子扉を開いた。
「・・・・お館様がおよびです」
彼女にとっては福音であるはずの言葉に、彼女は暫く反応しなかった。あるいは聞こえなかったのか、と衛士がもう一度その言葉を口にしようとした矢先、彼女は顔を上げることもなく深く吐息し、言った。
「・・・・・・意外と、早かったわね」
さすがに衛士が怪訝な顔をする。それを意に介することなく、リツコはゆっくりと立ち上がった。
「私の家に使いを出して・・・・・・・」
***
―――――――大きな波が寄せて、彼の身体が強く撓った。
彼の身体の上で、シンジもまたびくりと反り返る。
「・・あぁ・・カヲルく・・・ッ・・・ぁ・・はぁ・・・・カヲル君っ・・・・・・!!」
激しく突き上げられながら、彼はそれでも優しくシンジを見つめていた。その口許に、慈しむような微笑すら浮かべて。
反りかえり、あられもない声を上げ続けるシンジ。だがその喉に、不意に闇色の大鎌が突きつけられる。
『・・・躊躇っているのかい?』
労るような声音。その深みのある声はシンジには届かず、絶対の恐怖をまとうその刃もシンジには見えない。
彼は少し悲しげに言った。せり上がる熱によらぬ吐息と共に。
――――――――あなたには、見られたくない姿だったな。
闇の衣、闇の翼・・・・恐怖の名を冠する彼の眷族。魂の緒を斬る長大な鎌を手にした、生きるものすべてにとって不吉な姿とは裏腹に、孔雀石の翠の双眸はひどく優しい。
『・・・かえっておいで。今はもう躊躇うときではないよ』
――――――――分かっている・・・あなたが来たということは・・・そうか・・・そういうことか。
『・・・すべては父なる方の御意志のままに』
表情を硬くして、厳かに宣する。だが、緑瞳は悲しみに満ちていた。
『・・・もういいんだよ。かえっておいで。・・・もう、君自身を傷つけることはないんだ』
――――――――嗤ったって怒らないよ。・・・そうさ、捕まったのは僕の方・・・。
そんな眼で見ないで。
彼女が・・・彼らを赦し赦して、赦し続けた理由が、今なら少しだけ分かるんだ。
あとわずかで達し損ねているのか、シンジが苦しげに喉をひくつかせている。その喉元に、再び刃が当てられた。
『・・・今ここで、君を解き放つこともできる』
黒衣の者の申し出は、決して安っぽい憐憫によるものではなかった。だがそれを、彼は静かに瞼を閉じることで拒んだ。
――――――――僕の責務は彼女を月へかえすこと。あなたにはあなたの責務があるように・・・・。
翠の双眸が、その答えに悲しげに閉ざされる。
『・・・もうすぐ、裁きは下される。君が、早まった選択をしないことを願っているよ』
大鎌が引かれる。そして、黒衣と黒い翼が、音もなく闇に溶けた。
「・・―――――――あァ・・っ・・!!」
直後、シンジが激しく背筋を震わせる。一瞬の空白を置いて、彼の胸の上に頽れた。
お互いの首筋に、詰めた呼吸が熱い息となって零れる。
彼は優しく名を呼び、癖のない髪を抱きしめた。
「・・・・ごめんね・・・」
「カヲル・・・君・・・?」
呼吸を荒らし、その眼の焦点もまだ定かではなかったが、シンジは彼のいっそ悲痛とも聞こえる声音に顔を上げた。
「・・・彼女を解き放つためには、君のお父さんに奪われたものを取りかえさなきゃならなかった」
擡げた頭を再び優しく抱いて、彼は言葉を続けた。
「方法はいくつかあった・・・ひとつは、君に僕と同じ力を与えて、直接的に取り戻す方法。もう一つは、君と彼女との間に共振を起こして、目的のものを召喚する方法。・・・あとひとつは」
「何だってするよ・・・・だから行かないで。僕を一人にしないで・・・」
「・・・・いずれにせよ、君はお父さんに背くことになるよ?」
「構わないさ。・・・・すべて間違いでもいい、君をかえしたくない。ねえ、どうしたらいい・・・」
縋りつくようなシンジの言葉に、彼は返答しなかった。ただ緩慢に身を起こし、つられるように起き上がったシンジの両頬に触れて、そっとくちづける。
問をはぐらかされたシンジが、その感覚に酔う。
そのさなかに、「ごめんね」という声を聞いたような気がした。
腕の中の存在が砂のように零れてしまうような感触に、シンジが眼を開ける。
目の前の白い美貌。しかしその色がおかしい。まるで・・・。
思わずシンジが呼吸を停めた直後、風が霧を吹き払うようにそのシルエットが散らされる。
シンジの両手に残るのは、一握の石英砂。
その優しい顎の線も、細い肩も、シンジの頬を捉えていた繊手までもが、白い砂になってさらさらと零れてゆく。
シンジがただ硬直し、唇を震わせるその目前で、翼を斬り落とされた天使が砂に還ってゆく。
乱れた褥に、灰を彷彿とさせる白い砂がわだかまる。その中で、紅が光った。・・・血を固めたような、深紅の球。
シンジの口から、絶叫が迸った。
***
「少しは楽になられまして?」
ゲンドウが目を開けたとき、熱で曖昧な視界にはリツコがいた。
「事が成就するまでは、捨てた女でも利用なさるのね」
何も言わず、起き上がろうとする。が、全身が痺れたようになっていて、無駄だった。
「熱病か」
「・・・・・女神の怒りと、お考えにはなりませんの?」
「降ろしたのは我々だ」
「そうでしたわね。あなたと、そして私の母と・・・・・・でも、それを彼女が恩に思われるとでも?」
「何が言いたい」
「・・・・あなたに無断で、部屋にちょっとした細工をさせていただきましたわ。あの後、何度ぐらいあの抽斗に触れられまして?・・・意外と発現が早かったところをみると、毎晩熱心にご覧になっていたのでしょう」
「・・・博士・・・」
「苦しいですか?・・・・でももう少しで終わりますわ」
扉の両側に控えていた衛士が色めき立って殺到する。だが、槍の垣を前にして彼女は優雅な笑みを浮かべていた。
彼女の言葉も、表情も、冷静そのもの。
「・・・・止まりなさい」
彼女が彼らの眼前に突き出した拳ほどの硝子玉に、衛士たちがたたらを踏む。透明な硝子の中で、火が燃え盛っている不思議な玉。
火精球。これ一個で、この棟程度は一瞬で灰燼に帰す。
「巻き込まれたくなかったら、私が十数える間にここから退去なさい」
「赤木博士!」
「・・・・・この玉を割らずに私を殺す自信のある人はいる?勇気のある人は、やってみても結構よ。但し、失敗したら目も当てられないわね」
さすがに衛士達がたじろぐ。はったりでないことは明らかだった・・・しかし。
空いた手で、汗の滲んだゲンドウの額に手を触れる。
「・・・あなたは死ぬんですわ。でも、それは人界の背信者としてではありません。忠実だと思っていた飼い犬に手をかまれ、野望半ばにして足元を掬われた、愚かな男として」
風邪に苦しむ子供をあやすような、そんな優しい口調で・・・唇にのせた言葉は。
ゲンドウが喘いだ。
「・・・何をしている、取り押さえろ」
絶対の領主の言葉は、勝算を無視した無秩序な突撃を誘発した。
彼女は、それでも微笑んでいた。
TO BE CONTINUED