軽くお茶が出来るほど、十分な時間の余裕を持って楽屋に入るのが彼女の習慣だった。
「で、最近どうなの。あのクジラのふりした鯱とは」
「・・・え?」
アイスティのグラスを持ったまま、高階ミサヲは思わず聞き返した。本当に、意味を取り損ねたから。
腰まで流れる漆黒の髪。闇色の双眸を実に愉快そうに細め、ほとんど化粧っ気がないくせに紅玉と紛うばかりの色艶を保つ紅唇の端を吊り上げて、ミサヲがコンサートの舞台に上がるときのスタイリストと恃む旧い友人は笑った。
「・・・あら、バックレるつもり?」
Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「Sweet Eden Ⅲ」
Femme Fatal
「だから、何のこと?」
どうやらミサヲが本気で訊き返しているらしいことを察して、深海リエは内心でため息をつき・・・それから気を取り直すためにアイスティで唇を湿した。
そして、ゆっくりと息を吸い込んでから言い放つ。
「あんたんとこの顧問弁護士!」
「・・・なんだ、イサナのこと」
きょとんとして、しかしあっさりとファーストネームで呼び捨てておいて、ミサヲがこともなげに自分の分のアイスティに口をつける。
「・・・どうもこうも・・・相変わらず兄さんのとこに入り浸ってるけど」
それはとりもなおさず、ミサヲのすぐ近くに居るという意味ではないだろうか。そこの処を指摘するのがこの際効果的なのかどうか、リエは僅かな間考えて・・・やめた。
「・・・で、何で鯱なの」
真顔で訊き返され、心底項垂れる。突っ込むのはそこか。
「・・・ごめん忘れて」
実は前にも一度話題に上げたのだが、綺麗に忘れてしまっているらしい。イサナという名前が鯨を意味する古語であることなど、ミサヲにとってはあまり感興を催す知識ではないようだ。
特に理由がなくても鼻っ柱をへし折ってやりたくなるあの傲岸不遜な美貌を思い浮かべ・・・それでも少しだけ同情する。
「少しは進展したのかってことなんだけど」
「何をどっち向いて進展しろって? 彼が傍に居たらうるさいのが寄ってこないから、居てもらってるだけだし。そりゃ、弁護士としては切れ者だから助かってるけど」
「・・・あっそう」
幼馴染みで現在に至るまで友人。スタイリストとしてのリエの上客で、公的には勤務先の代表取締役・高階ミサヲは、バッサリと言い放った。突っ込むのも面倒くさくなって、リエは化粧道具箱に手をかける。
「ま、いーわ。んじゃ、ぼちぼち始めましょ」
「ええ、よろしくね」
色の淡い髪に軽くブラシを通す。鏡に映る友人は…確かにあまり派手な顔立ちというわけではない。
先頃飛行機事故で夭折した稀代のヴァイオリン奏者、セラフィン・渚・ローレンツと組んでいた時には、セラフィンが殊の外綺羅ぎらしい美貌であったので、その傍でピアノを弾く彼女に言ってしまえば月のような・・・ひどくひっそりした印象すら受ける者がいたかも知れない。
しかし、見る者が見れば…。
「あんたは最高よ、ミサヲ」
メイクと衣装を調えた後、いつもリエがそう声を掛けるから、ミサヲは今更照れもしない。
「ありがと。じゃ、行ってくるわ」
リエは、舞台に向かうミサヲを見送りながら…今此処で考えても全く意味のない自問をした。
こういうのを、何と言ったか。見るからに男を惑わす妖婦というわけではないのに、結果として男の運命を狂わす女。
***
「あー、コレだわ」
デスクの上にあったゲラ刷り1を手にして、リエは得心がいった。
「え、何?何か問題ありました!?」
リエのオフィス。幾重にも重なり合うディスプレイと資料の山の向こうから、慌てた声が降ってきた。
「あー違う違う、大丈夫…かどうかは、今から見るから」
リエはひとまず軽く手を振って、しかしまだ肝心のチェックが済んでいなかったことを思い出してトーンを下げる。
「はーい、首を洗って待ってます」
「5分頂戴。とりあえず、あんたはそっちの仕事してていいわ。相変わらず無茶苦茶な仕事の受け方してるんだから…いつか身体壊すわよ?」
「はぁ、それについてはここに来る前にイサナからも叱言くらったばっかりなんですが」
申し訳なさそうに栗色の頭を掻いて、ファイルとゲラ刷りを持ってきた人物は持参のノートパソコンに視線を戻して別の仕事を再開した。
榊タカミ。セラフィン・ローレンツの弟であるが、彼自身は演奏家というより作曲家、CGデザイナー、時にはソフト開発者でもあった。未成年のうちから姉のツアーについて歩き、マネージメントも手伝ったりしていたらしいから、実に多芸なのだが…いつまで経っても高校生ぐらいにしか見えない。
今ここに居るのはCGデザイナーとしてだ。請け負ったCDジャケットとライナーノーツのアートデザインの締め切りは今日の11時。一応締め切り前に持ち込めたはいいが、リエのOKが出なければ締め切りが守れたことにはならない。ゆえに「首を洗って」待っている次第であった。興味の赴くところに従って後先考えずに仕事を受けてしまうため、いつも締め切り寸前というのは事務所内では周知の事実であったが、彼自身は此処に所属しているというわけでもないので誰にも咎められない。ただ、多方面から叱言と、場合によっては鉄拳制裁をくらうだけである。まあそれでも発注が途絶えないあたりが立派と言うべきだろう。
ちなみに概ね、鉄拳制裁に及ぶのはリエである。
「ふーん、あんたもこんなの撮れるようになったんだ。いいわ、問題なし。向こうに回しとくわ」
きっかり5分後、ゲラを置いて言った。
「ありがとうございますー…」
ぷしゅー、と音がしそうな勢いでタカミがソファーの肘掛けに凭れる。
「ちなみに何だったんですか、『コレ』って」
ひとつ無事通過したので気が抜けたのか、とりあえず手元の仕事は中断してノートパソコンをたたむ。ペットボトルの炭酸水で口を湿らせて、タカミが問うた。
「ああ、つまんないコトよ。それよりタカミ、あんた人物も撮るようになったのね。基本、風景とか静物のコラージュが多かったじゃない。アーティストのポートレートは本職に任せてばっかりだったし。モデルまで立ててって、初めてじゃないの?」
「だって僕は写真家じゃなくてCGデザイナーですし。今回はタイトルがタイトルでしょ?全く人物なしって訳にはいかなかったんです」
「そこよ。あんたこういうの苦手なんだと思ってたわ。この仕事を受けたの自体…どーいう心境の変化?」
半ば揶揄ってやるつもりで封筒に入ったゲラ刷りを差し示す。
アルバムのタイトルは「Femme Fatal」。ファム・ファタル…―運命の女。
できあがったジャケットとライナーノーツは、蒼い海と白い砂が何処までも続く海岸に、セレストブルーのドレスを纏った女がそぞろ歩くカットがメインだ。金色の髪や白皙の手足、朱唇といったパーツのアップはあるが、顔は写さない。観る者の心の中に居る『運命の女』を巧妙に想起させる仕組みだが、知っている者からすれば誰をイメージしたのか一目瞭然である。
「だってそれは…僕、見つけちゃいましたし、”Femme Fatal”」
すこしぐらい照れてみせれば可愛気もあるのだが、いっそ誇らしげですらある微笑を浮かべて言い切られた日には。
「ふーん…」
指の関節を鳴らしながらおもむろにリエが立ち上がると、タカミが血相を変えて腰を浮かせる。…が、遅い。
「…こいつ…やっぱり、仕事に託けて盛大に惚気たな!?」
「そんな、惚気だなんて…わっ!リエさんってば絞め技は勘弁ですっ!!」
***
「あーもう…またユカリちゃんに叱られたじゃないですか」
「まあ資料の箱一個ひっくり返しちゃったしね」
「確かにひっくり返したのは僕ですけど、そもそもリエさんが絞め技かけるからでしょ。本当にオチるかと思いましたよ。力加減ってものをご存じないんだから!」
ゲラ刷りを受け取りにきたユカリが止めに入らなければ、本当にいっぺんぐらいオトしてやってもよかったのだが…。
「全く、あんたも言うようになったわねえ。サキんとこで養生してた頃は女の子みたいに可愛かったのに」
わざと少し凄味を効かせて笑ってみせる。
「お願いですからそこは掘り返さないでくださいって」
ノートパソコンに向かいながら、タカミが苦い顔をした。何やらソフト開発者としての締め切りが迫っているらしく、結局移動の時間を惜しんでオフィスの机を一部占拠している。関わる頻度から考えれば机のひとつくらいくれてやっても構わないのだが、それは謝絶された。それじゃ社員みたいじゃないですか、という理由で。
似たようなもんじゃない、と言ってやったのだが、けじめは必要ですよ、と切り返された。正論なのでそれ以上突っ込んだことはないが、そのくせ来客用のテーブルを頻々と占拠するのだからよくわからない。ただ、これもあの兄妹の係累だというあたりで妙な納得をしてしまうリエだった。
「あら、そう? あの頃はあれでいいカンジの艶があったんだけどなぁ…」
「何処をどう押したらそういう話になるんですか。言っときますけど、あんまり艶っぽい話を期待しないでくださいね。…あの頃、僕はフラッシュバックとそれを抑制するためのオーバードーズ2の間でかなりおかしかったですから、実のところ前半の3ヶ月くらいは結構記憶だって曖昧なんです。本当に、コントロール悪くて…」
天使を地上から連れ去ってしまった飛行機事故は、同乗していたこの青年にも深い爪痕を残した。身体の傷よりも、心の傷。退院した後もしばらく日本に戻れず、ハドソンバレーにある高階の屋敷で静養していたのだ。
ある日突然地獄の光景の中へ放り込まれ、家族を亡くしたとあっては無理もなかっただろう。傷ましいばかりに痩せ細り、ある時期まではいつ見ても蹲って硝子玉のような両眼で虚空を眺めていたものだ。
「確かにね…よくもまぁ、あの状態から戻ってきたもんだと思うわ」
今も相変わらず線は細いが、いつまでも子供のような好奇心と活気に溢れた緑瞳を見るにつけ、世の中には奇跡というものが確かに存在するらしい、とリエは思う。
「そりゃ、みんなが気にかけてくれましたから」
目と手を忙しく動かしながら、タカミが笑う。何の仕事かまでは聞いていないが、先刻から傍目には全く意味がとれない記号と数字の羅列を凄まじい勢いで入力している。それをまた雑談をしながらやってしまうあたり、要領が良いで済まされるレベルではないと思うのだが。
「まー…サキなんか時々自分の仕事忘れてンじゃないかと思うくらいあんたにかかり切りだったわよね。そりゃセラの忘れ形見なんだから、必死になるのもわかるけど」
「ああ、あの時は…でも本当は、少し違うんです。大体僕なんて、姉さんとはあんまり似てませんって」
「そーかしら」
「そーですよ。大体、姉弟ったって母親違いますしね」
「あら初耳」
「いろいろ複雑なんですって。でなきゃ何で僕が榊って姓で、姉さんの扶養に入ったりしてたと思うんです」
「そういえば謎。考えたことなかったけど」
「まあ、僕の事情なんて…至ってありふれたもんです。あの二人に比べたらね…」
タカミの手が止まる。闊達な緑瞳がふっと翳った。
「…何?」
リエの声に、タカミが明らかにびくりとして口許へ手を遣る。
「あの二人って、どの二人?」
「えっ…僕何か言いました? うわ、こんな時間」
手を止める前よりも明らかにスピードアップして、タカミが作業を再開する。おそらく時間が押していなければそそくさと逃げたかったに違いない。しかし、そうしてしまうと間に合わないのがわかっているから、逃げられない。
リエは唇の片端を吊り上げた。
「いーのよ?机ぐらい幾らでも貸してあげるからまずはその仕事、上げちゃいなさいよ。その代わり…今晩一杯付き合いなさいね」
「あー…僕、お酒は無理ですよ?ご存じでしょ?」
タカミの声がひっくり返りそうになっている。だが、リエは全く斟酌せずに繰り返した。いや、さらに圧力を強めて。
「…付き合いなさい」
「…はい」
タカミが項垂れた。
***
「いーじゃない、仕事間に合ったんでしょ?私が場所貸してあげたからよね?」
屠畜場に牽かれる家禽3のような表情で、バーカウンターのよく磨かれた表面に映る照明と…目の前に置かれたピルスナーを眺めていたタカミが、ぽつりと言った。
「…リエさん、アルコールハラスメント4ってコトバ、ご存じですよね?」
「和製英語ね。知ってるわよ」
「無理ですからねっ!一杯の半分でも呑んだら、僕はオチますから。何も喋りませんから!…ってか、喋れませんから!」
「…ったくけたたましいわね。んなこた判ってるわよ。じゃ、呑ませなきゃ喋る気はあるわけね」
「悪魔ですかあなたは」
泣きそうになりながら抗議するタカミを見遣って、リエが嘆息するように言った。
「注文するとき聞いてなかった?これシャーリー・テンプル5よ。コレで酔っ払えたらそれはそれで凄いわ」
「実はダーティ・シャーリィ6ってことはないですよね?」
おそるおそる、という態のタカミ。
「諄い」
リエはピシャリと言い放った。
「…はい、すみません」
タカミが観念したようにシャーリー・テンプルの入ったピルスナーを手に取る。
「ホラ、とりあえず何か食べなさいよ。他に食べたいものあるんなら頼むわよ。私は夕食済ますつもりで来てるんだから」
リエ自身ははジン・フィズ7を傾けながら、フードメニューのボードをひっくり返して問う。
「…ったく、エラいひとに聞かれちゃったなぁ…。どこから話せばいいんだか」
タカミは深く吐息した。
「…リエさんも、サキが姉さんに片恋してたって信じてるクチ? 僕がおかしくなってた時に、サキがヴァイオリニストの命にも等しい指先を潰しかける勢いでずっと弾いてたのも…突き詰めれば姉さんの為って?」
「違うの?」
「崇敬と恋慕は別物だと思うな。…そりゃサキは昔から姉さんのことすごく慕ってたけど、じゃあ、姉さんが結婚して落ち込んだかってそんなことなかったし…むしろ義兄さんとも結構仲良かったんですよ。指揮者としての師匠はキールの爺さんだけど、ヴァイオリンに関してはなんていうか…姉さんを絶対視してたし。僕なんてその余禄で構ってもらってたようなものですよ。
…そっか…だからまぁ…僕に構ってくれてたのは姉さんの為、ってコトに関しては間違ってないだろうなぁ…でも、指を潰しかけたのは違うと思う。そんなコトしたって姉さんに叱られるだけって…多分、世界でいちばんよく理解ってたの、サキだろうから」
タカミは考えるようにしばらく軽く目を閉じていたが、重たげに口を開いた。
「リエさん、あなた聞いた秘密を墓まで持って行ける?何があっても絶対に口を噤んどく自信はある?」
「時と場合によるわ」
「僕だって聞かなきゃ良かったと思ってるんです。姉さんが僕に話したタイミングのことがなければ、聞かなかったことにしておきたいくらいなんですから。
すべてが壊れてしまうかも知れない。そんな秘密、本当はいっそなかったことにしちゃえばいいと思いませんか?」
「何、重いわね。…いいわ、約束しましょう。誰にも言わない。それこそ墓まで持って行くわよ。これでいい?」
リエに全く退く気がないことを確認してしまったタカミは、もう一度深く息をついて、グラスを傾けた。
「リエさん、サキが…ミサヲちゃんに結婚しちゃえってそそのかす割には自分が身を固めようとしない理由…・知ってます?」
「あぁ、ミサヲがぶつくさ言ってたわよ。そういう叱言は自分が片付いてから言うもんだって」
「…無理です。サキは誰とも結婚なんてしないと思いますよ。だって、サキのFemme Fatalは…ミサヲちゃんだから」
「…ちょっと待って。いくら何でも…」
「下らない噂話とは別物ですよ。サキがミサヲちゃんを凄く大事にしてるのは隠れもない事実だけど、それはミサヲちゃんが唯一の身内だからっていうのとは少し違うんです。…・だって、あの二人…血は繋がってないんだから」
「…は?」
「全く他人かっていうとちょっと語弊ありますけど。すくなくとも婚姻を妨げるほどの血の親さはないんです。…で、それをサキは知ってるけど、ミサヲちゃんは知りません」
「冗談でしょ。どっからみても兄妹じゃない」
「奇跡みたいな事実なんだからしょうがないでしょ。それに、ちょっとした仕草や言葉、行動パターンって、生まれたときから一緒に居ればそれなりに似てくるもんですよ」
タカミが嘆息する。
「サキのお母さんが、英国のサーキス家の出ってのはご存じですよね?ミサヲちゃんの母親ってのは、サーキスの本家筋のひとで…これもまたやんごとない処に嫁いでたらしいです。両親とも健在なら何も問題なかったらしいんですけど、旦那さんが急逝したあとにミサヲちゃんが生まれて、しかもミサヲちゃんのお母さんもあんまり身体が丈夫じゃなかったらしくて…自分が死んだ後のことを凄く心配してたんです」
「地位も財産もあるところにはあるって話だわね。それを言ったら高階の家だって似たようなもんじゃない。だからサキがピリピリしなきゃいけなかったんでしょ」
「言っちゃ何ですけどレベルが違うらしいです。だから、母方でも父方でも、うっかり引き取られるとミサヲちゃんが先々ひどく窮屈な思いをするからって…思い切って高階の娘ってことにしたらしいんです。で、やっぱりミサヲちゃんを生んでほとんどすぐに亡くなってます。
サキのお母さんと、ミサヲちゃんのお母さんってのが…姉妹みたいによく似てて、? ??がよかったんだそうです。…で、その陰謀に荷担したのがセラのお母さん。
姉さんは、『墓まで持って行くべき秘密だけど、真実を知る者は必要だから』ってその話を聞かされたらしいです。万一、何かでミサヲちゃんと高階夫妻で親子鑑定って話にでもなったら、ややこしいことになるでしょ?」
「…で、あんたはセラからその『墓まで持って行くべき秘密』ってやつを渡された訳だ」
「よりにもよって、あの事故の直前ですよ。そうじゃなかったら、こんな重たい話…聞かなかったことにしてました」
タカミが頭を抱える。
「いっそのことあの事故のショックで忘れちゃえたらどんなによかったか。…ある意味、あの事故がサキの退路を断っちゃったんです。姉さんがいなくなったってことは、真実を知る者がいなくなったってことで…その頃、サキはミサヲちゃんに本当のことを言うべきかどうかで迷ってたとこだったのに、タイミングが悪すぎて…」
「ちょっと待って。あいつ、言うつもりはあったっての?だってあの頃、もうイサナを高階の家に出入りさせてたじゃない」
「だから、『迷ってた』って言ったでしょ。サキは高階の両親が亡くなる前に聞かされてたらしいけど、ミサヲちゃんにしたら降ってわいたような話ですよ?それに、サキがミサヲちゃんの『兄』でいつづけるつもりなら、それこそ墓まで持ってったって構わない話…もしくは、あっさりバラしちゃってなにか差し障りのある話でもないじゃないですか。その頃面倒くさい係累はほとんど鬼籍にはいっちゃってて、バラしたからって俄にミサヲちゃんが本家へ連れてかれるって状況でもなかったんだから。
サキはミサヲちゃんの幸福を心から願ってる。でも、自分じゃそうしてあげられないって思ってるんです。…だからイサナを選んだ。でもまだ、あの事故の時点では迷ってて…あの時、本当は姉さんに相談するつもりでいた」
タカミはそこで言葉を切り、組んだ指先を額に当てて…呼吸を整えるように深く息を吸った。
「…サキが指を潰しかけるくらい弾き続けてたのは…姉さんに相談し損ねて自分で退路を断っちゃったサキが、自身を調律するためだったんですよ。…そりゃ、僕はサキもサキのヴァイオリンも好きだから…ずっと傍に居ていくらでも弾いてくれるって…滅茶苦茶贅沢な環境でしたけど…ある意味結構つらかったです。
僕がいつまでもぐだぐだやってたら、サキにミサヲちゃんを返してあげられない。なんとかしなくちゃって…だから頑張れたって話もあるんだけど」
「…ひとつ、訊いていい?」
注意深く、リエは言った。
「秘密を知ってるセラがいなくなったことで、サキは退路を自分から断ってしまったって言ったわよね。…じゃ、サキは知らないの?あんたがそれを受け継いだってこと。…言ってないの?」
タカミは、意外なことを訊かれたというように一瞬目を見開いて…そして静かに伏せた。
「…そっか…そういう選択肢もあったんですよね…」
その口許は微かに笑っている。
「思いつきもしなかったな…そうしてみると、狡いのはサキだけじゃなかったんだ」
「…狡い?」
「だってサキは、好きな人の傍にいるために、男としてじゃなくて身内っていう絶対に揺るがない絆のほうを択んじゃったんですよ。ミサヲちゃんが欲しいなら…証人がいようがいまいが真実を話して堂々とイサナと競えばよかったんだ。狡いって言わなくてなんて言うんです。
あなたはミサヲちゃんを諦めなくていいって…僕が言ったら良かったんですか?…無理ですよ。あんなサキ見てたら、言えるわけ…ないじゃないですか」
タカミが目の縁を微かに紅くしてカウンターに突っ伏してしまったから、さすがにリエが慌てた。
「ごめん、私が悪かった! とりあえず落ち着いて頂戴。ホラ、来たわよ。コレ飲みなさい」
いつの間に注文していたものか、そのタイミングで出てきたホットチョコレート系のカクテルを差し出す。
「ありがと、リエさん。…あ、美味しそうだ」
優しい色合いとチョコレートの甘い匂いに安心してか、タカミが顔を上げてカップを手に取る。
「…無理に喋らせて悪かったわよ。判った、秘密は守る。だから機嫌直しなさいって」
タカミが目の縁を紅くしたまま、いつもの柔らかい笑みを浮かべて言った。
「僕は別に機嫌拗らせたりしてませんよ。ちょっと思い出してつらくなっちゃっただけ…。
それからリエさん。今日僕が喋ったこと…全部が全部本当とは限りませんからね?」
時折カップを揺らして表面の泡に描かれた猫がふわふわと泳ぐのを見つめては、半ば呟くように言葉を続ける。
「姉さんが事故の直前に、渡された秘密を僕に話したのは本当です。サキが何か姉さんに相談したがってたってことも。でもね、サキの本心なんて…実のところ僕の推測でしかないんですから。言ったでしょ、当時の僕なんて事故状況のフラッシュバックとオーバードーズで相当おかしかったって。
サキはああいうひとだから、いつも面白おかしく話してくれるけど…本当のところってあんまり言わないでしょ。でもあの頃…あの状態の僕に何言っても憶えてないだろうって思ってたのか…結構いろいろ話してくれてた。あれがどのくらいの割合で本心だったのか…」
言い終わるか終わらないかのうちに、かくんと栗色の髪が揺れた。リエがはっとしたときには遅い。
「ちょっと、このチョコレートエッグノック8、ひょっとしてアルコール入ってない?」
呼び止められたバーテンがきょとんとして振り返ったものだから、リエが状況を了解して額を抑える。
「…やっちゃったか」
おそらく自分で注文はしたのだろう。ただ、エッグノックにアルコールを入れる習慣がないものだから、まさかブランデーが入っているとは思わなかったに違いない。見事カウンターに沈んでしまったタカミを眺めて、リエは嘆息した。
「うーん…こーゆートコなんだから確認ぐらいすりゃいいのに…といっても遅いわね」
かろうじてコースターに戻されたカップ…耐熱ガラスに渋い銀色のワイヤで装飾と取っ手がついたそれの中身は、半分ほどになっている。猫の模様は、既にミルクチョコレート色の中に泡とともに消えていた。自身でも落ち着こうとして普通にホットミルクでも飲む勢いで飲んでしまったに違いない。
「所帯持ちのくせにガード甘すぎるわよ。取って喰われても知らないから。あ、でも可愛いから写真撮っちゃえ」
そうは言ったものの、此処に放置するわけにもいかない。さてどうしたものかと携帯に収めた写真を眺めながら考えていたが、ここは通報するしかないなと肚を括った。
***
「…で、何をやった」
訳もなく鼻っ柱をへし折ってやりたくなるような…傲岸不遜な美貌を幾分困惑に曇らせて、イサナが問うた。
常に濡れているような艶を放つ黒髪と、抑えた灯火の下では紫に近い色彩を放つ双眸。事務所の顧問弁護士であり、世間的には友人のほぼ公認の恋人…鯨吉イサナ。
「やーね、ただの事故よ事故。悪いんだけどこいつ宿に放り込むの手伝ってくれない?」
「今からハドソンバレーか?」
「違うの。今回忙しいからって普通に宿取ってるらしいから。すぐそこなんだけど…いくらこいつが軽量級でもさすがに私、担げないし」
「それは構わんが…この状態でホテルに一人寝かしておいて、もしこいつが夜中に吐物詰まらせて窒息でもしたらお前、保護責任者遺棄致死9ってことになるが」
「どーしたらそこまで飛躍すんの!?」
「判例があるから言っている。仕方ない、朝までうちのフラット10に寝かせておくしかないだろう。…良かったなリエ、サキが不在で。サキにバレたら大目玉くうところだ」
「何よ、悪いの私?」
この状況だとどうひっくり返してもそうだろう。リエもそう思うのだが、とりあえず反論してみる。が、案の定流された。
「それと、悪いことは言わんから先刻送りつけてきた画像は削除しておけ。悪ふざけもほどほどにしないと、こいつの細君は結構怖い女だぞ」
「あら、面識あったの?」
「以前こいつがどうしても延ばせない仕事を落としそうになって、二日ばかり拉致ったら『いつも迷惑かけて申し訳ない、でも出来ればお手柔らかに』…と、笑顔で恫喝された」
「…それはご愁傷さま」
リエは背筋を冷たい汗が伝うのを感じた。この男が恫喝と受け取るほどの迫力を笑顔で押し出すとは、タカミのFemme Fatal…恐るべし。確かに洒落で済ませてくれる保証はなさそうだから、画像は隠滅すべきだろう。
「莫迦話は置いておくとして…俺はとりあえず先に行ってタクシーを掴まえておくから、会計済ませてこい。荷物の類はお前の責任範囲でいいな?」
「…はいはい、わかったわよ」
相変わらず問答無用な段取りの付け方が気に食わないのだが、この際一分の隙もない正論なのだから仕方ない。
***
イサナのフラットはマサキがハドソンバレーまで帰れない時の定宿でもあるから、一応予備ベッドがある。だが、冗談事でなく先刻言ったような事態を危惧してかタカミをベッドでなくリビングの長椅子へ放り込んでおいて、イサナが言った。
「…落ちるのは早いがほとんど翌朝に持ち越さない質だから、明日の飛行機に間に合わんとかいう阿呆なことにはならんだろう。…・ひとつ貸しておくぞ、リエ」
「とりあえず、恩に着るわ。いやー、どうしようかと思った」
「面白がってたくせによく言う」
「あらバレた? でも助かったのはホントよ。じゃ、私はこれで。後よろしくね」
リエは軽く笑って身を翻し、ドアに足を向けた。だが、イサナがするりと前へ出て、さりげなくノブに手を掛ける。
「…で、今度は何を企んだ?何だか判らんが…こいつ幾分泣きが入ってたぞ。あまり苛めるな、後が面倒だ」
「人聞き悪いわね。こいつが仕事に託けて堂々と惚気るもんだからちょっと揶揄っただけじゃない」
実のところ、それは契機に過ぎないのだが。リエはそんなことはおくびにも出さず、胡散臭げなふうを隠しもしない紫瞳を睨み返した。
「…先週の木曜」
何の前置きもない台詞。だが、リエにはイサナが何を言いたいのかは理解っていた。…思わず嗤う。
「私を責められても困るわ。私は一応忠告はしたの。携帯の電源切って無断外泊なんて、あんたんとこの番頭が心配するわよって。いいじゃない、あの後すぐに帰ってるでしょ。サキだって別に喧嘩したわけじゃないって言ってたし」
詰問されるよりも、圧迫感を与える紫瞳。しかし、かすかに混じる困惑を見て取るリエがそれを恐れることはない。
「…そういえば、ちゃんと使ってるのね。その時計」
ノブに掛けた手…その手首に目をとめる。リエは微笑った。その贈り主を、リエは知っている。気が利かないとは言わないが、場面でわざわざ時計を着け替えるようなまめさは持ち合わせない男だから、常に着けているというのが正解だろう。
他でもない、ミサヲが彼の誕生日に贈ったものだ。『事実がどうあれ、少しはそれっぽいことしとかないと、兄さんが気を揉むから』というのが贈り主の弁。何処まで勘繰っていいものかは、リエにとってもまだ未知数。
はぐらかしにかかったと思われたのは明白だったが、イサナは格別に回避することもしなかった。
「しない理由はないと思うが」
「ごもっとも。…で? 私、帰っていいのよね?」
「そうだな…とっとと帰れ」
今の時点でこれ以上情報を引き出すのは無理と踏んだか。イサナがドアを開けた。
その傍をすり抜けて外へ出る。『クジラのふりした鯱』は何も云わずにそれを見送った。
「…私は別に何も企んだりしてないわ。あんたら見てると歯痒いってだけ。あんまり煮え切らないと私が横合いから掠うわよ」
ドアの外に立ち、ショルダーバッグを掛け直して言い放つ。これだけ言って、どれほど響くものか判らないが。
案の定、返ってきたのは冷ややかな当惑。まあ、こんなものか。
「…おやすみなさい」
***
林立するビルの向こうの夜空に、月が出ている。
まだ夜は寒い。エントランスから出たとき、リエは吐く息が白くなるのを見た。立ち止まって、月を仰ぐ。
…あんたは悪くないわよ、ミサヲ。
派手さはなくても、凜として玲瓏。月の光の如き静けさと、その裡に包んだ確かな熱。
振り回してやればいい。今はもう地上に居ない者達はもとより、煮え切らない男共の思惑など関係ない。彼女が最終的に望むものをその腕に抱けばいい。
Femme Fatal…もたらすものが何であろうと、自分はそれを見届けるだけだ。リエは一度ゆっくりと息を吸い、そして歩き出した。
――――――――Fin――――――――
Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「Sweet Eden Ⅲ」
「Femme Fatal」についてのApology…
さらに拗らせてます
順番からいうとミサヲちゃんサイドの予定でしたが、うまく書き切れずにまさかのリエさんサイド。深海リエさん、言うまでもなく12番目の御方です。ここではミサヲちゃんの親友で専属スタイリスト。でもってやっぱり音楽事務所の重鎮。ご自身はあんまり演奏とかしてなさそうですが、日本法人で言うところのミサトさん的ポスト。「こわぁいディレクター」本社版ですね。タカミ君、頭上がらないうえに力いっぱい遊ばれてます。
リエさんとしてはミサヲちゃんが一番なので、男共の思惑なんか知ったこっちゃない。ミサヲちゃんが幸せになればそれでいーや、とか思ってます。…んじゃ百合な御方なのかというと…んなこと此処で書くと大家に絞め殺されますから口噤んどきますね。
「Femme Fatal」は池田さんの曲から。フランス語で「宿命の女(運命の女)」を意味し、しばしば文学や絵画のモチーフとして登場します。メリメの『カルメン』とか、サロメあたりが代表例とか。(この場合、旧約聖書というよりオスカー・ワイルドのサロメなんでしょう)ものの本によると「恋心を寄せた男を破滅させるために、まるで運命が送り届けたかのような魅力を備えた女」のことだそーな。本来あまり幸福な運命を暗示してないんですが…タカミ君にかかると、「出会うべくして出会った、結びつくべき運命」以外の何物でもないですね。つくづく、このシリーズのタカミ君ときたらお気楽120%、頭はいいと思うんだけど若干ほんわかお花畑ですから…リエさんが「所帯持ちの癖にガードが甘い」とかクサしながら喜んでおもちゃにしてます。お気の毒様。
ストレートにミサヲちゃんの話にしづらかったもんだからリエさんにご登場願ったのですが、話が更に混迷の度合いを増してしまったというオチがつきました。まあ、サキとのことに関しては、実のところ「夏服ー」で書き損ねた裏設定がスライドしてきただけなのですが。とりあえずNC話だし、大家につるし上げは喰わないでしょう。…ホントかいな(汗)
リエさんとのことは…思い切った筈なのにふっとどうしようもなくぐちゃぐちゃしてしまって、このままじゃ誰かを傷つけてしまいそうだ、と思った時のサキの避難所なんですね。だから携帯の電源切って行方不明になる。リエさんもそれがわかってるからとりあえず泊める。リエさんとしてはミサヲちゃんが大事だから、敢えてサキのぐだぐだに付き合ってる感じですね。無論、ミサヲちゃんやイサナには内緒。とりあえずイサナにはバレてるけど、イサナは事実を認識してても理由が理解ってない。
…なんだかますます着地点が見えない話になりつつある気がするのですが。あくまでも「裏なら裏らしく裏書きませう」話なので、ひどいことにはならない…筈です。(自信がなくなってきた…)
それでは皆様、次回まで万夏が正気でいたら・・・・・いや、何も申しますまい・・・・・・(^^;
2019/2/14
暁乃家万夏 拝
- ゲラ刷り…文字校正用の印刷物。DTPが発達した現代でもそう言うのかどうかは謎。写真メインの出版物は別の言い方をするのかも…
- オーバードーズ(drug overdose)…身体あるいは精神にとって、急性の有害な作用が生じるほどの量によって、薬物が使用されること。それによって一時的、あるいは永続的な影響があり、最悪の場合死亡することがある。過剰摂取、過量服薬と訳されることが多い。
- 家禽…家畜として飼育される鳥
- アルコールハラスメント…飲酒に関連した嫌がらせ行為や迷惑行為。職場や就学上の上下関係、場の雰囲気などを利用して、イッキ飲みを強要することや、体質や健康状態を考慮せずに、酔いつぶれるほどに飲酒を勧める行為などが該当する。
- シャーリー・テンプル…ノンアルコールカクテルの代表格。ライムソーダ+グレデナンシロップ(ザクロのシロップ)。親子連れで酒場に来た客が、子供にも安心して飲ませられるものとして開発されたとか。シャーリー・テンプルは1930年代に子役として有名だった女優。
- ダーティ・シャーリィ…シャーリー・テンプルにウォッカを加えたもの。
- ジン・フィズ…ジンにレモン果汁とソーダを加えたカクテル。
- チョコレートエッグノック…卵+牛乳+砂糖+チョコレートのカクテル。アルコールを入れずに飲む場合もあるけれど…。
- 保護責任者遺棄致死罪…幼児や高齢者、病人を保護する責任がある人が、放置したり、生存に必要な保護をしなかったりした結果、死亡させた場合に適用される。
- フラット…日本で言うところのアパート。