緋の髪が、柔らかな褥に流れる。
病み衰えた細い身体を包む白い膚が、一刻朱を刷く。
反らされ、かすかに震える喉を、クロエは切なさを押し込めながら、指先でなぞる。その指先が捉えられ、引き寄せられた。
「…触れて。クロエ」
絶え入りそうな哀訴を、どうして無下に出来よう。捉えられた指先をそのまま自ら絡め、掌を触れ合わせる。どちらからともなく唇を重ねた後、クロエはゆっくりと唇を首筋へ滑らせた。
紛れもない嬌声が色の薄い唇の間から漏れる。その響きが確かに身体の芯をざわつかせるのを感じながら、クロエは眼を閉じた。
解決にならないことはわかっている。それでも、ひとときこの弱り果てた身体に熱が戻るなら。
自分が感じる場所に、そっと唇を滑らせる。ただ自分が心地好いと思う場所に、心地好いと思う感触を与えればいい。…それだけ。
「…いいよ、アニエス。ただ感じて」
アニエスは、もう片方の手をクロエの背に滑らせ…細い吐息で応えた。
今、自分が彼女にしてやれるのは…ささやかな望みを叶えることくらい。
遣らずの雨
scar
細い雨の音に、ゆっくりと意識が現の水面へ昇る。
嬥歌の夜の翌日から…雨は連日、降ったり止んだりを繰り返していた。
夜明けの蒼い薄明かり。おぼろげに見える狭い苫屋の内は…半分ほどは板敷きの床である。もう半分は土をつき固めた土間だ。
内部は当初を思えばかなり片付いていた。いまや殆どの薬種は分類・梱包を終え、屋外にある岩室へ積み出されている。座敷の上には長櫃と、薬を調合するための道具類をおさめた櫃がひとつずつ。後は、今サーティスが臥している…つくねた詰草の上に敷布をかけただけの、仮初の褥があるだけだ。
家主の姿が視界に入らなかったから、サーティスは身を横たえたまま緩慢に身体を返す。…だがその瞬間、背を削られるような痛みで目が覚めた。
敷布といっても帆布にさえ使われるような強靱さをもった厚い布である。癒えかけた傷のある背中を直に擦れば…当然、痛い。
「…っ…」
たかが擦傷だ。息も停まるような激痛とは言うまい。それでも、心地好い微睡みから叩き出されるには十分であった。目覚めとしては…まず最悪といってよかろう。それとて己の迂闊な動作の結果だから、誰に文句を言うこともできない。
身を起こしながら、サーティスは小さく舌打ちした。傷を覆っていた包帯はすべて解けて腰の周りで蟠っている。
「…傷が擦れたか。やはりまだ覆っておいた方が良かったな」
女としては低めの、通りの良い声が…至極冷静な診断結果を簡潔に述べる。それで、サーティスは包帯を取り去った張本人の所在に気づいて振り返った。
昼ともなれば陽が透いて見えるような薄い板壁に、上半身を預けて片胡座。その皓い膚を夜明けの蒼い光に惜しみなく晒したまま、膝の上には集めた薬種の目録を広げている。昨夜、流れるような所作で包帯を取り去った指先は…今、皓い膝の上で黒い羽根の筆を玩んでいた。
「…この暗がりで。仕事熱心なことだな」
「この程度の明るさがあれば何とでも。昨夜よく眠れたのでな。寝覚めがよかった。…御辺は、そうでもなさそうだ」
クロエはくすりと笑って筆を矢立におさめ、膝の上に広げていた目録と一緒に畳んで櫃の上に置いた。射干玉の黒髪は解かれたままで、所有者の動作でさらさらと肩や胸元に流れる。
その胸元が…常は、ゆったりとした神官衣の下できっちりと晒布で巻かれていたことを知ったのはついぞ先夜のことであった。ただ、今はすっかり弛んでこれも腰のあたりまで滑り落ちている。それがわずかな動作で更に解けていく。一歩間違わなくてもひどくしどけない所作であるはずなのに、あまりにも昂然としていてサーティスは思わず目を逸らすことすら忘れていた。
目を逸らす…今更?
知らず、サーティスは苦笑を零していた。だがその時、クロエがあの稚気に満ちた微笑を浮かべて手を伸べ、不意にサーティスの腕を掴む。然程な力を込めていたようには見えなかったのに、次の瞬間いとも簡単に引き倒されてしまって、笑いが吹き飛んだ。
「…ちょっと待て。何だ、この体勢は」
「いいから診せろ。御辺とて、自身の背の傷は診れまい」
クロエは温雅に笑っていたが、掴まれた腕はきっちりと極められていたから身動きも出来ない。
「背の傷を診るのに、俯せに引き倒して片腕極める意図を訊いてるんだが?」
「意図…?」
わざとかどうか。すこし不思議そうにそう問い返しながら、クロエが空いた手の指先で慎重に傷に触れた。
「…ああ、乾いた痂が少し剥がれただけだ。出血もしていない。よかったな」
「それはどうも…で?」
「…どういうつもりか…と訊かれたのなら…まあ、こういうことさ」
ふと、背が温かくなる。射干玉の黒髪が背を覆うように流れ落ちてきたのだと気づいた次の刹那、湿った感触に背をなぞられ、かすかに掠れた声を漏らしてしまった。
「乾く前の痂を剥いでしまうと面倒だ。まだ覆っていたほうがいいんだが、そうすると、触れても面白くないからな。後からきちんと巻きなおしてやるから…その前に、もう少し付き合え」
腕は解放されたものの、身体の両側に柔靱な腕が置かれているから逃げられないことには違いない。
「…なんて…言い種だ」
嘆息して、サーティスは俯せたまま片頬を褥に埋めた。
「昨夜も訊いてみようと思って忘れていたが…男は嫌いなんじゃなかったのか?」
「嫌いだよ」
少し、クロエの声が低くなる。もともと低めの声ではあるが、一際錆びた感すらあった。
「身勝手で、自身の欲ばかり押しつけて。こっちの事情は構いなしだ。…誰が好きこのんで辛い目に遭いたい?
だから、あの娘の不安も…私は理解らなくはないのさ。誰だって、幸せになりたいだろう」
至極真っ当な論理と、今このとき背を滑る…繊妍な指先が与える感覚の折り合いがつかない。サーティスは途方に暮れて吐息を零した。
それを聞き咎めたように…クロエの動きが停まる。
「…そんな切なげな声を出すな。まるで私が虐めてるみたいじゃないか」
笑いを含んだ声と一緒に、確かな熱と質量を持った存在が褥に降りてきて…サーティスに寄り添った。滑らかな膚が与える熱は確かに心地好く、身の裡にも熱を揺り起こす。
「言っていることとやっていることが矛盾している…か?」
耳朶を食むようにして紡がれる低い声音もまた、芯を痺れさせる。それでもいまひとつ委ねきれないのは、ある種の責め苦に近い。
「…矛盾しない理屈があったら聞いてみたい」
「さても困った御仁だな。…理詰めで考えてばかりいると破綻するぞ。時には感覚を信じてよかろうに。
…で、付き合ってくれるのかくれないのか」
終いにはすこし拗ねたような響きが雑じる。サーティスは追及を諦め、肘をつくと半身を起こした。
敷布に広がる射干玉の黒髪に指を潜らせ、紅を引いているときよりも紅い唇に、唇で触れて賞玩する。目を閉じてしまうと溺れそうで…然りとて開けていると黒くのたうつ髪が視界に飛び込んで罪の記憶を引きずり出す。その痛みに耐えかねて動きを停めると、優しい舌先がするりと絡んできて…先を促した。
自分が何を戒め、何を赦し、何を見逃し、何を見捨てたのかが曖昧になる。
誰だって、幸せになりたいだろう。…その声が、ただ耳に残る。