横暴な大家にシイタゲラレながら細々と更新する隠し部屋


 出会った頃はアーネストと呼んでいた気がするが、いつの間にかもう一つの名前の、しかも端折った呼び方が通例になっていた。

「…サキ?」

 イサナの隣でただ黙してグラスを揺らすのは、高階マサキ・アーネスト。法科大学院ロー・スクールの同期だが、その筋では既に名の通ったヴァイオリン奏者ヴァイオリニストでもあるらしい。
 そういう種類の人間は普通、学校といえば所謂いわゆる音大とか音楽院といったところでレッスン三昧というのが通り相場かと思っていたが、何処にでも変わり種というのはいるものとみえる。

 打ちっ放したコンクリートの床と壁。倉庫ロフトを改装ともいえない改装でバーに仕立てているだけの、主に学生がたむろする安酒場。
 カウンター席に陣取って、最初は楽しげに呑んでいた。しかし、不意に口を閉ざしてしまったので声をかけたのだが…なかなか答えが返ってこない。具合でも悪くなったのかと思い始めた頃、ようやく口を開いた。

「…なぁ、イサナ」

 そう強くもないくせに、呑むのは好きときたものだ。
 呑んでいるとき特有の…少し焦点フォーカスの甘い視線を手許のショットグラスに落とし、ややもの思わしげに呟くような風情で口を開く。

「イサナお前…結婚するつもりはあるか?」

 一瞬、真意をとりそこねて…とりあえず訊き返す。

「…あんたとか?」

 その途端、カラになったショットグラスが唸りを上げて飛来した。

 

倉庫ロフトBarにて

 

「危ないじゃないか、サキ」

 ショットグラスはかろうじて回避した。受け止め損ねたので後ろの方で派手な音がしたが、丁度そこでは学生同士の喧嘩が始まったところだったので誰も気にしなかった。

「あぶないのはお前だ。出来の悪過ぎる冗談ってのは一種凶器だぞ」

 一瞬で酔いが醒めてしまったらしいマサキはカウンターに肘をついた格好でこめかみを押さえている。

「それでなくたって…さっきから斜め後ろ…女ばっかりのテーブルから視線が突き刺さってしょうがないってのに、怖ろしいことを口走るんじゃない。お前…自分が、どんだけ人目を惹くか理解ってないだろう」

「あんたほどじゃないさ」

「莫迦ばかしくなるくらい買いかぶってくれてどうも。ここの帰り道、俺が路地裏へ引き込まれて撲殺されたらお前の所為だからな。
…まあ、与太話はさておいて…ミサヲのことだよ」

 追加のシャンディ・ガフ に口をつけてから、マサキは一度ゆっくりと息を吸った。

「気にはなってるんだろ?」

「それは…初対面であれほど敵意に満ちた視線をぶつけられれば」

「そうなのか? その割に足しげく来るじゃないか」

「あんたがレポートを手伝えって言うからだ」

「…まあ、そんなこともあったか」

「あんた弁が立つ割に書類仕事は嫌いだよな」

「理屈でもの考えるのが苦手なもんで」

「法科行ってる人間の言うことじゃないな。…ってかそれであの成績か。そんなこと放言してたら別の意味で闇討ちに遭うぞ」

「いや、親と全く同じことやってても芸がないなと思って…法科なんか行ってはみたんだが。
 やっぱり俺、弾いてるほうが性にあってるらしい。ローレンツの爺さんも勧めてくれることだし、第一楽しめるほうを仕事にするのがいいだろ。
 そういう訳で、音楽事務所のほうはお前に任せるわ。ポストあけて待ってるからよろしくな」

 頬杖をついたまま、からりと笑ってこちらを見る。

「…は?」

 大層なスピードで話が妙なところに転がっていくから、ついて行くのが大変だ。

「勝手に他人ひとの就職までとりまとめやがって。…ミサヲの話じゃなかったのか」

「あぁ、そうだった。…というか、回避はしないんだな」

 視線を逸らしたのは一瞬。またすぐに、面白がっているのを隠しもしないまなざしで覗き込む。だが、ふいと視線を遠くへ投げて口を開いた。
 また、あの瞳。幽かに笑みを含んでどこか焦点が甘く、そのくせ肚の底で何かを企んでいる。

「どこでそーなっちまったんだか…えらくしっかり者でな。世の中の大概の男は莫迦で頼りなく見えるらしいんだ…っていうか、男嫌い?
 両親が相次いで鬼籍に入った後で、財産関連でだいぶごたごたして、親戚連中から降るような結婚話が来て辟易したってもあるんだろうな。…あの頃まだ16になったばっかりだったのに。
 それらことごとくを蹴り飛ばした後、そのテの話を一切シャットアウトするようになっちまった。おまけに護身用ってM92Fベレッタなんかハンドバックに入れて持ち歩いてるんだぞ。
 そりゃ確かに、一時やたら絡まれることもあったが…今はもうそこまで心配することもないのにな。ああ始終ピリピリしてたら、まあ男は寄りつくまいよ。ユキノちゃんとかリエみたいに女友達は多いのにな」

「それに関しては、あんたが悪い虫を徹底的に排除してるからだって噂があるんだがな。
 …話が見えんぞ。俺にどうしろって?」

 要点をまとめろ、というつもりで言ったのだが、マサキはただ微笑ってグラスを揺らすと全く構わずに話を続ける。

「ピアノにしたところで…あいつの分野って何だかえらく重厚なのが多いんだ。好きで弾いてるんならそれでいい。でも何だか、無理矢理に強さを求めてる気がする。…見てて痛々しくなってくるくらいだ。
 だからな、俺としては…あいつがあんなにいつも張り詰めなくたって済むくらい、しっかりしたヤツが傍に居てやってくれるといいなと思うわけだ。
…知ってるぞ。お前、俺の用事以外でもウチに来てるだろ」

 探るような、というよりは挑むような…それでいて曖昧を装う黒褐色ダークブラウン
 思わず、視線を逸らした。
 同じ瞳、同じ髪で、“怖ろしいことを口走るんじゃない”。
 誘惑するつもりかと誤解する。

 気を落ち着けるつもりで、アーリータイムズ のウィスキーフロートを傾ける。
 口にする度に酒とミネラルウォーターの比率が変化するのが面白くて、よく注文するし自分でもつくる。…が、突如として限りなくのままのアーリータイムズを呑みたい気分になってしまった。

「おまえがレポートを詰めるっていうから、こっちは約束して行ってるのに、あんたが演奏とかで突然居なくなるから、肩透かし食わされただけじゃないか」

「そんなに頻々とあったかな?…確かに爺さんに呼びつけられるのって割と突然だから、そーゆーコトがなかったわけじゃないが…」

 そこでマサキが真剣に回数を勘定し始めるから、少々慌てて矛先を捻曲げた。

「自覚はあるわけだな、故意犯め」

 判って言ってるのか、本当に忘れているのか判断がつかないから迂闊なことが言えない。多分に、知っていてトボけていることが多いから始末に悪いが。

「…だが…彼女にその気がなければどうにもなるまい?」

「少なくともお前の“音”は気に入ってるらしいぞ。
 あいつ、連弾なんて滅多にしないからな、しかも自分が高音部プリモで他人に低音部セコンドやらせるなんて、よっぽどだと思ったんだ」

 どうやら聴かれていたらしい。しかしやはり職業的演奏者プロフェッショナルの耳は莫迦にならないものだ。

「…それで結局のところ、あんたは俺に何を期待してるんだ?」

 ここまで訊かなければならないものかと思う。だが、全く意図が読めないのだから仕方ない。
 しかしマサキは呆れたような一瞥をくれてから、ふっと吐息した。だがすぐにいつもの…悪戯っぽい微笑を浮かべる。

「…だから、最初から訊いてるじゃないか。お前、ミサヲと結婚するつもりはあるかって」

「ストレート過ぎて訳がわからんと言ってるんだ!」

 多少、声が大きくなったのかも知れない。マサキがかすかに眉を顰めて半身退いたのを見て…トーンを下げる。

「…あんただってまだ身を固めてないくせに」

 不意に先刻までの悪戯っぽい笑みが影を潜め、思いも寄らぬコトで叱責されて落ち込む学生のように悄気しょげられてしまっては…こちらがなにやら罪悪感に苛まれてしまう。

 マサキが目を伏せたまま、ブランデーグラスで供されたチェイサーに手を伸べてその縁を軽く指先で撫でると…名状し難い音色が滑り出る。所謂グラスハープなのだが、グラスは一つだから音も一つだ。ただ、そのただ一つの音で一定のリズムを刻んでいるようでもあった。

 マサキは何処かふてくされたように、呟くように言った。

「…仕方ないじゃないか。愛してるんだから。どうしようもなく」

 いつにも増して焦点フォーカスの読みづらい視線は、幽かに振動するグラスに注がれているようにも、もっと別の何かを見ているようにも見える。

 指先でグラスの縁を撫でる繊細な動作は、今ここに居ない誰かの唇に触れる時のそれにも見えて…ひどく艶めいていた。

 ――◇*◇*◇――

 「こちらのハンサムさんはサキのお友達かしら?」

 リサイタルの舞台がはねた後の楽屋。腕から溢れるほどの花束の向こうから、その女は艶然と微笑んだ。

 女王のごとき威厳を備えているくせに、少女のように無邪気にも見える、年齢不詳な美貌だった。

 セラフィン・渚・ローレンツ。ヴァイオリン奏者。本来イサナがこんな間近で話ができるような世界の人間ではないが、その楽屋に高階マサキはほぼフリーパスであった。身内のようなものだから、という説明を、本当に通してもらえるまでは半信半疑だったが、そこはセラフィンの楽屋であると同時にミサヲの楽屋でもあるのだから…至極当然なのだ。

 そのマサキは、一仕事終えた妹の髪を撫でつけながら丁寧なねぎらいの言葉をかけている最中だったから、イサナはその綺羅きらぎらしい女王のご下問に畏れ多くも直答せねばならなかった。

鯨吉ときよしイサナです。法科大学院ロー・スクールの同期で」

「ふうん…」

 好奇心旺盛な子供そのものの笑みを浮かべて、言ってしまえば値踏みするようなまなざしを無遠慮にぶつけてくる。彼女があまりにも楽しそうだから不快感もないが、どうにも落ち着かない。

「そっかぁ、あなたがね…」

 思わせぶりなのではない。彼女にしてみれば至ってストレートに言っているだけなのがわかるだけに、何をご存じなのですかと訊いてみたい衝動に駆られる。

 だが、イサナが渡した花束を受け取るタイミングで…彼女は少しだけ高階兄妹のほうへ視線を向けて、悪戯っぽい微笑とともに少しだけ声を低めた。

「全く、お互いのことは何でも解ってるくせに、お互いの気持ちだけは見事に解ってないから…ややこしいっていうか面倒くさいっていうか。まあそこが見てて面白いんだけど。
 ねぇ…イサナ君? あそこに割って入るのは正直、大変よ。でも、私も応援するから頑張って。あぁ、お花、ありがとう」

 一瞬、反応に困ったのは言うまでもない。

 だが、動きを止めてしまったイサナにあでやかな微笑を残して、するりとその場を離れてしまう。

 そして腕いっぱいの花束を背後にいた夫君に預けて何事かを楽しそうに話していた。
 夫君もチェロ奏者と聞いているが、今回は裏方に徹しているらしくこちらは至って動きやすさ重視の地味な服装である。妻から何を聞いたのか、もの柔らかい微笑を浮かべて軽く会釈してくる。

 細君に比べて実に静かな印象だが、ふたり並んでいて決してアンバランスではないのがいっそ不思議だった…。

――◇*◇*◇――

「愛してるから、倖せになってほしい。明瞭だろう?」

 酔いが手伝って血色のよい横顔は、少し眠たげで…ひどく艶めいている。

「…だったら何で、俺をけしかけたりするんだ?」

 単音のグラスハープを奏で続けるマサキに、イサナは尋ねた。

「…嗾けるってお前…」

 その口ぶりに少し傷ついたとでもいうように、マサキは手を止めて、イサナを横目で睨む。そうして目を伏せ、しばらく考えるような間を置いた後でひびだらけの天井を仰いだ。

 韜晦はこいつの得意技だ。はぐらかされてはいけない。

「愛してるから、と言ったな。だが俺が、あんたの手の届かないところへミサヲを連れて行っちまうとは思わないのか?」

 イサナは畳み掛けた。だが、マサキは至ってのんびりと…とんでもないことを口にする。

「…まぁ…お前がそうするとしたら、俺がいよいよおかしく・・・・なって、ミサヲを悲しませるようなコトになったってことだろう。構わんさ。その時はお前が正しいと信じるようにしたらいい。
 …あぁ、でもできればそのときは…俺を殺してくれ」

 ひどく扇情的な横顔。しかし紡がれる言葉はあくまでも淡々として。

「俺はもう、あいつが泣くところなんて見たくないんだ。それが俺の所為だっていうなら、俺はいないほうがいい。でも、あいつがいない世界で生きていても仕方ないからな」

 そう言って、嗤う。マサキにしては珍しい、明らかな自嘲。

 済まないが、その依頼は受けられない。それを了承すると、今すぐあんたを殺さなきゃならなくなる。なぜなら、見てしまったから。

 ――――あの涙を。

 

――◇*◇*◇――

 

「いくら兄さんだって茶葉を切らすほどずぼらじゃないでしょ。お菓子はお土産のがあるから、上がっていってよ」

 回復したセラの弟と入れ替わりに、ほぼ一年ぶりに帰国した彼女を出迎えたのがイサナであったことに、ミサヲは最初落胆を隠そうとして…諦めたらしい。

 イサナに出迎えを頼み、一足違いに欧州へ発ってしまった兄に対する文句を一通り並べ立てると、彼女は車の中でずっと沈黙を守っていた。そして、彼女をハドソンバレーの屋敷まで送り届けたイサナに、そう言ったのだった。

 一年前よりも多少当たりが柔らかくなったミサヲの誘いを、イサナは断らなかった。

「…兄さんは、セラを忘れかねてるだけなのよ」

 ミサヲは苦い微笑を浮かべて、テラス窓の重厚なカーテンを半分ほど引き開ける。
 ポットの中で茶葉を蒸らす僅かな時間、さやかな月光が降り注ぐ庭を漫然と眼に映して、半ば呟くように言った。

「ひとの奥さんになっても、本当に天使になってこの地上から翔け去ってしまっても…あの陽の光セラフィンが忘れられない。
 兄さんが私を傍に置きたがるのは、わたしという月が反射するセラの残光を懐かしんでる…それだけなの」

 タイマーのかすかな音を正確に聴き取り、ミサヲがティーテーブルに歩み寄った。久しぶりに見る手練は些かも淀みなく、澄んだ鮮紅色をカップに注ぎ分けていく。いつもなら3つ。今日は2つ。…ここには今、マサキはいないから。

 彼女が自らを月に喩えるのは、自身を陽の残光を映すだけの鏡としてしか見ていない所為なのだろう。リサイタルの舞台にセラフィンの伴奏者として立った彼女は、確かに月だった…しかし。

 毅然として怜悧、侮ることを許さぬ臈長ろうたけた貴婦人…ディアナ

 最初は純然たる興味。
 数代にわたって音楽家を輩出し、独自の音楽事務所も持つ高階の家。両親が相次いで他界したのち、「ごたごた」を経てその当主となった大学の友人…高階マサキ・アーネスト。その妹でピアノ奏者ピアニスト、高階ミサヲ・アウレリア。

 兄が溺愛していて人前に出さないらしい、というのは法科大学院ロー・スクールの学生達の間で流布していた至って無責任なガセネタで、実際には彼女は普通に音大へ通っていたし、音楽活動もしていた。

 仲の良い兄妹。それ以上に、その二人を言い表すことばは見当たらなかった。相続に関してトラブルがあったため、直近の身内とは疎遠になってしまったというが、遠縁だというセラフィン一家と家族ぐるみのつきあいがあって、セラフィンの一家は高階の屋敷をN.Y.での定宿にしていたらしい。

 ほぼ天涯孤独のイサナにしてみれば、違う世界に紛れ込んでしまったような違和感を持ったことは事実だった。

 そんなところへ、あの飛行機事故である。

 残された者達のなかで、一番打撃が大きかったのは…実は彼女ミサヲではなかったか。しかしいつも以上に毅然として動き回り、セラフィンの遺された子供たちのために奔走した。あるいはそうすることで、呆然として動けなくなることを回避していたのかも知れない。
 日本に行って子供たちの世話をする、と言い出したのも彼女だった。マサキは首肯しかねるふうではあったが、子供たちが生まれ育った家を離れ難い様子であったこと、酷い様子のタカミを子供たちの目に触れさせる訳にも行かなかった事情から、かなり渋々承服したのである。

 誰かに支えられることを、その細い背中は断固として拒否していた。実際、伸べた腕を振り払われたことは、一再ではない。

 淹れた紅茶のひとつをイサナの前に置き、彼女が自分のカップを持っていつもの椅子ソファに座を占める。
 その瞬間、もう一つの椅子の空白に一瞬だけ視線を預けたのを、イサナは見た。

 だから…見なかったふりをするために、供された紅茶を一口含む。

 淹れたての筈なのに、熱すぎない。2つあるカップの片方だけ、温める湯を僅かに早く落として調節しているのだと気づいたのは、彼女が日本へ行く少し前のことだった。最初は偶然かと思ったが、どうやら猫舌を悟られたらしい。

「私だってセラが大好きだった。兄さんがセラの残光を手元に置きたいだけだとしても…それで兄さんがここに帰ってきてくれるなら、私は構わない」

 ミサヲがゆっくりとカップを置く。

「私は、兄さんを愛してるから」

 昂然と…半ば宣するように、ミサヲはそう言った。だが、その両眼は涙を湛えている。

「しょうがないじゃない。私は、兄さんしか要らないんだから。どうにもならないんだもの。
 この一年、離れてみて…それがわかっちゃったんだから!」

 上擦っていく声を抑え損ねて、涙が頬を滑り落ちる。涙を零してしまったことが悔しいのか、ミサヲは一度俯いて唇を噛んだ。

 その仕草に思わず手を伸べそうになって、イサナはポケットの中の手を握りしめてそれを押しとどめた。

 彼女がすぐに顔を上げたからだ。

「…あなたのことは嫌いじゃないわ。だから、兄さんの傍にいる口実に私が必要なら、それでも構わない」

「それは…」

 違う、と言えるのか。咄嗟に言い切れない自分に愕然とする。だが、彼女はイサナの狼狽を一切斟酌せずに言葉を続けた。

「兄さんは何でも出来るひとだけど、ちょっと雑駁ざっぱくなところがあるから…連中に付け込ませないためにも、正直あなたみたいなひとが傍に居てくれた方がいい。
 その代わり、どんな形でも兄さんを裏切ったら、私はあなたを赦さない」

 連中、というのは、相続を巡ってごたごたしたという親戚のことを言っているのだろうか。
 黒褐色ダークブラウンの瞳。そのやや色の淡い真っ直ぐな髪も、確かにマサキと同じ持物アトリビュートには違いない。

 だが…気づいた。

 涙を湛えていても、相手を真っ直ぐに見据えて全く損なわれないそのつよさ。

 こんな光を、イサナは知らない。

 そもそもあの男マサキは、生来うまれつきか習い性となったか、自分の内側を晒すことはしない。表情は多彩だが、韜晦に長けていて…本当の感情が読めないのだ。付き合っていると面白いから傍に居るのだが、そのイサナでさえ時々ふと怖ろしくなる。

 それでも、居心地がよかったのだ。此処は。

 他でもない、二人・・の傍にいることが。

 この感情は何だろう。イサナは自問する。

 明確な根拠もないのに、ただ此処に居ていいという安心感。狂気に近い熱情も、涙を零すほどの激情も、そこにはないのに。
 ただ、此処を失うことへの恐怖だけは真物ほんもの

 どちらかを選べば、きっと壊れてしまう。自身も、彼らも。

 マサキが彼女を待たずに出国してしまった真実ほんとうの理由を、彼女は知らない。
 離れることで自身の想いを確認してしまったのは、彼女だけではなかったことを。

 自分はずるいのだろう。何も失いたくないから、今はミサヲの言葉を否定しない。普通なら度し難い理由で愛の言葉を囁くのだと思われたとしても…構わない。

 むしろ、今はその方がいい…。

「…君がそう思いたいなら、それでもいいが」

 イサナは静かにティーカップをソーサーに戻した。
 そうして…玉座のごとく重厚なソファに歩み寄ると、ワンピースの膝の上に落ちた涙の痕を隠すように置かれたミサヲの手に、掌を重ねる。

「では俺は、君の傍に居ることに…もう一々理由を並べ立てなくてもいい訳だな?」

「誓える? …絶対に兄さんを裏切らないって」

「何に誓えばいい。俺は知っての通り無神論者だが」

 黒褐色ダークブラウンの双眸が、決然とイサナを射る。

「では私に。約束を破ったら…私があなたを殺すわ」

「…契約成立だ」

 そのまま、口づける。重ねた手がかすかに震えたのが判ったが…ディアナは、逃げなかった。

 ――◇*◇*◇――

 

 あの夜、差し出した腕へそっと月が降りてきたことに…イサナは軽い驚きさえ覚えた。
 しかし、月はれることを嫌う。
 一度腕におさめたことで陥りがちな男の傲慢を、彼女は決して許さなかった。
 傍に居ても、手が届いたり、届かなかったり。

 二人は間違いなく兄妹だ。振り回すことにかけては超一流Super Classe

 ―――――とうとう、イサナのグラスの中身はロックになっていた。正直、素面しらふで出来る話の範疇を超えている。
 対してマサキのグラスの中身はブラック・ベルベット だ。セーブにかかってはいるが、どうやらまだ飲むつもりではあるらしい。

「あんたがおかしくなったかどうかなんて…俺にはその判断ができると?」

「そうだな、俺はそう思ったから、お前に頼んだ。お前なら理解ってくれるってな。…理由なんてない。直感インスピレーションなんてそんなもんだろう。
 現に、あの時だってうまく切り抜けてくれた」

 満足そうに笑うが、あの時はとても冗談事とは思えなかった。

 ミサヲが帰国する日。例によってキール・ローレンツの招聘があったのを奇貨として…マサキは逃げたのだ。抑えきれそうにない、と言って。
 最初は取り合わなかった。しかし、その日が近づくにつれて切羽詰まってくるマサキの表情かおに結局押し切られ、迎えを引き受けたのだった。

―――――一ヶ月ほど欧州でローレンツ翁に頤使されている間に何となく落ち着いたのか、何事もなかったように帰ってきたが。

「あの時はなー…タカミの奴が元気になって帰ってったのに一安心したら、家ん中がやたら広く感じられてな。
 いつもならいくら気が滅入ったっていっても四、五時間もぶっ通しで弾いてたら落ち着くのに…全然駄目だった。
…いや、本当にやばかった」

 …などということを、笑いながら言うのだから、実際のところどれだけ本当に追い詰められていたというのか・・・今となっては疑わしくはある。

 本人が何を言おうと、マサキが女に不自由している訳はない。

 イサナがっているだけでも片手の指くらいはすぐに折れてしまうほどの相手あいてがいるのだ。
 すこし寂しくなったからといって、いくら溺愛しているとはいっても、実妹に手を出すようなところまで追い込まれるとは…実のところ考えにくい。

 おまけに、寂しくなった原因が完璧な片恋セラフィンの忘れ形見(しかも男)に去られたから?…莫迦も休み休み言え。先刻ショットグラスを投げつけやがったのは何処の誰だっていうんだ。

 マサキの言動のどこまでが真実で、どこからが虚偽いつわりなのか。イサナにはいまだに全く読めない。

 だが、イサナは確かに彼女に誓ったのだ。自分はマサキを裏切らない、と。

 つかまえたのか…つかまったのか。

 与える愛が強い分だけ、向けられる想いにはおそろしくうとい…﨟長ろうたけた月女神ディアナ

 

―――――Fin