吹き荒れる雪風を遠くに聞きながら、暫くお互いの温かさだけを感じていた。
はるか昔、こうやって眠りについた記憶がある。何に怯えることもなく、ただ底のない安寧の中で微睡んだ時と、同じ温かさだった。揺籠の中の、己の半身。
――――――ふたりきりで・・・世界から、消えてしまえたらいいのにね・・・・。
その悲しげな声音に、レイはカヲルを仰いだ。
『カヲル・・・・迷っているの?』
カヲルはそれには答えず、ただ透明な表情で抱いた腕に力をこめた。
風の音を突いて、意外なほど近くで猟犬の咆哮がしたのだ。


Akino-ya Banka’s Room Evangelion SS
「Snow Waltz」
Snow Waltz <後編>

 帰りたいといった男に、冬神が言った。
里人は一度境を踏み越えたものが戻ることを喜ばぬ。帰ったとてひとは御身を受容れはすまい。それでも帰るか、と。
男は言った。それでも帰りたいと。
ならばこの子を預けよう、と冬神は言った。
御身の帰還が私の意志に背いていないことの証に。
御身が害されることのないように。
そして男の腕に、その血を引いた嬰児が託された。

***

 その年、一人の男が森に消えた。
領主の一族に連なる者であり、それに見合う血筋から妻が選ばれ、前年の春に婚儀を済ませたばかりだった。
冬神の宮に招かれたのだと人々は噂した―――――――――。
しかし、次の冬が訪れる前に男はふらりと戻ってきた。嬰児を抱いて。
人々は驚いた。一族も、里人も。一度冬神の宮に入ったものが帰ることは、黄泉帰りと同義であった。
戻ってきた男は要職をはずされ、冬神の森に一番近い館を与えられた。失脚することもない代わりに、栄達の途も閉ざされたのだ。・・・・飼い殺し以外の何ものでもなかった。
男は冬神に供せられたのだ。
そして連れ帰った嬰児を嫡子として扱うため、男の帰還に前後して夫人が産んだ嬰児が庶出として里に下された。一族は冬神の血統を貴んだのである。
一族の決定に、男は逆らわなかった。逆らうことは、一族の中ですら居場所を失うことであった。
居場所を失ったもうひとりの嬰児は、館に仕えた魔術者に因果を含めて託された。
魔術者は冬神の子を帰さぬための数々の呪を執り行い、託された子を抱いて里に下った。
そしてすべての秘密に口を噤んだまま、14年後、永遠に瞑目した――――――。

***

 母が自分を見るとき、時々ひどく悲しげな表情をかいま見せることにシンジが気づいたのは、そう昔のことではなかった。
厳しくはあったが、ものの理非をわきまえた叱り方をするひとであったし、女手ひとつで薬草を商いながらシンジを育て、あいた時間で勉強をみてもくれた。里の子供には過ぎた課程であったのだが、今にしてみれば館へ連れてこられてそれが役に立っている。
いつか呼び戻される日があることを、予期してのことか、それとも切望してのことか・・・・。
眩暈から解放され、シンジは起き上がって暗い窓に自分の顔を映す。
「父に似ている」と言われた顔・・・・。
父は死んだと聞かされて育った。それはおそらく、館を出された段階で館に帰れる見込みがなかった所為。それ以外考えられない。
自分のこの顔を、どんな気持ちで見ていたのだろう・・・・。
窓の外の篝火が俄かに増え、庭が騒がしくなった事に気づいてシンジは廊下へ出た。走り回っている使用人を一人つかまえて質すと、いたましげに告げた。
カヲル様が戻られた、と。

***

 保護されたカヲルは、凍傷は免れたが口もきけない程に弱っていた。
翌日からかろうじて食べ物を口にするようにはなったが、誰が何を話しかけても一言も口をきこうとはしなかった。
シンジが声を掛けても反応がない。もともと生気に溢れているとは言い難い容貌が、いっそ人形じみた雰囲気すら与えていた。
綺麗な、だが冷たい陶器人形・・・。
シンジは一日のうちのかなりの時間を裂いてカヲルに付き添い、必死で話しかけた。だが一度たりともカヲルに反応があった例はなく、そのうち話題にすら窮したシンジは、習いかけのチェロを弾くことを思いついた。
思いつくだけの曲、あるだけの楽譜を引っ張り出して、シンジは弾いた。
あの時、天窓から現れた少女を見て、カヲルを連れに来たのだと直感した。父の荒唐無稽な御伽話を聞いた所為ではなかったと思う。
差し伸べられた白い腕、見えないはずのカヲルの視線は確実に舞い降りた白い翼を捉えていた―――。
思わず大きな声をあげていた。本当に、カヲルを連れて行かれそうな気がして。
しかし、それがカヲルの望みだったのではあるまいか。そんな思いにとらわれて胸が痛み、シンジのチェロを弾く手はしばしば止まりかける。
カヲルは救いを求めていたのではないか。シンジのしたことは、カヲルの手から救いをもぎ取る行為ではなかったか―――?
だが、あれは間違いなく冬神の眷属。人間の前に姿を見せることなどまずない筈の、冬神の娘。
『あれは冬神マローズの子だ。雪に触れさせてはならん。・・・・さもないと、冬神の眷属が連れに来る』
「・・・どうかしてる・・・・」
ついに手を止め、シンジが吐息した。
だが、あの一瞬の訪れ―――――カヲルが見せた翳りのない微笑は、シンジにいっそ妬心さえ抱かせるものだった。
チェロを置き、半身を起こして人形のように座したままのカヲルの頬に触れる。
「君は、あの人を待ってたの・・・・・・?」
カヲルは答えない。寝台の側に膝をつき、シンジは祈るような格好でカヲルの膝元に顔を伏せた。そして、消え入るような声で呟く。
「ごめんね・・・・カヲル君・・・・」
その時。不意に降った声と、髪を優しく梳かれる感触に、シンジははじかれたように顔を上げた。
「・・・君は、何も悪くないよ」
「カヲル君!」
青ざめた顔。両眼は閉ざされているにもかかわらず、シンジをはっきりと捉えているかのようだった。
「こっちへ来て・・・シンジ君」
カヲルが差し招くのへ、シンジは無形の糸に操られるように身を乗り出す。シンジの上半身をその腕に包んで囁いた言葉は、かすかに震えていた。
「ごめんねシンジ君・・・本当に・・・・」
「何?どうしたの・・・?」
「・・・今すぐ自分の部屋に戻って。そして今夜は絶対に出てきちゃ駄目だよ。これは僕の最後のお願い。君には何も償う方法がないのに、厚かましくてごめんね。でもこれだけは言わせて。僕は君に会えて、嬉しかったんだ・・・・・」
「カヲル君、カヲル君、何を言って・・・」
廊下を近づいてくる、硬い靴音。カヲルの眉が、少し苦しげに歪む。
「・・・行って、シンジ君」
「・・・・!」
やんわりと押し戻されて、シンジは訳もなく泣きそうになっている自分に気づいた。
その時、扉が無遠慮に開かれる。戸口に立つ父を見て、シンジは血がひくのを感じた。カヲルが言葉を繰り返す。
「・・・行って、シンジ君。お願いだから」
父に冷たく一瞥され、シンジが竦み上がる。つい先日、意識を失うほど殴られたのでは無理もない。
泣きそうになりながら、カヲルを見る。カヲルはただ、微笑みかけた。
何かを言わなければならないと思った。だが舌は上顎に張りついて動かない。
父が傲然と部屋へ入ってくる。それに圧されるようにシンジは後ずさり、壁ぎわに背をぶつけた。
――――それで堰が切れた。
泣きながら部屋を駆け出したシンジの後ろで、扉が冷たく閉ざされた。

***

 ゲンドウは無遠慮に歩み寄ると、カヲルの顎を掴んだ。
「・・・可哀相なシンジ君。あなたが一族に逆らえなかったばかりに、本当の母親からも、生まれた家からさえも追われて庶子扱いとは」
ゲンドウが明確な怒気を示してカヲルをその場に突き倒す。
「冬神・・・・」
いっそ憎むような目でカヲルを見、のしかかって夜着の前を裂く。カヲルは抗わない。むしろ、冷ややかだった。
「・・・ただ怖かっただけなんだね。だから一族に本気で刃向かうことも、愛した人にその想いを伝えることもなく、全てを拒絶した。あなたが帰りたかった世界なのに、その全てを・・・・・」
カヲルは裂かれた夜着のままゆっくり半身を起こした。その白い指先を伸べ、ゲンドウの襟元に触れる。襟をほどき、胸の上に手を滑らせた。
「言ってあげればよかったのに。本当は忘れた事などなかったと。シンジ君を手放したくなどなかったと・・・・」
何が起こりかけているかに気がついて、ゲンドウが硬直する。
「・・・・立場なんかどうでもよかった。僕の存在は、母様の許可証明なのだから。僕は鍵。そして道標。僕の後ろに冬神の宮が見えたとしても、それはしかたのないこと。
一度は否定した救い。逃げることを自らに禁じたあなたには、さぞ厭わしかったことだろう」
責めるでなく、嘆くでなく・・・ただ静かだった。その静けさは、ゲンドウさえ圧していた。
「逃げることも、立ち向かうこともせず、ただすべてを拒否し続けた・・・
・・・可哀相な父様」

 錠が下ろされていたはずの窓が一斉に開き、室内を雪風が渦巻いた。
 カヲルの右目が開いていた。小さな破裂音とともにカヲルの顔の右半分に紅の飛沫がかかると、硝子が砕けたような音がして、左目が開く。
開いた瞼の下からは、雪に落とした血飛沫のような紅。
驚愕の表情のまま、文字通りゲンドウが凍りつく。その胸、カヲルの指先が触れる部分はぱっくりと口をあけていた。先刻の破裂音。
「・・・・母様はあなたの帰りをお待ちだ。あなたを連れ帰るのが僕に与えられた命なれど、決心がつかぬとあれば是非もない」
 胸に開いた赤黒い口の中へ、白い手が潜り込む。紅に彩られた手がその中から紅い結晶を掴み出した時、そこもまた水晶坑のように凍りついた。
 重い音とともにゲンドウのむくろがその場に頽れるのを、紅瞳はただ静かに映していた。
 そして、他の調度と共に雪に覆われてゆく様を。
 凍りついた部屋の中で、カヲルただ一人が白い世界に埋もれることなく佇立していた。
 どれだけそうしていただろうか。開いた窓から、白い翼が降臨した。
 繊い腕が、紅い結晶を手にしたまま立ち尽くすカヲルを背中から抱きしめる。
 14年前。人界へ帰った男に道標として預けられたカヲルの記憶を、それと気づいた魔術者が封じた。道標の発効を、可能な限り先へ延ばそうとしたのだ。
 道標の発効が要求するものは、十数年をヒトの間で過ごしたカヲルにはあまりにも過酷であった。カヲルの呟きの意味を悟った少女が、カヲルの背に顔を埋めて啜り泣く。
 カヲルはただ静かに天を仰いだ―――――――。
 かたり、という音にカヲルが緩慢に視線を戻す。扉にすがり、全身をわななかせているシンジを認めて、悲しげに笑った。
「・・・ごめんね、シンジ君・・・」
 指先の血糊を振り捨てる。カヲルの背に、少女と同じ白い翼が現れた。
 そのさまはシンジが呼吸を呑むほどに美しく、束の間シンジから思考を奪った。
 次の瞬間、羽撃きひとつでシンジの視界は白く閉ざされる。
 シンジの叫びが届くことは、ついになかった。

***

 館主ゲンドウが奇怪な死を遂げ、嗣子カヲルが消えたことで、一族はシンジを館主に据えた。
ゲンドウが厭うた飼い殺しの身分に違いはなかったが、シンジは一生をその館守りに徹した。

 シンジの存命中、その一帯は霜雪の害を被ることはなかったという。

―――Fin―――


Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「Snow Waltz」

「Snow Waltz」<中・後編>に関するAPOLOGY言い訳…..

くぉらこの外道親父!

 はい、6000Hitご報告頂きましてのリクエスト「雪とレイちゃん、氷とカヲルで、もしできればゲンカヲ」の中・後編でございます。誰が年内完結だと!?というお叱りはごもっとも。間でこっそり天井裏更新した手前、弁解する言葉もありませぬ。

 今回の外道親父は輪をかけて極悪非道でした。結局は「補完を拒否しちゃみたが、やっぱり現実はツラくて八つ当たり状態」という、考えようによっては可哀相な役回りではあるのですが、やってるコトはもはや鬼畜の域ですね。この万夏の領域でここまで暴れるたぁいい度胸です。ふっふっふ。しかし、お約束のように(爆)いい思いをしただけのしっぺがえしはくらう運命にあるのでした。このあたり、完全に傍観者にまわったシンジ君の方が適当にいい目をみて終わってますね。不思議だなぁ。

 ・・・あ、毎度のことですが感覚で読んでください、感覚で! 理屈こねた話じゃありませんからね(^^;;

 それにしても、捨身飼虎の構えですべてを受容するカヲル君・・・自分をボロボロにしてでも他者を救わんとするスタンスは「遠雷」「悲しみの感触」あたりと同様です。逢いたいと願い続けたひとに逢えた途端に自分の役目を思い出してしまった時、「このまま消えてしまいたい」という思いは確かにあったでしょう。しかし、そうするわけにも行かなかったのでした。

 カヲル君…外道おやぢの救済なんか放っておいて、レイちゃんと駆け落ちしちゃえば良かったのに(ーー;;

 もうお気づきのことと思いますが、「シンジを育て、口を噤んだままお亡くなりになった魔術者」はリツコさんです。あぁっやっぱり外ン道なんかにつきあうとろくな目見ないよぅぅぅ(泣)

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 というのが、1999,1,22 初回アップロード時の言い訳でございます。

 当時は肝心のところを「感覚で読んで下さい!」で押し切ってしまったので今更な説明ですが、『冬神の宮』とゆーのはこの場合補完された世界、とか現実時間の流れから隔絶された理想郷的な何かと捉えて頂ければと思います。レイちゃんとかカヲル君は本来そこの住人で、斉しく冬神の眷属。兄妹みたいなもん。
…とするとやっぱり果てしなくやばい話だったのか。あわわ。(とか言いつつわざわざ加筆してるあたりが万夏の腐り具合を示している…だって書きたかったんだもんカヲレイ。うちの大家意気地なしだから書いてくんないし)
カヲル君は冬神がゲンドウ氏を現実へ返すにあたり、その許可証明として与えた冬神の眷属なので、カヲル君が冬神の宮へ帰るということはその許可の取り消しと同義です。そりゃゲンドウ氏、必死で引き留めるでしょうが…リツコさんが記憶を封じていたためにカヲル君は自身を人間、ゲンドウ氏を父親と認識してたので、何もあんな非道いことしなくたって良かった筈なのです。
(ここでは設定上ゲンドウの子には違いないのです。万夏としては無茶苦茶不本意ですが)
それが、カヲル君が本来の役目を思い出した(<レイちゃんが解呪しちゃった)ことによって…やっぱりこの外道親父は現実世界に馴染めないらしいから連れ帰れ、ということになってしまった。カヲル君としては一応親父だし、シンジ君の立場も慮って何となく可哀相かなーなんて考えて躊躇ってたのですが、最終的にはこのまんま現実に置いといてもいいことにならない、と決断を下したというのがこの話。
赤いホタルになって(魂だけになって)ついでに凍結されて冬神の処に保管(補完?)されたものと思われます。南無南無。そうそう、冬神サマはゲンドウの本妻と二役のユイさんですね。
実直に、あんまりこういう話にコテコテ説明するのもどうかと思うのですが…20年近く経ってますし自分の中の整理の意味で解説を加えてみました。はっはっは。
魔術者(リツコさん)のこととか、今にして思えば少し書き足りない部分がないでもないのです。
しかし今そんなもんに手をつけてしまったら…間違いなく「魔術者リツコさんに誑し込まれ、禁忌を破って冬神の魔術を教えてしまった挙句、雪になって消えちゃう雪の精タカミ君のお話」とかを書いてしまいそうです。「Snow Waltz」と同等のノリでやると、タカミ君×リツコさんで行くとこまでいっちゃいそうで…とりあえず自粛、自粛。
(読みたいって方、居られます?もしご一報リクエスト頂けたら大家に絞め殺されるリスクを冒してでも書きますが)

 それでは皆様、次回まで万夏が正気でいたら・・・・・いや、何も申しますまい・・・・・・(^^;

2018.3.2

暁乃家 万夏 拝