ほぼ満月を迎える月の光が明らかなだけに、地上に落ちる陰翳の濃淡は深い。月光を照り返す木々の枝葉が落とす黒々とした影は、そこに異界へむけた穴が開いているかのような深さを湛えていた。
 そして顔を上げれば、微風に数枚ずつ舞い落ちる桜の花片が、薄闇の中で光を放つかのようだ。
 その深い淵の水面にも桜は降り、微かな水の流れに乗って緩く揺蕩たゆたっている。
 館からそこへ降りる道は細いが、きちんと段鼻を木材で補強した階段になっている。ゆっくりと降りながら、タカミは耳を澄ましていた。
 ぱしゃり、と細い水音がする。
 桜が散り敷く水面に波紋が生まれた。
「…信じられない。この寒いのに」
 呆れたように、タカミは言った。ある程度予想していたからこちらへ降りてきたとはいえ、目の当たりにしてしまうと、嘆息しか出ない。
 波紋の中心には、イサナがいた。

Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「No Apology Ⅶ」


 段を踏む僅かな振動は、水の中まで伝わる。それに気づいて、上がってきたところなのだろう。相変わらず、側線1でもついているのではなかろうかという鋭敏さだった。
「…どうした」
「どうしたもこうしたもないでしょ。まあこんな山の中だから誰にも見られやしないとは思うけど、この寒いのに何やってんですか」
 3月とはいえ、夜は寒い。間違っても水浴に適した季節ではないのだが、イサナにとっては関係ないらしい。寒いのは苦手だと公言している割には、水の中だけは話が違うようだ。
「久しぶりに来たら、ばれた。だから話をしていただけだ」
 淵の端…山側はそう高くはないが切り立った岩棚。反対側は昔湿地だったが今は岸を自然石の石組で補強した土手だ。その石組に軽く手を掛け、イサナが水から上がった。
 上がった飛沫から逃れるように、タカミが数歩退く。
「はいはい…」
 諦めたように吐息し、近づいて少し身を屈める。そして持ってきたタオルを差し出した。石組に腰掛けたイサナが、素直にそれを受け取る。
「見てるこっちが寒くなりますから、髪ぐらい拭いてください。全く…この気温で着衣水泳なんて、普通に見てたら入水とかわりありませんってば。サキに怒られますよ?
 …で、なにか面白い話は聞けたんですか?」
 もはや笑うしかなくて、濡れた黒髪にまとわりつく白い花片を取り除きながら…タカミはそう言った。
 この奇癖がなければ至って常識的な大人なのだが。
 イサナは感応系能力者ではあるが、どちらかというとフィジカルな方面に特化された能力であり、精神感応についてはさほど強いものではない。だが、水棲生物と妙に相性がよいのか、非言語的コミュニケーションではあるが意思疎通できるようなのだ。
『…人間相手より魚のほうが話しやすいって…それ、単に人間の話し言葉に不自由してるってことじゃないの? 本の虫の癖に、言語表現についてはアンタ微妙だし』
 リエあたりはそんな容赦のない仮説を提唱するのだが、イサナの方も「そうかも知れん」とあっさりしたものだから、イサナの能力についてそれ以上何か議論が深まったことはない。
「特に、何も…此処が平穏だというだけだ」
 そんな「話」の一体何が面白いのだか…誰も突っ込んで訊こうという者がいないから、これだけは誰にも理解出来ない。タカミも今はそれ以上を訊こうとはしなかった。
 髪は拭ったが、イサナは足先をまだ水に浸したまま…すこし曖昧な視線を桜が水面に描く模様に預けていた。その傍らに膝をついて、イサナの髪や身体についた花片を一枚いちまい丁寧に取っては水の中へ放つ。
 イサナにしては珍しく、すこしぼんやりした様子にタカミが穏やかに問うた。
「何か、気掛かりが?」
「いや…」
 それまでさせるがままだったイサナが、不意にシャツの肩口に張り付いた花片を取ろうとしたタカミの手首を捉えた。伏せがちだった双眸が、月下の薄闇の中で紫の光を放つ。
「イサ…!?」
 捉えられた手首を引っ張られ、タカミは他愛もなくバランスを崩してその場に組み敷かれた。枯れ落ちた枝葉が寄せられた上だったから頭を打つことはなかったが、少なからぬ衝撃にタカミが小さく呻く。
「…相変わらず、隙だらけだな」
 イサナの濡れたシャツの襟先から、雫が落ちて頬を濡らす。既にしてかなり危険な体勢なのは判っていたが、努めて冷静に、タカミが抗議した。
「…痛いですよ、イサナ」
「それは悪かった」
 イサナが至って平然と切り返す。中途半端に拭った髪と濡れそぼった服から滴り落ちる雫を受けながら、タカミは続けるべき言葉を懸命に探した。イサナにはおそらくそんなことは手に取るように判っているのだろう。中天にある月の…静かだが圧倒的な光を背景に、凄味のある微笑を閃かせた。
 炯々たる紫瞳がすっと細められる。
 両肩を押さえられて、何が出来るわけでもない。それでもかすかに押しとどめるように濡れた袖を掴んだ時、開きかけた唇が塞がれた。
 無遠慮な侵入とは言うまい。唇が優しく啄み、そして舌先が丁寧に蹂躙する。
 思わず目を閉じてしまったら、その先はわかっていた。
 袖を掴んだ指先に思わず力が入り、濡れたシャツから沁み出た水が指の間を伝って流れ落ちる。その感覚さえも、鋭敏な部分を撫でられたようにぞくりとさせた。
 顎から喉…鎖骨の線をなぞられて呼吸いきを詰める。その時には、肩を抑えていた手は疾うに離れ、服を緩めにかかっていたのだが、既に意識の外だった。

――◇*◇*◇――

 詰めた呼吸の狭間から微かに漏れる掠れた声を聴きながら、イサナは緩めた服の間から指先を滑り込ませた。
 タカミが隙だらけというべきなのか。こっちが強引に過ぎるのか。客観的評価など無意味だと判っていながら、時に自問する。
 欲しいから、手に入れる。それは生命ある者として当然の帰結であり、そこには何の理不尽もない。それはあまりにも明瞭なーおそらくイサナだけが感じることのできるー生命達の至ってシンプルな行動原理。それを潔さとするのか、刹那の衝動だけの生と見なすかは、人間の勝手だ。
 水の中の生命達は、迷いもなく、後悔もなく、在るがままを生きる。その姿は美しい。人間はそうはなれないとわかっているから、なお。イサナはそう思う。
『もう、アベルじゃないんだよ?』
 あの時、いっそいたましさすら湛えて…カヲルはそう言った。2
 カヲルの言葉の意図するところは理解る。…理解っている。しかし結局、「タカミ」が「アベル」に戻ったところで、この胸の奥にはイサナはいない。
 ――――嫌なら、拒めばいいのだ。
 少しだけ身体を離して、緩められた上衣を取り去る。そこまでされても、この手を振り払うどころか押し止めようとさえしないのが、時に歯痒くすらあった。
 胸骨直上の瘢痕のようなものが露わになる。しかしそれは瘢痕ではなく、自分たちが「仮面」と呼び倣わす、時間と空間を超えた認識を可能とする特殊な感覚器官だ。鳥の髑髏にも似た異様な形と乾いた質感は、何度見てもすべらかなはだの上にあって強烈な違和感を与えた。
 適性の違いと言ってしまえばそれまでだろうが、マサキがかなり消耗しつつも制御コントロールに成功したのは驚嘆に値するのではないか。かつてこれの制御に失敗して、アベルは壊れた・・・。流れ込む情報を制御しきれず、悲惨な未来に精神を呑み込まれてしまったのだ。
 緩やかに正気を喪っていくアベルを見るにつけ、イサナはいたたまれなさに苛まれた。
 アベルはリスクを承知していた。覚悟の上で、当時サッシャと呼ばれていたマサキの負担を減らそうとして、まだしかと正体のわからない「仮面」を自分自身へ転写しようと試みたのだ。
『こんなもの、人間として生きていくには不要だ』
 星を渡る生命が、本来自身が何者であるか正しく認識するために付与された器官を…サッシャはそう断じて仲間内にさえ見られることを嫌った。触れることは尚更。…それはすべてのネフィリムに素因があることを理解していたからでもある。感応系能力のある者が下手に接触すれば、「仮面」を発現させる可能性があることも予測していたのだ。行使にはおそろしくエネルギーを要したし、巧く制御コントロール出来たところで己が人間でないことを再確認させられるだけのこと。そんな重荷を負わされるのは自分ひとりで十分…そう考えていたのである。
 だからこそ、アベルが採ったのは半ば、騙し討ちに近い方法であった。「観測」で疲労困憊していたサッシャに、一服盛ったのだ。
 『サッシャのためだったら何でもする』と言い切った時の、まだすこし幼さすら残しているくせに…いっそ狂気さえ孕んだ緑瞳は、ユーリだった頃のイサナの記憶に焼きついている。そこに関して言えば、アベルがタカミになったところで何も変わってなどいない。
 度し難い程に無謀で、一途。
 しかしその結果は、サッシャとアベル、双方に傷を残しただけだった。
 それについては、アベルを止めなかった時点で、イサナは自分が共犯だと認識していた。
 「仮面」による「観測」よりも、アベルの悪化していく病状がサッシャに重圧を与えているのは明白だった。責任範囲と言えば欺瞞かもしれなかったが、頻々と恐慌に陥るアベルの意識をその都度強制的にシャットダウンさせる役目を…能力の性質上適性があるとは言い難いイサナが買って出たのは、そのことと無関係ではなかった。
 ループする思考を圧倒的な感覚入力・・・・・・・・で飽和させ、堰き止める。イサナが採った方法を知った時…サッシャは静かに蒼ざめてから、それを黙認した。いっそ叱責されたほうがましという気がしたが。
 ――――脱がされ、イサナの身体が離れたことで、少し寒さを感じたのか。微かに目を開けたタカミが、瞬間…呼吸いきを呑んだのが判った。今更、自身の格好に気づいたのかもしれない。
 醒められても面倒だから、露わになった紅点に唇を落として下衣の奥へ指を進める。…呑んだ呼吸が、甘さを伴った吐息に変わるまでいくらもかからなかった。
『この奥に誰がいたとしても・・・ここにいる間は俺のものだ』
 イサナがそう言い放った時、カヲルは途方に暮れたような表情をしていた。それはそうだろう。無茶苦茶を言っていることぐらい、自分が一番よく識っている。
 この胸奥には…かつてはサッシャが。そして今は、タカミ自身が狂気の中でようやく拾い上げた希望が。それが理解っていてなお、止められない。

***

 去年の春か。…ジオフロントの一件が片付いて、医院を畳む算段をしていた頃のことだ。
 カヲルがようやく覚醒したところで、カヲルとレイを住まわせていたマンションと高階医院の間を…タカミは忙しく往復していた。医学部編入の話が固まって、タカミは予備知識をいれるために高階邸にある書庫の医学書を読みに来ていたのだ。
 彼女赤木リツコとはもう二度と会わない。その頃はそう決めていた筈なのに、倖せそうな笑みで時々遠くを見る。そんなタカミに微かな苛立ちを感じていた自身に、イサナは驚いていた。
 変わっていないのは緑瞳と髪の色くらいで、顔立ちはDIS端末ユニットのひとつであった時を引き摺っているのかカヲルに酷似していた。身長は相応に伸びたが体格は追いついておらず、華奢な印象が以前より強い。
 それなのに、その眼差しだけは変わらず…全幅の信頼を湛えてイサナを見る。イサナがかつて何をしたのか、憶えていない訳はないのに。
 それもまた、微妙な苛立ちの種子たねになっていた。
 皆が高階邸に移ってきたのは「アベル」を眠らせた後のことで…それまで此処で「タカミ」が生活したことはなかった。だから、部屋といっても空き部屋に急遽机とベッドを運び込んだだけの殺風景なものだ。ただ、あまり広い部屋というわけでもないからそれほどがらんとした印象はなく、作り付けの棚に本や雑貨が少しずつ増えていき、徐々に生活感を添えつつあった。
 書庫の管理をしていたイサナが頼まれた本をその部屋へ持って行くと、その日も重厚な専門書を傍らに積み上げて読み耽っていた。
 すべての文字を追うわけではなく、以前それを読んだ者の残留思念のようなものを読み取るとかで、こなす速度は半端なく早い。
「ちょっと狡いかも知れませんけど、編入まであまり時間がありませんしね」
 タカミはすこし悪戯っぽくそう笑ってから、本の検索と運搬の労を丁寧に謝した。
 ひどく穏やかな微笑に、ふとあの苛立ちを思い出して…至極ストレートに訊いた。憶えていないのか、と。
 すると、不意に読みかけの本を措いて立ち上がり…タカミは少し不安そうに訊き返した。
「僕は何か…大事なことを忘れているんでしょうか?」
 一途な緑瞳にひたと見つめられて、イサナは思わず一瞬呼吸を停めた。本当に再生過程に問題があって記憶のリロードが十全でなく、忘れているのか。それとも全く気にかけていないのか。そのいずれであったとしても…イサナに言葉に出来るような答えはなかった。
 ユーリとイサナの間には連続性がある。オーストリアの路傍で飢餓に喘いでいた孤児ユーリが、あの研究所でネフィリムとなり、この国で生きていくために新しい名前を得た。ただそれだけだ。しかしアベルはそのままタカミになったわけではない。
 アベルは消えてしまったのだ。もういない。ここにあるのはアベルの記憶と魂、それにMAGIのインターフェイスとして設計され、最終的には自律型AIとなった意志体が融合した、別の生命。そう、「シュミット大尉」が消え、今は「渚カヲル」という少年が存在するように。
 絶望の深淵に沈み、消滅の危機にさえあったアベルを、『タカミ』として現実世界に引き戻したのは、間違いなく彼女赤木リツコだ。だが、彼女が意図してのことではない。他でもないタカミ自身が、「仮面」のもたらす膨大な情報の中で半ば狂いながらようやく見つけた希望…それが彼女だったからに他ならない。
 おそらく初めて…ただ与えられるものを待つのではなく、タカミが自分から欲したのだろう。
 それなのに。
 たとえ二度と会えなくても、無事でいてくれたならそれでいい。それは、イサナが識っている「アベル」には出来ないであろう決断だった。
『破滅を回避できたら、またもう一度出会えばいい』
 そう言ったイサナに、タカミは少しだけ寂しそうに、それでも確かに微笑んだ…。
 もう、アベルじゃない。
 …理解っている。理解っているのだ…。
 だからただ、顎を捉え、口づける。些か強引であっただろう。微かな苦鳴を聴き取ったが…イサナは斟酌しなかった。
 陽春の微風が、空けたままの窓から薄紅色の花片を滑り込ませる。それらが部屋の床や、窓際に据えられた机にも静かに舞い降りていた。
 その机に縋るように彷徨わせたタカミの手を捉え、その繊い身体ごと背後の壁に押しつける。
 下肢に触れると、膝を震わせているのが判った。突然の行為に対する恐怖か、それとも。
 捉えた手が、抵抗を示すことはなかった。ただ、捉えられたことで強張っていたのが、ややあって諦めたように緩む。
 …諦めたように。
 イサナが唇を離した時、緑瞳は深い色を湛えてただ伏せられていた。
 震える呼吸を抑えるように、あるいはただ表情を隠すようにイサナの胸に額を預ける。
 恐慌に陥りただ叫び続けるアベルを組み敷いた時とは違う…ただ静かな所作に、躊躇いを覚えなかったと言えば嘘になろう。しかしそれは、イサナに衝動を抑えさせる程の力はなかった。

***

 唇を重ねた瞬間から、四肢の微かな震えが緊張を伝えてはいた。しかし横たえられ、衣服をほどかれても…タカミが拒むことはなかった。
 ただ時折呼吸を詰め、脱がされたシャツをまといつかせたままの左腕で目を覆った姿勢のまま、イサナが与える刺激に少しずつ応え始める。
 陽は傾きかけていたが、外は明るい。微風と一緒に部屋へ薄紅色の花片が滑り込み、床やベッドの枕元にも舞い落ちていた。上気し、その花片と同じ色になりつつある膚の上でイサナが唇を滑らせると、明らかに緊張とは別物の震えがはしって微かな声が漏れた。
 仮に恐慌に陥っていた当時のアベルが、何をされているのかさえ判っていなかったとしても…タカミ・・・に判らない訳はない。
 タカミにとってこれほどの理不尽はない筈だ。もう一度出会えば良いと言ったその舌が、呵責なく責め立ててくるのだから。
 だが、嗚咽に近い声に耳朶をくすぐられながら…イサナ自身もまた、理不尽としか言いようのない苛立ちを燻らせていた。
 ―――何故、拒まない。
 この胸の奥にはイサナはいない。それは理解っている。いっそ、拒んでくれれば諦めがつくのか。そんな保証は欠片かけらもないのに、そんなことさえ思った。

***

 日中が暖かいぶんだけ、陽が落ちたあとは急激に気温が下がる。
 陽光に代わって冷気が滑り込みつつあった窓とカーテンを閉め、イサナは机の上のバンカーズランプ3だけ点けた。読みかけの専門書は明瞭に照らし出されるが、その一方で緑のシェードが室内へ柔らかな光を投げる。
 その穏やかな光の外縁で、ほそい肩がベッドに伏せたまま緩やかに上下していた。
 イサナは傍らに腰掛け、汗ばんだ栗色の髪をそっと撫でた。眠ったというより失神しているのだから、そうそう起きるわけはないのは判っていたが…今は何故か、その緑瞳が開かれるのを心のどこかで怖れていた。
『何故、拒まない』
 その答えを聞きたくもあり、それでいて聞きたくないという想いが半分。…だから今はこのまま眠っていて欲しい…。
 まごうかたなき身勝手に、イサナは苦笑する。既に身繕いは済ませていたから、そのまま立ち上がって部屋を出た。
 扉を閉めたとき、廊下の薄闇…階段を上がりきったところで壁に背を凭せかけていた人物に気づき…イサナは胸腔を氷が滑り落ちるような感覚に一瞬だけ呼吸を停めた。
 マサキであった。
 時計に目を走らせる。午後の診療受付時間は終わっていた。医院はすぐ裏手なのだから戻ってくるのにそれほど時間は要らない。本当に、今終わって帰ってきたというところだろう。
「…今、終わりか」
「ああ。休日診療所が巧く機能してないらしくてな。こんな郊外まで市内中心部から患者が流れてくる。まあ、受けられるだけ受けるさ」
「…タカミなら眠ってるが」
 っていたふうではあった。気づいていないわけはない。
「構わんから寝かせとけ」
 マサキは小さく嘆息しただけだった。
「…言わなくても判ってるとは思うが…ごく短期間に急激に身体を変化させた後遺症だろう、タカミはかなり体調が不安定だ。…あまり、無理をさせるな。
 それと、夕食の時間だぞ。とっとと降りてこい。ミスズ辺りに踏み込まれても知らんぞ」
 そう言って、さっさと踵を返してしまう。
 暫く、足が動かなかった。言いたいことはそれだけか。そう問いたかった。しかし、問えなかった。
 静かに蒼ざめ、全てを黙認したあの時とは事情が違う。あるいはまともに叱責されれば自分は気が済んだのか…? 
 結局、いつまで経っても夕食が始まらないことに業を煮やしたタカヒロが階段を駆け上がってくるまで、イサナはその場に立ち尽くしていた。

――◇*◇*◇――

 静かだが圧倒的な月の光。細い水音。先程までイサナが腰掛けていた広い岩の上に、タカミは座っていた。
 服はそれほど濡れていないものの、髪からはまだ水滴が落ちてシャツを濡らしている。水から上がった時に拭き方がいい加減だった所為だろう。残った水分を服が吸ってしまい、どうにも具合の悪いことになってしまった。
「…こんな夜に水浴するような物好きは、イサナかサキぐらいかと思ってたよ」
 岩棚の上から降ってきた声に、タカミは静かに苦笑する。
「…サキが聞いたら怒るだろうねえ。サキは確かに水辺によく来るけど、水に入るのが好きなわけじゃないらしいよ?」
「ふうん、そうなんだ」
 岩棚の上に姿を現したのは、カヲルだった。岩棚の高さを目測し、両手はズボンのポケットに突っ込んだまま…そこらの水たまりでも飛び越えるようにふいと飛び降りる。
 月が影を落とし、薄紅の花片が降り注ぐ淵の水面をいとも簡単に飛び越えると、タカミが座っていた岩よりも更に向こうへ降り立つ。薄紅の花片がそれに追従するように舞った。
「全く、君といいイサナといい、誰も見てないと思って無茶するんだから」
 その笑いが常になく乾いた感じを抱かせるのは、口許は笑っていても翳りを帯びている緑瞳の所為か。
「言えた義理かな、タカミ?…ひどい格好じゃない」
「…全くだね、反論の余地がないよ」
 冗談めかしてはみたが、タカミの笑みが更に乾いてゆくのを見かねて…カヲルは自分が羽織っていたパーカーをその背にかけた。
「…ちょっと、ひどくない?」
「どうして…?」
「どうしてって…」
 カヲルは言葉に詰まる。
 イサナが濡れたままの身体で帰ってきたのを見て、淵の話を…正確には、高階夫妻の墓所の話を思い出したのだ。明日、明るくなってからレイと降りてみるつもりだったが…月が佳いことと、例によってミスズ達にレイを掠われてしまったので、降りてみる気になったのだった。
 よもや誰か居るとは思わなかったのだが、それが更にタカミであったのに少し驚いた。
 ―――何があったのか、明白だった。
「とにかく、帰ってその格好を何とかしたら? …ひょっとして、立てない?」
「…誤解しないでね、カヲル君」
 カヲルの表情がやや険しかったのか、タカミは宥めるように柔らかく微笑んだ。全く、相変わらず自分以外の誰かのために微笑むときは…きれいに翳りを消してみせるのだから詐欺だ。
「イサナはね、優しいよ。…僕も、イサナのことは好きだから…別に何も無理なんかしてない」
 …頼むから、そんな痛々しい台詞を微笑みながら言わないで欲しい。何と言ってやればいいのか見当もつかなくて、カヲルはポケットの中の掌を握りしめた。
「ただ…ね、イサナが本当に欲しいのは僕じゃないし…それ以上に…そのことにイサナ自身が気づいてないことが…つらいといえばつらいかなぁ…」
 自身の両肩を抱くようにしながら、タカミが俯く。
「…え…?」
 思いがけない言葉に、カヲルが思わず立ち尽くす。
「…はは、やっぱりカヲル君でさえ気づいてないんだ…?」
 タカミが手を伸べて、今まさに水面へ舞い落ちようとする花片を受け止め…ようとして失敗しくじる。水の中に手を伸べても、花片はするすると指の間をすり抜けてしまい、最後には嘆息して手を退いた。
「僕なんかを相手にして…それで一時でもイサナが落ち着けるなら、僕なんかどうしてくれたって構いやしないんだよ。…でも、イサナが本当に欲しいのは僕じゃないから。手に入らないものを欲しがるのに疲れたとかじゃなくて、本当に気づいてない…それが哀しいし、すごく辛い…そうだね、辛いんだ」
 口にすることで改めて気づいてしまったように、タカミはふと口を覆った。少し蒼ざめたおもての中で、目の縁だけが紅く染まる。滲んでしまった涙は拭えても、その紅さは俄に消せるものではない。

「イサナが本当に欲しいのは…サキなんだ。そう、ずっと、ずっと昔からね…」

――――――――Fin――――――――


Akino-ya Banka’s Room
Evangelion SS 「No Apology Ⅶ」



-Sakura- 桜」についてのApology…

桜と月が書きたかった!

 「裏なら裏らしく裏書きましょう」シリーズ続編♪ 今回は「桜が咲く季節になれば」の裏話ですね。のんびりほのぼの話の裏側で何しやがると大家に罵倒されるのが目に見えてますが、現在大家は次話「てのひらの赤い月」と画房のことで手一杯なので、鬼の居ぬ間にアップデート♪ときたもんです。わっはっは。

 桜と月の下でタカミ君が押し倒される話。…で全てが終わってしまいそうで怖いですが。何、終わってる?失礼しました。はい。
 情景としては上記以外何物でもないのですが、ストーリーとしては、この世界線でイサナがタカミ君に執着してる理由がよくわからんぞ、と思い立ったのが始まりです。まぁ大体このシリーズにプロットもへったくれもありませんが。挙げ句、やっぱりひどい話になりました。…昨今タカミ君がめっきり女の子…(汗)

 このシリーズではカヲル君がすっかり落ち着いてしまって、今回の話に至っては今やタカミ君とカヲル君の年齢が逆転してしまった感すらあります。
 しかし、自分だってレイちゃんが好きで好きでしょうがなくて、でもどうしていいかわからないで結構鬱積してます。それでタカミ君に当たり散らしちゃったってのが「Snow Pallet」(No Apology Ⅳ)の話だったりするのですが。カヲル君としてはタカミ君を見てるとかつて加持にずるずると身を任せてた頃の自分を思い出してちょっとイライラするのですね。そのくせほっとけなくてついつい世話を焼いてしまう。

 今回は結局、イサナのタカミ君に対する執着が、実はサキに自分を認識して欲しいという欲求の裏返しだという怖い話。そりゃタカミ君、泣きたくもなるでしょう。しかしこの世界線のサキにしてみたら、イサナはそういう・・・・対象じゃなくてあくまでも信頼する右腕なのです(こっちのサキはミサヲちゃんonly)。…だからこそ、一服盛られたとはいえアベルとのことがもの凄くトラウマになってたりするのですね。南無南無。ちなみにイサナとタカミ君のことも、アベルの時は責任の一端があると思って少し気にしてたけど、今はお互いの自由だろってことでほぼ放置。存外暴走しやすいタカミ君をイサナが巧く抑えてくれればそれでいいか、くらいに思ってます。(「Moon Shadow」あたりはまさにそのスタンス…それで抱き潰されるタカミ君哀れ)
 一応、身体のことは心配してるっぽいですが…まぁ無理ないか(笑)

 おまけにイサナも論理的ロジカルでないことは至って理解が難しい御仁なので、自分の本当の気持ちに気づいてないのが難儀なところ。精神感応に関してはタカミ君のほうが強いので、本人が認識できてない処までタカミ君には理解ってしまう。それでタカミ君が苦しい思いをすることになってる訳ですね。最初のあたりでイサナがちょっと不機嫌…というかぼーっとしてるのも、ミサヲちゃんが帰ってきてすっかりスイッチ切れてるサキを見てるともの凄く複雑な心境になってしまっていたというオチだったりします。気づけよいい加減。(<気づいたら気づいたで話がややこしくなるのは必定ですが)

 タイトル「-Sakura- 桜」はそのまんま。本当に桜が書きたかっただけという話なのですが、徳永英明さんのシングル「恋の行方」のC/W曲で「桜」という曲があります。これもなかなか艶っぽくて素敵な曲ですので是非一度。余談ですがウチの大家はこのイメージで「篝火ー」シリーズの「繚乱の風」を書いたらしいです。エルンストにセレスをかっ攫われてちょっと寂しいサーティスのイメージですね。あれ、まだアップしなおしてないやん。

それでは皆様、次回まで万夏が正気でいたら・・・・・いや、何も申しますまい・・・・・・(^^;

2019/04/09

暁乃家万夏 拝

  1. 側線…魚類が水中で水圧や水流の変化を感じとるための器官。 魚の体の側面にある。ぶっちゃけ、魚にとって耳のようなもの。
  2. 「afterlight-夕映え-」…No ApologyⅤ
  3. バンカーズランプ…真鍮のスタンド、緑色のガラスのランプシェード、プルチェーンスイッチといった要素を特徴とするテーブルランプ。